錦百合の花言葉
けたたましく鳴り響く目覚ましの音で眼が覚める。祝福するは小鳥のさえずりと木々のさざめき。
目覚ましを止め、しょぼつく眼を擦りながらベッドから這い出てパジャマを脱ぎ、綺麗に畳んで並べる。
タンスの中からブラジャーと学校指定の紺のブレザーとスカートを取り出してのそのそと着替える。
中学生の頃から変わらない生活リズムに支障はない。あるのは倦怠感のみ。
面倒くさい。
将来何の役に立つのかわからない学校での生活にため息を吐く。鬱陶しくも思いながらも、行かなければならないと義務的に身支度を整える。
毎日毎日同じことの繰り返しに飽き飽きしながらリビングに出た。
『まったく……朝からそんな暗い顔するなよな』
ただ一ヶ月ほど前から彼女の日常はガラリと変わった。
「寝起きなんだから勘弁してよ。それに大体勉強なんてしたって将来何の意味があるの?」
『そう言う奴ほど社会の壁に打ち負かされるんだよ』
「そんなものかしら…………」
抑揚の無い声で呟き、コンビニのあんパンを取り出してちょびちょび食べる。
『…………百合、女の子なんだから自分の朝飯くらい準備したらどうだい? 調理器具は一通り揃ってるんだしさ。っていうか料理しないのに何で揃えてんの?』
「別にいいでしょ。私はこれで充分なのよ」
『育ちざかりなのに。これからだっていうのに。そんなんじゃ行き遅れるぞ?』
「いいんだってば。私に彼氏なんていらないの」
『せめてご飯くらいちゃんと食べようぜ。体を貸してくれたら作れるんだけど』
「まぁ……それもいいかも」
声の主の手料理がどんなものなのか、単純に気になった百合はその提案に乗り気になって言ってみると――――。
『いや駄目だ! 女の子なんだから男に気安く体を貸すもんじゃない!』
「女子に眼がないくせに何でそんなところでお堅いのよ」
勝手に取り憑いてきたくせに。
洗面台に立った撫子は鏡を睨む。今も背後でふわふわと漂っているであろう男。
見えたら頬を抓るくらいしてやるのに。
深いため息を吐き、顔を洗い歯を磨く。最後に手近の櫛で適当に髪を解かすと、鞄を持って家を出る。
一ヶ月前、いつもと変わらない一日を過ごしていた百合は突然誰かの声が聞こえるようになった。
最初は幻聴かと思って無視していたのだが、毎日のように語りかけてくる声に気味の悪さを感じ、思わず返事をしてしまった。
やってしまった、と後悔した時にはもう遅い。声は百合の声に呼応するように、
『良かった~、いつまで経っても話してくれないから不安だったんだぞ!』
声の主は寂しがり屋だった。
話してみれば声の主は意外と気さくで、初めての一人暮らしを始めたばかりで不安だった百合に安心をもたらすには充分。
一日も待つことなく、二人は簡単に打ち解けた。
何でも声の主には記憶が無く、どう死んだのか、どうして百合に取り憑いたのか、まったくわからないらしい。
内に秘めるもう一つの人格が語りかけてきている、などといった中二病なるものを患っていなくて良かったと安心すると同時に、ふと浮かんだ疑問を声の主に尋ねた。
貴方は世間一般で言う幽霊なのかしら?
