愛の形。
「おい、待て……! どうやってここを出――」
一瞬にして、兵士はウルバラに気絶させられた。何が起こったかなど、兵士は気づかなかっただろう。そもそも自分が気絶したことすら気づいていない。
「…………」
魔族のような形相で、戦場に降り立った時より恐ろしい氣を放ち、ウルバラが静かに歩いて行く。
「おお、怖っ」
それを見送ったセミセミは、腰を抜かしたまま引きつった笑みを浮かべてウルバラを見送った。
たった一言だ。
たった一言、セミセミは体を指差してこう言った。
「これ、クルタラ。俺の生徒でウラちゃんのクラスメイトです。ウラちゃんに骨抜きにされてまして、なんとかお近づきになろうと必死にアピールしてますよ。そのうち、同年代ってことでほだされるんじゃないですか? だってこの間なんか仲良く手を繋いで下校してましたし。もう先輩がいなくても大丈夫ですね、ウラちゃんは」
この一言で、無表情になったウルバラは一瞬にして頑丈であるはずの鉄の扉を叩き折り、のっそりと部屋を出て冷笑した。
どこに行くのかと聞けば、ただニヤリと笑ってウルバラは去って行った。
「さあて……あとはあなた次第ですよ、ウルバラ先輩。できればあなたの隣で再び共に戦いたかったけど――もう、無理そうだ……」
そう言い終わった直後、セミセミの魂は溶けて消えた。クルタラはくたりと地面に倒れこみ、動かなくなった。
+ + + + +
「私、あなたと一緒にいたくない」
ハムナは余裕の笑みを浮かべていたはずだった。全てが思い通りに進んでいるはずだった。
しかし、どうだ。
目の前にいる少女は、ハムナの提案に乗らない。
「なんだって?」
「一緒にいたくないって言った」
「…………」
ハムナは冷静に「前にも同じような気持ちになったことがあるな」と考えていた。しかしそれがいつなのか思い出すことができない。
だがそれは非常に不快で、内臓が潰れそうな感覚に陥る。
一方でカムナは、「一緒にいたくない」と言ってストンと何かが落ちたような気がした。
前世。まだ自分が“カムナ”であったころ、あの時の全ての出来事は夢だと思って生きていた。最後の最後までそうだと思っていた。だから気づかないようにしたのだ。ウルバラに抱き始めた“気持ち”に。
だからこそ、自分は死の間際まで穏やかな気持でいられた。
しかしどうだ。今それが“現実”であったと知ってしまった。
そうするともう、カムナにはあの時、そして今自分が抱えている思いが何なのか「わからない」などとは言えるはずもなかった。
「……お前、俺に呪をかけたのか?」
「……は?」
「違うよなあ。なんだ……? なんだ、この、変な……」
スッと自分の頬を伝う何か。それに気づき、ハムナが手を伸ばす。それと同時にカムナの表情が驚きに満ちているのを見て、手についたのが何かを確認する余裕がなくなった。
「なんだよ、その顔」
「…………」
「なんだって言って――」
「泣かないでよ」
「…………」
何を言われたのか、わからなかった。
「……泣く?」
手を伸ばしたカムナが、ハムナの頬を撫でる。
「涙か」
「あなたも泣くんだ」
「俺が泣いたのか」
「なんで不思議そうなの?」
ハムナは動揺していた。今抱えている感情がなんなのかさっぱりわからない。でも、目から出る涙は止まることを知らず、鼻も喉もツンとして、感じたことのない、叫びだしたくなるような不愉快な気持ち。
「なんだこれ」
「……もしかして知らないの?」
「何をだよ」
「それ“悲しい”って言うんだよ」
その言葉に、ハムナは心底驚いた。
「悲しい? 俺が?」
ではカムナが死んだ時に感じたのも“悲しい”という感情だったのかと驚く。しかし、何故そう思ったのかハムナには理解できない。
「俺はただ、お前が手に入らないのが嫌なだけだ。悲しい? なんでだよ。腹立たしいならわかるけど、なんで悲しいんだよ」
「だってそうとしか言いようが無い表情してる」
ハムナには理解できなかった。悲しいという感情など感じたことがないからだ。
今まで全てのことは思い通りになったし、大事にしていた元妻を殺した時ですらこんな気持にはならなかった。あの時はただ、カムナを殺そうとした悪い女を排除した清々しさでいっぱいだったのだ。
たった一人の赤子のかたきを討つために、大事にしていた妻を殺した。よく考えれば何故そんなことをしたのかも思いつかない。
でも、カムナが死ぬと思った瞬間、言いようもないモヤモヤとした気持ちに襲われたのだ。それはカムナが本当に死んでしまったと知った時と同じ気持で――
そこまで考えて、ハムナはようやく理解した。
「……なるほど、これが悲しいってことか。つれぇな」
ポツリと言った声は、魔王と思えないほど弱々しく、ハミルダは別の意味で、一歩も動けなかった。
