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「きみを愛することはない」と言った夫が色々失うまで

作者: 海牛泳
掲載日:2026/09/24

秋 



「きみを愛することはない」


タラゼドは寝台に腰掛けたままクソ馬鹿、違った、夫のジルベールを見上げた。さらりとした淡い金髪を片方に緩く束ね、紺色のナイトガウンを羽織った痩身の男。美しい薄緑色の瞳。


「あまりに冷たいお言葉ですこと」


豊かな黒髪を背に払い、タラはじっと夫を見つめる。

燭台の炎がふるりと揺れて、ジルベールの影が覆い被さるようにタラの顔に翳ったのが不愉快だった。


「口ごたえをするな。実家では相当甘やかされていたらしいが、ここではそうはいかんぞ」


少々勇ましすぎると言われるキリリとした眉毛を跳ね上がれば、ジルベールの口元がひくつく。くらえ!私のチャームポイント!


「お前は金の力で俺の妻に収まったが、心まで買われた覚えはないのでな」

「愛はなくとも、パートナーとして支え合う家庭もあると思いますが」


はん、と実に腹の立つ笑いを見せつけながらジルベールは髪をかき上げた。


「貴様と夫婦ごっこをするつもりはない。俺に愛だのなんだの求めるな。貴様は黙って女の仕事をしろ」

「そうまでおっしゃるなら。仰せの通りに」


寝台から立ち上がり、両手を前で揃えて礼をする。ジルベールは一度も振り返らずに扉を開き出て行った。

抱くつもりがないなら寝室まで入ってくるなよ、気色悪。


タラは寝室に続く部屋の文机に向かい、両親宛に手紙を書く。初夜にて愛さない云々(うんぬん)。マジでムカつき候(そうろう)。

幼馴染にも手紙を書く。噂通りの男也(なり)。顔だけはほめてつかわす。いとわろし。


封をして寝室に戻り、カーテンを開ける。昼を欺く月の明るさに、影絵のように寄り添う男女。絵画のような美しい情景だ。その男がたった今出て行った夫でなければ。


ジルベールに愛人がいるとの噂は本当だったらしい。

知っている上で嫁いだ。欲しいものは彼の愛ではないから。


それにしても。

君を愛することはない、か。

あいつは筋を通すということを教わらなかったらしい。


タラはカーテンを閉め、ベッドに勢いよくダイブする。


「ふ、ふふ、ぐふふっ、だははは!」

枕に顔を押し付けて笑い声を押し殺す。


綺麗な顔をした夫は、聞きしに勝る盆暗であった。





********************





「奥様、この屋敷には大きな鼠がおりますの」


翌朝。

朝食を摂った後(夫は現れなかった)、部屋付きの侍女、ソフィアに身支度を手伝ってもらった。エメラルドと真珠のバレッタで髪を結い上げ、襟元のレースが愛らしい黒と深緑のドレスにした。


ソフィアはこの屋敷に長年仕えている古株で、40の坂をいくつか過ぎている。皺のないつるりとした顔は、若作りすれば30代で通りそうだ。


「あらやだ。このうちに猫はいないの?」

「……旦那様は猫嫌いでございまして」

「猫より鼠がお好きなの。変わったご趣味ですこと」


ソフィアはにこりともせずに背筋を伸ばして控えている。あ、今のはちょっと失敗だったかな?


「鼠はどこの屋敷にもいるものよ。捨て置きなさい」

「その鼠は旦那様の膝で喉を鳴らしているのです」


単にゴシップを吹き込みに来たのかと思ったら違った。要するになんとかしてよって事ね。


夫は私を蔑ろにしすぎだ。早くも不行き届きな使用人から舐め腐られている。洗顔用のお湯は冷えていたし、食堂に向かう間の廊下でも使用人の私語が遠くから聞こえてきた。


そんな中でもソフィアは礼を尽くしている。真面目な人だ。私を女主人と認め、屋敷の掃除をしてくださいと訴えている。


下の者の訴えに応えずして、何が主か。


「旦那様はどこで鼠をお見かけしたの?」

「鼠は鳴くのですよ。巣で鳴いていれば良いものを、恐れ多くも庭まで出てきて鳴くのです。耳障りな鼠の歌といえど、旦那様は物珍しく思われたのでしょう」


庭で歌ってたらジルベールが通りかかって見初めたわけか。バッカじゃねえの?下女が主人の庭まで出てきて呑気に歌ってたら解雇だろ普通。なに鼻の下伸ばしてんだ。


「私の遠縁に、変わり者のディートリヒと言われてるおじさんがいてね」

「はい」


急に話が変わり、ソフィアは不思議そうな顔をする。それでも露骨に嫌そうな顔をしないあたり、この人は教育が行き届いている。


「ディートリヒおじさんは白いハツカネズミを可愛がっていたの。ほんもの(・・・・)のネズミよ。一緒に寝起きして、人と同じ食べ物を与えて」

「まあ……」

「ある日ディートリヒおじさんは、ハツカネズミのお腹が大きくなっているのに気づいた。家の鼠といつのまにか番っていたのね。おじさんはカンカンで、愛しい相棒を奪った憎き鼠を、罠を仕掛けて殺してしまった」

「同じ鼠なのに?」

「不思議よね。私たちには違いがわからないけど、おじさんにとっては違うんでしょうね。そして生まれた子供たちは育てきれないから水に漬けて殺してしまった。それからどうなったと思う?」

「ディートリヒおじさんの酷い仕打ちに耐えかねて、ハツカネズミは出て行ったと思います」

「ふふ、あなた面白いわね。正解はこうよ。そのハツカネズミは子供を産んですぐに、また他の鼠の子を孕んだの」

「えっ?」

「一匹だけやっつけて安心しちゃいけなかったのね。この話の教訓は、"鼠退治は巣から始めよ"、よ」


ソフィアの目を見る。こくりと小さく喉がなるが、礼儀正しく目を伏せて顎を引くように頷いた。

タラの考えを正しく理解してくれたようだ。


「ソフィア。あなたの淹れてくれた紅茶、とても美味しいわ」

「光栄です」

「ほんとよ。お城のお給仕にも負けないくらい」

「……身に余るお言葉です」

「ひとつだけ注文してもいい?」

「なんなりと」

「私は熱々の紅茶が好きなの。湯気でまつ毛が湿るようなのがね」

「これは失礼を。次からは仰せの通りに」


ソフィアは鋼のように背を伸ばし、頭を下げた。












初冬  




ここは私の屋敷だから、私を女主人と認められない奴は必要ねえぞ。といったことを時にはっきり、時に遠回りに示し続けたおかげで、このルツ公爵邸は非常に住みやすくなった。


