王の妹
アルタリア王国は、周囲を険しく切り立った山々に囲まれた盆地に位置する、緑豊かな国である。
国内の主産業は農牧で、山場や岩場を除いた国土の八割近くを農耕地と牧畜用の草地が占めている。特産物は家畜の毛を縒り合わせた糸で織り上げた毛織物で、特に敷物として使用される毛足の長い織物は、諸外国の商人が険しい山を越えてまで買い付けに来るほどの価値があると言われていた。
現在アルタリア王国を統べているのは、第八代国王アルトゥス・ゲイザー・アルタリアである。三十代後半に差し掛かった壮年の国王アルトゥスは、若い頃から鍛え上げた肉体と精悍な顔を持つ美丈夫であった。その見かけとは裏腹なほど温厚な人柄は、国民からの絶大なる支持を集めている。しかし外敵に対しては非情なほどに冷酷な一面を持ち、抜きん出た統率力と指導力を発揮する、生まれながらの君主であった。
そのアルトゥスは今、国王の公室でも私室でもなく、王宮の西側に造られた庭園の中央に位置する東屋にいる。そばには護衛の姿は見当たらず、唯一、長身の士官を供に従えているのみである。
外での会話は危険ではないかと進言する者もいたが、東屋の周辺には人が隠れ得るほどの木々も物影も存在せず、少なくとも聞き耳を立てられたり盗聴されるなどといった可能性は限りなく低い。万一暗殺などを企てる者がいたとしても、王国軍の中でその名を知らぬ者はいないだろうと言われているクリストが、それを許すはずがないのだ。アルトゥス王のその主張には一理も二理もあり、誰も異を唱える事ができなかった。
主君である王の前に跪いて敬意を表すクリストに、王は軽く手を振って
「畏まらなくていい。楽しにろ」
と言い、すぐには話を切り出さず、両手を大きく伸ばして体の筋肉を解している。空を見上げると、数羽の鳥が甲高い鳴き声を上げて横切っていた。
いつもと同じ、長閑なアルタリアの一日である。
「それで、どうだった」
クリストに椅子を勧め、王は単刀直入にそう訊ねた。
「はっ。ご息災にあらせられると陛下にお伝えするよう、言いつかりました」
王が着席するのを見ていたクリストは、立ち上がりこそしたものの、椅子には近付かずに起立したまま報告をする。
「そうか。さすがのお前も、わたしの遣いだとあれに見抜かれたか」
アルトゥス王が笑い声を上げるのを見て、クリストは驚きを隠せなかった。アルトゥス王は厳格というわけではないが、公の場ではないとはいえ人前でこれほど楽しげに笑う様を見た事がなかったのだ。
「申し訳ありません」
「いや、あれが相手では無理もない。気にするな」
気にするなと言われて気にしない者などいない。相手が主君であり一国の王であればこそ、尚更である。姿勢を正して、クリストが深々と頭を下げた。
「あれは特別なのだよ。たとえゼファードでも、あれには敵うまい」
上司である王国軍総隊長ゼファードの名を引き合いに出され、ようやくクリストが頭を上げる。
「陛下。お尋ねしたい事があるのですが、お許しいただけますか」
胸の裡にわだかまっていた疑問を、相手が相手だけに問う事もできずに抱えたままでいた。許しが得られるのであれば、答えが欲しい。それが無理ならば、せめて真実の一端だけでも手に入れられれば。そう思い、クリストは意を決して王に訊ねる事にしたのだ。
「かまわん。申してみよ」
「恐れながら、かの魔女からのご伝言ですが。兄さまに伝えて、と言伝られました。魔女と呼ばれているあの女性はもしや、陛下の」
その言葉を聞き、アルトゥス王が大きく嘆息した。首を左右に曲げて関節をこきこきと鳴らす。
「最近、肩が凝ってな」
などと言いながら、両肩を回したり腰を捻ったりと、その場で柔軟体操を始めてしまった。
王の態度の解釈に困ったクリストは、どうしたものかと見守りつつ、頭を掻く。
「わたしの父が、多くの妃を持っていた事を、知っているな」
足を大きく横に伸ばしながら、アルトゥス王が不意に口を開いた。
「確か、お妃さまが五人いらっしゃったのではないかと記憶しております」
