14 彼に寄せる思いは変わる
日中は勉学に励み、放課後は図書室へ。ゲームが届くのは来週であり、それまでは特に、できることはない。
お化粧をしたり、慧に勉強を教えてもらったり。自信を高めるための取り組みには、慣れてきた。
動機が曖昧になっても、自分自身が変わるということは、楽しいものなのだった。
そして私は、相変わらず婚約破棄ものの小説を読んでは、海斗に対する思いについて考えている。
今朝は早く目が覚めたので本を少し読み、それをしまって、ベッドから出た。
慧に言われた、「好きでもない相手と婚約していた」という言葉が、ずっと気になっているのだ。
私にとって、海斗は婚約者だった。親が決めた相手だとは言え、好意を持って当然だと思っていた。
ただ、慧の言葉を一蹴することはできなくて……本当は好きではなかったのではないか、という疑念が、頭の片隅にあり続けている。
そこで最近は、ヒーローが令嬢を溺愛する物語を、積極的に読んでいる。
物語のヒーローは、婚約破棄で人間不信に、あるいは投げやりに、あるいは自由奔放になった令嬢に愛を囁き、距離を縮めようと心を砕く。
それは、不毛だとすら思える行為。なのに、周囲に小馬鹿にされても、全力を注いでいる。
恋愛感情ってなんなのか、知りたいと思ってから、何冊か本を読んだ。その中で描かれる恋模様には、必ず、熱情が含まれていた。
抑えきれない思い。つい、弾みでしてしまう行動。隠しても滲み出る好意。理性を凌駕する、熱情。
早苗は海斗に、なりふりかまわずアタックしている。その熱情は、認めざるを得ない。だから海斗は、そんな早苗の好意に応えているのだ。好意の返報性。そんな言葉もある。
早苗は、海斗を好きなのだろう。人目を気にせず、彼女への好意を溢れさせている海斗も、言うまでもない。
では、私は?
なりふりかまわず、海斗に好意を寄せたことが、あったのだろうか。
「……はあ」
小さくついたため息に、シノが片眉を上げる。
「どうされました?」
「……いえ」
ごまかそうとする私の目に、心配そうなシノの顔が映る。
このまま何も明かさないでいたら、かえって、不安にさせてしまうだろう。
「……ちょっと、好きって気持ちが、わからなくなって」
「まあ!」
シノはなぜか、嬉しそうに頬を綻ばせる。
「千堂様と、何かおありなのですか?」
その表情は、微笑ましいものを見るようで。
彼女の想像する「何か」が婚約破棄ではないことは、私にも想像できる。きっと、思春期特有の何かとか、成長に伴う関係の変化とか、そうしたことを思っているのだろう。
もちろん、それでいい。シノに本当のことを知られたら、彼女にも心配をかけるし、両親にも伝わってしまう。
だから、それでいいのだけれど……もっと、深刻なのにな。
「ええ」
今度はため息をこらえて、私は微笑みを返した。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
山口は、いつものように、穏やかな物腰で私を車内に迎え入れる。
ふかふかのシート、清潔な香り。バックミラー越しに見える、山口の落ち着いた表情。
山口も運転しているので、私にそこまで注意は払われない。
この程よい距離感が、私には、ありがたい。登校前の時間を、ゆったりとした気持ちで過ごすことができる。
「お疲れですね」
「……そうかもしれないわ」
信号待ちで車が止まると、ふと、山口に声をかけられる。
無意識のうちに、ため息をついていたのかもしれない。私が答えると、山口は「左様ですか」と受けた。
それ以上、何も聞かれずに、車が発進する。
こうして詮索しない山口の態度が、助かる場面は、今まで何度もあった。
「いろいろ、考え事をしていて」
「考え事、ですか」
「ええ……」