何かそうみたいだぜ。
声の主――――もとい幽霊は軽い口調で述べた。百合には見えていないが、幽霊は歯を見せにこやかに笑っている。
百合はホラー映画やお化け屋敷などは得意な部類だが、それは創作物であって本物ではないから平気なだけ。実際の心霊スポットに行ったり、本物に出くわしたりなんて冗談ではない。
あらかじめ話をして意気投合したから良かったものの、最初から幽霊だと知っていたら恐怖でどうにかなっていたかもしれない。
と、こういった経緯で百合は幽霊との奇妙な同居生活を始めたのだった。
『そうだ百合! あのことは忘れてないよな?』
「クロ……忘れてないから外では話しかけないで」
幽霊の呼び名は百合の提案でクロに決定した。クロも快く受け入れたが、クロには不満もあった。
記憶。死ぬ前、生前の記憶を失い、名前を思い出せないことが。
幽霊なんて不気味な存在になり取り憑いてしまった自分を受け入れ、名前をくれた百合には感謝しかない。それでもだ、自分が何者なのかわからないなんてクロは耐えられない。
だが、クロは幽霊でしかも百合に取り憑いてしまっている。
自由に動くこともできないクロでは、自分自身を調べようにもどうすることもできない。
クロは駄目元で百合に頼み込んだ。
自分が死んだ原因が、何らかの事件に巻き込まれたことによるものだったら、下手をすれば百合も巻き込みかねない。
だがこの世界でクロが頼りにできるのは、取り憑き、親しくなった彼女しかいないのだ。
クロの表情がわからない百合は、クロが何を思っているかは声から読み取るしかない。
親しくなったからといって、百合には危険を犯してまでクロを助ける筋合いはない。ないのだが、その声がとても必死だったから、百合は断ることができなかった。
同情か、興味本位か、百合の考えはわからなかったが、喜びに飛び回ったクロにはどうでもいいことだ。
まだ手がかりは見つからないが、元々気楽な性格だったのと、百合との日常が楽しいことで、クロは焦燥に駆られることはなかった。
努力している者に痛い目を見せるほど神様も残酷じゃないはずだ。何といっても百合が頑張っているのだから。
この日もクロはポジティブに前だけを見る。
『本当にありがとう、百合!』
子供のように人懐っこい明るい声で、恥ずかしげもなく発せられた言葉に、百合は頬が熱くなるのを感じた。
「き、急に何を言ってるのよ馬鹿」
外だということも忘れてついつい声を荒げてしまう。周りに人がいなかったことが救いだったと、百合はホッとため息を吐いて学校へ急ぐ。
内心、嬉しくて心臓の鼓動が速くなっていた。
十五年間、誰かに頼られたり感謝されることはほぼ無かった。百合自身、自分はあまり出来の良い人間ではないと自負している。
それが今はどうだ。幽霊とはいえ他人に頼られ、ありがとうまで言われた。
ああ、この世にはこんなにも喜びを感じられるものがあったのか。
抑えきれない感情が肉体面にも影響を与え、不機嫌そうだった百合の頬が緩む。
『おぁ!? 百合が笑ってる! 明日は台風か!』
「怒るわよ」
言葉とは裏腹に百合の表情は先程よりも明るい。
足取りが軽かった。
今日も一日頑張れそうだ。
錦百合の一日は、劇的に変わった。
午前の授業の終わりを伝える鐘の音が鳴り響く。
百合は早速コンビニで買ったパンを取り出し、昼食の時間に入ろうとする。
「またコンビニのパン?」
ため息が混じった呆れ声で、弁当箱を手にした一人の少女が百合の前の席に座る。
『撫子ちゃん! 今日も可愛いねぇ』
確かに同意ではあるが、女性を目の前にしたらすぐさま口説くのはやめろ。どうせ聞こえてないのだから。
自重しないクロに辟易しながら、百合は目の前の友人を凝視する。
百合と違ってキチンとセットされた栗色の髪は、彼女が少し動くだけで、肩口でサラサラと揺れる。元々整っている顔には薄く化粧を施し、その容姿に磨きをかけている。
彼女にかかればただの学校の制服もトップモデルが着こなしているような服に早変わり。
敢えて欠点を挙げるなら背が低いことだが、それはそれで可愛らしさが強調されている。
何より百合が一番気になっている部分は――――
