黒い天使とガキ大将。
「ほら、あの……」
ウラを迎えて数ヶ月。
ウルバラはウラとピクニックに来ていたはずだった。
この台詞が耳に入る度、ウルバラは心がささくれていくのが分かる。
天人族は人間に比べれば悪意がない。しかし、悪意が全く無いわけではなく、こと魔族のことになれば悪意の固まりになるほどだ。
だから、魔族の色を持つウラがその対象になるのに、そう時間はかからなかった。
「ウラ、見てください。あなた前にこの景色が好きだと言っていたのを覚えていませんか?」
ウルバラは一般的な天人族の親がそうするように、ウラによく話しかけた。仕事中のウルバラには笑顔こそ見られないが、以前よりはるかに早く仕事を切り上げて帰るようになったし、ウラの食事は必ずウルバラが用意するようになっていた。
周囲はその行動を微笑ましく想う一方で、肝心の赤子であるウラが“いわく付き”であることに動揺を隠せないでいた。
「さあ、今日はここでご飯を食べましょう」
視線は相変わらず矢のように降り注ぐ。
職場でもどこでも、外に出れば誰もが注目した。
史上初と言っても過言ではない“魔の色を持つ天人族”――その噂は、あっという間に広まっていった。ましてやその親が七大天使に仕えるウルバラであるとわかれば、その噂が広まる速度も尋常ではない。
「ウルバラ様」
食事を始めた頃、女の声が後方から聞こえる。ウルバラが半ばうんざりしながら振り向けば、そこにはなんとなく見覚えのある顔があった。
前髪を切りそろえ、腰まで垂らした若い女。大きな目は可愛らしさを最大限に引き出すよう主張している。
「ごきげんよう。その子が最近国を賑わせている噂の子ですか?」
職場の上司にあたる天人族の娘だ。
以前にお見合いを薦められ、付き合いで何度か食事へ言ったことがある。しかし年齢が離れすぎていることもあり、ウルバラの方は全く興味を持てずに断ったのだ。だが相手はウルバラのことが諦めきれずにいた。
「ええ、まあ」
なんとかこの“知り合えた”という幸運にすがり、しかしみっともなくならないように加減をして周りを牽制していたというのに、その当人に“子ができた”というありがたくもなんともない噂が立ったのは、この女が「そろそろ次のステップに移ろう」と考えている時だった。
このまま行けば、上手くいくはずだったのだ。女の中では。
しかしそれがあっさりと、一人の子に――それも赤子に奪われてしまった。
「あら、可愛い。魔の色を宿していると聞いたからどんな子か気になっていたんですよ」
「そうですか」
「…………」
女は確かに嫉妬心を持ってウルバラに会いに来た。それでもこの時、女は赤子に会いに来てよかったと思ったのだ。
ウルバラが自分に全く興味が無いと分かったからだ。ウルバラは最初に誰が来たのかを確認した後、一度もウラから目を離さない。
そしてこのことに対して思ったよりも嫉妬はなかった。完全なる敗北を認めたからだ。この赤子に自分が勝てるわけもないと思った。
「……全く私のこと見てくれないんですね。少しは視線を合わせないと、相手に失礼ですよ」
「そうでしたか? それは……失礼しました」
「まさかその顔で赤ちゃんと接しているわけではないですよね? そんなことをしたら、笑わない子になってしまいますよ」
「え」
少し焦ったような表情になるウルバラ。それを見て女は酷く驚いた。
感情の起伏がほとんどないと噂されるウルバラを、たった一言で動揺させることに成功したのだ。「他の人に自慢してやろう」と内心で思いつつ、女はウルバラの隣に座ってもいいか確認した。
少しだけあけられたベンチの席。その横に遠慮がちに座ると、ウルバラはさらに女から隙間をあける。
「まあ、可愛い」
「そうでしょう?」
即答するウルバラに女は再度驚く。
「もしかしてこのお方は永遠を誓ったお相手ですか?」
そう言ってすぐ、女は自分が愚かな質問をしたのだと気づいた。ウルバラの表情が凍り、目元が引きつったからだ。