変に聞き出されない分、言葉が、するすると出てくる。山口の静かな相槌は、私の言葉を自然と促してくれる。
「なんだか……私、自分が海斗さんのことをどう思っているのか、わからなくなってしまったの」
「そうですか。確かに最近、お話を伺いませんね」
彼の言葉に、私も頷く。
思い出した。
学校への行き帰り、静かな車内の沈黙を埋めるため、世間話をすることがよくあった。
山口に、「今日は挨拶ができた」「今日は目を見て話せた」などと、逐一嬉しかったことを報告していた時期もあった。
ちょっとした交流も嬉しかったあの頃、私はきっと、熱情とは言わないまでも、海斗に思いを寄せていたのだろう。
言われてみればたしかに、いつからか、私は海斗の話を、山口にしなくなったと思う。
「私はいつから、あなたに彼の話をしなくなったのかしらね」
「そうですね……初等部にいらした頃は、よく伺っていたように思いますが」
山口は、ハンドルを柔らかく叩く。
「そうかもしれないわ。……中等部で初めて、海斗さんと同じクラスになったのよね」
少しずつ、記憶が蘇る。
中等部の頃、同じクラスになってから、なんとなく海斗との距離を感じるようになった。
声をかけにくくなって、さらに距離を感じて……どんどん話しかけにくくなって行ったのは、あの頃からだ。
「……どうしてかしら」
呟くと、山口は「どうしてでしょうね」と繰り返し、軽く首を傾げた。
車は動き出し、車窓にいつもの風景が流れる。幼稚部から、変わらない毎朝の光景。
景色は変わらないのに、それを見る私は、どんどん変化している。
どうしてだろう。
幼い頃には好きだった海斗のことを、そう思えなくなったのは。
「おはよう、早苗さん」
「おはよう!」
飛び交ういつもの朝の挨拶、笑顔。早苗と海斗は並んで登校し、級友と言葉を交わしつつ、睦まじげに視線を合わせている。
彼らの周りには人が集まり、皆、楽しげに会話に参加している。
華やかな男女。明るい笑顔。そこには、光が集まっているようで。
「そのピアス、付けてくれてるんだな」
「海斗がくれたやつだもん。当たり前よ」
私とは関係のない、華やかな世界だ。そっと視線を逸らし、外を見る。
見慣れた、青い空。あの窓枠の外に見える、あの空を、私は毎日眺めている。
……こういうことって、けっこうあったかも。
朝の山口との会話が頭をよぎり、はっとする。
初等部の頃、私から話しかけない限り、海斗との会話はなかった。山口の言う通り、私は他愛無い会話が嬉しくて、休み時間や放課後に、おそるおそる話しかけては、その返答に一喜一憂していた。
中等部に入学したとき、海斗と同じクラスになったと知って、私は喜んだ。
同じクラスの中で、何気なく過ごしている海斗の姿を見られることが、嬉しかったのを、思い出す。何気ない笑顔、何気ない冗談。それが自分に向けられなくても、胸が温かくなった。
その笑顔も、軽口も、自分には向けられなかったのよね。
私は頬杖をつき、目を伏せた。机の木目を、じっと見つめる。
海斗と同じクラスになったおかげで、私は、彼が自分に興味がないことを、じわじわと実感した。
そうして、時間が経つにつれ、海斗に話しかけにくくなって行ったのだ。
……そうだったのかも。
私と海斗は、全然違う。
その思いが引け目になって、いつしか海斗を好きな気持ちが、紛れて消えてしまったような気がした。
「……なるほどね」
口の中で、そっと呟く。
どうして私が、海斗への好意を失ってしまったのか。その答えが、なんとなくではあるが、掴めた。
彼が私に興味をもってくれないから、自分との距離の遠さを実感して、好意が薄れたのだ。
「次はどこ行こうね、海斗?」
「そうだなぁ……早苗は、どこ行きたい?」
もし海斗が、早苗にするみたいに、親愛の情をもって話しかけてくれるようになったとしたら?
