プロローグ
辺境の村、ルナールの朝は早い。
私、リーネは、東の地平線からうっすらと黄金色の朝日が差し込むと同時に寝床を抜け出し、使い古してあちこちがすり減ったゴム長靴に足を突っ込んだ。
「んーーーっ! 今日もいい天気。絶好の畑仕事日和ね」
パジャマ代わりの麻のワンピースの上から、土汚れの染みついたエプロンをきゅっと結ぶ。木造りの小さな窓を開ければ、ひんやりとした朝の空気が室内に流れ込んできて、まだ半分眠っていた頭がシャキッと冴え渡っていくのが分かった。
木製の手すりに手をかけ、トントンと小気味よい音を立てながら階段を下り、家の裏手にある小さな家庭菜園へと向かう。
しかし、柵を開けて畑に一歩足を踏み入れた私の視界に飛び込んできたのは、なんとも悲しい光景だった。
「あちゃあ……やっぱり、今日も元気がないわね」
そこに並んでいるのは、私が丹精込めて育てているトマトの苗たちだ。本来ならこの時期、青々と茂った葉の隙間に小さな黄色い花を咲かせ、瑞々しい実の赤ちゃんを実らせているはずだった。けれど、今の苗たちはどれも茎が細く、葉の先は茶色く縮れて、地面に向かってがっくりと頭を垂れている。
このルナール村は、王都から馬車で丸一ヶ月はかかる、文字通りの「見捨てられた土地」だ。
数年前から大陸全土を襲っている『魔力枯渇現象』の波は、この辺境の地にも深刻な影を落としていた。大地の底を流れる魔力の龍脈が細り、土はカサカサに痩せ細り、井戸から汲み上げる水には作物を育てるための生命力がほとんど含まれていない。
村のベテラン農家たちでさえ「今年はもう何も育たん」とサジを投げてしまい、村人たちは皆、細々と蓄えを切り崩して、暗い顔で毎日を過ごしている状況だった。
けれど、私には落ち込んでいる暇なんてない。
何せ私には、三背前にこの世を去った、最愛の、そしてちょっと変わったおじいちゃんから受け継いだ『秘伝の園芸ノート』があるのだから。
「よし、それじゃあ。元気のない可愛い子たちのために、特製の『おやつ』を作りましょうか!」
私は腕まくりをすると、納屋の奥から、私のお腹の高さまである古びた大釜を引きずり出してきた。おじいちゃんが昔から愛用していた、年季の入った鉄釜だ。
まずは火床に薪をくべ、パチパチと小気味よい音が鳴るまで火を熾す。そこに井戸から汲んできた水をなみなみと注ぎ、湯気が立ち上るのを待つ間に、庭の隅へと向かった。
ターゲットは、畑の周囲にこれでもかと繁茂している「青紫色の雑草」だ。
この草は、トゲだらけで引き抜くのも一苦労なため、村の人たちからは「畑を荒らす厄介草」として毛嫌いされ、見つけ次第、根こそぎ燃やされている。けれど、おじいちゃんのノートには違ったことが書かれていた。
『リーネや、あのトゲトゲ草はな、土の精霊が大好物なお茶の葉っぱなんだ。人間にはただの雑草に見えても、大地にとっては極上のご馳走なんだよ』
そんなおじいちゃんの言葉を思い出しながら、私は素手でトゲトゲの草を適当にむしり取り、大釜の中へ容赦なく放り込んでいく。
(※実際のところ、この雑草は一株で高位魔術師の魔力を全回復させる、絶滅寸前の伝説的聖草『エリュシオン・グラス』なのだが、リーネは知る由もない)
「次は、コクを出すための隠し味ね」
