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焉日 ―えんにち―

作者: 結城 蓮

 「それで君は満足か。」

出来るだけ渇いた冷たい声で、私はそう云った。こんなことを言いたかったのではない。そんなつもりでここに来たのではない。私は、ただ彼が愛おしかった。一緒に居たいと、そう思った。私の口を衝いて出たのは、しかし拒絶の言葉だった。

 「なら、もうやめにしよう。こんな関係を続ける意味もない。」

抑えようとしても、やはり声は震えた。この喧騒の中で、彼に聞こえたかはわからない。つ、と、右頬が濡れるのを感じた。私は、泣いているのだろうか。次々と夜空に打ち上げられた花火は、闇を美しく彩っている。


 不意に彼は私に手を伸ばし――、




 電話が鳴る。なにか黒くて不気味なものが、僕を覆っていた。それは前々から少しずつ成長して、もう耐えきれないところまで大きくなっていた。僕は憂鬱だった。少し前に、仕事で大きな失敗をしたことも、同僚とは馬が合わず、上司との関係が芳しくないことも、先日から風邪をこじらせてしまってひどい頭痛がすることも、まったく問題ではなかった。ただどうしようもなく憂鬱であることが、唯一の問題だった。

 花火が見たい、と電話口で彼女が言った。そういえばちょうど今日あたり、それなりの規模の花火大会があるはずだといって、せっかくだから一緒に行こうということになった。場所と時間の約束をして、それから電話を切った。やはり気分は晴れず、どうにも暗い気持ちでいた。適当な服に着替えて、部屋を後にした。

 寂れた無人駅で彼女と待ち合わせて、ちょうどいい場所を探しながら歩いた。カラコロと下駄の音がする。彼女は赤地に白い刺繍のある浴衣を着ていた。腰まで届くかという長い黒髪を、今日はすっかり上げて結わえてあって、紅い簪が印象的だった。ふたりの間に会話らしい会話はなかったが、横を歩く彼女を素直に可愛らしいと思った。歩く影が伸びる。日が暮れ始めていた。


 河原に着くと、ちょっとした祭りのような雰囲気だった。屋台に灯る橙の光、祭り特有の喧騒は、いつかの夏を彷彿させた。あの頃はよかった。毎日が楽しくて、未来への希望に満ち満ちていた。たしか彼女と知り合ったのも、その頃のことだったように思う。毎日のように彼女と会った。彼女と見る風景はいつもよりずっと綺麗だったし、彼女と一緒の食事は心躍り、その後に彼女と飲むワインは格別だった。ただそこに彼女がいるだけで、僕は幸せを感じていた。

 しかし何時からか、あるいは初めからだったのかも知れないが、僕には彼女の考えていることがわからなかった。平生から多くを語らない彼女を知る手段が、僕には乏しかった。わかろうとする努力は、ずっとしてきたつもりだった。それなのに、気づくと彼女は僕にとって「わからないなにか」になっていて、そしてそれはひどく恐ろしいものだった。


 並ぶ屋台は人で賑わっている。どん、と空気の割れる音がして、しかし空は昏いままだった。なにかおかしい。花火大会にしては、今日は花火がひとつも見られない。ただ草の匂いと、微かに火薬の匂いがして、これは夏の匂いだと思った。

 僕たちは何をするわけでもなく、ただぼうっとしていた。河原にはたくさんの人がいた。家族連れもあれば、若者の集団などもあったが、カップルの予想以上に多いことに驚いた。誰もかれも楽しそうな表情をしていて、自分たちはどうだろうかと疑問に思う。そこにきて不意に、自信がなくなった。もとより人並みほどもなかった自信だが、とにかく自分が信用ならなくなった。だのに彼女は何故か僕の隣にいてくれる。それが嬉しくて、悲しくて、なにより申し訳なかった。まず謝らなくては、気が済まないと思った。

 「***。」

彼女の名前を呼んだ。けれど目が合ったら何を言っていいかわからなくなって、僕の口は意識を投げ出して動き始めた。

 「僕は、僕という人間に失望しているんだ。でもそれが絶望でないうちは、僕は頑張りたい。それでも僕は、きっと君を傷つけてしまうだろうから、君に幸せを与えることなんてできないだろうから、どうかどうか、僕を捨て置いてほしい。僕の事など放っておいて、君は君の幸せを探してほしい。それが僕から君への、たったひとつの願いだ。」

 箍が外れたように捲くし立てていた。僕は何を言っているのか。自分に憤りを感じた。

さらに悪いことに、一番云いたかった一言を、それでも伝えられずにいる。


 どん、と空気の割れる音がして、やはり空は昏いままだった。

 その時、彼女が何か言った気がした。辺りは異様に静かで、しかし彼女が何を言っているのかは上手く聴き取れなかった。相変わらず花火は上がらなかった。どうにも昏くて、彼女の顔がよく視えない。彼女が、すうっと闇に溶けていく。それが未練かはわからない。ただ、彼女にはもう二度と会えなくなるような気がした。

 それで僕は、消えそうな彼女に手を伸ばし――、




 ――そうして触れた彼の/彼女の指先は、ひどく冷たかった。

 ある晴れた日の夜、何もない静かな河原で、ひとつの恋が終わった。


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