安寿の計
茂る雑木の間から、一頭の牝鹿が黒い目をのぞかせていた。この鹿は、山奥で丈低い笹の葉を静かに食んでいたのだが、ふと耳をそばだてて、和江という小川の流れるところへ姿を現したのだ。
こんもり盛り上がった土の上へ、ひとりの子供がうつ伏せに倒れていた。子供は倒れてはいたが、生気があった。荒い息をしていたし、両の瞼からはとめどなく光る涙が流れていた。泣くなと言われても涙は出るものだ。藪の中で傷をつけたのか、脛巾の下のくるぶしのあたりが血で滲んでいた。
倒れた子供のすぐそばに、金色に光るものが落ちていた。子供は気がついて手を伸ばし、それをぎゅっと握りしめた。彼はふと目を上げて、拳の向こう側に自分を見つめる瞳があることに気がついた。
牝鹿はそっと、その場から姿を消した。
***
厨子王は、毘沙門を祀る国分寺の本堂で目を覚ました。
「昨夜のことじゃった」
彼が目を開けたのに気がつくと、和尚は静かに語り出した。
「樵が寺へ駆け込んでのう、十五、六の子供を背負っておった。なんでも和江の川辺へ倒れて気を失っていたという。心当たりはあるかのう」
厨子王はこくりと頷いた。
「樵は言った。この子供には見覚えがある、この子供は、山椒大夫の荘の奴だ……と。心当たりはあるかのう」
厨子王はしばし迷ったが、やがてまたこくりと頷いた。
和尚は身をかがめて、寝ている厨子王の顔へ自分の顔を近づけた。
「名は、なんという」
「……忘れ草、と」
「ほんとうの名じゃ」
問いかける和尚の顔つきは、柔和な笑みにあふれていた。それは、孤独を抱えた厨子王を心から安堵させるものだった。
厨子王が事の経緯を伝えると、和尚は寺から人を出して、山椒大夫の荘のようすを探らせた。
「待たせたの、厨子王」
内殿で休む厨子王に、和尚はやや強張った顔つきをして伝えた。
「そなたの姉は、み仏の国へ旅立った」
厨子王は覚悟はしていたが、いざその事実を突きつけられると、哀しみを表さずにはいられなかった。満面に表れた悲痛の表情に、和尚の声音が染みていく。
「大夫の荘の奴が言うには、夕べになって、そなたと姉の帰らぬのを不審に思った大夫は、すぐさま人を山へやったのだそうな。すると、泉のそばの雑木の枝へ、朱に染まった二揃いの男物の着物がかかっておったということじゃ」
「それは……」
「さよう。ひとつはそなたが着ていたもの、別れの間際に姉のと取り替えたそなたの着物じゃ。そして、もうひとつは……」
厨子王は息をのんだ。思わず口へ当てた右手の指に、熱い涙の粒がしたたった。
「そなたが追われることなくここまで逃げおおせたのは、姉の計略のおかげかもしれん。二揃いの着物と藁履とを見つけた大夫の荘の者どもは、きょうだいふたりしてその身を切って、清らかな泉へ入水したと思い込み、あえてその死体を捜そうとはしなかったそうじゃ。ところがその晩、もうひとり、別の奴の行方も知れぬようになったということが大夫の耳に入った。多襄という奴で、狩りへ出たきり夜になっても戻らぬというのが奴頭の耳へ入り、大夫の知るところとなったそうじゃ。大夫は三郎をして、こんどは多襄の行方を捜させた。夜ゆえに篝火を持ち出しての大捜索だったそうだが、ついに山頂の付近で、崖下の藪の中に身包みを剥がれた男の死体を見つけたのだそうな」
「姉さんが……」
「おそらく、厨子王よ。お前の姉が、お前を逃がすために、すべてひとりでやったことじゃろうのう」
ごおん……と、夕刻を示す鐘の音が鳴った。鴉が鳴いて山へ帰る。
握った拳を震わせてすすり泣く厨子王の肩と背を、和尚は皺の寄った柔らかい掌で幾度となくさすってやった。