満月の夜
みなさん、はじめまして。るしやん・みすてぃっくです。だいぶ前に書いた作品なのですが、初めて投稿させていただきました。ぜひ感想よろしくお願いします。
「満月の夜に愛を語るな」と聞いたことがある。
月の光には心を狂わせる魔力がある。おとなしい女の子が大胆になったり、物静かな男がいきなり暴れ出したりしたら、それは確実に「月にやられた」証拠だ。まして満月はその力が最高になっているときなのだ。
気をつけなくちゃいけないのは好きな人と一緒にいるとき。空の上からじっと二人を見つめている月は、おせっかいな友達のようなもので、人の恋愛をかき回そうと余計なアドバイスを送ってくる。
――あ、その沈黙。絶対に彼女はキスを待ってるね。
――今夜は友達から恋人になれる運命の夜なんだよ。勇気を出して。
そんなとき人は誰でも、エサを目の前にした獣みたいに言いなりになってしまう。人間が月の魔力に勝てたことはないのだ。
(なに黙ってるの)
携帯電話から、みつきの声がする。どこかに飛んでいた僕の意識は、自分の脳みその中に戻ってきた。
「あ……月に見とれてて」
輪切りになったオレンジのような月が、濃いブルーの夜空に浮かんでいる。手を伸ばせば触れそうなくらい、くっきりとした形をしていた。
(きれいな月だね。満月の夜って殺人事件が多いって知ってた?)
きっとそれも月の魔力のせい。だけど人殺しの話をしたい気分じゃなかったから、適当に返事をしておいた。そういう話はFBIの心理分析官にでも任せておけばいいじゃないか。
(それじゃあ明日の夜にね。会うの久しぶりだから、すごく楽しみ)
「そうだね」
もっと気のきいた返事はないものかと、自分でも思う。それが彼女への気持ちが冷め始めているせいなのか、通話料がもったいないから早く切りたかったのか、理由はよく分からない。
(ねえ。あのさ……)
みつきの声が変わった。言おうか言うまいか悩んでいたことを、思い切って告白しようとしている切実さ。
「なに?」
(ううん……なんでもない)
「そう……」
僕は満月を睨んだ。月に惑わせて甘ったるい言葉をかけたりはしないぞ。
「なんかあったら電話して」
みつきは、うん、と答えて通話を切った。
みつきとはアルバイト先で出会った。背が低いせいで年齢よりも幼く見えた。笑うととても可愛い、というより、みつきの怒った顔や悲しそうな表情を見たことがない。上あごに舌を巻くような感じで声を出すので「さ・し・す・せ・そ」が「しゃ・しぃ・しゅ・しぇ・しょ」に聞こえる。彼女は子どもみたいだと気にしているけど、僕はそれが大好きだ。実をいうと、彼女の中で一番好きなのはその声だった。
付き合い始めたときのことはよく覚えていない。仕事の帰りに一緒に買い物をしたか食事をしたか、そんな感じのきっかけだったと思う。
それから半年がたった。みつきはすでに職場を変わっていたので、今はお互いに時間のあるときにしか会えない。一緒に働いていたときは毎日のようにデートをしていたのに、彼女とはもう二ヶ月も会っていなかった。
(嫌いになったの?)
彼女からそう言われたことはなかった。いつか聞かれそうな予感はある。そのときは何と答えたらいいだろうか。
休みが合わないから? といっても、食事をして話をする時間くらいならつくれないことはない。
他に好きな人ができた? それはない。もしそうならみつきに打ち明けている。彼女を傷つけないように、精一杯のいいわけを考えてから。
じゃあ、やっぱり嫌いになった?
さっきの電話。みつきは僕の気持ちを確かめたかったのかもしれない。
僕はベンチに座った。家までは歩いて二、三分の距離だが、ひんやりした夜風に吹かれながら心の中を整理したかった。まわりには誰もいない。いつもは夜になるとカップルが大勢いるのに、今日は僕一人きりだ。こんなにきれいな満月の夜だというのに。
携帯電話を取り出して、発信履歴を押した。みつきの電話番号が表示される。今まで何回この番号にかけたのだろう。会うことが少なくなってからも、電話だけは一日も欠かしたことがなかった。
十一ケタの数字、デジタル音声に変換された声。電話のみつきは、本当に彼女なのだろうか。
――バカバカしい。
そうだ。電話だろうが本物の声だろうが、みつきはみつきだ。
――ほんもののこえ?
