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六時のノック【続編】

お読みいただけたら幸いです。

第五話


 ドアポストの隙間から中を覗いた。


 玄関には、一人の男が立っていた。


 背中を向けている。白い壁、見慣れた靴箱、その脇に置かれた傘立て。どれも自分の部屋にあるものと同じだった。傘立ての角度まで、いつも見ているものと変わらない。


 啓介はしばらく動けなかった。


 さっきまで会社にいたはずなのに、目の前にあるのは自分の部屋だった。


 男が動いた。


 ゆっくり振り返る。


 顔を見た瞬間、啓介は息を止めた。


 知っている顔だった。


 会社で毎日見ている。朝、洗面所の鏡に映る顔も知っている。寝起きのむくんだ顔や、髭を剃り忘れた日の顔まで。


 似ている、という言葉では足りなかった。


「……誰だ」


 男は答えなかった。


 視線だけが啓介の顔から下へ落ちる。


 裸足だった。


 そのことが妙に気になった。こんなところに、靴も履かずに立っている。


 啓介も自分の足を見る。


 靴を履いている。


 その視線の先に、黒い革靴が一足置いてあった。


 見覚えがある。


 今朝、玄関を出るときに履いたものと同じだった。


「……なんで」


 男が顔を上げた。


 声を聞く前から、啓介には分かった。


「お前……」


 男の声は、自分の声によく似ていた。


 けれど、少しだけ違う。


「何をしてる」


 男はしばらく啓介を見ていた。


「待ってる」


「誰を」


 男の目が、啓介の後ろへ向いた。


 啓介も振り返った。


 そこには会社へ続くはずだった廊下がある。そう思っていたのに、見えているのは自分の部屋の玄関だけだった。


「俺を?」


 男は答えなかった。


 啓介は玄関へ入った。


 一歩近づくと、男の顔がさらに自分に似ていることが分かった。目元の形も、口元の癖も、少し首を傾ける仕草まで似ている。


 古い写真を見ているような気がした。


「お前、誰なんだ」


 男は視線を逸らした。


 その瞬間、右腕の内側に痛みが走った。


「……っ」


 啓介は袖をまくった。


 何もない。


 傷も、赤くなった跡もない。ただ、皮膚の奥だけが鈍く痛んでいる。


 腕を押さえたまま、啓介は眉を寄せた。


「前にも……」


 そこまで言って、言葉が止まった。


 前にも痛くなった。


 そう思った。


 いつだったのかは思い出せない。


 男がその腕を見ていた。


「何だよ」


 男は何も言わない。


 やがて、玄関脇の壁時計へ目を向けた。


 啓介も見る。


 六時。


 止まっていたはずの秒針が、


 カチ。


 動いた。


 カチ。


 もう一度。


「……時計、動いてる」


 男は答えなかった。


 その代わり、啓介の顔を見た。


 何かを確かめるような目だった。


 その目を見ているうちに、啓介は妙な気分になった。


 この男に、同じことを何度も言われたような気がする。


 何度も。


 どこで。


 いつ。


 思い出そうとすると、頭の奥が重くなった。


「俺たち、前にも会ってるのか」


 男の口元がわずかに動いた。


 答えの代わりに、玄関脇の棚を見る。


 そこに写真立てがあった。


 海辺で撮った写真だった。


 啓介は手を伸ばして、写真を取った。


 防波堤の上に二人いる。


 一人は自分。


 もう一人は――。


「……母さん」


 声が漏れた。


 母の顔を見つめる。


 懐かしい。


 それなのに、写真を見ていると胸の奥が落ち着かない。


 写真立てを裏返す。


 裏側に日付が書いてあった。


 啓介は眉を寄せた。


 自分が覚えていた日付と違う。


「これ……いつだ」


 男は黙ったままだった。


「俺、こんなの……」


 知らない。


 そう言おうとして、口を閉じた。


 知らないはずなのに、写真の場所は分かる。


 海の匂いまで思い出せそうだった。


 母が隣で笑っていたことも。