「……いえ、残念ながら……」
何か言い出せぬ秘密があるらしいと気づいた。しかし、女にはその返答と表情だけで十分だった。何も聞き出そうとは思わない。
ウルバラがどうしようもなくこの赤子に惚れているとわかったのだ。それだけでいい。そしてこれは、他の誰にも言わないほうがいいということも。何故そう思ったのか分からない。しかし、本能がそれを誰にも言わないほうがいいと言っている。
「……あの、何か困ったことがあれば声をかけてくださいね。私にはたくさんの弟も妹もいますから。女同士じゃないとわからないことや相談事が、今後絶対に出てくるでしょう?」
「ありがとうございます、そう言って頂けると助かります」
これはウルバラにとって非常に有難い申し出だった。“あの時”のようにウラを適当な者に任せる訳にはいかないからだ。どうせだったら少しでもウラに対して好意的な者に世話を任せる方がいいと思っていた。
しかし、応えるウルバラの表情は先程と同じく“無”である。だが女にはそれがどこか激情を押し隠しているような気がしてならない。
「……念の為に申し上げますけど、私“ハミルダ”です」
「……は?」
一瞬ウルバラの時が止まる。
そしてハミルダと名乗った女は、それを予測していたかのように苦笑した。
「ウルバラ様のことですから、きっと私の名前なんて忘れてしまったと思って」
図星であった。
ウルバラは苦笑しながらも礼を言う。そして自分がいかに周囲に無頓着であったか気づき、少しばかり反省する。
前はそれでも全く困らなかった。だが今はウラがいる。ウラが生きづらくならないように、少しは周囲に心を開くべきだと気づいたのだ。
「なんだか今日はウルバラ様の珍しい表情ばかりだわ。得したわね」
「どういうことですか?」
「ご存じですか? 何も噂になっているのはウラちゃんのことだけじゃないんですよ。赤ちゃんが来てから、ウルバラ様の表情が豊かになったって」
そう言って笑いながら去って行くハミルダを見ながら、ウルバラは少し気恥ずかしいものを感じると同時に、案外天界は“異質”に対して優しいところなのだと気づいたのだった。
+ + + + +
「ほら、カムナ。ご飯が口についたままですよ」
ウルバラがウラを迎え入れてから、早六年が経っていた。
ウラはウルバラが自分と二人きりの時だけ“カムナ”と自分を呼ぶことに気づいていたが、なんとなく理由を問いただせぬまま、六歳になり、学校へと通うようになっていた。
「取って」
「……全く。甘えん坊ですね、あなたは」
苦笑しながらも親指でウラの口元を拭う。
ウラはこれがしてほしくて、たまにわざとご飯をつけたままにしている。そしてそれはなんとなくウルバラにもわかっていた。
「さあ、そろそろ学校の時間だ」
「……うん」
一瞬表情が曇ったのにウルバラは気づいてた。そしてその原因も。
学校でコソコソと噂されているのだ。イジメはない。しかし、ウラの持つ色が噂を止めることができない。
「学校は嫌ですか?」
「……わかんない。仲良くしてくれる子もいるよ」
「ではその友達を大事になさい」
「うん」
曇った表情のウラを見るのが辛くなり、ウルバラはゆっくりウラを抱きしめる。
「カムナ」
「ん」
「愛していますよ、カムナ。たとえこの世の全てがあなたの敵になろうとも、私だけは誓ってあなたを裏切らないと約束します」
「……ありがとう」
ウラもウルバラをきつく抱き返す。そうするとウルバラはウラのこめかみにキスをして、名残惜しそうに立ち上がるのだ。
「さあ、そろそろ……遅刻しないように」
「うん、行ってきます」
とぼとぼと歩いて行くウラを玄関から見送ると、ウルバラは自分も遅刻しないように準備を始めるのだった。
「……可哀想に。私とあなただけの世界にいられたら、どれほど幸せか」
そうつぶやいたウルバラの目は、ただ濁っている。
+ + + + +
「おはよう」