言葉がアンテナとアンテナの間を飛んでいるうちに変化してしまう可能性はないのか。そんなことはあり得ないと証明した人間がいるのか。
言葉は感情がこもってこそ生きている。切り刻まれて、電波に分解されてしまえば、ただの音に過ぎない。死んだ言葉だ。そんなものが、大切な気持ちや心を伝えられるはずがない……
みつきは屈んで、足もとの砂を手の平ですくっていた。僕が声をかけると、こっちを見上げていつものように笑う。
「私の顔、覚えててくれたんだ」
「当たり前だろ」
皮肉のつもりか、と思ったけれど、彼女は本気で喜んでいるみたいだ。
「会えなかったのはほんの二ヶ月くらいだろ。忘れるわけないじゃないか」
みつきは立ち上がって、両手を僕の前に差し出した。
「この手が脳だとして、砂が記憶ね」
彼女は指を広げた。その隙間から砂が、幾筋もの滝のようにこぼれていく。
「どういう意味だ、みつき」
この砂が消えたら私はあなたを忘れるの、とでも言うつもりなのか。
みつきは何も答えなかった。そして、手の平から砂が無くなると、今度はみつきの指先がサラサラと崩れ始めた。指の次は手の平、それから手首。
「みつき!」
彼女は悲しそうな目で僕を見つめた。きっとそうだ。なのに僕には彼女が見えない。みつきの顔は、フォーカスポイントを探してブレているビデオカメラの映像のように落ちつきなくゆらめいていた。
「やっぱり、あなたには私が見えないんだ」
「そうじゃないよ」
見えないんじゃなくて、知らないんだ。僕はみつきが悲しい顔をしたのを見たことがなかった。だから思い出せない。僕の手には最初から砂が入ってなかったんだ。
みつきが崩れていく。やがてすっかり彼女の身体が消えてしまった後に、青白く光る球体が宙に浮いていた。そいつの中から聞き覚えのあるメロディが流れてきた。それと一緒に彼女の声。
(ねえ。あのさ……私のことが嫌いになったの?)
舌足らずのみつきの声だけがあとに残っていた。いや僕の心には、声だけのみつきしか存在していなかったのかもしれない。
(嫌イニナッタノ? 嫌イニナッタノ? ソレトモ…)
球の色が青からオレンジに変わっていった。あの満月と同じ色に。
(ハジメカラ愛シテイナカッタノ?)
僕はベッドから跳ね起きた。枕元の携帯電話が鳴っている。夢の中の音楽はその着信音だった。
窓から差し込んでいる月明かりをたよりに、通話キーを押した。
(あ、私だけど……)
みつきだった。
(夜遅くにごめんね。でも、どうしても聞いておきたいことがあって)
「なに?」
聞き返したが、彼女が何を言いたいのかは分かっていた。もはやそれは予感ではなく、僕の心の中ではっきりとした確信に変わっていた。
(あの……)
言葉が続かない。彼女の息が震えていた。
「愛してる」
(え?)
「正直言うと、今までずっと君に対する気持ちはあいまいだった。でも今ははっきり言える。愛している。だから、どこにも行かないでくれ」
喉の奥が塩辛い味がした。夢の中からずっと泣いていたのかもしれない。それは悲しみでも、寂しさでもなく、涙が出るくらい切実にみつきを思っていることの証だった。
(ありがとう。嬉しい……大丈夫だよ。いなくなったりしないよ)
みつきに会いたくて仕方なかった。幻でも偽物でもない本物の彼女に、ようやく恋をしたみたいだ。
久しぶりのデートで、僕とみつきはカフェでコーヒーを飲みながら、閉店まで語り明かした。お互いの家族や趣味のこと、彼女の新しい職場の悪口、などなど。自分の彼女なのに、みつきについて知らないことがたくさんあった。
「いきなり夜中に電話して来るんだもん、びっくりしたよ」
彼女に言わせると昨日の夜に電話をかけたのは僕の方らしい。みつきの携帯電話には僕からの着信記録が残っていた。妙なことに、僕の方にはそれがなかった。
僕が寝ぼけてみつきに電話したにしろ、あるいはその逆だったにしろ、どうでもいい。電話なんて会えないときの代用品で、本当に大切なものはみつきと一緒に過ごしているこの場所にあるのだから。
「ねえ」
みつきは僕の耳に、顔を寄せてきた。
「もう一度言って。昨日みたいに」
彼女が崩れてしまわないように手をしっかりと握って、僕はみつきにキスした。
「言葉で言うよりこっちの方がリアルだろ」
みつきは呆れ顔で僕を見てため息をついた。笑っていない彼女も可愛いなと思いながら、らしくない自分の行動に僕自身も驚いていた。
きっとこれも、窓越しにずっとこっちを見ている月の仕業に違いない。