 ただ、そこから先が出てこない。


 写真を持つ指に力が入った。


「……何なんだよ」


 男は答えなかった。


 時計だけが動いている。


 カチ。


 カチ。


 やがて、男が時計から目を離した。


 その顔が少し青ざめていた。


「そろそろ」


 啓介が顔を上げる。


「何が」


 男は玄関を見た。


 その視線につられて、啓介もドアを見る。


 向こう側から、何かが聞こえた。


 コン。


 肩が跳ねた。


 コン。


 いつもの音だった。


 男が一歩下がった。


「……開けるな」


「なんで」


 返事はない。


 啓介はドアを見つめた。


 もう一度。


 コン、コン。


 今度は、向こうから自分の名前を呼ぶ声がした。


「啓介」


 啓介は息を止めた。


「啓介。開けて」


 自分の声だった。


 聞き間違えるはずがない。


 会社で返事をするときも、電話に出るときも、毎日聞いている声。


 なのに、その声には聞いたことのない焦りが混じっていた。


 男が啓介の腕を掴んだ。


「……やめろ」


「何なんだよ」


 男の手に力が入る。


「聞かない方がいい」


「でも、あれは俺だろ」


 男は答えなかった。


 ドアの向こうから、もう一度声がする。


「啓介」


 啓介は男の手を振りほどいた。


 一歩、ドアへ近づく。


 その瞬間だった。


 コン、コン。


 今度は玄関からではなかった。


 背後。


 部屋の中から聞こえた。


 啓介はゆっくり振り返った。


 男も同じ方向を見ていた。


⸻


第六話


 壁しかない。


 いつもの壁紙。照明。何も変わっていない。


 なのに、音だけが近かった。


 コン、コン。


 啓介は耳を塞いだ。


 消えない。


 指の隙間から自分の息が聞こえる。その奥で、また音がした。


 コン、コン。


 今度は耳のすぐそばだった。


 啓介は手を離した。


「……ここから?」


 男は答えなかった。


 ただ、壁時計を見ている。


 六時。


 秒針が進んでいる。


 カチ。


 カチ。


 啓介は時計から目を離せなかった。


 その音を聞いているうちに、頭の奥に何かが浮かんだ。


 白い天井。


 消毒液の匂い。


 冷たいシーツ。


 誰かの手。


 すぐに消える。


 啓介は額を押さえた。


「今の……」


 男が見ている。


 何も言わない。


 啓介はもう一度目を閉じた。


 白い天井。


 機械の音。


 誰かが自分の名前を呼んでいる。


 母の声。


 そこまで浮かんだところで、胸が苦しくなった。


「母さん……?」


 目を開ける。


 目の前には、まだあの男がいる。


 けれど、その輪郭が少しぼやけていた。


 啓介は目を擦った。


 もう一度見る。


 やはり、薄い。


 男の手も同じだった。


 指先の向こうに、壁紙の模様が見えている。


 啓介は息を呑んだ。


「お前……」


 男は自分の手を見た。


 何も言わない。


 ただ、少し寂しそうに笑った。


 その笑い方まで、どこか自分に似ていた。


 啓介は手を伸ばした。


 男に触れようとしたところで、指が止まる。


 何を言えばいいのか分からない。


 男も同じように手を上げた。


 二人の手が、触れる寸前で止まった。


 その瞬間、また記憶が浮かんだ。


 病室。


 白いカーテン。


 機械の音。


 ベッドの横に座る母。


 母は俯いている。


 何か話している。


 声が聞き取れない。


 啓介は目を開けようとしている。


 身体が動かない。


 指先さえ動かない。


 それでも、音だけは聞こえていた。


 コン、コン。


 病室のドアを叩く音。


 啓介は、その音に耳を澄ませていた。


 目を開けたかった。


 けれど、開かなかった。


 代わりに、別の景色が浮かんだ。


 自分の部屋。


 玄関。


 朝の光。


 六時。


 コン、コン。


 ドアを開ける。


 会社の廊下がある。


