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別離


 しかし、きょうだいのこの会話を、松の木陰に身を隠しつつ、しっかりと聞いていた者があった。

「ようすがおかしいと来てみれば」

 こっそり後をつけてきた多襄たじょうが、きょうだいの前へ姿を現して言った。

「やはり子どもだな。お前たちきょうだいが晩になって帰らなければ、大夫さまが追っ手をかけるのは必定だ。ふたり連れ立って逃げるとなれば目立ちはするし足も遅くなる。きょうだいそろって捕まって、三郎さまにいたぶられてしまいだ」

 きょうだいは思慮の浅さを指摘されて、思わず地面を向いてしまった。

 多襄は、安寿の手首をすばやく取った。

「忘れ草よ、逃げたければ、姉を置いていくがいい。お前ひとりなら逃げきれぬともかぎるまいだろう。姉のことも心配するな、弟を逃したと責め立てようものなら、俺がてきとうにごまかしてやる。どうだ」

 厨子王は迷った。この男を信じて、姉を預けてよいものか。先ほどまで気丈だった姉は、押し黙ったままその深い黒色の瞳を震わせていた。厨子王は男の顔を見つめ直した。そして、その口の端にどこかみだらな気色けしきが浮かぶのを垣間見た。

 厨子王は男へ背を向けて、一歩足を踏み出すと、すばやく懐に手を入れてふりかえった。

「ぐ……!」

 多襄は低くうなり、つかんでいた安寿の手首を離した。

 厨子王は雄叫びを上げながら、松の木の太い幹へと相手の身体を押しつけ、刃を握る手に力を込めた。

「姉さんを好きにするつもりだろう……」

「忘れ草……、なにを……」

「俺は平正氏たいらのまさうじが子、厨子王丸だ!」

 守り刀を引き抜き、もういちど突き刺す。あえぐ男の爪が肩を傷つけるが、厨子王はむしろ身を詰め寄せて、相手の肉を切り裂いた。

 ふたたび刃を引き抜くと、相手は崩れて地に伏した。



 ***


 厨子王はしばらく呆然として、死んだ男の直垂ひたたれあけに染まっているのを眺めていた。

 安寿はというと、どこを見るともなくその黒い瞳の焦点をぼかして、これまたぼうっと固まっていたが、やがて唇を引きむすび、すっと立ちあがると、もと来た道へ降り始めた。

 厨子王は姉の意図がわからなかったが、取るものも取りあえず後につづいた。

「姉さん、いったいどこへ行くの」

「触らないで!」

 振り向きざま、姉がものすごい剣幕で言ったので、厨子王はことばを失ったが、

「途中に泉があったでしょう、まずはそこで手を洗ってから」

 言われて、自分がいまだに守り刀を握ったままであること、その手が返り血に染まっていることに気がついた。

 泉に降りた厨子王は、姉の言うとおりにその手についた血を洗い流した。守り刀の刃についた血糊もきれいに洗い落とした。

 そのあいだ、安寿は懐から地蔵菩薩の金像こんぞうを取り出してこれをうち眺めていたが、ちょうど弟が水際みぎわから立ち上がると同時に、大切そうに胸の内へしまい直した。

「姉さん……?」

 厨子王は驚いた。彼が驚いたのは、姉がおもむろに、自身の袴の紐を解きはじめたのを見たからだ。

「なにをやっているの、姉さん」

 安寿は無言で紐を解き、袴を下ろした。

「お前も脱いで」

 安寿はこの年十六になり、弟の厨子王は十五になった。ひとつしか年の違わないきょうだいではあったが、厨子王は安寿を姉として尊敬していたし、頼みともしていた。最近は、なにを思考しているかわからない、黙しがちなようすがつづいてはいたが、彼の奥底にある姉への絶対的な信頼はゆるぐことはなかった。

 厨子王は、言われた通りに袴を下ろし、また姉にしたがって直垂をも脱いだ。

 互いにひとえの姿になると、安寿は脱いだ衣服を取り替えるのだと言った。

「私が、姉さんのを着るのですか?」

「そうよ。お前が着ていたものは、血がついてしまっているでしょう」

 厨子王の着ていた直垂と袴には、たしかに先ほどの奴頭から浴びた返り血が残っていた。

「だけど、これを姉さんが着るのですか」

 姉が黙ってその衣服を取り、身につけはじめたので、弟も仕方なしに姉の着ていた衣服を身につけた。

「私が男の恰好かっこうをさせられたのは、きっとこのためだったのよ」

「しかし、姉さん」

「逃げて!」

 安寿は厨子王の肩に手を置いて言った。

「すべては()のお導きだわ。山の上で見た中山があるでしょう、小萩から、あの林の中へお寺があると聞いたの。私たちの地蔵菩薩さまとおなじ毘沙門さまをおまつりする由緒あるお寺だから、和尚さまをおたずねすれば、きっと良くしてくださるでしょう。私は思うところがあってここに残るけど……、なにかあったとき、私のためにお前まで逃げ遅れたら元も子もないじゃない。それよりか、別々に逃げて後で落ち合う、もしくはお前が身を立てて私を迎えに来てくれてもいい。そのほうがきっと、うまくいくわよ。そうなったらまた、きょうだいふたりで語り合いましょう……」

 厨子王は黙したまま姉のことばを聞いていたが、その頬をつたって熱い涙が流れた。

「もし……、もし姉さんが、三郎の手にかかって……」

「そんなこと考えないで、きっとうまくいくから。……でも、もしそうなったとしたら……」

 安寿は刹那せつな、深い黒色の瞳の内になにか恐ろしい想念のようなものを垣間見せて、弟の肩へ置く両手にも力が込もったが、それはほんのわずかのあいだだった。

「厨子王」

 安寿はしかと弟を見つめて、

「泣くんじゃない。泣くんじゃないよ」

 言いふくめるような言い方をして、そっと、弟の肩から手を離した。

 厨子王は心を決めると、背を向けて駆け出した。これがきょうだいの今生の別れとなった。




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― 新着の感想 ―
[一言] いよいよですわ、来ましたわ!この先←あれこれ思い出し、←(*꒪ヮ꒪*)、楽しみにしております。
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