「奥方だけでも五人もいた、と言った方が正しいのだがな。五人目の奥方が生んだ子供が、あれなのだよ」
柔軟体操をやめたアルトゥス王は、ここではない遙か彼方に視線を漂わせ、大きく息を吐いた。
アルトゥス王の父であるマルクトゥ王は、勇敢な戦士としてその名を歴史に残すほどの豪傑であった。しかしその反面、女癖の悪さと多情さには定評があり、側近たちに眉を顰めさせてもいたのだ。
貴族階級の令嬢たちはもちろんの事、比較的身分の軽い女性を対象とした一夜限りの愛人に至ってはどれほどの数になるのか、王本人も把握しきれていなかったのではないかと言われている。正式に妃として迎えたのは、自国の公爵家から迎えた正妃と近隣の国から迎えた王女が一人に、国内の有力諸侯の姫君二人。そして最後に迎えた五人目の妃は、郊外にある自治区の有力者の娘であるトリスティアであった。
貴族階級と比べるまでもなく身分などなきに等しいトリスティアであったが、彼女は神秘の力を持つと言われていた。癒しの力を持っているというその噂に興味を持ったマルクトゥ王自らその街に出向き、ひと目で心を奪われ、攫うようにして王宮に連れ帰ったという。
口さがない者たちの間では、神秘などではなく妖術ではないのか、王は奇妙な術に操られているのではないか、などと陰口が叩かれる事もあった。しかし肝心のマルクトゥ王自身が、そのような風評に一切耳を貸さなかった。まるで他の妃などいないが如くの寵を傾け、ほどなくトリスティアがその胎内に王の子を身籠った事は、誰の目から見ても当然と思われたほどだったのだ。
トリスティアは、妃たちをはじめその背後にいる貴族など多方面からの嫉妬と羨望を、そのか細い一身に受ける事になった。皮肉にも癒しの力とも言われるほどに人の感情の機微に過敏だった事が災いとなって、日ごとに心労が重なっていった。人の邪心はトリスティアの心と体を蝕み、予定日よりも一ヶ月あまり早い時期に赤子を産み落としたトリスティアは、床から離れる事も我が子をその腕に抱く事さえも叶わぬまま、この世を去ってしまったのだ。
マルクトゥ王の深い悲しみは、しかしトリスティアに生き写しとも言えるほどに良く似た娘の存在に慰められた。公私かかわらず常に側近くに置き戦場にまで連れて行くという溺愛ぶりで、年嵩の重鎮からの諌言にも耳を貸さない有様だった。かつて賢王と謳われたマルクトゥ王のあまりの変貌ぶりに、眉を顰め陰口を叩く者も少なくはなかったらしい。
マルクトゥ王の後継者として王の信任を得ていた、当時王太子だったアルトゥスただ一人が、年の離れた幼い妹姫の身柄を任せられる存在であった。
マルクトゥ王が突然の病に斃れた際にも末姫の将来を託されたアルトゥスであったが、王としての確固たる基盤もなかった当時の事。王の逝去にこれ幸いと表立って末姫を排除しようと動き始めた王侯貴族からその身を護るためには、彼らの手が届かない遠方即ち辺境に送り出す事しかできなかったのである。
まだ幼かった妹姫はしかし泣き事一つ言わずに、アルトゥス王に笑顔さえ向けて旅立って行った。その儚くも穏やかな笑顔は、今も王の瞼裏に鮮やかに焼き付いている。
虚空に視線を向けたアルトゥス王の昔語りに、しかしクリストは純粋な疑問を抱いた。
「大変失礼な質問をさせていただいても、よろしいでしょうか」
その言葉に、アルトゥス王がその双眸をクリストに戻す。王がゆっくりと肯首したのを確認して、クリストは大きく息を吸い込んだ。
「その当時、姫君はおいくつだったのでしょうか」
マルクトゥ王の逝去に伴ってアルトゥス王が王位を継承したのは、今から六年前の事である。クリストが先日会ったばかりの魔女と呼ばれる姫君は、まだ幼い少女の姿をしていた。恐らく年の頃は、せいぜい十二、三といったところだろう。辺境に旅立った時にはほんの六、七歳という事になり、村の青年に懸想されたのもその頃という事になる。
まさか件の青年が幼女相手に本気で恋愛感情を抱き、婚約者を裏切るような真似をしたとは、クリストには考えられなかった。