想像してみようとしたが、現実味がなさすぎて、思い浮かばなかった。
なりふり構わず、そうなりたいという抑えきれない熱情も、今のところ、自分の中には感じられない。
恋には、それが必要なはずなのに。
「こんにちは、藤乃さん」
「え……泉さん」
屋上で昼食を食べていると、背後から、いきなり声をかけられる。振り向くと、そこには泉。
青空のよく似合う、向日葵のような笑顔。そうして私の横に、そっと座ってきた。
「どうしたの?」
「うーん、今日は藤乃さんと、お昼食べてみようかなって思って!」
「……そう」
学園内で、お昼を誰かと食べるなんて、いつぶりだろうか。
「それ、美味しそうね!」
「ええ、美味しいわ」
「いいなあ……小松原家のシェフの方が作ったお弁当なんて、絶対美味しいよねえ」
泉は自分の弁当を食べながら、じっと、私の手元を見てくる。
そんなに見られると、食べにくい。私は少し気まずく思いながら、食事を進めた。
「知ってる? 早苗さんと彼、今度は、水族館に行くらしいわ」
「彼? ……ああ、彼ね」
少し憤った様子の泉が指す「彼」とは、海斗に違いない。
泉は早苗と親しいから、そうした情報も耳に入るのだろう。
「本当にひどいわ。婚約者のいる人と、ふたりで出かけるなんて」
泉には、婚約破棄のことを話してはいない。
私は何も言えなくて、曖昧に笑った。
「だめよ、藤乃さんも、笑ってちゃ。自分が婚約者だって、堂々としてないと、好き放題されちゃうわ」
「……そうねえ」
もし本当に、海斗の気持ちをこちらに向けたいのなら、何らかの行動を起こすべきだろう。
今の状況を静観しているだけでは、何も変わらない。
その点で、泉は正しい。
「私、藤乃さんが早苗さんに言うときは、絶対に、協力するからねっ!」
「ありがとう、泉さん」
彼女の言葉は、心強い。
もし何か行動するときは、彼女に相談してからにしよう、と思う。
もし、行動するならば。
好意をもてない人との婚約を、強引に続けることは、「自分のため」になるのだろうか。
慧に今まで言われてきた言葉が、頭をぐるぐると渦巻く。
よくわからなくなってきてしまった。
「早苗さんも素敵な人だけど、やっぱり、駄目なものは駄目だもの」
「そうね」
泉は、正義感が強いのだろう。
彼女の紡ぐ正論に、心がうまくついていかなくて、私はぼんやりした笑いを浮かべることしかできなかった。
彼女の期待通り、早苗に何か言えたらいいな、と思う。でもそれには、自信がないのだ。
早苗と面と向かって話すだけの、自信もない。そして今の私には、海斗への気持ちがわからないという、もうひとつの自信のなさが加わっている。
きっと、早苗には敵わないんだわ。
口に出したら、泉には否定されるに違いない。だから私は口には出さず、「ありがとう」と応えて、弁当の蓋を閉めた。
「教室に戻ろうかしら」
「そう? なら私は、食堂に顔出して来ようかな」
食堂では、早苗たちが昼食をとっているはずだ。
交友関係が広いだけあって、泉は忙しい。屋上から中へ入ったところで彼女と離れ、私は教室に戻った。
今日も放課後は、だんだんと人通りの少なくなる廊下を抜けて、図書室へ向かう。
「こんにちは、藤乃さん」
「こんにちは、慧先輩」
2年生の教室は、私たち1年の教室より、図書室に近い。だから、放課後すぐに図書室に来ても、もう慧は待ってくれている。
私はカウンターに入り、荷物を椅子の上に置く。慧の座る椅子の隣に、腰掛けた。
カウンターは狭く、腕が軽く触れ合う距離。カウンターにノートを開くと、慧がそれを覗き込む。彼が動くと、炭酸水のような、淡く爽やかな香りが弾ける。
「慧先輩が教えてくださったので、だいたいの話はわかったのですが、発展のこの問題がよく分からなくて……」
「ああ、これ? 本当はこれ、2年の知識を使った方が理解しやすいんだよね。こうやって……」
ノートにペン先が擦れる、微かな音。
白い紙の上に、黒い線が艶やかに走っていく。
私は顔を寄せ、慧の話に耳を傾けた。
彼の説明は、丁寧で、明快だ。
「……なるほど。わかりやすいです。先生よりも」
「ええ? それはないよ。ただ、1対1だからね。俺は、藤乃さんの考え方がなんとなくわかってきたから、合わせて教えてるだけ」
はにかむと、頬に浮かぶえくぼ。
「ありがたいです」
慧に教わると、自分で勉強してもこんがらがっていた情報が、すとんと整理される。彼が「合わせて」教えてくれるからそうなるのだとしたら、やはり、すごいのは慧だ。