ジルベールとはほとんどまともな会話をしていない。どうしても外せないパーティや、親戚や友人が訪ねて来る日以外は食事も別々だ。


舅は5年前から持病が悪化し、ほとんど領地から出てこない。


姑からはたまに手紙が届く。


「英雄色を好むという言葉があるように、浮気は男の甲斐性」

だの、

「夫に気に入られないのは女としての魅力が」

などなど。


返事が遅れると屋敷まで乗り込んでくる。一度この手紙をうっかり(・・・・)ジルベールのところに紛れ込ませたら、夕食をとっているところにつかつか来てダーン!と手紙をテーブルに叩きつけ、


「これは君の手紙だ。妻の仕事くらいちゃんとこなせ!着飾るために金を出してるわけじゃないからなこっちは」


などと捲し立ててまたツカツカセカセカ歩いてバタン!と部屋を出て行った。


お前よくその態度でいけるな。私の実家から人手も金も都合してもらってるくせしてよ。


その光景を見ていた給仕や侍女たちは一斉にタラの好きな酒やデザートを追加するよう厨房に走り、部屋に戻ると硝子器にお気に入りの焼き菓子が盛られ、花瓶には新しい花がふんだんに活けられていた。お布団もフッカフカのフワンフワンだった。


そう、この屋敷の使用人は少しずつタラの意向に沿うように組み換えられている。ジルベールではなく。


そろそろかな。


ソフィアを呼んで、明日の予定を伝える。

鼠の通り道にチーズを置くのだ。






********************






多くの貴族の屋敷では、使用人の動線と主人家族の動線は分けられている。身の回りの世話をする使用人たちを除いて、基本的に主人と下働きが顔を合わせることはない。


だがリリーは、主人家族が使うスペースに平気で立ち入っているらしい。汚れ物を運ぶのにその方が近道だからという理由で。タラはソフィアに聞いた鼠(リリー)の通り道で探し物をしているふりをした。


曲がりなりにも夫の愛人と対峙するというので、今日の侍女たちの気合いの入れようといったらなかった。豊かな黒髪は複雑に編み込まれて、毛先はカールして左肩に流されている。ドレスは真紅のウールで、袖にやわらかなウサギの毛皮があしらわれている。


「ぴゃっ、にゃわあああっ?」


いつものように洗濯物を積んだカゴを運んでいたら、木陰から貴婦人が顔を出したのである。リリーは驚いて妙な声を出した。甲高く舌足らずな声。


リリーは亜麻色の大きな瞳を持った美少女だった。同じ色のウェーブした長い髪をハーフアップにしている。華奢な体に似合わぬ大きな胸と、コルセットの必要がなさそうなくびれの曲線美。


下働きの粗末なドレスを着ていても、その美しさは霞むことがない。もう少し賢そうなら側仕えに取り立ててもらえるだろうに。


「あらあなた、いいところに。ちょっと手伝って」

「ぴあっ?」


下働きってみんなこんな感じ?そう思ってソフィアを見たら、険しい顔で首を振っていた。

ふたつ上の19歳と聞いているがもっと幼く感じる。ジルベールは25歳でアレだから、年齢なんて当てにならないか。


「イヤリングを落としたの。この辺りにあると思うのよ、一緒に探して」

「はえ?」

「早く、お前も探しなさい」

「そこはもう見たから、こっち探しな」


ソフィアと他の数人の侍女に促され、リリーもかがみ込んで地面を見る。そうしてさりげなくリリーと隣り合い、侍女たちは熱心に探すふりをしながら遠ざかっていった。


「えとえと、どんなイヤリングです?」


自分に話しかけられているとは思わず、一瞬固まる。リリーはこてんと首を傾げた。下女が気さくに公爵夫人に話しかけとる。終わっとる。


「翡翠のイヤリングよ」

「ひすい?」

「公爵の瞳と同じ色の宝石」

「あっ、それならすぐに見つけられるかもです!」


リリーが笑って髪を耳にかける。下働きが髪を下ろしていていいんだろうか?


「翡翠は知らないのに、公爵の瞳の色は知っているの?」

「あっ、えとえと、ジルの瞳の色は、はい、知ってます」

「ああ、今のはちょっとからかっただけ。それに私もほら、愛人の娘なの」

「あ、ジルから聞きました。でも別にいいと思います。そういう人がいても」


この短時間でこれだけ鞭打ちの理由を稼げるのもすごい。尊敬に値する。


「あらま。私の話とかするの?」

「ん〜、奥様の愚痴とかですかね〜。あたしは別に、ジルの気持ちはわかってるし、奥様のこともちょっとは構ってあげていいって言ってるんですよ。本当ですよ?でもジルはリリーといた方が癒されるって」

