怒り
厨子王は梅津の大臣の屋敷へ客分として住まうことになった。大臣は日毎に厨子王の持つ金像を拝んだが、すると養女の病はみるみるうちに回復していった。
この大臣は、宮中三十六人の要人のうちひとりで、特に大きな発言力を持つ人物だった。大臣は、厨子王にみずから冠を与え、元服させて平正道と名乗らせた。同時に、帝からの赦免状を持たせた遣いの者を父、正氏の左遷された筑紫国へ遣ったが、このときすでに正氏は世になく、これを知った正道は深く哀しんだ。父が判官として治めていた陸奥の領地は、正道のものとなった。
正道は梅津の大臣へ推挙を請い、翌年の春、帝より丹後守に任じられた。正道はすぐさま任国へ赴き、由良の山椒大夫の荘園へと乗り込んだ。
***
山椒大夫の荘も春を迎え、母屋の前には紅梅の花がほころんでいた。
「姉さん……」
正道は覚悟を決めると、中へと足を踏み入れた。
大夫の一家では、まさか国守がかつて使っていた奴であるとは思わないので、正道が屋敷へ来ることを知って非常に喜んでいた。
「二郎、三郎」
国守来訪の二日ほど前、大夫はふたりの息子を呼んで言いふくめておいた。
「わしももう長くはない。わしの亡き後、お前たちには末永く栄えてほしいと思っている。であるから、お前たちふたりによく言っておきたいのじゃ。国守は、きっと我らを頼みとし、所領をくださることと思う。粗相があってはならぬが、またとないこの機に、あまり下手に出すぎるのも考えもんじゃ。特に二郎は抜け目のないやつであるから、わしが言わずとも先刻承知であると思うがのう」
***
「面を上げよ」
親子の前に現れた正道は、まず、荘の主人である山椒大夫の顔を真正面から見つめた。一年見ないうちに歳をとったか、鋭かった眼光が衰え、身体も少し肉が落ちたように感じられた。ついで、二郎、三郎とうち眺めたが、両人とも国守を前にして緊張したようすだった。
正道の脳裏に、かつての記憶がよみがえっては流れていく。……恐ろしかった大夫の相貌、邪険な三郎、鎖骨のあたりへ痛みが走る……、二郎が三郎を殴り、火傷の手当をしてくれた……姉の願いを聞き届け、きょうだい一緒に山へ行けるように取り計らってくれた……姉さん……と一緒に、山へ登った……、
「伊勢の小萩が言うことには」
「え……」
……そう、姉さんを支えてくれた伊勢の小萩。藁打ちと、糸紡ぎの晩……、あのときから、姉さんは覚悟していた。自分はなにも知らなかった……、
「……三郎さまのごようすが……以前は、奴婢にもお優しい笑みを……」
小萩の言ったことばが、なぜ今、繰りかえされるのだろう。ふたたび三郎を見てみるが……、
「さっさとその焼きごてを、おのが姉の額へ押し当てるのだ!」
……懐に手を、守り刀を探す……、
「逃げて!」
涙が、
「泣くんじゃないよ」
そんなこと言われたって、
「きょうだいふたりで語り合いましょう」
いや、だからもう……、
「泣くんじゃない。泣くんじゃないよ」
やめてくれよ、姉さん……、
「厨子王……!」
「……姉さん……!」
「きっとうまくいくから。でも……」
「姉さんは……、そして、三郎の手にかかって……!」
「もしそうなったとしたら……!」
安寿の白い手が、弟、厨子王の右手を取る。深い黒色の瞳で弟を見つめながら、その手の内に託したものは……。
「国守さま?」
山椒大夫の声を聞くやいなや、正道は立ち上がった。
「俺は、平正氏が子、厨子王丸だっ!」
その右手には太刀が握られて、きらめく刃の先は、大夫の喉元へ向けられていた。
「国守さま!」
二郎が間へ入り、父を庇おうとする。太刀の先を向ける相手を見て、彼はすべてを理解した。
「忘れ草か……」
「俺は、平正氏が子、厨子王丸だ。今は元服して、正道という名を賜った」
「……そうか……、そうでございましたか……」
二郎はその場へへたり込んだ。
すると、こんどは三郎の震える声が耳へ入る。
「わ、忘れ草……?」
正道は彼を見据えた。頬が引きつって、作り笑いのような表情をしている。
正道は太刀を鞘へ納めると、ふたたび二郎のほうへ向き直った。そして、
「二郎どのには恩がある。大夫と三郎を引っ立てよ」
家来に命じて大夫と三郎を捕縛させた。事ここに至って、二郎はなお父を庇おうとしたが、正道はそれを許さなかった。