『相変わらずおっぱい大きい!』
――――嫌みか。
膨らみの小さい自分の胸と大きい友人の胸を見比べてため息を吐く。
クロは悪意を持って発言したわけではない。クロ自身、百合の容姿は充分整っていると思っている。
背丈は一般的な女子高生より高く、手足もすらりと細長い。長い黒髪は今まであまり手入れしなかったのか、やや枝毛が目立つが、絹のように美しい。
顔立ちも可愛らしい、と言うより綺麗と言う方が正しく、年上の女性に見られることもしばしば。
『そんな百合の鋭い眼差しで見られることが堪らない』とは、クロが聞いてしまった隠れ百合ファンの発言である。
百合も撫子に負けず劣らずの美少女なのだが、本人が自分自身に自信を持っていない。それどころか、容姿も性格も真逆な撫子に僅かばかりの劣等感を持っている。
「なでちゃんは相変わらず可愛らしいわね。妬ましいわ」
「ふふ、ゆりちゃんはいつも綺麗だけどね。羨ましいなぁ」
相変わらず嫉妬から遠い子だな。
撫子の言葉に毒気を抜かれて肩を落とした百合は、ニコニコと笑う撫子を見つめる。
最近こんな言葉をよく投げ掛けられるが、撫子はいつも笑っている。
笑って誤魔化そうとしているのではなく、どんな会話でも百合と話しているのが楽しいから笑っている。百合の嫉妬も理解しながら受け止めている。
西園寺撫子とはそういう人間だ。
純粋で純真な友人に対して、僅かでも妬ましいと思ってしまう自分が恥ずかしく思う。
「でも、最近はオシャレに気をつけるようになったよね」
「そ、そうでもないんじゃないかしら…………?」
「ゆりちゃんのことなら何でもわかるよ! 第一、私にファッションのこととか聞いてきたじゃない」
「…………それとなく聞いたつもりだったのに」
『それはバレるだろー』と背後からクロが撫子の援護に回る。
「一ヶ月くらい前からなっちゃんがちょっとずつ綺麗になってきてたから、やっぱり気にし始めたんだなぁって嬉しくなったんだよ」
『大体俺と出会った頃か。へぇ~、百合がねぇ、へぇ』
感心するように喋るクロを無視しても撫子がニコニコと自分を見つめてくる。
恥ずかしさから百合は逃げるように紙パックに刺したストローに口を付ける。
ふぁ、と撫子が大きく欠伸をした。
「なでちゃん、眼の下の隈が酷いわよ。珍しいわね」
「夜更かししちゃって。ちょっと眠たいけど大丈夫だよ。ところでゆりちゃんに聞きたいんだけど」
百合がもう一度牛乳を飲もうとした時、撫子は突拍子もないことを言った。
「ゆりちゃんは誰を好きになったの?」
噴き出した。それも盛大に。
飛び散った牛乳に驚き、撫子と、当たりはしないが反射的にクロも避ける。
口元から白い液体を滴らせる百合に背徳感を覚えながら二人は百合を見つめる。
百合は口元を拭くのも忘れ、ただ顔を赤らめる。ジッと、無表情にまっすぐ視線を伸ばす。
目の前で撫子が手を振ろうが、クロが呼び掛けようが、百合は無反応。
流石に心配になってきた撫子は、百合の横に立って肩に触れようと手を伸ばし、
「ああああああああああ!!」
周囲の雑談も掻き消す大絶叫。
近くにいた撫子は勿論、教室にいた生徒全員が百合の声に鼓膜を激しく振動させられる。
百合は教室を飛び出し廊下を駆け抜ける。
肉体を持たない幽霊であった為に唯一無事だったクロは、百合に引き寄せられるようにフワフワと浮く。
『そっかー、百合にも好きな人がいたんだな』
「そうよ悪い!? あああ! 知られたくなかったのに!!」
撫子のいう通り、百合には想い人がいる。その人を思い出すだけで胸が苦しくて、顔を見るだけで恥ずかしくなる。そんな初恋を、百合は初々しくも体験中なのだ。
だが自分に恋なんて似合わないだろうと、勝手に思い込んだ百合は誰かにその恋心を知られたくなかった。
だから想い人の存在が露見した時、恥ずかしさのあまりあんな奇行を取ってしまったのだ。
うぅ~、とようやく止まった百合は頭を抱え込み、校舎の端の階段に座り込んだ。
『大袈裟だなぁ。百合くらいの歳になれば皆恋愛くらいするって』
「…………でも、知られたくないのよ。私が誰かを好きになるなんて、おかしいし……」