「お気遣いは結構よ。あの人は私に愛情なんてないらしいし」


うんうん頷くんじゃないよ。


「あたしたち、半年前に出会ってるので、ジルのことは奥様よりも知ってるかもです」

「私との結婚は1年前に決まってたけどね」

「…………政略結婚でジルの心は、傷ついてるんです。お金の見返りに愛を要求するなんて……ジルがかわいそうでしかない」

「かわいそう?」

「だってだって、昔から大奥様は小言ばっかりで、妻も選べなくて。窮屈だっていつも言ってます。自由になりたいって」


うるうる、目を潤ませて、組んだ両手を豊かな胸に押し当てている。


「自由は結構だけど。私が認めさえすれば堂々と愛人になれるのに。あなたも苦労するわね」

「ふええ」


その蝿とか笛とか、害はないのにイラっとする。ジルベールの好みわかんない。もっといい女なら私だって考えなくもないのに。


「慎ましくて結構ねえ。貴族の家には主人に取り入って愛人の座に収まろうとする不届きな女もいるのよ」

「あ、あたし、そんなんじゃ!」


リリーの表情が憤りに染まり、タラの目を睨む。なんならこれだけで鞭打ちの口実になるが、タラは鞭をくれてやりたいわけではない。もっと大きなものを欲している。


「貴族の男が平民を愛人にしたい時、どんな手順を踏むか知ってる?」

「みゃ、わかんないです」

「金に困っている貴族を買収して、養子縁組をするのよ。そうして形だけでも貴族籍に入れておくの。私の母がそうだったんだから」

「ふええ〜お金ある人って、なんで全部お金で解決しちゃうのかにゃ」


人差し指を立てて顎に当て、考えるそぶりをする。半開きの口が気に入らない。


「お金なんかよりもっと大事なことがあると思います。心とか気持ちとか、優しさとか……」

「私にはわかんないわ」

「ま、わかんないですよね。愛より大切なものなんかないって、愛された人じゃないとわかんないですよね」

「あなたよく女の人から嫌われない?」

「はにゃっなんでわかりますか!よく嫉妬されて困るです。ジルが守ってくれるから大丈夫だけど、大奥様だってあたしのこと、きっと嫌いなんです」


そりゃ嫌いだろうよ。でも息子可愛さに解雇もできなかった。そのツケが私に来てる。馬鹿親子が。


「でもあたし、いいんです。女の子は、強くてしなやかな心がないと。嫉妬されるのは慣れてるし」

「私と違って?」

「だ、だって奥様は、お金の力でジルを無理やり手に入れようとしたんでしょ!?愛人の娘なのに夫の愛人は認めないとかそんなの、意地悪でしかないです!あたし、ジルのためなら、奥様にだって負けませんから!」


誰だよこんな奴採用したの……。責任は姑か。あのクソババア。


「まあ、素敵。あなたのような人で本当に良かったわ。……手をお見せなさい」

「はにゃ」

「手をお見せと言っているの」


タラが上向きに差し出した手に、リリーの細い手が乗せられる。水仕事で荒れた手だ。その手から不相応な、ほのかな薔薇の香りがする。

あの顔だけ野郎は、寵愛する女に水仕事をさせて、クリームを贈って恩を売っているらしい。反吐が出る。


「あなたは下女の身分のまま、見返りを求めず彼の愛を受け止めるの。この働き者の手が愛の証ね」

「あたしとジルは真心で結ばれてるんだって、政略結婚とは違うって!ジルはいつも、そう言ってて」

「あなたは貴族の身分も、まして公爵夫人の座も欲していないのね。彼の愛だけあればいいでしょ?」

「そんなものなくても、ジルの心は私のものです!」


にこりと笑って手を離した。


「ねえそれ、イヤリングじゃない?……そこに落ちてるやつよ。もっと右」

「ほあ?」

「見つかったわね。あげる」


リリーは手の中にある翡翠のイヤリングをじっと見つめて、


「片っぽだけ……?」


遠慮してみせるとか、ないわけ?


「ソフィア、見つかったわ。みんなありがとう」

「奥様、お身体が冷えたのでは?熱い紅茶をお淹れいたします」

「ええ、それがいいわ。焼きリンゴも用意して」

「かしこまりました」


立ち上がり、腰を伸ばしてみんなに声をかける。ショールを肩にかけてくれる侍女や、手をさすってくれる侍女までいる。全員リリーのことを見もしない。


「引き留めて悪かったわ。仕事に戻って頂戴」


リリーの頬にさっと朱が混じる。イヤリングを胸に一度抱き締めてから、礼も取らずに去って行った。


「ありがとうね、みんな。付き合ってくれて」

「いかがでした」

「鼠は鼠だった。白雪姫とは違うわねえ」

「白雪姫、……?」

「ディートリヒおじさんのハツカネズミの名前よ。礼儀正しくて、初めて会う人にはお辞儀するの。りんごをあげようとするとね、一度遠慮するそぶりもみせるのよ」

「ネズミがですか?」

「そうよ。おじさんは変わり者だったけどね、白雪姫を見た人たちはみんな納得してたものよ。これは特別なネズミだってね」


タラは鬼ではない。特別な鼠ならそれなりの待遇をするつもりだった。そうではないなら?罠にかけるか、水に漬けるか。


部屋に戻り、午後のお茶の時間を楽しんだ。アッツアツの、やけどしそうな温度の紅茶が好きだ。どのメイドもよく心得ている。

紅茶の香りを楽しみながら、窓からゆったりと視線を庭に巡らせる。

庭師は薔薇の匂いが苦手なタラのために、少しずつ植え替えして春に向けて庭を整えると話してくれた。


この屋敷は確実にタラのものになり始めている。木々はタラのために木陰をつくり、蝋燭の炎さえタラの意向を伺いながら燃える。


人もそうだ。使用人はタラの手足であり、目であり、頭であり、口であった。それが女主人が仕事をするということ。


女主人が顧みないものは、誰も顧みない。

あの愚かな男はそれにいつ気づくだろう。




********************




リリーはいじめられていた。

今までもずっといじめられていたけれど、それは耐えられた。


身の程知らず。

旦那様に取り入った阿婆擦れ。

いい気になるんじゃないわよ、ちょっと気に入られてるからって!


今までリリーに向けられる言葉の中には羨望が混じっていた。

だがこの数日でいじめの質が変わった。向けられるのは嘲笑と侮蔑だ。


旦那様の色欲を満たす無料(タダ)の道具。

本当に愛されているなら下女のままにしておくはずがない!

