黒の天使。
「こちらですよ、ウルバラさん」
セフィロトの樹からは定期的に天人族が生まれる。死んだ魂がここで蘇るからだ。
天人族は体内に子を宿す臓器がないため、その代わりにセフィロトの樹が子を生む。例えば夫婦が永久の約束をした場合、片方が死んだ時に樹の根元へ埋めるとする。そうしたら、未来永劫、魂が蘇る度にその者たちは伴侶となることができる。
またその約束をしていなくとも、伴侶がいない者もいる者も、永久の約束をしていない子であれば自由に自らの子とすることができた。
そして育ったた子と伴侶になることも――
「あそこです。あの保育器で寝ている子が……わかりますか?」
「…………」
並べられたいくつもの保育器。ここはセフィロトの樹から生まれた赤子を保護する機関だ。ここに来た者は、不思議と“あの子が私の子である”とハッキリわかるのだ。
人数が少ないわけではない。数十人、多い時には百近くの赤子がここに連れてこられる。その時ですら、運命を共にする相手というのはハッキリとわかる。
そしてウルバラは、その保育器の中にいる赤子を見て小さく震えていた。
「あの子が……」
ウルバラは、天人族の色の中でただ一人、黒の色を宿した赤子を見つめた。
「あの子が……私の……」
その黒は待ちに待った色。
自らが命を摘み、血肉を喰らい、セフィロトの樹の根もとへ埋めた愛する者。
「なんて……なんて、小さいんだろう……」
会議の最中、ウルバラはただ激情を抑えるのに必死であった。
ようやくこの日が来たのだと、拳が白くなるまで握りしめ、なんとか自分の子にできるように立ちまわった。それはあからさまで、いつ“指摘”されるかと冷や汗が出たほどだ。
今まで自らが“嘘をついて”この地位を手に入れたということをただ隠し、周囲に演じ続けた。カムナを食べたなど言えるわけもない。言ったが最後、堕天人として地に墜とされ、二度とカムナとは会えなくなるからだ。
禁忌、そして嘘。だがそれを犯してでも、ウルバラはあの時カムナを食べずにはいられなかった。
それも全ては――全ては、この日のため。
「やっと会えた……」
愛する“カムナ”を手に入れるための土台を、もうずっとと作り上げてきた。虎視眈々とその機会を待ち、周囲を全て操作できるように立ちまわってきた。
そして今、ようやくそれが実ろうとしている。
「みなさん、そうなるんですよ。初めてお子さんをお迎えになる時には」
職員にそう言われ、ウルバラはようやく自分が抑えきれないほど震えて泣いているのに気づいた。
「さあ、早く抱いてあげて下さいな」
部屋の中へと促され、力が入らずふらつきながらも、ようやく保育器の前へたどり着く。
「ああ……本当になんて小さい……」
漏らした声はため息のようであった。
「私の、愛する――」
その目から零れた涙が、赤子の頬を濡らす。
「お子様のお名前はお決まりですか?」
「――ええ、“ウラ”と」
一瞬言葉に詰まった後、ウルバラは全ての天人族がそうするように、親の名の最初と最後の名をもじった。“初めから終わりまで愛を注ぐ”という意味を込めて。
伴侶がいる者は合計で四文字になるが、ウルバラの場合は伴侶がいないため、自らの名のみからとって二文字の名前になる。
これは極々一般的な愛情を注がれ、誕生を待ち望まれた子の名付け方であった。そして子が増える度に“二世”“三世”と名前の後につくのだ。紛らわしいので家族や親しい者の間では愛称で呼ばれることが多い。
「ウラちゃん……ですね。はい、書類ができましたよ。提出はこちらで承りますので、ウルバラさんは本日このままお帰り下さい」
保育器から出され、赤子を差し出される。
しかし、ウルバラはどう抱けばいいのかわからなかった。
「…………」
「……?」
いつまでも受け取ろうとしないウルバラを見て、職員は不思議そうな表情を浮かべる。
そしてその表情が無表情でありながら強張っているような気がして、職員は「もしや」とアタリをつけた。
「こう、ですよ」
優しくその手を取り、ウルバラに赤子を抱かせる。
困惑しながらも赤子を受け取ったウルバラは、恐る恐るその手に力を込めた。
「もう少し力を込めたって、ウラちゃんは潰れたりしませんよ。落としたら怖いので、むしろもう少し力を込めて下さい」
言われたとおりにウルバラが抱けば、ウラと名付けられた赤子はウルバラの服をつかむ。小さな手で、しっかりと掴まれた服。自分が守ってやらねばすぐにでも死んでしまいそうなそれに、ウルバラはなんとも言えない支配欲と恍惚を感じた。
「それでは良い生活を」