ウラが教室に入ってそう言うと、一瞬静まり返ってぽつりぽつりと挨拶が返ってくる。
嫌われているわけではない。しかし、何か違和感を覚えるのには十分すぎる間。
のんびり歩いて自分の机のところまで行き、椅子を引いて座った瞬間、一人のクラスメイトがウラの元へ近づいてきた。
「ウラ」
呼び声に顔を上げれば、クラスのガキ大将的存在のクルタラであった。
悪い子ではないが勢いがあるため、彼のことを怖いと思っている子も多い。
「お前さ、なんで黒いんだよ。天人族の髪の毛の色は金か白か銀だろ? お前、なんで黒いんだ?」
クラスの空気が凍る。
面と向かってここまで言う者など、今まで一度もいなかった。
言われた本人もあまりにも率直なそれに、ただ口をぽかんと開けてクルタラを見上げるだけだった。
「何やったら黒くなるんだよ。それ、魔族の色だぞ」
「……あ、う、うん……そうだね」
困惑したようにウラがそう返せば、一瞬クルタラが驚愕の表情になり、そして一気に赤面していく。自分の失言に気づいたからだ。
「バカ! ちげーよ! お、俺は! ちょっと気になったから聞いただけだバカ!」
「え? う、うん……ん?」
その反応にウラは困惑する。
周囲も一体何が起こっているのかと静まり返ったまま二人の様子を伺っていた。
「お、お、お前が! お前が魔族だなんて俺は思ってねーし! 大人たちがなんかうるせーから! そ、そういう奴がいたら、俺が理由を説明してやろうと思っただけだ!」
「……うん? ありがとう……?」
「だってお前、絶対自分で説明しないだろ!! バカ!」
「……だって、意味無いじゃん。説明しても憶測は飛び交うし、心のなかで思ってることは事実を知っても変えられない時があるもの」
ボソっとそう言えば、今度はクルタラが困惑する番であった。
「おく、そく……? お前、そうやって難しい言葉ばかり使うのやめろよ。だから友達いねーんだよお前」
「えっ……」
「お前が子供らしくないのは、ウルバラが頭の中まで本で出来てるからだって父ちゃんが言ってたぞ。だから娘のお前もウルバラの知識バカがうつったって」
「そ、そう……だね……」
ウラにとって、この言葉は流石に少し傷ついた。
ウラも自分が周囲から浮いているのは知っていたのだ。でもそれは自らが持つ色が原因だと思っていた。
なのにこのガキ大将からしたら“子供らしくない”のが原因だというのだ。今まで無意識に生きてきたものだから、“子供らしい”というのがどんなものかわからなかった。
主な遊び相手といえばウルバラの周囲にいる大人たちなのだ。ウラに“子供らしい”というのがどんなものかなど、わかるはずもない。
ところが、この反応を見てクルタラは焦った。いつものように冷静に「そうなの?」と言われると思っていたからだ。それがどうだ。確実に傷ついた反応を返され、何か胸の奥がギュッと潰れそうなほど動揺した。
「……! ち、ちげーよ! そうじゃねーよバカ……! 何落ち込んでンだよ! べ、別にウルバラのこと悪く言ったわけじゃねーし! お、お、俺は、俺は……お前が心配――」
「ほらほら、朝からなに騒いでんだー」
やる気のない声。
全員がその声の方を振り向けば、クラス担任の教師が呆れたような表情で教室へ入ってくるところだった。
今にもため息を尽きそうな教師を見て、ことの成り行きを見守っていた生徒たちもパラパラと席につきだす。
「席つけ」
「でもっ……」
「でももヘチマもないの。いいから席つきなさい」
この教師の一言で、クルタラの方が泣きそうな表情をしたまま渋々と席へと戻っていくのだった。
ウラは知らない。クルタラがその日一日、何度もウラを物言いたげな目で見ていたことを。
教師は知っている。クルタラが明らかにウラに好意を寄せており、そしてそれをウルバラが知ればただでは済まないことを。
そして教師は、この“非常に面白いこと”を誰かに言いたくて仕方がなかった。