胸が小さいのは好みではない、と言って私を振った勇者が、私の店で聖女といちゃついています
王都で屈指の一流バー『黒のレディ』の店内は、恐怖と緊張感に満ちていた。
「勇者様。私のこと、好き?」
「大好き」
「うれしいわぁ」
緊迫した空気をまるっと無視した会話が店内に響く。
勇者の横にぴったりと座った女は、その筋肉質な上腕に細い腕を巻きつけた。女は長いまつげを伏せ、黒髪を揺らしながら豊満な胸を勇者の腕に押しつけた。
勇者エイデンは、でれ、と一気に鼻の下を伸ばした。
彼らが座るカウンターの向こうには、店主のグレアナがそっぽを向いてダンジョン産の特製グラスを磨いていた。
一見平常業務のように見える。だが、彼女の顔からは、一切の表情が抜け落ちていた。
それがどんな意味を持つのか察して余りある常連客たちは酒と固唾を飲んでカウンターを凝視していた。
「店が半壊するかも……」
「おれたち、生きて帰れるだろうか」
「命の心配をするべきは勇者だろう。……て、きみ、大丈夫?」
客たちは一人の男が真っ青になっていることに気づき、そっと水を渡した。前髪の長い三十路くらいの男は、震える手でグラスを受け取った。
エイデンは目尻を下げ、へらりと笑った。
「なあ、グレアナ、彼女、最高だろう?」
青い目を輝かせて言った。
「ソウナンデスノネ」
グレアナは黒手袋をはめた手でグラスを磨きながら棒読みで答えた。
エイデンの口が尖った。
「彼女は僕の聖女なんだよ。もっと敬意を払ってくれ」
グレアナはちらりと横の女を見た。
女の翡翠色の目が、にたあ、と細くなった。
「歴代聖女の証である黒髪と翡翠色の目。少し緑が濃すぎる気もするけど、左手の甲には聖女の印もある。これで魔王討伐の予算が下りる。ここまで長かった」
エイデンは一人で何度もうなずいた。聖女はエイデンの言葉の順を追うかのように、髪を指ですき、左手の甲をグレアナに見せた。
彼女の刻印を見たグレアナは微かに目を細めた。
「それはよろしゅうございました。で、先触れにあった重要なご報告は以上でございますね。お引き取りを」
「グレアナ、冷たい! なんで敬語なの」
グレアナはキッとエイデンをにらんだ。
「前回、出禁と言いました。それを曲げて店に通したのは、勇者として緊急の報告があると伺ったからでございます。もう伺いましたのでお帰りください。以降はなにがあっても出禁です」
「聖女が見つかったんだぞ。祝いの定食を出してよ。二人分」
「当店には定食メニューはございません」
「いつも出してくれてたじゃん」
「過去のことでございます」
「だからなんでそんな口調なの? いつものグレアナにもどってよ」
グレアナは、つんと横を向いた。
「やぁだ、妬いてるの?」
隣の聖女がくすくす笑いながら言葉を挟んだ。
店内の温度が一気に下がった。客たちの顔が青くなった。
聖女はエイデンの胸に頬を寄せ、細い両腕を彼の首に巻きつけた。
「私が彼をとったから悔しいんでしょう? だからむくれた顔をしているんだわ」
グレアナはゆっくりと顔を聖女に向けた。黒みを帯びた濃茶の髪がひと房、肩から胸元へ落ちた。
グレアナは澄んだ翡翠色の目を細め、口角をわずかに上げた。
「おめでとうございます。よろしゅうございましたわね。わたくしからのお話は以上でございます。おふたりとも末永く。ではお引き取りを」
カウンターを挟んだ聖女とグレアナの間に、見えない火花が散った。
「私、あなたより勇者様をもっと幸せにして差し上げることができますのよ、物理的に。たとえば」
聖女が黒く塗られた爪でエイデンの首を軽くひっかいた。
エイデンの体が微かに震えた。
「なにこれ、ぞくっとなった」
エイデンの目に、期待と驚きの色が浮かんだ。
ボックス席から「ひぃっ」と悲鳴が聞こえた。
グレアナは目だけを動かして声の主を探した。
魔王だ。
ボックス席の隅っこで、水の入ったグラスを握りしめたまま、真っ青な顔で体を縮こまらせて震えていた。
聖女はもう片方の手をエイデンの頬にあて、自分へ視線を向けさせた。
「あなたの大事なところ、私が締めてあ・げ・る」
聖女の指先が、エイデンの首筋を艶めかしく撫でた。
「えっ……」
エイデンの頬がさっと紅潮した。