一回いくらだ?旦那様の後、順番待ちが何人もいるぜ。


リリーが耐えられたのは健気だからでも、愛情からでもなかった。優越感だ。美貌と寵愛への妬み嫉み。

ひと月と持たなかった。



「貴様!リリーに何を言った!!」


久々に顔を見せたと思ったらこれだ。タラは花瓶に花を差しながら何食わぬ顔で言った。


「リリー?誰のことです?」

「しらばっくれるな!貴様がリリーに余計なことを吹き込んだのだろう!」


自分が用事のあるときだけ、礼を欠いた態度で乗り込んでくる。もううんざりだ。穏やかな終わりなど、きっとないのだろう。


「確認したかっただけですよ。お二人の愛が本物か」

「は?貴様がしゃしゃり出るようなことではないだろうが。余計なことをするな」

「いえね、私じゃないんですよ。お義母様が心配なさってるの。身分卑しい者を夫のそばに置いたままにして、何をしているんだとお叱りを受けたものですから」


ジルベールのところに紛れ込ませた手紙の内容を話せば、憎々しげに顔が歪んだ。さっきからワーワー言ってるが、瞳だけは本当に宝石みたいに綺麗。


「はん。それで母上怖さにリリーにちょっかいを出したというわけか。言っておくが、貴様がどれだけあがこうと無駄なことだ」

「そんなに気になるなら、別邸で囲い込めばよろしいのに」

「お前と暮らすのを我慢して、リリーは追い出せと?別邸に行くなら貴様が一人で行け。ここは俺の家なんだぞ。お前が出ていけ」


出た。こいつこれしかないんだよなあ。ボキャ貧すぎて喧嘩する気も起きない。


「で?何を言ったんだ!どうせ聞くに耐えない下劣な言葉を浴びせたんだろう。リリーの憔悴ぶりを見ていたら解る」

「公爵夫人の地位を望むのかと訊ねました」

「…………は?」

「公爵夫人、もしくは愛人になって贅沢な暮らしがしたいかと訊ねました」

「…………馬鹿が」


ジルベールは嘲るように笑った。


「望むわけないだろう、リリーがそんな上っ面のものを!貴様と一緒にするな!」

「ええ、本当にそうでした。彼女とはそれきりです」

「嘘をつくな」

「信じてくださらないの。悲しい」


肩を落として首を振ると、いまにもつかみかからんばかりの形相で震えている。おもしろ。子供の頃にカナブンをいじめて遊んだのを思い出した。


「そのあとは。どうせ嫌がらせしたんだろう」

「私は感心しましたの。今時珍しい娘さんもいるものだと思って。だから私を追い出して彼女を正妻にするとか言い出さない限りお二人のことはそっとしておこうと誓いましたの」

「はっ、どうだかな。貴様のような下劣な女なら、手を汚さずとも人を使って……」

「下劣?」

「下劣だろうが。金の力で公爵夫人に収まりやがって。新興の成金伯爵の娘のくせに」

「……そうですね。ルツ公爵家が欲しゅうございました」


だから貰いますよ。あなたが持ってるもの全て。


タラは頭を下げた。しおらしくみえるように肩を落とす。


「リリーはお前とは違う。親や亭主の稼いだ金で贅沢に浸り、着飾って出掛けては噂話に興じているような女とは違うんだ。解ったらもうリリーに関わるな」

「心得ましてございます」


ジルベールはわざと足音高く部屋を出て行った。足ぶつけろ。




********************





「………なあんてことがあったのよお〜!」

「やだあ、腹立つう〜」

「最近は嫌なことがあっても、ヴィヴィアンに話すネタができたとしか思わなくなった!」

「つよーい」


きゃっきゃっと笑う幼馴染を見て、タラは久々に心が潤うのを感じた。昔からこの子が笑うと、頬にできるえくぼをじいっと見てしまう。身につけているサファイアのイヤリングよりも、コバルトブルーのシルクのドレスよりも、この可愛いえくぼが彼女の最強のアクセサリーなのだ。


ここはクラメンティ公爵家、次女ヴィヴィアンの私室である。2人で紅茶と、王都で流行りのお菓子をつまみながら、きゃっきゃ話すのは実に半年ぶりだ。


「ヴィヴィアンの話も聞かせてよ。妃教育は順調?」

「順調順調、絶好調!」

「ちょっとお妃様風に言ってみてよ」

「王妃様は厳しいけれどとってもお優しいの。教師の皆さんは根気強く教えてくださるわ。何よりステファン殿下の大変さに比べたら、わたくしの苦労なんて小さなものです」

「待って、完璧じゃん?」

「えへへ」


照れて笑うヴィヴィアンが、柔らかくタラの両手を包む。美しく編み込んだ赤みの橙色の髪が、窓の光に反射する様は一服の絵画のよう。


「タラ、私ね、タラがそばにいてくれると思ったら、どんなことでも頑張れるよ」

「ええ」

「タラ、本当に、……ごめんね……」


包んだ両手が、女神のように美しい額に押し戴かれる。指先に濡れた感触がする。いつの間にかこの幼馴染は、肩を揺らさずに泣く術を身につけていた。


「……辛気臭いこと言ってんじゃないよ。あんた、王妃になるんでしょ?」

「うん」

「殿下のこと、好きなんでしょ?」

「うん」

「お城で暮らすんでしょ!」

「うん」

「女の夢じゃん。そんであたしはあんたの寝室女官長になるってわけ。それに必要なのが公爵夫人の地位で、……そういう話だったじゃんか」

「うん」

「スラッツヴェル伯爵の娘では、ちょっと箔が足んないから、名前だけ立派なボンクラ息子と結婚してさあ、いやもう噂以上のアホだったけど、……めでたしめでたし、そうでしょ?」