授業の折に行われる小テストでも、自分の理解度は高まっているように思える。変化を自覚できると、自宅でも、勉強する意欲が増してきた。
「あと、こっちを聞きたくて……」
自宅で予習した、別の教科の内容を質問する。慧が教えてくれ、私はそれをメモする。
確実な予習をするようになってから、授業の理解度は、格段に上がった。
「私、今まで予習って、単語や内容を、なんとなく眺めて終わってました」
「授業聞いて理解できるなら、それでいいんだって。俺はわからないから、事前に、自分なりにわかるところまで理解して臨んでるだけ」
謙虚な慧の言葉には、いろいろと学びがある。
ひと通りのやりとりを終え、私は教科書類を鞄にしまった。
「ありがとうございました、いつも」
「いいんだよ。それが藤乃さんのためになるなら、俺は嬉しいから」
心の広い言葉に、彼が眩しく見える。
日は、ずいぶん長くなってきた。慧の向こうにある図書室の窓から、まだ明るい陽射しが射し込んできている。
「返却手続き、してもいいですか?」
「どうぞ」
筆記用具を整理する慧を横目に、私は本の返却処理を済ませる。やり方を教わって、もう自分でできるようになった。
以前、後期は慧と図書委員をしてもいいかも……なんて話をしたことが、あったけれど。それもいいかもしれない。
「藤乃さん、これ見てもらってもいい?」
「はい?」
慧に差し出されたのは、いろいろと書き込まれた表。
「週末の予定だよ。ほら、水族館に行くって」
「これ……すごい、朝からしっかり計画を立ててくださってる」
集合時間から、経路、その後の動きまで。緻密に書かれた予定表を見れば、慧がいろいろ考え、計画を組んでくれたことがわかる。
「すみません、何もしなくて」
「いいんだよ。これは、学園に提出する予定表と同じだからさ」
慧はコピーを一部、私にくれた。
個人で学外活動をする際には、計画表を提出し、予算を申請しないといけないそうだ。
そうしたややこしい手続きは、学級では、会長たちが済ませてくれているはずである。
「大変なんですね」
「そうだよ。俺、今年は会長たちにいろいろ聞かれて、予算を組むのを手伝ってるんだ。自分は行かないのにさ……皆、のんきなもんだよね。そういう苦労を知らないで、好き勝手言って」
耳が痛い。
私も今この瞬間まで、会長たちが取り組んでいる事務作業に、思いを馳せたことはなかった。
改めて、用紙を見る。
園内の周り方から、昼食場所まで、しっかりと計画に入っている。
「でも、その計画表は、気にしないでいいから。藤乃さんが行きたいところがあったら、教えてね」
「いいんですか?」
「もちろん。計画はあくまで計画だし、こういうことって、計画通り行かないものでしょう?」
口端を片方だけ上げ、意地悪っぽく微笑む慧。
彼には、こんな顔もよく似合う。
「楽しみで、つい、必要以上の計画を立てちゃったよ。去年はひとりだったから……誰かと出かけるなんて、高校に入ってから、初めてかもしれない」
「そうなんですか?」
「そうだよ。特待生の俺は、クラスメイトとは生きる世界が違うからさ」
ああ、また、卑屈っぽい言い方だ。
慧は家柄の話になると、こうして、卑下するような雰囲気を醸し出す。
たしかに彼は特待生で、周囲との格差を感じることもあっただろう。周りから、色眼鏡で見られることもあっただろう。
「それでも同じ学園の生徒だから、同じなのに」
慧はそんなに、自分で卑下するほどの人ではない。
素敵なところがたくさんあるのに、それを認められて来なかったとしたら、それは、周りの責任でもある。
「そうは言っても、さ」
「家柄よりも、品性だって……母が言っていました。私もそうだと思います。慧先輩は、本当に優しくて素敵な人だから、そんな風に卑下してほしくないです」
必要以上に自分を貶めようとする慧を見ていると、もやもやした気持ちが、胸に広がる。そのもやもやに圧されて、言葉が口から出た。
それは、私の本心。
慧は自分の時間を無駄にすることを厭わず、私の話を聞いてくれ、勉強も教えてくれ、励ましてくれる。
そして、「また明日」と声をかけてくれる。同じ生徒なのに、こんなに優しくしてもらったのは、初めてのことだ。
「……」
「あ、ごめんなさい」
はっと気づいたら、慧は困ったように眉尻を下げ、言葉を失っていた。私は口元を押さえたけれど、時すでに遅し。
勢いに任せて発してしまった言葉を、彼がどう捉えたか。