私はエプロンのポケットから、小さな巾着袋を取り出した。中に入っているのは、裏山を散歩しているときに見つけた「綺麗な七色の模様が入った石」を、すり鉢で細かくすり潰した粉末だ。キラキラとガラスのように輝くその粉を、お塩を振るような手つきでパパッと大釜に投入する。
(※これは数万年前に絶滅した神代の超古代龍の骨の化石、通称『神結晶』であり、ほんの耳かき一杯で国家最高峰の結界を維持できるほどの超高濃度魔力塊なのだが、リーネにとってはただの「よく光る綺麗な砂」である)
「そして最後の仕上げは、やっぱりこれ!」
私がよいしょと持ち上げたのは、木製のバケツに入ったドロドロの物体。それは、たまに畑に迷い込んでくる、体長が家ほどもある巨大なイノシシ(村人は『災害級魔獣:グランドボア』と呼んで命からがら逃げ惑う)が、庭に残していった「落とし物」……つまりはフンである。
「これをしっかり混ぜて、発酵させると良い肥やしになるのよねえ」
私は木の大ヘラを両手で握りしめ、大釜の中身をグツグツと力一杯かき混ぜ始めた。
普通なら、生ゴミやフンを煮込んでいるのだから、鼻が曲がるような悪臭が立ち上るはずだろう。しかし、おじいちゃんの秘伝の配合が奇跡的な化学反応を起こしたのか、大釜からは次第に、果実のシロップを煮詰めたような、あるいは最高級のハチミツを焦がしたような、脳の奥がとろけるほどに甘く、芳醇な香りが漂い始めた。
「うん、いい匂い! 仕上げに、昨日の夜からバケツに集めておいた朝露を混ぜて……よし、完成!」
大釜の中を満たしていたのは、どろりとした液体だった。
ただ、その色は一般的な肥料のそれとは完全に一線を画していた。まるで真珠を溶かしたかのように白く濁り、陽の光を浴びて七色にギラギラと発光している。時折、水面にパチパチと小さな稲妻のような青い火花が散っていた。
「うーん、ちょっと発光が強いかしら? ま、おじいちゃんが作っていた肥料は、もっとド派手に爆発してた気がするし、これくらいなら『普通』の範囲内よね」
私は納得顔でうなずくと、その七色の液体をじょうろに移し替えた。ずっしりと重いじょうろを抱え、しおれたトマトの根元へと一歩ずつ近づいていく。
「みんな、お待たせ。美味しいおやつを持ってきたよ。これを飲んで、元気になってね」
優しく声をかけながら、私は輝く液体をトマトの株元へと均等に注いでいった。土がジュワジュワと音を立てて液体を吸い込んでいく。
その、直後だった。
――ズズズズズズズズッ……!!
突如として、足の裏から強烈な地鳴りが響いた。小刻みな振動が私の膝を震わせ、畑を囲む木製の柵がガタガタと悲鳴を上げる。
「ひゃあ!? な、なに? 地震!?」
慌ててじょうろを地面に置き、近くの木にしがみつこうとした私の目の前で、信じられない現象が巻き起こった。
肥料を吸い込んだトマトの苗が、まるで意思を持つ生き物のように、猛烈な勢いで蠢き始めたのだ。
茶色く枯れかけていた葉が、一瞬にして深いエメラルドグリーンへと染まり直す。それだけではない。親指ほどの太さしかなかった茎が、メキメキ、バキバキと音を立てながら、人間の腕、大腿、そして大人の胴体ほどの太さへと急速に膨れ上がっていく。