皆が、例えば撫子が誰かを好きになっても、誰も貶さないだろう。誰も笑わないだろう。自然なことだからだ。
逆に自分は、人の輪から外れて生きている自分は、恋愛からかけ離れすぎていて不自然だと、百合はそう思っている。
『おかしくない!』
だがクロは否定する。
『人を好きなるのに他人の許可なんていらないんだよ』
「そう……かな…………?」
『あいつを好きになれって言われたから好きになったんじゃないんだろ? 百合が好きだと思ったから好きになったんだろ? だったらその気持ちに自信を持てって! 本気の気持ちは他人が笑っていい権利なんてないんだからさ!』
「そっ……か…………。クロがそう言うなら、そうなのよね」
不思議な感覚だった。クロのたった一言で、今までの悩みがすっかり吹き飛んだ。
勿論、恥ずかしいという気持ちは残っているし、今すぐ撫子に相談しようなんて思わない。ただ、さっきより素直に、あの人を好きでいて良いのだと思えるようになった。
「クロ、ありがとう」
『当然。俺は女の味方だからな』
「その言葉で全部台無しよ」
自称フェミニストめ。
今も周囲をふわふわ浮いているであろう幽霊に向かって悪態を吐いた百合は、スッと立ち上がって伸びをした。
「さて、どうしようかしら。気分はすっきりしたけど……教室に戻るのは気まずいわね」
少し前の自分を殴りたい。
思い出せば出すほど恥ずかしさが増してくる。
『逆に考えるんだ。これを機に新キャラで行けば良いんだと』
「無理に決まってるでしょ。はぁ……普通な錦百合ってキャラを皆に植え付けるのに苦労したのに」
『えっ……キャラ作ってたの?』
「帰っちゃおうかな」
でも教室に鞄を置きっぱなしだし、鍵も鞄の中にあるからなぁ。と百合が悩んでいると、
「やっぱりそう言うと思ったよ!」
二人の会話に割り込んできたのは明るさを爆発させた一つの声。
驚いて声の方へ振り向けば、そこには二つの鞄を持った撫子が立っていた。
「な、なでちゃん? どうして」
「ゆりちゃんのことなら何でもわかっちゃうんだもん。サボるなら一緒にサボろ」
『駄目だろ』
優等生とは言い難い百合と違って、撫子は誰もが認める優等生だ。百合に付き合って彼女まで評価を下げるわけにはいかない。と、正常ならば断っていただろうが、残念ながら皆の前から消えたいという気持ちは振り切れていない百合は親友の提案を受け入れる。
「そうね、サボって遊びに行こっか」
『百合!?』
「じゃあ定番のゲーセンに行かない? ゆりちゃんと一緒にプリクラ撮りたかったんだぁ」
「良いわよ。せっかくだから綺麗に撮ろうね」
やったぁ! 全身で嬉しさを表現し、撫子は百合の手を引いて歩き出す。
『おいおい! そんなことして大丈夫なのかよ! 先生って不真面目な生徒には結構厳しいんだぞ!』
「記憶喪失のくせに何言ってるのよ。女の子に眼がないくせに妙に真面目なんだから」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。早く行きましょ!」
やいのやいのうるさい幽霊はシャットダウン。撫子に連れられるがまま、百合は学校を後にするのだった。
画面内で躍動する筋骨隆々な忍者のド派手な必殺技が、真っ黒なドロドロした生命体に炸裂する。
YOU LOSE。百合の画面に敗北を意味する英語が映し出された。
また負けた。三回対戦して三回負けた百合はがっくりとうなだれて、反対側で歓喜しているであろう撫子を覗きに行く。
「なでちゃん……ちょっとは手加減してよ…………」
「勝負事で手を抜くのは相手に失礼だよ!」
おっとりした子だと思っていた百合だったが、その考えはまるっきり違ったようだった。
「ゆりちゃん! そろそろプリクラ撮ろ!」
「時間も時間だしね。じゃああそこで」
「駄目駄目! あっちの方が可愛く撮れるからあっちにしよ!」
「ちょっとなでちゃん!」
いつになく積極的な撫子に引っ張られて、百合はカーテンを中に入る。
「そういえば、プリクラ初めてだった…………」
「ということは、ゆりちゃんの初めては私の物ね!」
「誤解を招く言い方はやめて…………」
「ふふっ。設定は私に任せて。可愛く撮ってあげるから」