「全然めでたしじゃない」

「なーによあんた、文句があるってわけ。いい?あたしは自分の意志で、」

「タラゼド」


静かな声でヴィヴィアンが呼んだ。タラの背中は物差しを入れられたように、一瞬で伸びる。


「私は後悔してる。あなたを巻き込んだこと」


昔からそうだ。この幼馴染は、生まれながらにして人を従わせる力がある。でも私だけは、そんな力に従ってあげたりしない。


「ヴィヴィ。魔窟に飛び込んでくあんたと一緒に戦うって、私が決めたの。私が選んだの」


タラはヴィヴィアンとこの国の未来のために、王宮で官位を得る。そのために結婚を足掛かりにする。


「ごめん。タラ、ありがとう」


目を伏せるヴィヴィアンの表情は、影になっていてわからない。

この子が王妃になるまであと一年。タラは幼馴染に罪悪感を持たせたままそばで働く気はなかった。









春




「最近太ったんじゃないか?」


立てばボンクラ、座ればド阿呆、口を開けばクソ失礼。


ジルベールと共に朝食を摂っていると不意に話しかけられた。


ルツ公爵領の屋敷の食堂は、大きなクリスタルガラスの嵌め込まれた窓に、上部にステンドグラスの装飾が美しい。公爵家が傾くきっかけとなった、2代前の道楽の名残である。


タラとジルベールは10日ほど前から領地に戻っていた。本来なら社交シーズンだが、前公爵である舅の持病が悪化したため見舞いに来ている。


「森でも散策したらどうだ?屋敷の裏の」

「並木の方ですか?」


王都の屋敷では別々に食事を摂っているが、さすがに義両親の前でそれは憚られる。姑は舅と部屋で食事をするので、ここには若夫婦だけである。


「違う。あんなところ歩いても何にもならんだろう。裏手の森だ」

「狩猟用の森ですか?」

「別に狩猟用と言うのではない。少し行くと泉があって、子供の頃はよく水浴びしたものだ」

「そうですか。では行ってみようかしら。最近暖かくなってきましたし、足でも浸けたら楽しそうですわね」

「ああ、それがいい。君が森に入る時は人払いするよう命じておこう」


タラを見るとヒステリックに怒鳴り散らしていた彼だが、領地に戻ってからというものとても穏やかに話してくれる。内容はともかくとして。

愛がなくとも、初夜がなくとも、ずっとこのように接してくれていたらどんなに良かっただろう。


「ありがとうございます。私、嬉しゅうございます。旦那様のお優しさに感謝いたします」


胸に手を当てて、ゆっくりお辞儀する。ジルベールは満足そうに頷き、食事を再開した。


部屋に戻り、ソフィアに机の引き出しから取り出した手書きの領収書を見せる。領地に着いてすぐにジルベールは猟犬を3頭購入していた。


獰猛に躾けられた種で、主人以外には見境なく襲いかかるような犬だ。鹿の匂いを覚えさせ、敷地に放して追わせるのである。


数年前、平民の子供を誤って襲う事件が発生した。以来、良識のある愛好家からは敬遠されてきた種だ。


タラは領収書と、その犬にまつわる事件の新聞の切り抜きが同封された手紙、そして、領地についてからどんなに探しても見つからないハンカチのことを考えた。ソフィアは顔を青くしているが、首を振っている。彼女が信じられないのも無理はない。長年この家に仕え、ジルベールのことを子供の頃から知っているのだから。


ちょっとぐずぐずし過ぎたかもしれない。


あの男はもう駄目だ。タラを完全に敵と見なし、手段を選ばなくなってきている。内面はともかく、タラは表向きには精力的に公爵家を支えてきた。それに報いる度量はあの男にはなかったということだ。


始末をつけなければ。





********************



3日後。少し汗ばんでしまうような、よく晴れた日だった。



「旦那様。今日の夕方、森に行きとうございます」

「そうか。ならば人払いをしておこう」

「……本当に誰も来ないのでしょうか?」

「ああ。敷地内の森だし、平民が迷い込むような所でもない。使用人にさえ触を出せば十分だ」

「左様でございますか。……その、泉というのは」

「道なりにしばらく歩くと、左手に開けた場所がある。その奥だ。行けばわかる」

「旦那様もご一緒にいかがです?」


無害そうな笑みを貼り付けて問うと、甘やかな笑みを浮かべた夫の指先がぴくりと跳ねた。


「……いや、俺はよそう。まだ仕事が残っている」

「では、私だけ楽しんでまいります」

「ああ。行っておいで」


殺意を巧妙に隠した優しげな瞳が、タラの神経を逆撫でする。無意識に人差し指の指輪をいじった。


後ろに控えたソフィアがカップを下げる。その手がかすかに震えて、小さな音を立てた。





********************





夕食の席に現れたタラに、ジルベールは驚愕の眼差しを向けた。


「……は?」

「こんばんは、旦那様。どうされましたの?そのようなお顔をされて」

「いや、……別になんでも……」


食事が始まってからも心ここにあらずといった様子で、カトラリーが音を立てたり、酒にむせたりする。


「……森へ行ったんじゃなかったのか」

「ああ、冷えてきたのでショールを取りに途中で引き返しました。そのまま部屋でうとうとしてしまって。あら、そういえば人払いしてくださったんですよね。ごめんなさい、お気持ちを無駄にしてしまって」

「……………………」


この男が掻き乱されている様子を見ると、すごく残忍な気分になる。蝶々の羽をもいで歩かせたくなったり、蟻の巣に水をかけたくなったりして怒られた子供の頃を思い出す。


何事もなく食事が終わり、部屋に下がる時にそういえば、と切り出した。


「たびたび持ち物がなくなっているようなのです」

「は?」

「ハンカチやイヤリング、ショールのような他愛もないものですが、……いえ、なんでもありません。私の管理の仕方がいけないのですわ。お忘れになって」


すい、と頭を下げて背を向ける。これでこいつに頭を下げるのも最後だ。


部屋に戻り、ソフィアにも椅子をすすめる。ソフィアは蒼白になり、崩れ落ちるように腰掛けた。


「旦那様が、あんな、あんな、方だったとは……!」


握った拳を震わせながら背を丸める。ソフィアは最後まで信じたかったのだろう。だがジルベールの態度は決定的だった。


「リリーはどんな様子だった?」

「あの薄汚い鼠は、奥様が泉で水浴びされる話をしたら、下男数人を連れて森へ入っていきました」

「私が傷物になれば自分が妻になれるって話、信じたの?」

「信じました。私が奥様を裏切るという話も信じていましたわ。本当に、愚かなひと」


リリーを嗜める人間や、ジルベールを抑える人間は既に何人も辞めていった。見限られていることにも、その隙間に実家から私の味方が送り込まれていることにも気づかない。


「リリーに良心があったなら、悪いようにはしないつもりだったのに。……本当よ?」

「そうでしょうとも。裕福な商家の後妻の縁談を用意していたこと、存じております」

「あら、知ってたの」

「申し訳ありません。出入りの商人が噂していたのを聞いてしまい」


外はすでに暗い。カーテンを少しまくり、窓の外を見下ろすと、何やら男たちが松明を持って騒がしかった。








********************








どうしてこんなことに。


リリーは森の中を走った。後ろからは犬が吠え立てる声。見たことのない犬だった。既に靴は投げ、裸足に足や枝が突き刺さるが、痛みを無視して必死に走る。


犬の足に人間が敵うわけがない。猟犬たちは獲物が疲弊するまで追い立てて、抵抗の力を奪ってから喉元に喰らいつくのだ。そんなことをリリーは知らない。糸のような希望に縋って走り続ける。


息が続かない。足がもつれるのを見計らったように、一匹が足に噛みついてきた。


めちゃくちゃに暴れて振り落とすが、後ろから肩口に噛みつかれる。腕を噛まれた時には足の感覚がなかった。腹を噛まれていると気付いた時、リリーの目は木立を見上げていた。背中には土の感触。


