新参(一)
広間の上座へ座する屋敷の主人、山椒大夫という男は、歳は六十ほどで白髪混じりの老人だったが、肉づきはよく、脇息に身をもたせかけつつ、ぎょろりとした目を土間のほうへ向けていた。その両隣には、それぞれ二郎と三郎という大夫の息子が並んでいたが、両人ともに大柄で、歳は三十を過ぎたほどだった。
「お前たち、名はあるか」
土間に膝をつく安寿と厨子王のきょうだいへ、山椒大夫の低く鋭い声音が降りかかる。
「なければわしがつけてやろうぞ」
恐る恐る、姉の安寿が口を開いた。
「安寿と……」
厨子王がこれを遮って答えた。
「ここにいるのは私の姉で、名はしのぶともうします。私たちは陸奥の信夫の地よりまいりましたので、故郷の名にちなみ、前の主人が名づけてくださいました」
「ほう……」
大夫は、長く生やした顎髭を触りつつ、彼へ問うた。
「姉の名はわかった。して、お前はなんという」
「忘れ草と……、これも前の主人からいただいたものです」
しんとした間の後、脇の三郎が膝を叩いて笑った。
「はっ。姉は辛苦を忍ぶ草、弟は、我が名さえ忘れ草ときたか」
大夫は口の端を歪めると、
「良い買い物をした。明日より、さっそくはたらきに出てもらおう」
そう言って、奴頭を呼んできょうだいを新参小屋へ案内させた。
***
新参小屋というのは、新しくこの荘へ仕えることになった奴・婢女が一時的に置かれる小屋で、ここでの生活や仕事を身につけてから、男は奴の組へ、女は婢女の組へそれぞれ組み込まれる決まりになっている。
安寿と厨子王のきょうだいは、奴頭に案内されてこの仮の住まいへ入り、それぞれ翌日からの仕事で使う道具を渡された。姉は潮汲みのための桶と柄杓を、弟は柴刈りのための鎌と籠とを奴頭から受け取った。
その晩、きょうだいは今後のことを憂えて、ふたりして涙に袖を濡らしていたが、安寿がふと思い立って、懐にしまってあった毘沙門の宿る地蔵菩薩の金像を取り出して、筵の上へ置いた。そして静かに口を開き、
「地蔵菩薩さま、どうか弟を、苦難からお救いください」
そう、けなげな祈りのことばを述べた。
これを聞いて、こんどは厨子王が、父正氏より授かった守り刀を懐から取り出し、同じようにして祈った。
「姉さんを、どうかお守りください……」
姉がそっと弟を抱き寄せた。
幼いきょうだいはまた泣いた。すすり泣きは寝息へと変わっていった。
***
翌朝、奴頭が新参小屋を訪ねると、きょうだいはすでに目を覚ましていた。
「飯の時間だ、迎えにきた」
奴頭は、きょうだいを厨へ連れていき、食事の受け取りかたを教えた。
「昼は仕事場から戻らぬから、昼飯も一緒に受け取っていくのだ。ではな」
一通りの説明が済むと、奴頭は姿を消してしまった。きょうだいは教わった通りに食事を受け取り、ともに小屋へ戻ったが、食べ終えるやいなや、こんどは別の奴が訪ねてきて言った。
「なにをしている、仕事の時間だ」
奴は小屋の隅にある道具を見ると、
「柴刈りの者は山へ、潮汲みの者は浜へと発ったところだぞ」
そう言ってきょうだいを急き立てた。
厨子王は籠を背負って山へ、安寿は桶を提げて浜へと行った。厨子王は日に三荷の柴を刈らなければならず、安寿は日に三荷の潮を汲まなければならなかったが、ふたりともはじめての仕事で、やり方がわからなかった。かといって、他の奴婢へみずから声をかけることもできず、ただただ呆然と各々の仕事場へ突っ立っていた。
厨子王に声をかけたのは、たまたま他所から来た樵だった。
「山椒大夫の荘の者か。なぜ柴を刈らないのだ」
「刈り方を知りません」
「新参の者か」
厨子王は力なく頷いた。
すると樵は顔をしかめて、「こっちへ来い」と言って厨子王の腕を引きつかみ、他の奴が柴を刈っている場所へ連れていった。
彼は奴たちに向かって言った。
「聞け、山椒大夫の荘の者ども。ここにお前たちの仲間がいるが、新参の上に年端もいかぬ十五、六の子供のようではないか。なぜだれも仕事を教えようとしない」
すると、あたりは一瞬静まり返ったが、すぐにひとりの奴が厨子王のもとへ来て言った。
「すまなかった。だが、俺たちも頃合いを見ていたのだ。お前がすぐにでも泣きそうだったから」
またひとり、別の奴がそばへ来て言うには、
「はじめて見る光景に心の整理がつかんだろうと思ったのでな。いざとなれば、今日だけ俺たちが、お前の柴も刈ってやるつもりだった」
これを聞いて、樵は呆れたように彼らへ向かって言った。
「早く連れていって、仕事を教えてやれ」
こうして厨子王は奴たちの輪へ入り、鎌の使い方などを教わりつつ、無事に三荷の柴を刈ることができた。