テキパキと、百合には何をしているかわからない操作を撫子は難なくこなしていく。
現役の女子校生として、今時プリクラの撮り方もわからないのは本気でマズいのではないか。いよいよ危機感を覚え始めた百合は撫子の手の動きを眼で追った。
「これで良し! ゆりちゃんもっと近寄って!」
「う、うん」
ギュッと、腕に押し付けられる豊満な胸。
――――男じゃなくて良かった。もし自分が男だったら色々と耐えられる気がしない。今もちょっと誘惑されているけど。
『う、羨ましい……!』
クロが自分に乗り移れなくて本当に良かった。
結局、字も絵も全て撫子に書いてもらった百合は、あまりにも自分が女子校生としての常識から乖離していることにややショックを受けていた。
時々クロに小言も言われたが、正論なだけに何も言い返せなかった。
「まぁまぁ、知らないことは仕方ないよ。私が色んなこと教えてあげるから、気にしないで」
「ありがとう、なでちゃん…………」
撫子の優しさが逆に心に突き刺さる。
しかし、撫子の描く絵はやけにハートが多い気がする。
でも撫子は可愛らしいものが好きだし、彼女にとってはこれが普通なのだろう、と百合は特に深く考えずに納得した。
「ゆりちゃん楽しかった?」
「えぇ。学校をサボって遊ぶのって楽しいのね」
「そうだね。これなら時々サボって遊びに行くのも良いかもね!」
「私も明日から頑張って学校行くから。あんまりサボっちゃ駄目」
『毎朝学校行くのが憂鬱なくせに』
撫子まで巻き込んで学校をサボるなんて、流石にそれは居心地が悪い。
そんな話をしながらゲームセンターから出た時に、百合は撫子の手に、後で分けようと言っていたプリクラの写真しか握られていないことに気付く。
「なでちゃん鞄は?」
「えっ…………? あぁっ! 忘れちゃった!」
「プリクラ撮る時かしら? 早く取りに戻りましょ」
「いいよ一人で。すぐ戻るからここで待ってて!」
踵を返して駆けていく撫子の後ろ姿を眺め、やっぱりおっとりしてるなぁ、と微笑ましい気持ちになる。
『ああいうところも可愛いなぁ』
今回ばかりは百合も同意した。
「おい」
男の声。
クロのものではなかったので気にしなかったが、もう一度、しかも今度は「錦百合!」と名前まで呼ばれ、心臓を鷲掴みにされた気分で百合は背後を見る。
フード付きのパーカーに下はジャージ。百合でも適当に選んだのだとわかるような格好の、小汚い太った男が百合を睨んで立っていた。
いかにも外界と繋がりを絶っていそうな男に、百合は良い感情を抱かなかった。
『何だこいつ。百合の知り合い?』
こんな人は知らない。
百合は友人を選ぶタイプだ。クロに言えば人付き合いが苦手なだけだと返されるだろうが、そんな百合が、第一印象から嫌悪感を覚えた相手と親しくなるなんて有り得なかった。
「あの……どちら様、でしょうか?」
『百合! 関わらない方がいいって!』
クロの言う通り、関わらない方が良かったのかもしれない。だが、相手が百合を見付けた時点で全てが遅かった。
「ぼ、僕か? 僕は、な、撫子ちゃんの彼氏なんだ!」
「彼氏…………? 貴方が?」
『有り得ないだろ』
訝しげに呟く百合に、男は近付いていく。
「お、お前が……百合ちゃんを唆したんだ…………!」
ブツブツと、不気味に近付いてくる男に百合は悪寒がして、直視出来ずに後退る。だからか、男がポケットから取り出した刃に気付けたのはクロだけだった。
クロの怒号が飛ぶ。驚いて膝を折った百合は尻餅を着いた。
後から、頬に熱い物を感じた。
熱さは次第に痛みに変わり、何か、ドロッとした物が頬を流れる。
震える手で頬に触れれば、ヌルリと、真っ赤な血が指に付着していた。
一体どうして。
混乱して状況を理解出来ない百合は、恐る恐る男を見上げた。
男の手には、血の付いたナイフが握られていた。
殺す、殺してやると呪文のように呟く男の声と、通行人の悲鳴が鼓膜を振動させて、百合はようやく状況を把握した。
この男は私を殺そうとしている。
頬の痛みが死の恐怖をよりリアルに伝えるせいで、百合は逃げようとすら考えられなかった。
死にたくない。死にたくない、助けて。――――さん!