「な、なになに!? ちょっと、成長早すぎない!?」
早すぎるなんて生易しいものではなかった。
トマトの苗は猛烈な勢いで天に向かって、文字通り「射出」されるかのように伸びていく。一瞬にして私の背丈を追い抜き、我が家の二階の屋根を軽々と超え、さらには村のシンボルである時計塔よりも高く、空へ向かって巨大な枝葉を広げていく。
ほんの数十秒の前まで「しおれた雑草のよう」だったトマトは、今や太い幹を持つ、世界樹の縮小版のような『トマトの大樹』へと変貌を遂げていた。
そして、その巨大な枝のあちこちに、ポコポコと赤ん坊の頭ほどもある巨大な実が実り始めた。
その実は、磨き上げられた最高級のルビーのように、内側から神聖な赤い光を放っている。皮の表面は瑞々しい朝露を弾き、周囲には、嗅いだだけで全身の血流が激しく巡りだすような、圧倒的に濃厚な甘い香りが充満していった。
「……これ、トマト、よね? 私、普通のトマトの種を植えたはずなんだけど……」
呆然と口を開けて、天を衝くトマトの巨木を見上げていると、畑の柵の向こうから、ガタゴトと激しい音が聞こえてきた。
「おいおいおい! リーネちゃん! 朝っぱらから地響きがしたと思ったら、一体全体何の騒ぎじゃあぁぁぁ――っ!?」
やってきたのは、隣の家に住んでいるハンスさんだった。今年で御年七十八歳。長年の過酷な農作業によって腰は完全に直角に曲がり、普段は一本の頑丈な杖を頼りに、一歩進むのにも数十秒かかるようなおじいちゃんだ。最近は白内障も進み、「目が霞んでリーネちゃんの顔もよく見えんわい」と溢していたのだが。
そのハンスさんが、持っていた木製の杖を地面にポロリと落とし、あんぐりと顎が外れそうなほど口を開けて立っていた。彼の視線は、天に向かってそびえ立つ、光り輝くトマトの塔に釘付けになっている。
「あ、おはようございます、ハンスさん。ちょっと元気がなかったから、肥料を奮発してみたんです。そうしたら、なんだか少し育ちが良すぎちゃって」
「育ちが良いのレベルを超えとるわ馬鹿者ーーーっ!!」
ハンスさんは見たこともないような大声で絶叫した。その顔は恐怖と驚愕で真っ白になっている。
「お前さん、見えんのか!? あの植物から放たれている、天をも焦がさんばかりの圧倒的な魔力の奔流が! 枯れ果てていたルナールの地が、あの実がなった瞬間に、まるで聖域のように清らかな空気に塗り替えられていっとるんじゃぞ!?」
「ええ? 魔力って言われても、私にはただの大きくて美味しそうなトマトにしか見えませんけど……。そうだ、せっかくですから一個食べてみます? ちょうど重みで落ちてきそうなのがありますし」
私はそう言うと、ちょうど私の胸の高さあたりまで垂れ下がっていた、ひときわ大きく、ルビーのように真っ赤な一玉を両手で包み込むようにしてプチッと収穫した。ずっしりとした重みがあり、触れているだけで手のひらがぽかぽかと温かくなってくる。
「ほら、どうぞ!」
「ひ、ひえぇっ……! 迫力が凄すぎて、とても食い物には見えん……。しかし、そこまで言うなら……」
ハンスさんは生まれたての小鹿のように手足をガクガクと震わせながら、両手でトマトを受け取った。そして、意を決したように、その真っ赤な皮に前歯を立てた。
――シャクッ……!