誰かの絶叫が聞こえる。痛い痛いと泣き叫ぶ声が聞こえる。この声がリリーのものであるはずがない。あのひと、金の力で妻におさまった卑怯者の声でなければおかしい。


あいつさえいなくなれば、お前を妻にできるのに。

邪魔者を消す方法を思いついたんだ。待っていてくれ。


ああ、ジル。

あたしをはやく公爵夫人にしてよ。










********************









リリーの亡骸が見つかったのは、日付が変わろうかという時刻だった。泉から離れた森の奥で。相当必死に逃げたのだろう。


その報を聞き、ジルベールはすぐに犬たちを殺してしまったらしい。


綺麗だった顔は、頬が無惨にも食い破られ見る影もなかった。ドレスはほとんどずり上がり、太ももや腹まで歯形があった。


あたりの土は血に染まり、濃い鉄の匂いがしていたという。ジルベールは他の男にリリーの亡骸を触らせたくないと言い、ひとりで抱き上げようとしたが、右の手首がその拍子にぼとりと落ちてしまい、彼は完全に壊れた。


抜け殻のようになった彼がリリーの亡骸にまとわりつくのをやっとの思いで屋敷の裏手まで運んだころには、小雨が降り始めていた。


屋敷中に響き渡るような声で泣き叫ぶ彼に、誰ひとりとして近寄ろうとしなかった。姑でさえ。あのクソババアはジルベールの機嫌が良い時には擦り寄るが、荒れた時には我関せずの態度をとる。


タラは捜索に当たった男たちに銀貨を渡し労った。

ジルベールは声が枯れるまで泣き叫んだあと、部屋にこもって酒を飲んでいる。


「本当におひとりで?」

「ええ、あなたは部屋の外にいて。私が呼ぶまで、決して部屋に入らないでね」

「殺されるかもしれません」


真剣なソフィアの瞳に、微笑み返して首を振る。


「大丈夫よ。男手もすぐ近くに待機させているし。何かあったらすぐに呼ぶわ」


タラは部屋に入った。


熾火になった暖炉近くのひとりがけの椅子に、項垂れて座る男。シャツとトラウザーズのみの格好で、胸元を着崩している。


リリー、リリー、とすすり泣きながら、また酒を呷る。タラは左手の人差し指に嵌めた指輪のエメラルドの台座を開き、中に忍ばせた薬を手近なグラスに入れ、酒を注いで渡した。


なんの疑いもせずに受け取って飲み干す。その喉の動きを見ていたら、急に顔を上げて睨みつけてきた。


「なんでお前が生きてる」

「………………」

「なんで!リリーが死に!お前が!生きてる!」


呂律の回らない舌で喚きながら、持っていたグラスを床に叩きつけたので派手な音が鳴った。廊下のざわめく気配がする。


「貴様!死ね!お前が死ね!死ね!」


泥酔状態のジルベールは、立ちあがろうとして失敗し足を強かに打ち付ける。

痛みに悶絶しながらも、テーブルの上の酒瓶を一気に薙ぎ倒してこちらにふらふら近寄ってくる様を見ても、なんの感慨も湧かない。


「お前が、おまえさえ、おまえ、いなけれ、ば、」


恨み言をぶつぶつ呟きながら、タラの部屋着に手をかける。力任せに破かれて、胸元のリボンがちぎれ、肩が出た。


酒で力加減が馬鹿になっているのか、指が肩口に食い込む。爪も立てられて、腕に血が伝う。


「りりー、りりい………」


膝が折れて、床に転がる長身の体。タラは無表情に見下ろして、顔の前でひらひらと手を振る。

父が融通してくれた薬はよく効く。


ぐんにゃりとした体を両手で押して仰向けにする。かがんでズボンのベルトを外し、下着ごと脱がせようとして上手くいかず、あちこち引っ張ったり体の向きを変えたり、膝を曲げたり伸ばしたり、色々やって膝下までずり下げることができた。


あー、つかれた。


タラはポケットから小瓶を取り出し、中の赤い液体をカーペットになすりつける。念のため、少しだけ底に残ったものをスカートの裾へ。


しばらく休み、目を擦って赤くしてから部屋を出た。


「!奥様っ、」


ソフィアが駆け寄ってくるが、はっとしたように両手を口に当てる。


「ソフィア。私、しばらく実家へ……スラッツヴェル伯爵邸へ、行くわ」

「ええ、ええ!そういたしましょう。さあ奥様、お部屋へ」


ソフィアに肩を抱かれて部屋に戻る。ソフィアはタラが眠るまでそばにいてくれたので、タラは悲痛な面持ちを維持するのをとても頑張った。


ありがと、ソフィア。


眠りに落ちる寸前、ソフィアを労う。


いいえ、いいえ。おくさま。わたし、わかっております。おくさまのがんばり、すべてわかっておりますよ。


それは困るよ、とタラは思った。これからしようとしていることは、ソフィアにも秘密のことなのだ。











夏



実家のスラッツヴェル伯爵邸では1ヶ月を過ごした。ルツ公爵家から連れてきたのはソフィアだけ。


タラは兄のサダルサードと、幼馴染のポールをソフィアに紹介した。彼は伯爵が預かっている子爵家の次男だ。


「ポール様はお美しい緑色の瞳をお持ちで」


ソフィアがうっとりして言う。ジルベールのような綺麗な顔を見慣れているはずのソフィアにポールが褒められて、タラはなんだか誇らしい気持ちになった。


ポールは精悍な顔つきの美男だ。背はタラより少し高いくらいだが、筋肉質で、よく食べよく笑う。豪快な印象とは裏腹に、手先が器用でなんでも作れる。


「おいポール、タラが帰ってきてからやけに元気じゃないか」


にやにやしながらサダルサードが膝で小突くと、恥ずかしそうに笑いながら


「それはみんなそうだろ。僕たちの太陽が帰ってきたんだから」

「まあ。奥様、素敵でございますわね」

「やだ、照れちゃうわね」


ポールの方がよっぽど太陽みたいだ。澄んだ緑の瞳で笑いかけられると、心がぽかぽかして泣きたくなる。

彼は18歳になったら、騎士団の入団試験を受けるらしい。


ジルベールは部屋に引きこもり酒に溺れる日々を送っていると、屋敷に残してきた使用人たちから嘆願のような報告書が届いた。一度ルツ公爵領に向かい、ジルベールを伴って王都の屋敷に帰ると言い出した時、ソフィアは何度もこう主張した。