『走れ! 百合!』
思考を覆う闇を払いのけたのは、幽霊の声だった。
僅かに思考を取り戻せた百合はクロの言う通りに走り出した。
後ろは見えないが、男が追い掛けてきているのが肌で感じられた。
『大丈夫か!』
「う、うんっ…………! あ、ありがとう!」
『礼なら後だ! 今は逃げることだけ考えろ! あいつ、見た目通り足も遅いようだし、とにかく交番に!』
そうか、いくら運動が苦手な自分でも、あんな体力の無さそうな相手に捕まることなんて余程のことが無ければ。
落ち着きを取り戻し始めた百合は、相手との距離を確認しようと、ついつい後ろを確認してしまった。
感じたのは安心感などではなかった。感じたのは、いや、蘇ったのは恐怖心。
社会不適合の、ただの男の姿は、百合の心に恐怖として刻み込まれてしまっていた。
足がもつれる。
強張った体は百合の意志に反してあまりにも反抗的で、あまりにも鈍重だった。
派手に転けた百合は慌てて立ち上がろうとするが、転けた際に強打したのか、右膝の痛みで立ち上がることも出来ない。
「に、にににげ……ぜぇ……るなよぉ…………!」
息も絶え絶え。歩くのも億劫そうだった男だが、立ち上がることさえ出来ない百合には驚異でしかない。
「お前が……ひゅー、悪いんだ。百合ちゃんを、たぶらかしたお前がぁ!!」
「な、何……? 何を言ってるの…………?」
意味が分からない、理解出来ない。男の全てが怖かった。
『このっ! 百合に近付くな! この野郎! くそっ……くそっ!』
クロは、勇敢にも男に立ち向かっているのだろう。だが、相手に触れないクロは男を殴れない。姿は誰にも視認すら出来ない。
クロの勇気も虚しく、男は百合の目の前まで来てしまった。
瞳孔が開いた男の眼に見下ろされ、百合の体は石のように固まってしまった。
高々と振り上げられたナイフが振り下ろされた。
バチッ!
電気が弾けるようなキツい音。
衝撃は訪れず、騒然とする周囲の人間。恐る恐る眼を開いた百合は、一番の友人の姿を見付けた。
「大丈夫、ゆりちゃん!?」
「な、なでちゃん…………」
今度こそ感じた安堵から、百合の頬を涙が伝った。
テーブルに置かれたお茶を喉に流し込む。冷たさが今の百合には心地良かった。
あの後、百合の家まで逃げた二人は事の顛末を知らない。
もしかしたら男は捕まったかもしれないし、捕まらずに逃げたかもしれない。
捕まっていなければ、また殺しにくる。
追われた時の恐怖を思い出し、体がまた震え出す。
「ゆりちゃん、大丈夫?」
そっと、肩に置かれた手から伝わる撫子の体温が、百合には泣きそうなくらい優しくて、心が落ち着いた。
「うん、大丈夫。ありがとうなでちゃん」
「友達だもん。当然だよ」
『そうそう。あんな奴今度こそぶっ飛ばしてやるからな!』
撫子の優しい笑顔が、クロの頼もしい声が、恐怖を忘れさせてくれた。
「しかし驚いたわね。なでちゃんがスタンガン持ってたなんて」
「あぁこれね」
撫子は鞄からスタンガンを取り出しバチバチと鳴らしてみせる。
あの時、殺され掛けた百合を救ったのは撫子が護身用に携帯していたスタンガンだった。
撫子のような女の子が、護身とはいえそんな物騒な物を持っているとは思わなかった百合は大変驚いた。
しかしスタンガンの威力とは、相手を一瞬で昏倒とさせるほどのものなのだろうか。てっきり相手が痺れて動けなくなるくらいだと思っていた。
「ストーカーの被害に遭ってたから、一応持っておいたんだ」
「ストーカーって、やっぱりあの男のことよね?」
「うん……心配かけさせたくなくて黙ってたんだけど、そのせいでゆりちゃんを危険な目に遭わせちゃって……ごめんなさい」
『撫子ちゃんのせいじゃないよ! 悪いのは全部あのストーカー野郎だって!』
「そうっ……じゃなくて、なでちゃんは何も悪くないわ。女の子を付け回して逆恨みしてくる方が悪いのよ」
「ふふっ……優しいね、ゆりちゃんは」
