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四話 トリコ(前編)

 ごうごうと風が吹き荒れていた。

 魔界の最深部に属する『穴』は、ぽかりと深淵の口を開け、異界の大気が目に見える形で噴き出している。

 穴の周囲に、二人の男女が立っていた。

 ゴーグルと長い皮のコートを身に着けた、がっちりした体格の男と、すらりと手足の長い、赤毛の女。

 目に見える風に煽られながら、二人は穴の淵をのぞき込んだ。

「お前は残れ」

 女の肩に手を置いて、男は言った。

「嫌だ」

 女は即座に答えた。

 追っ手が来ていた。

 今ここで追いつかれたら、二度と『あれ』を捕まえるチャンスは無くなるだろう。

 それが、どういう事態を引き起こすのか、おぼろげにだが女にも分かっていた。

 世界が、壊れるかも知れない。

「あんた一人じゃ無理だ。私も行く」

「バカな事言うな。その子を殺す気か」

 女は、自分の腹を両手で押さえて、男を見上げた。

「それは…」

「絶対、戻って来る」

 女をぎゅっと抱きしめてから、男は走り出した。

 しばらく男を見送ってから、女は振り返った。

 追っ手はすぐそこまで来ていた。

 大半は、顔見知りの同僚だった。

 先頭に居るのは、昔コンビを組んでいた青年だ。

 今は、本部で割と出世したと聞いている。

「ビーストマスター・トリコ。君には本部から捜索願が出ている」

「へぇ、私も有名になったね」

 女は、両手をだらりと垂らした無防備な姿勢で、追っ手を見た。

「そこを退いてハンニバルを引き渡せ。今ならまだ、懲罰の対象にはならない」

「そう。本部も優しくなったね」

 女は俯いて、少し笑った。

「でも、断る」

 右手の指先がぶうんと震えた。

 湧き出す様に、得体の知れない怪物が、指の間から躍り出た。

「襲え」

 がぱりと怪物の口が開いた。

 そのまま、長い体をくねらせて、泳ぐ様に空中を走り、追っ手を飲み込み、なぎ倒した。

 男は、穴の淵に立った。

 ゴーグルを押し上げ、見慣れた優しい目が、こちらを見た。

 それから、意を決した様に、穴の中に身を躍らせた。

 怪物がふいに消えた。

 女は、両手を上げて、追っ手の中に踏み出した。

「終わった。投降する」

 無数の手に捕らえられ、地面に組み敷かれた。

「君には失望したよ、トリコ」

 青年は、女を見下ろして言った。

「私もだよ」

 女は、セリフを切り返した。

「連れて行け」

 捕らえられて引きずられながら、穴の淵を見た。

 そこにはもう、誰も居なかった。





 その日鯖丸は、めずらしく仕事の事でジョン太に叱られたので、少し落ち込んでいた。

 別に魔界に入る予定とかは無かったが、保険の更新手続きが必要だったので、事務所に顔を出したのだ。

 最初にこの事務所に面接に来てから、一年と少しが過ぎていた。

 色々ひどい目にも遭ったが、待遇は悪くないし、仕事にも慣れて来た。

 相変わらず電車に乗らないで走って来て、雑居ビルの階段を駆け上がると、昼休みなのか事務所はもぬけの殻だった。

 不用心だと思いながら給湯室へ行くと、事務の斉藤さんが昼寝をしていた。

 起こさない様にカップ麺を作って食っていたら、電話が鳴った。

「はぁい、NMC中四国支所でーす」

 鯖丸が電話に出た時、その辺で昼飯にざるそばを食ったジョン太が、戻って来た。

 嫌な予感がしたので、すぐに別の電話から受話器を取った。

「あの…西谷商会さんですか。お願いしたい事が…」

 電話をこちらに切り替える間もなく、鯖丸は即答した。

「えー、違いますよ。うん…間違い電話には気を付けてね」

「うわー、このバカ」

 受話器を置いた鯖丸を、ジョン太はスリッパでぶん殴った。

 すぱーんとアホそうないい音がした。

「ええ?何」

 鯖丸は、怪訝な顔でジョン太を見た。

「お前、うちの会社名、ちょっと言ってみ」