「奥様、旦那様のことは領地のお屋敷で診ていただいたらいかがですか。この度のことは大奥様にお任せして」


それに対するタラの答えも、いつも同じだった。


「お義母様も、お義父様の看病でかなり参ってるわ。それに旦那様は環境を変えた方がいい」


さすがに領内で公爵に手を出すのは骨が折れるからね。本音は言わずに、目を潤ませるソフィアに安心させるように微笑んで見せた。











********************












こんなはずじゃなかった。


ジルベールは森の中を走った。領地から王都へと向かう馬車道から逸れて、獣道を力の限り駆ける。


リリーに贈ったブローチ。これだけは奪われまいと、ジルベールは痛いほど握りしめながら野盗の手を逃れようと必死に足を動かす。


彼女の亡骸は公爵家の墓に埋葬することは許されず、彼女の両親からも受け取りを拒否され、身寄りのない平民の共同墓地へと埋葬された。


遺品整理のために部屋に向かうと、いくつも贈った覚えのない高級品が出てきた。なぜか片方だけの翡翠のイヤリング、ショール、靴下まで。


なぜ犬がリリーを襲ったか合点がいった。あの女がもっと早く持ち物がなくなっていることをジルベールに話していれば、リリーの死は防げたのに。


タラゼド・スラッツヴェル。あの女が来てからジルベールの運命は狂い始めた。いつのまにか使用人は刷新され、リリーとの仲さえ気まずくなっていくような気がした。


ヒュンッと耳の後ろで音がして、何か後頭部に当たる。叫び声をあげて地面に倒れ伏すと、男たちが5人がかりでジルベールの体を蹴り始めた。


腹や背を蹴られ、息をするたびに刺すような痛みが走る。


「おいてめえ、いいのかよ。嫁さん放って自分だけ逃げて」

「あ……ああ……」


このブローチは、リリーと街歩きに行った際に買ってやったものだ。貴族が身につけるような高価な品ではないが、平民にとっては贅沢品。大袈裟に喜んで、抱きついて、キスをして、…………。


「なんか持ってるぞ、こいつ」


手の中のブローチに目ざとく気付いた男が、手のひらをこじ開けてくる。抵抗するとこめかみのあたりにかかとが降ってきた。


「、………ぁ、……………」

「オイオイ殺すなよ」

「わかってるって」


視界がざらついて灰色になる。口の中に錆びた味が広がり、足は膝から下の感覚がない。


どうしてこうなった。


金の力で無理やり結婚させられた。ならばこちらも利用し尽くして、リリーと楽しく生きてやるつもりだった。


あの女さえ消えれば、リリーを後妻にできるはずだった。父がやっと死にそうで、公爵家の資金繰りも回復してきた絶好の機会だったのに。


タラを囮にして逃げれば、自分だけは助かるはずだった。金目のものは全て差し出したのだから、野盗の関心は若い女に向かうはずだった。


男たちが慌てふためく気配がする。馬のいななく声に蹄の音。暴行がやみ、ジルベールは森の中でひとり取り残された。





********************






「具合はいかがですか、旦那様」


ジルベールは王都の屋敷の寝室で治療を受けていた。王都に戻る途中で野盗から受けた傷は深く、医者は歩行は難しいだろうと言った。


両足が膝から捻れてしまったため、ベッドの天蓋から垂らした布で足を吊っている。寝返りさえ打てないので背中は床ずれが起きていた。


その傷の軟膏を塗る時が大変だった。背中を起こそうと腹に力を入れると、折れたあばらに激痛が走るのである。


両手も固定されているので、顔に蝿が止まっても振り払うことすらできない。


タラはベッドに横たわる夫に笑いかける。暴行により極端に視力が低下し、虚空を見つめていた。よく見ると白く濁っており、失明するのも時間の問題と言われてからぼんやりする時間が増えた。まるでしっかり焦点を合わせて見なければ、失うことを遅らせられると信じているかのように。


「今日は旦那様に報告があります」


返事がないのはいつものこと。タラは構わず枕元に椅子を引き寄せ、腰掛けた。


「懐妊いたしました」

「は?」


包帯を巻いた顔がこちらに向けられ、直後口元が歪む。痛いのだろう。どこもかしこも痛すぎて、具体的にどこが痛いと医者に説明できないほどらしい。


「貴様、おい、この売女。それは俺の子供ではない。ルツ公爵家に托卵か?いい度胸だ、母上に本当のことを言って、」

「いいえ。この子はあなたの子です」

「はっ、馬鹿が。この家の者なら全員知っている。俺がお前の寝室に通ったことはない」

「この家の者なら全員知っておりますよ。リリーが死んだ夜、私は旦那様と初夜を遂げました」

「…………なんの話だ?」

「したたかに酔っていらしたから、覚えていないのも無理はございませんね」


ジルベールは言葉もないようだった。呆然としている。半開きの口が、誰かにそっくりだった。


「これも全て旦那様のおかげでございます。あの日、助けを呼ぶ隙ができたのは、旦那様が野盗たちを森に引きつけてくれたおかげです。あの旦那様の勇気がなければ、この子もどうなっていたか」


突如ジルベールが絶叫した。だがその声は掠れて小さい。息も続かない。涙がいく筋も頬を流れ、胸を大きく上下させながら、それでも叫び声を上げ続けた。


「旦那様は、今や英雄ですよ。妻を野盗から命懸けで守った、素晴らしい夫」

「死ね!お前っ、お前が死ね!なんでお前だけ助かってる!」

「あらあら、そのように悲観的になられて。旦那様も助かったではありませんか」

「こんなの死んでるのと一緒だ!殺せ!殺せよ!」

「駄目ですよ。旦那様は死なせません」

「は、お前この後に及んで妻気取りか!虫唾が走る!貴様など公爵夫人の地位に目が眩んだだけの、」

「よくお分かりではないですか」


彼の言葉に深く頷く。好き勝手喚いていたように見えて、こちらの言葉を聞いてはいたらしい。ぴたりと悪罵が止んだ。化け物でも見る様な目でタラを見る。


「…………は?」

「そうです。その通りです。公爵夫人の地位が欲しいんです。そのために我慢して結婚したのに、死なれては台無しではないですか」

「………………」

「あなたが死んだら公爵夫人ではなくなってしまうでしょ?」


そこからのジルベールの暴れっぷりは目を見張るものがあった。ひとしきり暴れて、叫び声は痛みを耐える呻き声へと変わった。


「旦那様。私、あなたが荒れているところを見ると、カナブンを思い出すんです。ご存知ですか?虫のカナブンですよ」


タラは暇つぶしに持ってきていた刺繍を刺しながら、呻き声をあげる夫に話しかける。


「本当に小さい子供の頃の話ですよ。カナブンを捕まえて、片方の羽を曲げて、水たまりに落とすの。するとすごい勢いでもがき始めるんだけど、片方しか動かないものだから水の中で回転するのね。それが面白くって」