「僕、品行方正が義務で……でも……」
「ひぃぃ」
エイデンの逡巡する声に、悲鳴が重なった。
魔王だ。
彼は耳をふさいで涙目になっていた。
グレアナは慌ててカウンターを出て、魔王の席へ向かった。
「あらあ、逃げ出すの?」
聖女が嘲笑を含んだ声をグレアナの背に投げかけた。だが、グレアナにとって大切な常連客の様子の方がよほど大事だ。特に、開店から閉店までほぼ毎日いる魔王は、上客中の上客である。
「魔王さま、大丈夫?」
魔王は小刻みに震えながら顔を上げた。口元を震わせながら、絞り出すような声で言った。
「あ、あいつ……私の婚約者で」
「え」
グレアナはカウンターの真ん中でいちゃつくエイデンと聖女を見た。
「婚約者って、あの聖女?」
魔王は何度もうなずいた。
カウンターから嬌声が聞こえた。
「期待してて。気持ちよく締めてあげるから。極上の快楽を約束するわ」
先ほどまでなんとか理性を保とうとしていたエイデンの顔は、とうとうだらしなく緩み切った表情になった。
聖女の指先が何度もエイデンの首を撫でまわした。
魔王が自分の首に手を当て、
「ひぇぇぇぇ」
と情けない悲鳴を上げた。
「あれが締めるのは首!」
「え?」
「あれの正体は蛇! 猫を被った蛇! 猫蛇!」
「猫蛇って」
彼女の頭に三角耳はない。
「狙った者の首に尻尾を巻きつけて、うろこの間から微細な針を刺してそこから幻覚剤を注入するんだよ! その前に唾液で恍惚を与えて……あ、まずい」
エイデンのだらけきった顔に、聖女が顔を近づけた。彼女の口元から、赤い舌がちろりと出ている。
「今夜、私と……」
ピ―――ッ!
店内にけたたましい音が走った。
びくっ、と魔王の方がはねた。
開店当初からの客たちは、「鳴ると思った」としたり顔でつぶやいた。
魔王が目を丸くした。
「なに、この音」
「不適切発言抑止用魔道具よ」
グレアナが答えた。
「なんでそんなもん」
「うちの店は倫理観を保った空間を目指しているから。でも」
グレアナは黒手袋の上から、親指の爪を悔しそうに嚙んだ。
彼女の目線の先で、青少年には見せられないほど、エイデンと聖女がさらにいちゃついていた。
魔王は、今度は自分の口元を両手で覆いながら言った。
「きみが素直にならないから」
「違うわ」
「なにが」
グレアナはじろりと横目で魔王をにらんだ。
「……不適切な行動への対策魔道具を設置していなかったことが悔しいのよ。今度、モザイクがかかる魔道具を作ってもらわなくては」
「……」
魔王があっけにとられている間に、グレアナはポケットから携帯用メモシートを取り出し、「モザイク魔道具」とつぶやいた。メモの表面に、言葉通りの文字が浮かび上がった。内容を確認したグレアナは、
「即刻発注して」
と言うと、メモシートの表面が明滅して、半透明の鳥になった。
鳥はそのままグレアナの頭上を一周すると、ふっと姿を消した。
簡易版の連絡用魔道具だ。だが、メモシートが鳥へ変わるのはそこそこ値が張る上位機種だ。
グレアナはメモシートをポケットにしまった。
「それで、あの方が魔王さまの婚約者というのは?」
魔王ははっとなった。
「婚約は先代が決めた話だ。私は了承していない」
「婚約者として認めていないと?」
「もちろんだ」
「だったらさっさと婚約を解消すれば? そもそもあなたの目の前で浮気をしているんだから、不貞を理由に堂々と解消できるでしょう」
「できるならとっくにしている!」
魔王はまた涙目になった。
「あれは私を丸呑みしようと手ぐすねを引いて待っているんだ!」
魔王は自分の体を包むように腕を回した。
「私がまだ子供のころ、あいつに一度味見されたんだ。首をぺろって舐められて『好みの味。決めたわ』って言われた。あの時の恐怖心!」
「ああ、唾をつけられたのね」
「変なこと言わないでくれ!」
魔王が半泣きになった。グレアナは小さくため息をついた。
「でも、魔王さまの話によると唾液は快楽を与えるのでは?」
「経皮毒は私には効かない! 魔王だから! たぶん経口毒もほぼ効かない! 試したことないけど」
「えええ。……清い関係だということはわかったわ。じゃあ、丸呑みされるときって」
「恐怖しかない!」
ひーん、と魔王が情けない声を出した。
