山へ登る
年明けからはや十六日が過ぎ、陽気もだいぶ晴れやかになってきた。山椒大夫の荘では、いよいよ明日から外での仕事が始まるということで、二郎が屋敷を見回った。
二郎は、安寿と厨子王のいる小屋へもやってきて言った。
「お前たちは、陸奥の者だと言ったな。白い肌をしていると思ったが、寒さに強いのも道理だ。奴・婢女の内には病を得て動けない者もあるが、どうだ、明日から外ではたらけそうか」
二郎のことばに、厨子王がうなずいた。すると安寿が口を開いて言った。
「お願いいたします、二郎さま。明日から外でのお仕事、やらせていただきます。病で動けない奴・婢女の分までも、私たちで少しでもその足しになるように精一杯はたらきます。ですからお願いいたします、二郎さま。私も弟と一緒に山へと遣ってくださいませ」
安寿はいちどことばを切り、二郎のようすをうかがった。そして、
「柴刈りは男の仕事とおっしゃるかもしれません。ならば私は、男になったつもりで一所懸命に柴を刈ります。弟と同じ量を、いえそれよりも、一荷でも二荷でも多く刈ってみせます。ですから私を、弟と一緒に行かせてください。お頼みいたします」
安寿の熱心な訴えを聞いて、二郎は顎へ手をやってしばし考えた。そして口を開いたが、
「まあ、話をしてみよう」
と、これだけ言って小屋を後にした。
二郎が行ってしまうと、厨子王はすぐに姉に訊いた。
「姉さん、唐突にどうしたのです。私と一緒に山へだなんて」
「私たち、きょうだいでしょう」
「それはそうですが……、もしかして、私のために?」
「さあ。それは私にも」
それきり、安寿はまた黙ってしまった。
しばらくすると、ひとりの奴が籠と鎌とを持って入ってきた。
「しのぶどの、あんたは明日から山で柴刈りだそうな。きょうだい合わせて六荷を刈ってこいとのお達しだ」
「二郎さまが、話をつけてくださったのね」
安寿はほっとして、奴の手から柴刈りの道具を受け取った。この奴は名を多襄といって、まだ二十歳をすぎたばかりの年若だったが、先刻ちょうど大夫や三郎のもとに居合わせたために、使いとして安寿のところへ遣られたのだった。
「罪づくりな弟だな」
「いいえ、私からお願いしたのです」
「あんたはどこまで弟が好きなんだ」
安寿は微笑するだけだった。
「男になってまで弟のそばにいたいと」
「それはまあ……」
「三郎さまがまた妙なことをお考えなすった。鎌を使って、その後ろ髪を切り落としてざんばらにせいとのお達しだ。切ったら直垂と袴もやるから屋敷へ連れてこいと言われている」
「そんな!」
厨子王は思わず声を上げたが、当の姉のほうは思いのほか平静だった。そればかりか、口の端に嬉々とした笑みを浮かべているようでもあった。
「わかりました。どうぞ、その鎌でお切りになって」
安寿はみずから後ろ髪を解いて、多襄の前へうなじを垂れた。
***
春告鳥が、雪の残る杉の木の枝から枝へ飛びうつる。その下の山道を、籠と鎌とを身につけた安寿と厨子王のきょうだいが登っていく。道の両脇は茶と黄緑の羊歯の葉が覆っていたが、ちょうど陽光の差した風化した岩の隙間には、白と紫の交じった小さな菫の花が、その花弁をきらきらと光らせていた。
姉の安寿は先へ立ち、時々弟の顔をふりかえっては、久しく前からほとんど見せることのなかった清かな笑みを浮かべて厨子王の手を引いた。
「山へははじめて来たけれど、なかなか気持ちのいいとこね」
しかし厨子王は、姉のけなげに笑うようすを見るたびに、なんともいえない不安な心持ちになった。こちらをふりかえるたびに、姉の禿になった頭の柔らかい髪の毛が、まるで岩のくぼみに取り残された水たまりが風に揺られて戸惑うように、ぱさりと小さく靡くのだった。
山道の途中に泉があった。そのすぐそばに、厨子王がはじめて柴を刈った場所、心ある樵に助けてもらった場所があった。
「ここら辺で刈りましょう」
厨子王は言って籠を下ろした。しかし姉は、まるで弟のことばが耳に入らないとでもいうように泉へ駆け寄って、いつの間に取ったのか、柏の葉に水を汲んで口をつけたりしていた。
厨子王は姉の手を引いて言った。
「姉さん、籠を下ろして。早く刈らないと、夕刻までに間に合わないのです」
安寿は深い黒色の瞳で厨子王を見つめた。そして、おもむろに籠を下ろして鎌を置くと、すばやく弟の手首をつかんで山頂へとつづく山道へと戻っていった。
「姉さん、なにをなさるのです」
「いいから、私の言う通りになさい」
厨子王は、訝りながらも姉の背を追って山道を登っていく。土の道を踏みしめて前を進む脛巾を巻いた二本の肢が、厨子王にはおのが姉のものながら、ひどくけなげでたくましいもののように思われた。
しばらくして、きょうだいは山頂へたどり着いた。安寿はそこで足を止めた。
「姉さん、なにをしようというのです」
ふたたび弟に問われるが、安寿はしばらくのあいだ押し黙って、南方に展けた山間の景色へ目を遣っていた。やがて、ようやく口を開くと、
「伊勢の小萩が言うことには」
「え」
「伊勢の小萩が言うことには、あの川向こうの中山を越せば、都はもう、目と鼻の先」
口元にかすかな笑みをたたえて、安寿は弟をふりかえった。
「姉さん、まさか」
花の香をふくんだ初春の風が、安寿の禿を強く揺らした。
「お前はずっと、私がしゃべらなくなったのを不安がっていたわね。それはだって、こういう大事なことは、聞く人のある場所でうかつに話すわけにはいかないもの。でも安心なさい、今日という日を無事越してしまえば、私はまた元通り、お前の見慣れた姉さんに戻れる。大夫も三郎もいないところへ行けば、ふたり一緒になんでも話せるし、都へ上ればお父さまのお身の上も知れるでしょう。そう簡単にはいかないかもしれないけれど、きょうだいふたりで乗り越えていきましょうよ」
安寿のけなげな訴えを聞き、厨子王の頬に涙がつたった。
安寿は優しくその涙をふき取ると、愛しいきょうだいの頭の上へ手を置いて言った。
「泣くんじゃない。泣くんじゃないよ」
山間のどこかから、澄んだ春告鳥の声があたりへ響いた。