暴れすぎて、泣きすぎて、ジルベールがむせるように咳き込んだ。唾がかからないように一度腰を上げ、ベッドから椅子を離して座り直す。


「今思うと、本当になんて残酷なことをしたんだろうと思います。子供って時々ゾッとするほど残酷になれますよね。申し訳ない気持ちになります。だからあなたのこともね、今はそのお姿、面白くて仕方がないけれど、いつか、……10年か20年か経ったら、反省するかもしれません。やりすぎだったかもって」

「どこから、どこまで知っていた」

「何がでしょう?」

「なぜリリーがあの日、森へ行っていたんだ」

「ああ。猟犬を購入した報告が上がってきた時点でおかしいなと思っていました。でも誤解なさらないでね。あなたが何か企んでいることは分かりましたが、ちょっと脅かす程度のイタズラか、怪我をさせたいのか、殺したいのかまでは知りませんでした」

「白々しい…………」

「本当ですよ。あなたとリリー、どちらかに良心が残っていたなら防げた事故ですよ」

「良心、だと?」


ギロリと睨みつける、その目は少し焦点がずれている。


「貴様が、良心を語るのか、よりによって。金の力で俺とリリーの仲を裂き、リリーを殺したお前が。愛人の娘でありながらリリーを許せなかったお前が!」

「父をあんたと一緒にすんなよ、ボケが!」


あら。御免なさいね。私ったら本音が出てしまいましたわ。恥ずかしい。


「お父様は先の奥様をそれはそれは大事にしてたし、お母様も奥様を立ててたの。てか尊敬してたの、めちゃくちゃ。リスペクト、わかる?あたしたちの名前だって奥様がつけたんだからね?そういういい関係が築けてたから、奥様は亡くなる前に、お母様と再婚してくれたら安心だって、優しい手紙をお父様に遺してくれてたの。知ってんだろおい、有名な話だろ。おめえやリリーとは格が違うんだよ。そもそも種馬の役目すら果たせねえお前が愛人どうこう私に意見できると思ってんのか、あ?けじめつけろって話だろ。おい聞いてんのか。目逸らすな、こっち見ろ」

「お、お前、それが本性か」

「妻を犬に食わせようとする奴が囀(さえず)るな」


タラは刺繍に戻った。


「貴族も人間ですもの。妻以外の女性、夫以外の男性を愛してしまうことはままあるものです」

「………………」

「ですが愛と尊重は別でしょう?愛していなければ尊重できない、なんてことはございませんね。私が言っているのはそこです。聞いてらっしゃる?」

「貴様の言っているのは結局、愛はなくとも夜伽をしたい、恋人のように扱われたい、そういうことだろ」

「うーん、全然違います。私はあなたを愛していませんでしたが、屋敷を整え、社交の場は常にあなたを立て、領地や取引先から送られてくる品物の一番良いものを差し上げていましたよ」

「ああ。当たり前だろう、嫁いできたんだから。感謝しろってか?はいはいどうも。これで満足か?」

「ええ、よく分かりましたよ。あなたとの話し合いは無駄だってことが」


タラはベルを鳴らした。少しドアが開いて、男性の使用人が顔を覗かせる。


「旦那様と話はつきました。あの人たちに世話をさせることにします」

「連れてきます」

「はい、お願いね」

「おい。世話係は決まってるだろ。あいつらはどうした」

「旦那様があまりにご無体でいらっしゃるので、どんどん人が辞めていくんですよ。でも安心なさって。絶対に辞めない人たちを見つけました」


こんこん、扉がノックされる。どうぞ、と入室を許可すると、扉が開くと同時にジャラジャラと耳障りな音が部屋に響いた。

これにはジルベールも目を丸くして驚いている。連れてこられた3人の男たちは足枷をつけ、鎖で輪のように繋がれていた。


「ほら、ご覧になって。この男たちはね、リリーが私を襲わせるためにあの日引き連れていた男たちです」

「は!?なんの話だ!?」

「ぜひ直接お聞きになって。この人たちには、あなたの無聊をお慰めするお仕事がございますから。リリーの思い出話でもしながらお過ごしくださいな」


タラは立ち上がった。もうこの男の顔を見ることはない。


舅は危篤状態。姑は憔悴して、夫の次に息子の世話が待っていると思うと耐えられない、修道院に入りたいとこぼしている。南方の修道院を打診したら、喜んで向かうと返事があった。


修道院の待遇は、寄付金の額によって決まる。タラはビタ一文出すつもりは無い。


リリーに関する醜聞は、夫の英雄的な行為によって上書きできた。子供もいる。あとは無事にこの子が育てば、タラのルツ公爵夫人としての地位は盤石なものになる。


君を愛することはない、か。


部屋を出る。たとえ愛はなくとも、1人の人間としてタラを尊重してくれたなら。

ジルベールが猟犬にタラの匂いを覚えさせるために盗んだハンカチ。あれはポールがイニシャルを刺繍してくれた物だった。


どこを探しても、見つからない。











最後まで読んでいただきありがとうございます。評価、感想とても嬉しいです。


おもしろかったな〜! → 星5♡

普通だね♡ → 星3!

もっと精進して♪ → 星1押してください…。


次回作の参考にします。

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面白かったです! はにゃって言うキャラクターを久しぶりに見てとても良かった。旦那様は愛さなくても尊重さえしていれば金持ちの嫁と可愛い愛人を持てて完璧な人生だったのにもったいない・・・ 主人公がとても素…
ここまで懇切丁寧に説明されて理解できないのか・・・ 甘やかされて育った知足らずって本当に救いようがないな
読み応えが凄かった・・・
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