再会
春雨に濡れる正道の背に、ごおん……と鐘の音が響く。そのようすを、分国寺の和尚は静かに見つめていた。
報復の後、正道の心は穏やかではなかった。大夫と三郎のみならず、恩を受けた二郎までも命を絶ってしまった。亡き姉に背中を押されてやったことだ、しかし、姉はほんとうに望んでいたのだろうか。泣くなと言う者はどこにもいない。正道はひとり、涙をこぼした。
中山の分国寺に、安寿の墓はあった。和尚が遺骸を引き取って、菩提を弔ってくれていた。正道は、伊勢の小萩に言われて、ふたたびこの寺を訪れたのだった。
「山椒大夫親子の菩提も弔っていただきたい」
正道はそう言い残して、寺を去った。去り際に小萩が現れて、
「どこへ行くの」
「どこへと? 都へ帰るのだ」
「しのぶは……」
「姉上はもう死んだ」
小萩はしばし、口をつぐんだ。
「……お父上には会えた?」
「父もすでに死んでいた」
「じゃあ、お母上は……?」
「……」
正道は小萩へ背を向けた。
「お母上は、生きておいでなの? しのぶが、あんたたちふたりが、あんなに会いたがっていたお母上は、生きておいでなの? ねえ!」
正道はふりかえらなかった。家来を引き連れて寺門を出た。
***
春を過ごし、熱い陽のふりそそぐ季節になった。正道は休暇を申し出ると、密かに佐渡島へ渡っていった。佐渡島は、別れた母の向かった先だ。
正道は、真野というところにある佐渡の国府へ赴き、母の行方を尋ねた。役人は佐渡の国中を調べまわったが、その居所は知れなかった。
夏も終わりへ差しかかり、正道は傷心のまま佐渡を発とうとしていた。
正道は宿を出て、ひとりぶらぶらと歩き、湾へ臨む畑中の道を当てもなく彷徨っていた。……オーシ、ツクツク……つくつく法師の鳴く声が、空気を渡って岩へと消える。鳴いてはまた、消える。そよぐ風さえ虚しく感じられた。
なかば無意識に、正道は胸に手を当てていた。そこには変わらず、姉の形見ともいうべき地蔵菩薩の金像がしまってあった。
ふいに、和尚の声が聴こえた。
「そなたの胸にはなにがある」
「お地蔵さまが」
「それだけではないがのう」
「……」
泣くなと言われても涙は出る。正道はぎゅっと懐を握りしめた。
—— 今夏も暮れゆくかな……、
どこからか、歌うような声が響いてきた。
—— 我が子よ、我が子よ……、
正道は声のするほうへ向かった。
ぽつんと佇む小屋の内に、ひとりの女の姿があった。女は糸を紡いでいたが、ほとんど瞼を下ろしたまま、意思を持たぬような手つきで紡錘を回しつづけていたいた。
「母上……?」
正道は小屋へ駆け入ると、母の目の前へ立った。母は糸を紡ぐ手を止めて、口を開いた。
「私はあなたの母ではありません。私の子は、ふたり……常にこの胸の内に」
「母上、私です。厨子王です」
正道は身を乗り出して名乗ったが、
「人をからかうものではありません。我が子、厨子王は、どこか遠くへ売られてしまったのです。その姉の安寿も同じ……。私もここへ売られたのですが、すぐに暇を出されました。私はこのだれもいない小さな小屋へ、思い出の我が子を招き入れ、こうして慎ましく暮らしております」
「よくご覧ください、母上。あなたの子です、厨子王丸です」
「朝夕と、村の親切なかたが粟を恵んでくださいます。私は、紡いだ糸を差し上げます。我が子ふたりを想いながら、私はこれで満足なのです。この暮らしを、どうか、乱さずにおいてくださいませんか」
正道は母の哀れな境遇を知って心を痛めたが、やがて少し心が落ち着いてくると、懐から地蔵菩薩の金像を取り出して言った。
「母上、これをご覧ください。これは、姉さんがお持ちだった、毘沙門の宿る地蔵菩薩さまです。見覚えがございませんか」
母ははじめて瞼を上げると、これを手にとってじっと見つめた。
「安寿……」
その目から、涙が流れ落ちる。
「あなたは、厨子王なのですか」
「はい、母上」
厨子王も泣いた。
「厨子王……、厨子王、安寿はどこですか」
「姉さんは死にました。私たちは一緒に丹後国へ売られ、私はそこを逃げましたが、そのために姉さんは命を絶つことになってしまいました。姉さんは命を犠牲にして、私を逃がしてくれたのです」
厨子王はむせびながらも、止め処なくことばをつづけた。
「私は都へ入って身を立てました。父上の流された筑紫へ使者が向かいましたが、父上はすでにこの世にありませんでした。私は丹後の国守になって、かつて私たちきょうだいを虐げた領主に復讐を果たしました。が、そのせいで恩人までもが命を絶ってしまいました。私の心は荒みました。しかし、やらねばならないことが残っていたと思い出しました。私には、生き別れた母上が残っている……こうして私は、この佐渡島へ、母上に会いにきたのです」
「厨子王……」
親子は抱き合った。互いの涙に胸を濡らし、頬の温かみを感じながら、長い時を過ごした。
「さぞ、寂しかったでしょうね」
「寂しかった……、でも、姉上が支えてくれました」
「でも、ひとりになったのでしょう」
「いいえ、母上」
厨子王はみずからの胸に手を置いて言った。
「姉さんは常に、ここへいてくださいました。母上と同じです。そして、私が都で身を立てられたのも、こうして母上にお会いできたのも、すべては姉さんのお導きです。今、私たちは、姉さんと一緒にいるのですよ」
我が子の言うことばを聞いて、母親は、「そうね、そうね」とうなずいた。
つくつく法師が茅蜩へと変わった。……ききき……という茅蜩の音に、波の遠音が重なって、晩夏の夕暮れをやさしく包み込んでいた。 — 終 —