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1 婚約破棄は突然に

「どうしてあの女は、ストーリーの邪魔ができるの? 単なる脇役なのに」


 教室では見せない深刻な表情で、そう吐き捨てる美少女。その横顔を盗み見て、私は、息を呑む。

 今の発言で、彼女がどういう立場に置かれた人なのか、察してしまった。もしかして、あの人は。

 ……私がそれに気づくのは、もう少し後の話。物語の始まりは、その暫く前に遡る。


***


「君との婚約は、破棄させてもらうから。僕に期待しないでくれよ」


 千堂海斗。

 夕陽に照らされる、端正な顔。きらきら輝く、淡く茶がかった髪。容姿端麗、文武両道で、私にとっては自慢の婚約者。

 そんな彼が、淡々と、信じられない宣告をする。


 一方的に言い放った海斗は、整った眉をひそめ、教室を出て行く。

 見送る私は、あまりの衝撃に、引き止めることも思いつかなかった。


「海斗さん、どうして……?」


 ひとり残された教室で、私の呟きが、宙に浮き、そして消える。


 たしかに最近、彼は私に冷たかった。話しかけても素っ気なくあしらわれたり、無視されたりすることもあった。それにしても、婚約破棄なんて人生を変える決断だ。彼は私の、何を問題として、それを決意したのだろう。私の、何が悪かったのだろう。


 西陽で橙色に染まる教室は、どうしようもなく、空虚なものに見える。


「千堂くん、何のお話?」

「早苗には、関係ないよ。気にしないで」


 廊下から、海斗と早苗の、楽しげな会話が聞こえてくる。優しい、海斗の声。今しがた、婚約破棄を宣告した冷たい声の持ち主と、同じだとは思えない。


 私に冷たくなるのと同時に、早苗との距離が近付いていった。彼女のせいで、私との婚約は破棄されるのだ。


 婚約破棄。


 その言葉の重さが、だんだんと心に浸透してくる。机に両手をついて、項垂れる頭を支えた。


「本気、なのね……」


 海斗は、嘘なんてつかない。そんな軽薄な人間ではない。

 だからこそ、その言葉には、彼の強い意志を感じて。


「婚約、破棄、だなんて」


 胸が押しつぶされそうだ。

 高等部1年生、ゴールデンウィークの連休明け。私、小松原藤乃を待っていたのは、五月病なんて目ではない、辛い現実だった。


 泣き場所を、探していたのだと思う。

 教室でも、廊下でも、誰か来るかもしれない。泣いている姿を見られるのも、理由を問われるのも、嫌だった。

 誰にも知られない場所で、海斗の発した言葉の重みを、もっと、きちんと受け止めたかった。


「図書室……」


 人気のない方を選んで、廊下の角をいくつか曲がった。ふと気づいたら、図書室の前に立っていた。

 入学して以来、初めて来たかもしれない。読みたい本は買ってもらえるし、わざわざ寄る用もなくて、私は足を踏み入れたことがなかった。


 ガラス戸の向こうには、人影がない。私はふらりと中へ入った。


 立ち込める独特の、紙と埃の匂い。

 絨毯敷きの床は、歩いても、足音が立たない。

 どこかに本を読んでいる人がいるようで、ページをめくる微かな音がする。私は、その音が聞こえないところまで行きたくて、書架と書架の間を進んだ。


 頭上まで続く、書架。そこへいっぱいに積まれた、本。色とりどりの背表紙の上に、さまざまなフォントのタイトルが踊る。その膨大な情報量に紛れ、泣きたい気持ちが、なんとなく誤魔化されていく。


「……これ」


 目に付いたのは、『悪役令嬢は、婚約破棄を回避したい』というタイトル。手に取ってしまったのは、きっと、それが自分の願いに合っていたからだ。


 表紙には、アニメ調のイラストが描かれている。ポップな題名。ページを捲ると、つやつやした紙質で、美麗なイラストのキャラクター紹介から始まる。この手の本は、読んだことがない。


 それはきっと、現実逃避だった。

 しかし、ページを繰るうちに、私は物語に、どんどん引き込まれていった。


 主人公は、目覚めたら、異世界の貴族令嬢になっていた。そして、成長するうちに、気づくのだ。自分はこのままでは、婚約者に婚約破棄され、没落する運命だと。

 物語ではそれを、「悪役令嬢」と表記する。「ヒロイン」に婚約者を取られた上に、非道な目に遭う憐れな女性。

 悪役令嬢は、持ち合わせた知識を駆使して、ヒロインの思惑を打ち砕く。焦ったヒロインは、嫌がらせを自作自演する。

 主人公の隣に婚約者が立ち、貶めようとしたヒロインを糾弾する。それは、本来のストーリーとは、真逆の展開。主人公は、機転と努力によって、ハッピーエンドを勝ち取るのだ。