そこにいるのは、娘に拒絶されて傷ついた父親。
本物の父はウルバラであると思っていたのに、ハミルダはそうとしか思えなかった。それに、今までの情報をかき集めれば、この“魔王”が“カムナの父親”であることは疑いようがなかった。
気になったのは“元妻”という部分。文献によれば、元妻というのはハムナが殺したはずだ。その理由を知る者はいない。そしてハムナはハミルダこそがそれだと言う。
であれば、自分がカムナに向けた謎の愛情はそれが原因だったのかと寒気がする。
「…………」
吐きそうになった。自分の前世が、魔族かもしれない。
心の何処かで“ウル”を嘲っていながら、自分自身も同じ存在であったのかと思うと全身をかきむしりそうな程だ。段々と、自分の意識が遠のいていく気がした――
「…………」
静まり返った室内。
その沈黙を破ったのは、ハムナだった。
「なあ、カムナ。お前、俺と来ないなら俺を殺せ」
しかし、相変わらず沈黙は続く。
「お前が来ないなら意味はねぇんだよ。でも俺はお前に無理強いしたくねぇらしい」
「……どう、いう……」
「わからねぇよ、そんなの。でもそうしたくないって思っちまうんだから仕方ねぇだろ」
不機嫌そうにそう言うハムナに、カムナの顔が引きつる。
「ほら」
カムナに無理やりもたせたナイフ。
それはハムナの胸につきつけられ、力を込めれば苦もなくさせる。天人族が束になっても滅するのが難しいというのに、今、ハムナは恐ろしく簡単に殺せる位置にいる。
「ちょっと力込めるだけだろう? 」
「なんで、私が……」
「そうして欲しいんだ。俺は他の誰でもねぇ、お前に殺されたい。そうして、一生お前の脳に刻まれるんだ」
耳元に寄せた唇。
それがとんでもない提案をする。
「最高だろう? 娘の手で父親が殺される。これほど愛情深いことがあるか?」
「私はそんなの愛情深いだなんて思わない」
「どうしてだよ」
心底不思議そうにするハムナに、カムナは悟った。
ウルバラも、ハムナも、愛に飢えているのだと。そしてそれは底抜けで、病的で、どうしようもないくらい猟奇的だと。
「俺はお前が誰かに殺されるくらいなら食いたい。そういう意味で言うなら、俺はあの天人族のやったことは間違いじゃねぇと思うぜ」
「それはどうも。まさか魔族に理解されるとは思いもしませんでした」
ボンと、ハムナの首が飛ぶ。
「ですが、私とあなたの決定的な違いは、カムナの愛情が向いているかいないかです」
血しぶきを浴び、カムナは真っ赤に染まってく。
現れた男は感情の乗っていない視線をハムナに向けていたというのに、カムナと視線が絡んだ瞬間、蕩けそうなほど甘い空気を出す。
「大丈夫ですか、カムナ」
「……ウルバラ?」
なぜここにいるのか。
どうして殺したのか。
言いたいこと、聞きたいことは山ほどあった。
「ああ、汚れてしまいましたね。申し訳ありません。カッとなってしまいました」
抱きしめて、自らの服で拭う。
次から次に溢れてくる涙。カムナは引きつる顔を隠すこともなく、ただ黙ってウルバラを見上げる。
「ウルバラ」
「…………」
ウルバラは答えない。
カムナが記憶を取り戻したことには気づいていた。
しかし、なんと答えていいのかわからなかった。
自身を持って「自分は愛されているのだ」と言ったものの、本当は微塵も自信などなかった。何故なら、カムナが死の間際まで「これは夢だ」と思い込んでいたからだ。
“夢の登場人物”に恋をする者などいない。ましてやついさっきまで、自分たちは親と子だったのだ。
この世界では血縁関係なく婚姻関係になることは当たり前であるが、カムナのことを見ていると「カムナが住んでいた世界では当たり前ではないのかもしれない」と思わざるをえなかった。
だから、心配なのだ。
本当に自分が愛されているのかが。
「ねぇ、ウルバラ」
「……なんですか」
「忘れててごめん」
「…………」
震える声で言われ、心臓が掴まれたような感覚におちいる。
「夢だなんて言って、ごめん」
「カムナ」
「私を殺させて――ごめんなさい」
ウルバラの、カムナを抱く力が強くなる。
「ごめんなさい……」
「カムナ……あなたは、本当に酷いことをする……」
気づいてしまえば、自分がどれほどウルバラにとって酷いことをしていたのかがわかる。それが善か悪かで言えばどちらでもなく、そしてカムナはどうしようもなかったため、仕方がないと言えば仕方がない。
ウルバラが狂ってしまったのも、ハムナが狂ってしまったのも、全ては自分が原因。そう思うと、なんとも言いがたい気持ちになってしまったのだ。
どうしたらいいのかと途方に暮れ、なんと言っていいのかわからず言葉に詰まる。
