旅のはじめ
厨子王は走った。胸には毘沙門の宿る地蔵菩薩の金像を抱え、姉の思いを無下にはしないと誓いながら、雑木のあいだを飛ぶ鳥のように駆け抜けた。
厨子王は勘づいていた、姉の安寿は死ぬつもりだと。死して弟を逃し、望みをつなぐように仕向けたのだと。あるいははじめから、この日のことをはじめに決意したそのときから、姉は、いざとなればこの地に身を沈める覚悟でいたのかもしれない。
安寿と厨子王丸のきょうだいが生まれたのは、陸奥国、岩城の判官平正氏の子としてだったが、この父が国守の罪に連座して、遠く筑紫国へと流されたために、幼いきょうだいは母にしたがい、伊達郡、信夫の荘へ移り暮らしていた。
きょうだいはひとつ歳が離れていたが、ちょうど姉の安寿が十五、弟厨子王が十四になる年の春に、母親はふたりの子らと乳母の姥竹とをつれて、夫の暮らす筑紫へと旅立つことを決心した。北国陸奥で、ちょうど燕の雛の孵る季節に、親子と乳母は連れだって国を発った。
一行は、出立からひと月ほどで越後国、直井の浦へたどり着いた。
道中、安寿と厨子王のきょうだいは、「姉さん、疲れない?」「お前はどう?」と互いに気を遣いながら、けなげに母の後をついていき、その後ろを、この年四十を迎えた姥竹が、成長したきょうだいのかいがいしさを頼もしく思いながら、杖をつきつき歩いていた。
けれども、ほんとうのところ、暖かな日差しには恵まれたものの、草木の生い茂る険しい道をいくらも歩いてきたものだから、一行の足腰は疲れに疲れていた。また、野宿にしろ宿を取るにしろ、その日その日の寝所を探すのも一苦労だった。
日も暮れかけていたので、きょうだいの母は姥竹に命じて、直井の浦の百姓家を訪ねて一夜の宿を探させた。
ところが、姥竹が三軒四軒、家の戸を叩いて回っても、どこの家もしんとして人の出てくる気配さえしなかった。五軒目でようやく、家の女が少しばかり戸を開けて顔をのぞかせたが、「宿を」と頼む姥竹の顔をじっと見つめて、それから慌てて戸を閉じてしまった。
そこへひとりの潮汲みの女が通りかかって、途方に暮れる一行へと声をかけた。
「見たところお悪いお人たちではなさそうですが、それでもここへ来て宿をとるというのは無理な話でございます」
「どうしてですか」
きょうだいの母が訊いた。
「ここの百姓は、元来親切な者ばかりでしたけれど、それを逆手に取った悪い者たちが、宿をとるといってその百姓の家を荒らしていくことが度々ございました。港が近いものですから、百姓といえども少々蓄えのある家もあります。そうした家の主人を騙して、なにがしかを掠め取っていくのです。ひどいところでは、十になったばかりのひとり娘をまんまと拐かされたという家まであるのです」
「なんとまあ。しかし、私たちはそのような者とは違います。いくらなんでも、盗人や人攫いと同じにされるのは納得がいきません」
「お気持ちはわかりますが、そこへ行くと立て札が立っておりまして、国守のおことばが記されております。『人は見かけに依らず、他所者を易く信じるなかれ』……百姓思いの国守さまのおことばですから、無下にするわけにはまいりません。みな気の毒に思いはしても、万一悪い者であったならたまらないし、そうであったなら、せっかくの国守さまのお心遣いを無駄にしてしまうことにもなりますから、だれも旅人を宿する者はおりませんのです」
きょうだいの母は嘆息をもらしたが、気を取り直してこう応えた。
「なるほど。それはたしかに私たちにとってみれば不都合なことだけれど、事情が事情ですから仕方ありません。思ってみれば、私たちは他人が泊めてくれるのを有難く思うのであって、そうでないのを不愉快がったり恨んだりする理由はございません」
悲しい思いこそあれ、理知的で人の心に通じた婦人である。一行の旅がここまでうまくいったひとつの要因には、やはりこの母親のこういったしっかりとした気質があったのだ。
ともあれ、きょうだいとその母親・乳母との一行は、借りる宿がないので野宿をすることに決めた。潮汲みの女が教えてくれた逢岐の橋という大橋の下へ、これもかの女が親切で持ってきてくれた藁や筵を敷いて夜を過ごす支度をした。
***
どれほどの間を過ごしただろうか。安寿と厨子王のきょうだいは少し前まで持参の菓子をかじりながら仲良く物語りなどをしていたが、早くも眠気にやられてことば少なになり、藁の上へ横になってまぶたを触っている。母親と姥竹とは、藁をなるだけ子供たちのほうへやったので、細い女の身体では夜の冷気に震えがちだったが、それでも気丈さを保って愛しい子供らを見守っていた。
そんなところへ、ひとりの男が姿を現した。
「旅のお人ですか」
男は四十かそこらの歳で、筋骨たくましく大柄で、やや厳つい顔立ちをしていた。しかしその声は、姿と裏腹に柔らかく、若者のような清涼さをすら思わせるものだった。
「宿を貸す者がおらんのでしょう。……なるほどたしかに、他所者には悪い者がいる。だが悪い者というのは、どこにでも同じようにあるもので、里で判別できるものではない」
静かな声で、まるで独り言のように男は語った。
「この世の悲劇というものは、たいてい人々のすれ違いによるものです。ここらの人間が悪い者と判断したほんとうは佳いお人たちが、ほんとうの悪人に捕まって酷い目に遭わされたとなれば、まさしくそれはすれ違いによる悲劇……。ここだけの話、ここらの人間も佳い者ばかりではない。身寄りのない者や異郷の者を騙して拐かす、たちの悪い人買いがあるとの話です」
これを聞いて、きょうだいの母と姥竹とは、はっとして顔を見合わせた。
「私は山岡大夫という船乗りで、これから、街道を少し外れたところにある我が家へ帰るところです。旅のご婦人方……、急のことで相応のもてなしはできかねるが、一夜を明かすにはここよりは良いと思うのです。私の家へはまいりませんか」
男は控えめに申し出たが、その声音には、ふしぎとどこか有無を言わせぬ響きが含まれていた。もとより一行にとっては願ってもない申し出で、断る道理もなかった。きょうだいの母はありがたくこれを受け、我が子と乳母とを伴って、大夫に宿を借りることにしたのだった。