 自然と、「悪役令嬢」を自分に重ねていたのだろう。感情移入するあまり、私は、お行儀悪くも床に座り、書架にもたれて読みふけっていた。


「……そろそろ、閉館の時間だよ」

「へえっ?」


 我ながら驚くほどに間抜けな声が出て、私は口元を押さえた。ちょうど、最後のページを繰り終えたところだった。床に座り込む私を見下ろしているのは、眼鏡をかけた、見知らぬ男子生徒。


 色が白くて、髪はさらさら。前髪がかるく掛かる眼鏡と、その奥の瞳は、知的な光をたたえている。背は高くて、すらりとしている。彼には、図書室がよく似合う。

 ネクタイの色が緑色だから、2年の先輩らしい。


「ご、ごめんなさい」


 こんな、イラスト入りの本を読んでいるところを見られるなんて。しかも、床に座って、熱心に。

 私は慌てて立ち上がり、本を元の場所に戻そうとした。本を抜き取った、一冊分のスペース。手元がおぼつかなくて、なかなか入れられない。


「いいよ、貸して」


 横から手が伸びてきて、本をしまってくれる。元あった位置に、本は、何事もなかったかのように収まった。


「あ、読み返したいなら、貸出手続きもできるけど」

「いえ。大丈夫です」


 思ったよりもとげとげしく、断りの言葉が出てしまった。そう、と表情を変えない先輩の様子に、少しだけ、罪悪感が芽生える。


 手伝ってくれたんだから、もっと、優しい言葉をかけるべきだったわ。


 後悔しても、口から出た言葉は戻らない。


「閉館だから、今日はもう出てもらっていいかな」

「はい、すみません」


 頷き、私は彼に背を向けた。


「またおいで」


 足早に立ち去る私の背に、そう言葉をかけられる。私ははっとして、立ち止まった。


 床に座って行儀悪く本を読んでいても、「またおいで」と言われるなんて、図書室は、ずいぶんと心の広い場所らしい。

 振り向くと、既に先輩は、図書室の中へ戻っていた。


 ブレザーのポケットから携帯を取り出すと、着信が大量に来ていた。迎えの運転手からである。最初の着信は、二時間前。ずいぶん待たせてしまった。

 私は折り返さず、代わりに、歩く速度を上げる。


「待たせたわね」

「お嬢様。お待ちしておりました」


 後部座席の扉を開け、迎えてくれるロマンスグレー。私の専属として、父がつけてくれている、運転手の山口だ。


「申し訳ございません、何度も着信を入れてしまいまして」

「構わないわ」


 心配してくれたからだということは、わかっている。後部座席に腰掛けると、山口は扉を閉め、運転席に戻る。滑らかな白い手袋で、ハンドルを握った。

 幼稚部の頃から、山口は私の送り迎えを担当してくれている。こんな風に遅れても、咎めない。何があったのかも、聞かない。その穏やかさが、私にはありがたい。


 山口の運転に身を任せながら、私はスマホの画面を開く。検索窓に打ち込むのは、先ほど読んだ本のタイトル。『悪役令嬢は、婚約破棄を回避したい』……調べると、本を読んだ感想が、ずらりと現れた。


『最後の"ヒロインざまぁ"が、爽快だった!』


 いくつかの感想に共通して現れる、「ざまぁ」という言葉。どうやらそれは、ヒロインが悪役令嬢にしてやられた、最後の爽快な結末を指しているらしい。


 ざまあ見ろの、ざまあ、ね。ずいぶん品のない言葉だわ。


 そう批判的に見もしたが、その言葉は、私の心をくすぐった。たしかにあの結末は、爽快であった。

 私も、早苗ざまぁ、と言ってやりたい。そんな欲望が、むくむくと湧いてくる。海斗の心を奪った早苗が、逆に相手の心を奪われ、ショックに崩れ落ちる姿を見たい。そうして、「ざまぁ」と言ってみたい。


「……人の不幸を願うのは、良くないわよね」

「左様ですね」


 負の感情を抑えるように、山口に同意を求める。人の落ちぶれる姿を見たいという後ろ暗い欲望は、創作の中に留めておくべきだ。

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