「NMC中四国支所」

 自信満々で、鯖丸は答えた。

「違う。略称じゃない方」

「え、そんなのあったの」

 本気で驚いた顔で言われた。

「西谷魔法商会じゃ、ぼけー」

 もう一回スリッパではたいた。

「お前、一年も居て、うちの会社名も知らなかったのかよ」

「うん、初耳」

 天然にも程がある。

「かんべんしてくれよ、もう。いい大人なんだから、電話の応対くらいで、俺にお笑い芸人みたいな突っ込みさせんといて」

 普段ガキ呼ばわりしてるくせに、こんな時だけ大人扱いかよ…と、釈然としないまま、鯖丸は反論した。

「別にいいじゃん。俺は現場だけだし」

「それ以前の常識問題だ。出来ないなら、二度と電話取るな」

 普段細かい事は言わないジョン太が、本気で怒っている。

 それから三十分程、説教されて電話の応対を練習させられた鯖丸は、少し泣きが入っていた。

「全く…、剣道は礼節を重んじる武道じゃなかったのかよ。そんなじゃ次の昇段試験落ちるね。絶対落ちる。ふふふ、これでやっと溝呂木の奴をへこませるネタが…」

 ジョン太が、個人的に暗い情熱を燃やし始めた時、再び電話が鳴った。

 鯖丸は、名誉挽回する為、即座に受話器を取った。

「はい、ありがとうございます、NMC中四国支所です」

 ジョン太は聞き耳を立てた。

「どのようなご用件でしょうか…はい」

 相手がしばらく話しているのが聞こえた。

「かしこまりました。担当の者と替わりますので、少々お待ち下さい」

 そのまま受話器を差し出して、鯖丸は言った。

「ジョン太、替わって」

「保留しろ、バカ」

 小声で叱ってから、電話に出た。

 しばらく話していたジョン太の表情が、少し複雑な感じになった。

 仕事の依頼だった気がするが、それにしては嫌そうな顔をしている。

「はい、ウィンチェスターは私ですが…ええ、分かりました。一度確認して、こちらからお電話致しますので…はい」

 電話に向かって、何度も頭を下げている。

 ジョン太って、確か外人だったよな…と、鯖丸は不思議な物を見る目で、日本人のサラリーマンにしか見えない犬型ハイブリットを眺めた。

 受話器を置いてからも、ジョン太はしばらく複雑な顔をしていた。

「あ…何か今のまずかった?」

 鯖丸が聞くと、ジョン太は首を横に振った。

「俺とお前に、名指しで依頼が来た」

 そう言う事は、時々ある。

 民間で魔界関係の雑事を引き受けている企業は少ないから、一度仕事を頼んで満足したら、また同じ人間に依頼したくなるのは当然だ。

 魔力が高かったり、過去に業績を上げていたりするチームには、面識が無くても指名が入る事もあった。

 実はこの時点で、ジョン太と鯖丸のコンビは、少し有名になっていたが、もちろん天然でダメなバイトには、知る由もなかった。

「へぇ、かっこいい」

 斑と平田が指名の仕事を受けていたりするのを見て、ちょっといいなとは思っていた。

「政府の仕事だけど、どうする?」

 まるで、断る事も選択肢にある様な言い方だ。

「夏休みだから行けるけど、何か問題あるの」

 明日から合宿だー、という溝呂木の言葉は、忘れる事にした。

 長期休暇の間に、入れられるだけ仕事を入れた方がいい。

「めんどくさいだけで、安い仕事だ。やっとけば経歴に箔は付くけどな」

「そうなんだ」

 どんな仕事でも、やる事に決めていた。

 来年になったら、卒論もあるし、今程がっつり仕事は入れられない。

「俺はやってもいいけど、ジョン太は?」

「いや…俺はやるけどね。お前が学生なのは向こうも知ってるから、断っても別に、うちの会社に不利にはならない」

 ジョン太には断れないという事だ。

「断った方がいいんだ」

 一応聞いてみた。

「微妙」

 ジョン太は答えた。

「じゃあ、受けていい?来年は今程入れないと思うし」

「いいよ」

 ジョン太は即答した。

「そうか、来年は四年だもんな。卒論も就活もあるし」