光を反射する眼鏡の向こうで、どんな表情をしているのか、私には読めなかった。
「……いや」
幾らかの沈黙のあと、慧が口を開いた。
「びっくりした。俺が前に藤乃さんに言ったようなことを、今度は藤乃さんから言われるなんて」
そう言う彼の声色は、いつものように穏やかで、柔らかくて。
傷ついたり怒ったりしていないとわかり、私は、肩の力が抜ける。
「藤乃さんには、もっと価値があるから、卑下してほしくないって……藤乃さんに言ったのに、俺も、同じことをしていたんだね」
私も、思い出す。
あれは、なぜ好きでもない海斗と婚約しているのか、と問われたときの会話だ。
「いえ、私のことは、慧先輩の言う通りで」
「俺も今、藤乃さんの言うことも尤もだと思ったよ」
そしてまた、同じような言葉が重なる。
「俺たちは、お互いに、同じことを思っているのかな」
「似ている、ってことですか?」
私と慧には共通点がある。
それに気づいたのは、少し前のことだ。
もしかして慧も、そう感じているのだろうか。
問い返すと、彼は指先に顎を載せ、うーん、と小さく唸った。
「藤乃さんと俺は似てるな、とは、思ってたよ」
「やっぱり……」
「うん。そしてお互いに同じことを思っているならいいな、っていうのは、多分俺の願望だね」
同じことを思っているから、同じような言葉が出たんじゃないだろうか。
そう思ったものの、慧の言い方には、何か別の含みがあるように思えた。
「同じこと、って、何のことですか?」
「気にしないで。……それより藤乃さん、今返却してた本、俺が借りてもいい?」
「え、これですか?」
カウンターの上には、先ほど返却手続きを終えた本が載っている。美女と美男子が顔を寄せ合う、美麗な表紙。
「そう」
「読むんですか?」
私のいつも読んでいる、悪役令嬢の小説だ。
「慧先輩が?」
何をどう間違ったら、こんな女性向けの本を、彼が読むというのか。驚いて何度も聞いたけれど、慧は「もちろん」と涼しい顔をしている。
「どうして……」
「藤乃さんがずっと読んでるから、気になったっていうのもあるし……今度届くゲームのような世界が、舞台になってる話なんでしょう?」
予習しておかないとね、と慧は言った。
こんなところでも、彼の真面目さが発揮されるなんて。私は置いたままの本を、そのまま慧に差し出した。
「なんだか……私のことにばかり付き合わせて、申し訳ないです。勉強のことも、ゲームのことも、いつも」
「好きでやってることなんだから、気にしないで。藤乃さんと話すのは楽しいし……この学園が舞台になっているゲームがあるとしたら、それは純粋に、気になるよ」
まめなのに、鷹揚。
彼のこの鷹揚さというか、心の広さに、私は今まで、何度もほっとさせられてきた。
「ありがとうございます」
「お礼を言いたいのは、俺の方だよ。いつもありがとう」
「こちらこそ……これからも、よろしくお願いします」
慧が、本を自分に引き寄せる。本から離したその手を、再度こちらに差し出した。
目を細めてこちらを見る彼は、何かを求めているようで。
「えっと……?」
本は渡したけれど、まだ何か、足りないものがあっただろうか。カウンターに目を落とすと、「握手だよ」と言われる。
「これからも、よろしく」
差し出した私の手を、慧の手が包む。温かな掌。彼は細身なのに、掌は大きくて、不思議な気持ちになる。軽く握り返すと、さらに、きゅ、と力が込められた。
私たちの繋いだ手に、橙色の光がさしかかる。もう、閉館時刻が近づいてきた。
「帰る前に、本、探して来ますね」
「うん。いってらっしゃい」
私は新しく本を借り、「また明日」の挨拶を慧と交わして、図書室を出る。
「おや……お嬢様、お元気そうですね」
「そうかしら」
「はい、朝よりも」
山口に指摘され、私は自分の頬に触れてみる。
自分では、自分の顔の変化はわからない。ただ、朝よりも帰りの方が良い顔をしているとしたら、その理由には、ひとつしか心当たりがない。
「楽しい時間を過ごされているのですね」
「ええ」
山口の問いかけを肯定し、私は、窓の外を眺めた。
朝は、この景色を眺めながら、物思いにふけっていた。
海斗に距離を感じるようになったのはなぜか、好きって何なのか、好きではない人との婚約って、どうなのか……なんて。
悩みは解決していないけれど、今はなんだか、温かな気持ちでいる。
同じ景色なのに、朝と帰りでも、こんなに気分が違うなんて。
慧のおかげだわ。
私は、本の入った鞄に手を添え、改めてそう思った。