「で、逃げ回ってこの店にいつもいると」
「そう! 私はまだ死にたくない!」
「本音は?」
「ここでずっとのんべんだらりとしていたい!」
魔王の周りの空気が一気に冷えた。
「今の声……」
魔王は恐る恐る横に首を巡らせた。
そこにいたのは、腰に手を当てた聖女で彼の婚約者だった。その横に、窮屈そうに腕を組んだグレアナが呆れた顔で立っている。
「げ」
魔王の顔が真っ白になった。
「いつのまに」
聖女はぎろりと魔王をにらんだ。怒りのせいか、両目の緑の色味が一層濃くなっている。
「なかなか魔界で捕まらないからとあなたの臭いをたどって人間界に来てみれば! 酒ばっかり飲んで! 書類の山に埋もれた魔界の側近たちが頭を抱えているのにあなたときたらもう!」
蛇女が口をくわっと開けた拍子に、上顎についた鋭い牙が、シャンデリアの光できらりと光った。
「ひいいいいいいっ」
魔王が店中に響く情けない悲鳴を上げた。
「帰るわよ!」
蛇女は魔王の首根っこを掴んだ。
「待て! 勇者はどうするんだ! おまえ、何代前か知らんが聖女を丸呑みしてコピーしたんだろう! だったら調印式まで人間界の城にとどまらないといけないはずだ!」
蛇女は鼻で笑った。
「ずっと昔、病気で苦痛の中にいた聖女に頼まれて呑んだだけよ。それに今代の聖女はちゃんといるでしょ」
ちらり、と蛇女はグレアナに目を向けた。グレアナはすい、と顔をそむけた。
「そもそも聖女の能力だけは、私でもコピーできないのよ。魔界人には毒だし」
「……そうなのか」
「私のこと、知らなすぎ」
蛇女は魔王の頬を抓った。
「痛い!」
「私が与えるのはいつも快楽とは限らないのよ」
帰るわよ、と言った蛇女の体の輪郭がぼやけ始めた。ぐにゃりと潰れて体のあちこちの線が不気味に蠢いた。
「グロテスクな……」
客が慄くなか、聖女の姿をしていた蛇女は、銀髪に黒目の、ぞっとするほどの美貌を持った美女の姿に変わっていた。
ほう、と客たちのため息が漏れた。
「これなら丸呑みされても本望かも」
「あら」
つぶやく男に彼女は流し目を送った。男の頬がさっと紅潮した。
「やめておけ!」
魔王はあわてて男の視界から彼女が見えないように立ちふさがった。
蛇女は口元に指先を当てて微笑した。
「あら、焼きもち?」
ちょっぴり頬を赤らめた魔王は口を尖らせた。
「世界平和のためだ」
「店内で勧誘は禁止行為にあたります」
「ここ、本当にバーなの?」
「王都一を目指しております」
グレアナはしたり顔で答えた。
「ですので」
グレアナはいまだ首根っこを押さえられた魔王をちらりと見ると、
「今夜はもうお二人ともお帰りいただきたいと存じます」
「あれは?」
蛇女がカウンターへ顎をしゃくった。
そこには焦点のあってない目を宙へ向けたままのエイデンがいた。背中を丸めて、今にもスツールからスライムのようにどろりと床に落ちそうだった。
「あれも、お引き取りいただくか、すぐに正気に戻していただければそのまま放置でもかまいませんが」
「あ、そう」
蛇女はパチンと指を鳴らした。
エイデンの体がびくびく、と痙攣した。その拍子に、エイデンの体がずるりとスツールからずり落ちて、どすんと勢いよく尻もちをついた。
「いったあ」
エイデンが顔をしかめた。
「あれ、僕……」
きょろきょろとあたりを見回す。
グレアナと目が合い、エイデンはにこっとした。
「グレアナ! 店に入れてくれてたの? 出禁は解かれたってことだよね?」
よくわからないけどよかったあ、と床に尻もちをついた格好のまま、はしゃぎだした。
グレアナは額に黒手袋の手を当てて、顔をしかめた。
「……やっぱり、両方お引き取りいただけません?」
蛇女はくすりと笑った。
「あなたたちこそ、話し合いが必要ではなくて?」
周囲の客たちがそろって三度頷いた。
グレアナの顔が嫌そうに歪んだ。
「私はこのまま、魔王さまを魔界城へ送ります。側近たちに泣きつかれてたいへんだったから、しばらくは彼に巻きついて監視します」
「そんなあ」
魔王の情けない声が響いた。
「おだまり」
蛇女の尻尾がドレスから伸びてきて、ぐるぐると魔王の胴体に巻かれた。
「ひいいいいい! 怖い! また夢に見るからやめて!」