家に来てから初めて、ようやく心から撫子が笑ったように百合は見えた。
一番怖かったのは撫子だったのだ。長い間見知らぬ男に付き纏われて、睡眠すら満足に取れず。
それを思うとストーカーの男に怒りが湧いてきた。
やっぱり今からでも警察に届け出た方が良いのではないかと百合は思ってきた。
ストーカー被害というのは警察が取り合ってくれない場合が多いが、殺そうとしてきたのなら傷害罪で逮捕出来るはずだ。
「なでちゃん、明日にでも警察に行きましょう。あんな奴を放っておいちゃ駄目だわ」
「そうだね。でもね、ゆりちゃん。その必要は無いと思うよ」
「えっ…………?」
撫子は本心からの笑顔を浮かべて、そして当然のように言った。
「あの人死んでるはずだから」
まず最初に聞き返したのはクロだった。それから代弁するように百合が聞き返す。
「どういうこと?」本当に訳もわからず、呆然と尋ねた百合に、さも当たり前のように撫子は答える。
「あの人に使ったスタンガンね、もしもの時の為に改造しておいたんだ。上手く当てれば即死するくらい電圧を上げて。慌ててたけど、心臓の近くに当てられたから、救急車がよっぽど速く着かなかったら助からないはずだよ」
本当に嬉しそうに、「これで一安心だね!」と笑う撫子に、百合は吐き気を覚えた。
クロも、今までの撫子の全てが嘘だったのかと、酷く狼狽えていた。
「本当は殺すつもりは無かったんだけどね。でも、ゆりちゃんにまで手を出したんなら、殺されても文句は言えないよね」
『何だ……何を言ってるんだこの子!?』
ヒステリックに叫ぶクロ。百合は、ストーカー男の言葉を思い出していた。
「あぁ、ごめんね。頬の傷のこと忘れちゃってた。ゆりちゃんの綺麗な顔に傷付けて……本当に最低」
生暖かい撫子の舌が、ペロ。百合の頬に付けられたら切り傷を舐めた。
『お前が……ひゅー、悪いんだ。百合ちゃんを、たぶらかしたお前がぁ!!』
あれは、こういうことだったんだ。
「ぃ、いやぁっ!!」
恐怖が蘇る。
親友から向けられる狂気の愛。
重苦しい恐怖が百合に襲い掛かる。
撫子を振り払い、百合はクローゼットの中に逃げ込んだ。
「ゆりちゃん……どうして逃げるの?」
撫子は悲しそうに、だが何かわかっていたような表情でクローゼットに近付く。
「あの人じゃないと駄目? ゆりちゃんの視線の先にいつも居たあの人か居なくならないと、ゆりちゃんの心は私に向いてくれないの? こんなに好きなのに!」
とても小柄な女の子とは思えない力でクローゼットをこじ開けようとしてくる撫子。
今の撫子なら何をしてくるかわからない。必死に開けさせないように、閉める手に力を込める百合だが、撫子の力はそれ以上のものだった。
どうしてこんなことに。いつもの日常が、優しい親友が、どうして狂ってしまった。
クローゼットの戸が開かれる。
百合は助けを求めるように、彼に抱き付いた。
「ゆりちゃん…………何、それ?」
見られた。誰にも知られてはいけない、私達だけの秘密を。
「なでちゃん…………」
百合は全身を起こして撫子へ体当たりする。
倒されるほどの衝撃ではなかったが、待ち構えずに受けた為に一歩、二歩と後ろによろめく。
グヂュリ。
妙に耳障りな音が撫子の鼓膜に届いた。次の瞬間には、赤が視界を染め上げた。
「えっ…………」
「ごめんね……ごめん、ごめんなさい…………」
赤の奥で眼を悲しみに染め上げる、頬を赤で濡らす百合を最期に眼に焼き付け、撫子は糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
真っ赤に染まる撫子の体。床。百合の手。百合の手に握られた包丁。
『なん、なんだよ……これ…………』
日常を、突如として非日常に変えた目の前の光景に、クロは理解が追い付かなかった。
『何で殺したんだよ…………!』
「だって……っこの子が、見ちゃったから…………」
『見た……? まさか……クローゼットの…………』