「ねぇ、聞かせて下さい。あなたの心は……どこにあるのですか?」
そう問われ、即答できない。
答えなどもうあるというのに、それを口にだすことが正しいのかどうか判断がつかない。
「そうやって……奪ったのね、あの時も」
ぽつりと、声が上がった。
ハミルダだ。
「あの人が……ワたしを……殺ジた時……あノ時ガら……お前は……」
片目を押さえ、肩で息をし、鼻から血を流している。
「ハミルダ……さん?」
ブチブチと髪の毛を抜き、苦しそうにえづく。
「ハミルダさ――」
「行ってはいけません」
感情の乗らない声。驚いてウルバラの方を見れば、ハムナに向けるのと同じ視線をしていた。
「なに、どういうこと……?」
「恐らく、ハムナの魔力放出で前世の記憶が蘇ってしまったのでしょう。しかしこうなっては……」
「良くないの……?」
「魂が壊れかかっています。このままでは、中途半端なまま脳と魂が壊れるだけだ。互いに侵食しあっている」
「そんな……!」
ふと、ウルバラが“気配”に気づいた。
そして瞬時にカムナの目を塞ぐ。
「えっ、何」
その声と同時に、一人の天人族が現れてハミルダの頭部を鎚で潰した。
巨大な音にカムナの肩が跳ねる。
天上から飛び込んできたせいで、木片やら石がパラパラと降り注ぐ。
「ありゃ? ウルバラ先輩じゃないっスか。捕まってたんじゃないんで?」
「抜けだして取引をした。魔王を殺す代わりに、一時的に牢から出せと」
「ええ~? また無茶な……どうせ取引って言っても、牢屋抜けだして直接七大天人族のとこ行ったんでしょ?」
軽い話し口調に、目を塞がれたままのカムナが混乱する。
「…………」
「うわ、だんまりだ。その都合がわるい時に黙るクセ、やめてもらえます? つか、ありえねぇ~。マジで抜け出したのかよ」
「なにっ……誰がいるの、ウルバラ」
「おんや~? そのお嬢さんは? 魔族に最も近い天人族じゃないっスか。ウルバラ先輩のことを呼び捨てにするたあ、肝の座ったお嬢さんだ」
「黙れ、それ以上彼女について話せばその口から手を突っ込んでバラすぞ」
「げぇ! それ後輩に向かって言うセリフじゃねぇ!」
目を塞がれたカムナにもわかった。
ウルバラが新たな登場人物に対して苛ついているということが。
「うわっ! まただんまり! マジかよクッソ~! まあ、俺の任務は完了したっス。先輩は魔王楽したンなら、早いとこ牢に戻んないとっスね。ほいじゃー」
それだけ言うと、天人族はハミルダの遺体を抱えて部屋を飛び出していった。
「……ウルバラ? どういう……あの、えっと……また――」
「カムナ」
「また、私を置いていくの……?」
「……カムナ、あなたがそれを言いますか……」
疲れたようにそう言い、ウルバラはカムナの目から手を外した。
眩しさに一瞬顔をしかめたカムナは、ウルバラが今にも泣きそうなのを見て目を見開く。
「ねぇ、カムナ……私はあなたが……あなたが、愛おしくてしかたがないんです。あなたが私を忘れてしまった時、怒りであなたを殺すところでした」
「…………」
「でもね、カムナ。あなたの成長を側で見守る時、私は言いようのない幸福感に満ち溢れていた。そのまま死んでも後悔しないとすら思った」
「……ウルバラ」
「黙って。聞いて下さい、カムナ」
ウルバラはカムナを抱き寄せる。
その手は潰してしまうのを恐れて、大きく震えていた。
「幸福だったのに、怖かったんです。だから、私は――あなたを置いて死のうとした。それでいいんだと……でも、私はあなたを失った時に感じた気持ちを、あなたに味わわせるところだったと気づいたんです」
「…………」
ポロリと、カムナの目から涙が溢れる。
「セミセミが死んだのはご存じですか」
ビクリと震えるカムナに、ウルバラはそれが初耳であったかと気づく。
「あれが、最後にあなたのことを伝えにきました。あなたのことを好きな子がいるんだって。当たり前ですが、それを考えないようにしていた私はショックでした。だって、私が死んだって、あなたを支える者がいるということですから」
「そんなことない……!」
反射的にそう叫べば、ウルバラは泣きそうな笑みを浮かべながら声を上げて笑った。
「悔しかったんです。あなたが他の男を見るかもしれないと思った時、どうしてあなたを置いて死ねるのかと思いました。あなたは、私がいないと生きていけないほど私に溺れればいいんだ」
「ウルバラ……?」
「私がいないと何もできないほど、あなたは私に溺れたらいい」
抱きしめる力が強くなり、カムナの息が詰まる。
「私があなたの面倒を見て差し上げますよ。指一本、髪の毛の一筋まで――ね」
大きなため息。
それは、全てを諦めたため息なのか、それとも幸せからくるものなのか、カムナにはとうとうわからなかった。