「暴れない! 魔王なら魔王らしくしゃんとなさって」
「いやだあああ! グレアナ、きみならなんとかできるだろう! こいつをとめてくれぇぇぇ!」
「おことわりします」
グレアナがきっぱりと言った。
「そうなりますわよねえ」
蛇女がグレアナににっこりと微笑んだ。
「お互い、情けない伴侶を持つと苦労しますわね」
「私には伴侶はいません」
「私とエイデンのいちゃつきを見て、内心、はらわたが煮えくり返っていたでしょう? 蛇の肌は、温度に敏感なのよ? いたずらして悪かったけれど、少しはスパイスになったでしょう?」
「魔王さまがこの店にいると知っていて、わざとエイデンに?」
「だって、あの人、私から逃げ回っているくせに、私がほかの男に触ると黙っていられないもの」
蛇女は緩く、目を細め、そっと彼女の耳に顔を寄せた。
「先代の聖女から伝言よ。『歴代の聖女は意地っ張り。だからいつも遠回りと苦労をしてきた。あなたは素直になってね』ですって」
蛇女は黒手袋に包まれたグレアナの左手をそっと握った。
微かに顔をしかめ、すぐに手を離した。
「痛っ。やっぱり本物の聖印は魔界人には毒ね」
蛇女は手首を振った。
「私のは形を写しただけ。あなたのは本物。本物は手袋越しでも魔界人には反応する。こんなに強い聖印なのに、いつまで彼に隠しておくの?」
「グレアナぁ」
尻をさすりながらエイデンが近寄ってきた。
グレアナは慌てて両手を後ろへ回した。
「グレアナ、僕にもその彼女、紹介して」
蛇女に向けた目を輝かせて、エイデンが言った。
「あなた、彼女のことを覚えていないの?」
「ん? 初対面だけど?」
蛇女はくくっと笑った。
「さっきまでのことはきれいさっぱり忘れているから」
蛇女はまた小声でグレアナに囁いた。
「あとのこと、よろしくね」
黒い瘴気が魔王と蛇女の体を包み、二人はすっと姿を消した。
「……行っちゃった。綺麗な子だったのに」
残念そうにエイデンが言うと、
「彼女は魔王さまの婚約者よ」
グレアナはまたつん、とエイデンから顔をそむけた。
客たちがにやにやし始めた。
「ええ、魔王ばっかり巨乳の美女の婚約者ってずるくない?」
グレアナは眉尻をあげた。
「あなたは出禁! さっさと出て行って!」
「胸の大きさは、グレアナの勝ちだから」
「そんななぐさめ、嬉しくない!」
「顔だって、かわいいし。彼女は美人だけど」
「なぐさめになってない!」
「料理はきっとグレアナの方が上手」
「彼女の手料理食べたことないくせに」
「食べなくてもわかるよ。だって」
エイデンは、彼女が後ろに回した右手をそっと引き寄せた。剣ダコのある手が、黒手袋越しにグレアナの手を包んだ。
「頑張ってきた手をしているのは、グレアナだからね」
グレアナの頬がほんのり染まった。
エイデンがそっとグレアナを覗き込むように身をかがめた。
「グレアナの定食が、その証拠。だから」
「……だから?」
グレアナの声が微かにうわずった。
「いつもの定食を頂戴。おなかすいた」
店中が、しんと静まり返った。
だれも、動けなかった。
「……」
グレアナの顔が、みるみる赤くなった。
「グレアナ?」
グレアナはポケットへ手を入れた。
ビッタ―――ン!
「いったあぁぁぁぁ」
エイデンが頭を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
グレアナは肩で息をしながら、携帯用メモシートを横に持って叫んだ。
どうやら、シートの横の金属部分で叩いたらしい。
客たちから、
「痛そう……」
と、声が漏れた。
「自業自得では」
別の客が言うと、みんなが頷いた。
「エイデンってほんっとうに最低! 出てって頂戴! もう顔も見たくない!」
つまみだして、と声を掛けられ、男性店員が音もなく店内に入り、うずくまるエイデンを回収し、ずるずる引きずりながら戸口から出て行った。
「グレアナぁ」
扉の向こうから、情けない声が響いた。
「しーらない!」
べー。
グレアナは戸口に向かって、赤い舌を出した。
客たちは一斉にため息をついた。
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