静かな朝の畑に、信じられないほど小気味よい、瑞々しい音が響き渡る。
その瞬間、トマトの果肉から溢れ出た溢れんばかりの果汁がハンスさんの口内に広がった。
「――ッ!?!?!?」
ハンスさんは声を失い、目玉が飛び出んばかりにカッと目を見開いた。
次の瞬間、彼の全身から、ドッ! と信じられないほどの黄金色の光が噴き出したのだ。
「ひぎゃあああああああ!? 熱い! 体の芯から、何か凄まじいエネルギーが暴走しとるようじゃあああ!」
「ハンスさん!? やっぱり腐ってた!? すみません、今すぐ吐き出してください!」
私が慌てて彼の背中を叩こうとした、その時だった。
パキパキ、ボキボキボキッ! と、ハンスさんの体内から骨が鳴るような凄まじい音が響く。
驚くべきことに、これまで九十度に近く曲がっていたハンスさんの腰が、まるで強力なバネで弾かれたかのように、ピン! と真っ直ぐに伸び上がったのだ。
「え……? ハンス、さん……?」
「お、おおお……? 足が、軽い……? 万年悩まされていた神経痛が、一瞬で消え去った……? いや、それだけではないぞ……!」
ハンスさんの体に、さらなる異変が起きる。
深く刻まれていた顔のシワが、内側からアイロンをかけたかのように見る見るうちに薄くなっていく。カサカサだった肌にはち切れんばかりのみずみずしいハリが戻り、真っ白だった髪の毛の根本からは、ツヤツヤとした健康的な黒髪が急速に生え変わってきた。
一分と経たないうちに、目の前に立っていたのは「ヨボヨボの老人」ではなく、背筋が凛と伸びた、働き盛りの四十代にしか見えない『超絶ナイスミドル』に変貌したハンスさんだった。
「目が……見える! 遥か彼方の山の木々の葉の一枚一枚まで、恐ろしいほどハッキリと見えるぞ! それに、この溢れんばかりの力はなんだ……! まるで、二十代の全盛期に戻った、いや、それ以上の力が全身に満ち満ちておる……!」
ハンスさんは自分の両手を何度も握り締め、信じられないといった様子で自分の体をペタペタと触っている。
「リーネちゃん……お前さん、これはトマトなんかじゃない。一口食べただけで、細胞が完全に再構成され、肉体が若返り、寿命が数百 y年ほど延びた感覚がある……。これこそが、古の神話にのみ登場する、あらゆる不治の病を治し不老不死を得るという伝説の神薬『エリクサー』……いや、それ以上の『神代の霊薬』じゃ……!」
ハンスさんは熱い涙を流しながら、私の肩をガシッと掴んだ。
「一体、何を混ぜたらこんな恐ろしいものが作れるんじゃ!? 王宮の最高位錬金術師たちが国家予算を何年注ぎ込んでも作れなかった奇跡の結晶が、なぜこんな田舎の畑にある!?」
「ええ~……? ですから、おじいちゃんのノートの通りに、そこらへんのトゲトゲした雑草と、裏山のよく光る砂と、大きなイノシシのフンを混ぜて煮込んだだけですよ?」
「そんな材料でエリクサーができてたまるかァァァァァーーーーーッ!!」
ハンスさんの魂の底からの絶叫が、静かなルナール村の朝の空気にどこまでも響き渡っていった。
ハンスさんはその後も「信じられん、これは国家がひっくり返るぞ……!」とブツブツ呟きながら、杖を置き忘れたまま、二十代のような軽い足取りで脱兎のごとく去っていった。
残された私は、天高くそびえ立つトマトの大樹を見上げながら、ぽりぽりと頬を掻いた。
「うーん……どうやら私の『普通』は、世間一般の『普通』とは、ほんの少しだけズレているみたい」
でも、まあ、いっか。
元気のなかったトマトはこれ以上ないくらい元気に育ってくれたし、お隣のハンスさんも(若返りすぎて誰だか分からなくなったけど)元気になって喜んでくれたんだから。
野菜が美味しく育って、みんなが笑顔になる。畑仕事なんて、それが一番大切なことだもの。
「よし、それじゃあ、今日も張り切って、残りの畑の分のおやつも作っちゃいましょう!」
私は楽しげに鼻歌を歌いながら、再び大釜のヘラを握り直した。
……この時の私は、まだ本当の意味では理解していなかった。
私が「生ゴミのリサイクル」程度に思っていたこの肥料が、のちに利権に目を眩ませた隣国の軍隊を物理的にひれ伏させ、世界最強と謳われる天龍を我が家の「番犬」として志願させ、挙句の果てには全世界のパワーバランスを徹底的にめちゃくちゃにしてしまうなんて。
勘違いだらけの、無自覚な私の辺境家庭菜園スローライフ(のつもり)は、こうして盛大に幕を開けたのだった。