「十四、だったな。幼いながらも、トリスティア妃譲りの花のような美しさだった」
「十四、ですか」
なるほど、それほどの美しい容姿を持っていたのならば懸想される事もあったのかもしれないが、それにしてもまだ子供の域を出ない年頃である。クリストが会った少女は確かに可愛らしい顔立ちをしてはいたが、美しいと形容されるほどではなかったように思えた。さらに六年前に十四歳だったのならば、今は既に二十歳という事になる。いくら若く見える体質だったとしても、クリストの目にはとてもそうは見えなかった。
まだ記憶に新しい少女の姿を思い浮かべ、到底納得できない矛盾に頭を抱えそうになる。
「件の魔女は、まだ幼い少女でしたが」
失礼にならないように言葉を選び、クリストはようやくそれだけを口に乗せた。
「ああ、それは暗示だ」
なんだそんな事かとでも言うような軽い口調で、アルトゥス王が答える。
「魔術などではなく、母親譲りの能力でな。トリスティア妃も、初めて父と対面した時はほんの十歳くらいの幼い姿だったと言う。あれの髪と目の色は、どう見えた?」
「褐色の髪とはしばみ色の目、でしたが」
「あれは、トリスティア妃と同じ銀色の髪と翡翠色の目だ。生まれた時から知っているわたしが言うのだから、間違いない」
まさかあの時の姿が、すべて暗示で見せられた偽りのものだったとは。クリストは俄かに信じる事ができず、茫然とする。だがアルトゥス王が嘘偽りを言う理由も見当たらぬ事から、それが真実だと認める他なかった。
人並み以上の精神力を持つと自負しており周囲からもそう評されているクリストは、尋常ならざるその暗示力の強さに、表情を強張らせた。
「そう気味悪がってくれるな。王族とはいえ年端もいかぬ身で供も付けず追放同然に辺境の地で生きねばならなかったあれの、必要最低限の保身なのだ」
アルトゥス王の言葉には、苦渋の響きが含まれている。王の責任などではないにせよ、妹一人守り切れなかった当時の力不足を心から悔いているのだ。それを察したクリストは、己の弱心を恥じた。
「王大后である母や祖父である公爵の存在を慮ったがゆえに、表立ってあれを守ってやる事ができなかった。だが国王として一国を治める力の基盤を固めた今ならば、他の王侯貴族からの手出しも許さずに守ってやる事ができるのではないかと思ってな」
クリストはその先の言葉を待ったが、アルトゥス王がそれ以上語る様子はない。
再び虚空に向けられた主君の双眸に、ある一つの意思が込められている事に気付かないわけにはいかなかった。アルトゥス王はこの王都に、末姫を呼び戻すつもりなのだ。そして恐らくその任を拝するのが、唯一この場所にいるクリストになるのであろう事は想像に難くなかった。
「ところで。なぜわたしが、王家の機密とも言えるあれの事を、お前に話したのだと思う」
しばらく沈黙を守っていたアルトゥス王の口が開くと、クリストの頬がひくりと引き攣る。
「わたしは、年の離れたあの妹が可愛くてな」
クリストを見る王の目がすっと細められたが、決して笑みを浮かべているわけではない。虫の知らせなのかそれとも本能で何かを悟ったのか、クリストの全身の肌がざわりと粟立った。
「お前に、あれの後ろ盾になってもらいたいのだよ。王国軍第五部隊副隊長にしてムスターグ侯爵ライノール家嫡男、クリスト・クラウス・ライノール」
ああ、やはりそうなのか。クリストは思わず天を仰いだ。
王は、最初からそのつもりだったのだ。恐らく極秘の勅命を受けたときには既に、貴族諸侯の中でも上位に名を連ねるライノール家に白羽の矢を立てていたのだろう。クリストにお鉢が回ってきたのは、彼がライノール家の後継者がゆえなのだ。
実際には、ライノール家の家格とともにクリスト自身の軍人としての地位、そして勤勉で生真面目な勤務態度、女性関係における高潔さなど様々な条件を加味して選ばれたのだが。
その強面を理由に縁談の相手に尽く逃げられてしまい困り果てていたクリストの父ムスターグ侯爵とその奥方が、王からの内密の打診に諸手を挙げて喜んだ事など、クリスト本人が知る由もない。