そう言って見送る職員の方など見もせずに、ウルバラはただ腕の中のウラだけを見つめて施設を後にした。
+ + + + +
「ねぇ、カムナ。便宜上、あなたには“ウラ”と名づけましたが、誰もいないところではあなたを“カムナ”と呼びたいのです」
住み慣れた家に帰り、玄関の扉を締めた瞬間、ウルバラはウラの首筋に鼻を埋めてその匂いを堪能する。陽の光のような、雫をたたえた木々のような、温かい匂い。
懐かしいような匂いに、ウルバラの体が痺れていく。
「……本当は“カムナ”と名付けたかったのですが……そうもいきませんからね」
ウラは辺りを物珍しそうに見回しており、ウルバラの方などチラリとも見ない。
「カムナ」
しばらくウラを見つめると、ウルバラは小さく溜息をついて落胆した表情を浮かべた。
「――やはり、あの時のように話したりはしないのですね。あの時のあなたは特別だったのでしょう」
ウルバラは少しだけ期待していた。
もしかしたら、セフィロトの樹に吸収されても自分のことを覚えていてくれるのではないかと。あの時のように、赤子でありながら大人のように話すことができるのではないかと。
「……カムナ」
しかし、それはかなわぬ夢であった。
「カムナ……私のカムナ……あなたが私の元へ戻ってきて下さっただけで、私は至極幸せですよ。これ以上のことは望んではいけないんだ――」
ウルバラはもう一度ウラの匂いを大きく吸い込むと、気持ちを切り替えるように前を向いた。
「さあ、カムナ。あなたの部屋はあの時のままですよ。案内しましょう」
部屋は“あの頃”から何も変わっていない。ウラがまだカムナだった頃に与えていた部屋は、全く移動せずそのままだ。ホコリを払ってシーツを洗う他は、何一つ移動させていない。カムナが落書きしたチラシも、出しっぱなしの鉛筆も全て。
「おや、少しベッドが大きすぎたようだ。まあいいでしょう。子供はすぐに大きくなる」
ウラを寝かせてみればあまりにも大きさが違うことに笑いがこみ上げる。抑えることのできない幸福感に、ウルバラの口角は自然と上がっていた。
そして何よりウルバラを幸せにさせたのは、ウラがウルバラの服を握って離さないことだ。手を開かせようとすればその手を握り、結構な力で握りしめてくる。
「そうやって……まるで離してほしくないと言わんばかりではないですか。私の都合のよい解釈だとはわかっていますが……でも、これは思ったよりも良い」
さらに笑みを濃くしてベッドの横へ跪く。
ウラはウルバラを見ない。ただ、天井に描かれた星空に目を奪われている。
「でも、カムナ……どうしてあなたは私のことを忘れてしまったのでしょうね。先ほどから、全く私の方を見てくれない」
急激にウルバラの表情がなくなっていく。
「…………」
突如言いようのない感情がウルバラの中を支配していき、その抑えきれない“何か”で身震いした。ウルバラ本人にすらそれがどういった類の感情なのか判別がつかづ、しかしそれは非常に甘美で魅惑的で、どうしようもない激情でもってウルバラを支配していく。
息は荒くなり、ウラの喉元に喰らいつきたくなるような――そこまで考え、ウルバラはハッキリと自分がおかしくなっていると自覚した。
「……ああ、私は……あなたを――」
シーツを力いっぱい握りしめる。
手が白くなり、自分の意志とは関係なく震える。
「――あなたが、好きなんです……愛しているんです……カムナ……」
その目から涙がこぼれ落ちていく。
「でも……どうしたらいいかわからないんです……」
そう言って、ベッドに顔を伏せる。
同僚が見たら間違いなく言葉を失う姿であった。何事にも動じないような鋭い表情をしているウルバラ。それが、たった一人の赤子の前ではこうも弱くなる。
自分には恐れるものなどなかったはずだと思っていたのに、“あの時”から、ウルバラはカムナを永遠に失うことが怖くて怖くてたまらなかった。だから今こうしてウラがウルバラの物となったのは悲願であったはずだった。
だというのに、ウラを手に入れた今、自分の心が全く満たされていないのを感じている。
それは――
「……カムナ、どうか私にあなたを殺させないで下さい」
目の前の赤子が、カムナであってカムナではないと気づいてしまったから――……
「あなたは、ウラではなく、カムナなんだ」
再び上げたウルバラの顔は、涙に濡れて目元も鼻も赤くなっていた。
「もう二度とあなたを殺したくないんです」
ウラはウルバラを見ない。
ただ天井を眺め、その小さな手で何かをつかもうともがくだけであった。