 次の日も同じ。


 その次の日も。


 朝になる。


 六時になる。


 音がする。


 玄関へ行く。


 会社へ行く。


 帰ってくる。


 眠る。


 また朝になる。


 記憶はそこまで浮かんで、途切れた。


 啓介は目を開けた。


 床に手をついている。


 息が乱れていた。


「……そういうことか」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 男は何も答えない。


 ただ、もうほとんど姿が見えなくなっている。


 啓介は顔を上げた。


「お前は……」


 言葉が続かない。


 男は小さく首を振った。


 説明するつもりはないらしい。


 その代わり、玄関を見る。


 啓介も見る。


 ドアの向こうから、朝の光が細く差し込んでいる。


 その光を見た瞬間、胸の奥にあった何かがほどけた。


 帰らなければ。


 そう思った。


 今度は、逃げるためではなかった。


 男の姿が、さらに薄くなる。


 啓介は立ち上がった。


「待って」


 男は振り返る。


 啓介は、何か言おうとした。


 けれど、言葉が見つからない。


 ありがとう、なのか。


 さよなら、なのか。


 どちらもしっくりこなかった。


 結局、名前を呼んだ。


「……俺」


 男が少し笑う。


 その顔を見た瞬間、啓介は思い出した。


 この顔を、何度も見ていた。


 鏡の中で。


 眠る前に。


 朝、玄関へ向かう前に。


 そして、忘れていた。


 男の輪郭が光の中へ溶けていく。


 啓介は目を閉じた。


 最後に聞こえたのは、


 コン、コン。


 ではなかった。


     *


 白い天井が見えた。


 啓介は目を開けた。


 喉が乾いている。


 身体が重い。


 けれど、右手を動かすと、指がわずかに動いた。


 もう一度。


 今度ははっきり動く。


 ベッドの脇から、小さな音がした。


 椅子に座っていた母が顔を上げる。


「……啓介?」


 啓介は母を見る。


 すぐには声が出なかった。


 唇を動かす。


「……母さん」


 母の目が大きく開いた。


 立ち上がろうとして、椅子の脚に足をぶつける。


「痛っ……」


 それでも、そのまま啓介の手を握った。


「啓介」


 何度も名前を呼ぶ。


 啓介は、その手の温かさを感じていた。


 夢の中でも、ずっと探していたものだった。


 どのくらい眠っていたのか。


 何が起きたのか。


 まだ分からないことはたくさんある。


 けれど、今は聞かなかった。


 母の手を握り返す。


 そのとき、病室の時計が目に入った。


 六時だった。


 啓介は一瞬だけ時計を見つめた。


 けれど、もう目を逸らさなかった。


     *


 それから、しばらく経った。


 朝。


 啓介は自分の部屋で目を覚ました。


 カーテンの隙間から、薄い光が入っている。


 枕元の時計を見る。


 六時。


 身体が、ほんの少し強張った。


 啓介は布団の中でじっとしていた。


 待つ。


 何も聞こえない。


 時計の秒針だけが動いている。


 カチ。


 カチ。


 やがて、啓介はゆっくり息を吐いた。


 そのとき、


 コン、コン。


 ドアを叩く音がした。


 啓介は目を閉じる。


 けれど、今度は怖くなかった。


「啓介、朝ごはんできてるわよ」


 母の声。


 啓介はしばらく布団の中にいた。


 それから、少し笑って、


「今行く」


 と答えた。


 布団をめくる。


 床は冷たかった。


 昔と同じ場所が、やっぱり冷たい。


 啓介は裸足のまま立ち上がった。


 玄関へ向かう。


 ドアの向こうでは、母が待っている。


 啓介はノブに手をかけた。


 そして、ゆっくりドアを開けた。


     *


 完

最後までお読みいただきありがとうございました。

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