クロは今、クローゼットの中を見ているのだろう。
誰にも知られるわけにはいかなかった。なのに、撫子に知られクロに知られた。
何が、どうして、何処で間違えたのだろう。ただ彼と一緒に居たかっただけなのに。どうして――――バレてしまったのか。
あの日以来握らないでいた包丁を取り落とし、姿の見えないクロに縋り付く。
「仕方なかったのよ! 誰かに知られたら貴方との関係が壊れちゃうから! 誰にも知られるわけにはいかなかったのよ! だからっ! お願い! 嫌いにならないで!! 士さん!」
『つか……さ?』
困惑から抜け出せないクロ。百合はクローゼットの中へと這いずって向かい、彼を抱き締めて絶叫する。
「私は貴方が見てくれるだけで! それだけで良いから! お願いだから私の傍に居て!」
インターホンが鳴らされる。
遂に来てしまった運命の日。親友を、人を三人も殺してしまったのだ。百合も覚悟はしている。
そもそも、一ヶ月も前に殺人を犯した時に、警察へ出頭するべきだったのだ。そうすれば撫子を殺すようなことはなかった。
事の始まりは一ヶ月前。百合は生まれて初めて恋をした。
街中で偶然知り合った彼、黒井士に。
家の鍵を落としてしまった百合を、親切にも助けてくれた。
一目惚れだった。
軟派な人だったが、それすらも彼の魅力だと、百合はただただ魅了され、士のいる世界が色鮮やかに見えて、心から士を求めてやまなかった。
なのに、士には彼女がいたのだ。
大学の先輩で、百合から見ても美人だと思える女性。到底自分では及ばない、女の魅力を兼ね備えた彼女に、百合は敗北感と強烈な嫉妬を抱いた。
あの人の隣は、何で私の物じゃない。あの人と私の愛を邪魔する彼女が、邪魔だ。
嫉妬はいつしか殺意へ。
気付けば目の前には二人の死体。手には血に濡れた包丁。
瞬時に理解し、百合は女性の死体を埋め、士の死体を家のクローゼットに隠した。
人間はカッとなって、己の意識の範囲外で人を殺してしまうことを知った百合は、自分自身が怖くなった。
好きな人すら殺してしまう自分が。
それ以来士の幻聴に苛まれ、苦しかったが、殺した相手を恨まない人間はいない。これは当然の報いなのだと、受け入れて。
しかし、数日経ってから、恨みつらみではなく、士の声はずっと自分に呼び掛けてきているだけだと気付いた。
意を決して、返事をしてみれば、士は百合に殺されたことなんて無かったように、生前と変わらぬ調子で話した。
もしや記憶を失っているのでは。
話を続けていく内に、百合の考えは確証に変わり、同時に百合は罪の意識から解放され、そしてこう思うようなった。
本当は彼も私と一緒に居たかったんだ、と。
記憶が戻らないように、クローゼットの中を見られないように、士をクロと名付けて、百合は士と過ごす日常を堪能する。
その頃には、自分に対する恐怖も、人を殺した罪の意識も、無くなっていた。
しかし、撫子を殺したことだけは、自分でも許し難い行為だった。
こんなどうしようもない自分に、会ってすぐ仲良くしてくれた。
もしかしたらその頃から恋愛対象として見られていたのかもしれないが、撫子の気持ち自体は素直に嬉しいと思った。
だが殺してしまった今、こんな気持ちに意味はない。
だからこそ今日この日、百合は罰を受ける。
「士さん……本当は私、自分から出頭するべきだった。でも、私は貴方と一緒に居たかったの」
二人だけで、この家で過ごしたかった。
「うん、ズルいよね…………。でも、私が逮捕されたら士さんも牢屋に入ることになるから…………えっ? 牢屋まで着いてきてくれるなんて……士さん、優しいのね」
一人、百合は笑い、血まみれの体のまま立ち上がる。
「怖くないわ。士が傍に居てくれるなら、何も怖くない」
百合は、虚空へ、微笑みを向ける。
「ありがとう。私も愛してる」
そして百合は罪を償う為、刑事の待つ外の世界へと、一人、足を踏み出した。
錦百合
花言葉は「悲しみを超えた愛」