 月日の経つのは早いなぁと思った。

 最初にここに来た時は、もっとおどおどして頼りない感じだったのに。

「あ、まだ就職はしないから、あと三年くらいはここで働かせて欲しいんだけど」

 予想とは全然違う事を言い出した。

「大学院に行くつもりだから」

「貧乏のくせに、どんだけ勉強好きなんだよ、お前」

 天然を相手にしていると、突っ込み癖が付いてしまう。

「研究職に就きたいから」

 ここに来てから初めて、鯖丸は将来の希望らしい事を口にした。


 昼休みが終わっても、戻って来たのは所長と斑だけだった。

 他の者は営業に出ている。

「いいんじゃない、やれば」

 所長は鷹揚だった。

「どうせ、政府の偉いさんの息子とかが、プレイヤーやっててトラブったとか、そんなだろ」

「それが、違うんですよ」

 ジョン太は、ちょっと困った顔で言った。

「ビーストマスターって居るでしょう。政府公認魔導士の」

「ああ、居たね、そんな奴」

 所長は、うなずいた。

 政府関係の仕事を専門にやっている、政府公認魔導士とは、ジャンルが違うので接触する機会はほとんど無い。

 同じ魔界関係でも、行方不明の猫を捜したり浮気調査をする探偵と、刑事事件を捜査する刑事くらいかけ離れた存在だ。

「潜入捜査中に、捕まったらしいです。

 表立って動けないから、民間で回収して欲しいって」

「そんな仕事を、この金額で依頼して来るか。いい度胸だな、政府の奴ら」

 所長は、依頼状を見て、眉をひそめた。

「居場所は分かってるから、一日でちゃっちゃと終わらせますよ」

 ジョン太は、自分のノートパソコンを開いて、準備を始めた。

 鯖丸は、空いている机に座って保険の更新用紙に記入していたが、出来上がって所長に見せに行った。

「まぁ、いいかな」

 所長は、ざっと一通り確認して言った。

「もう、一年経つのか。君、今年いくつだっけ」

「来週二十一です」

 所長は、うんうんとうなずいたので、色々気にかけてもらっているのだと思うと、何となく嬉しかった。

 実際には、うかつに自分の息子の年を忘れそうになった所長が、タメ年だったはずの鯖丸で確認していただけだが。

 世の中には、知らなくていい事の方が多い。

「鯖君、獅子座なんだ」

 女性向けのファッション雑誌を読んでいた斑が、顔を上げた。

「あ、そうなんですか」

 世間一般のたいがいの男同様、星占いには何の興味もない鯖丸は、気のない返事をした。

「今月の運勢は、ええと、新しい出会いがありますだって。いいじゃん」

 それは、ちょっといい。出来れば女の子がいい。

「マダちゃん、俺も見て。山羊座だから」

 ジョン太が横合いから口を出した。

「ええと、山羊座…頭上注意」

「工事現場かよ」

 着実に、突っ込みぐせが付いている。

「もういいや。おっちゃんは九スポのパチスポ占いで充分さ」(注・九スポとは、いわゆる東京スポーツこと東スポの地方版である)

 がさがさとスポーツ新聞をめくったジョン太は、うっと短くうなった。

『頭上注意。超海物語2のトレジャーステージが吉』

「どうなってんだ、俺の頭上」

「いいじゃん、占いなんて科学的根拠はないよ。早く明日の段取りしよ」

 言いながら、新しい出会いのある人は、まんざらでもない顔をしていた。


 翌朝二人は、慣れた感じで会社の地下駐車場を出た。

 いつもの四駆は、舟虫とハートの二人と臨時でトリオを組んだ平田が乗って行ったので、年代物の軽四駆に乗り込んだ。

「安い仕事だから、これで充分だろ」

 と、ジョン太は言った。

 古い軽自動車なので、上背のある二人が乗り込むと、ちょっと窮屈だ。

「やっぱり写真は無いんだ」

 いつも通りハンドルを握った鯖丸は聞いた。

 魔界では、光学機器が上手く作動しないので、まともな写真が撮れる事は希だが、外界で撮った写真の一枚も提供されないというのは、普通ではない。

「公認魔導士は、セキュリティー高いからな。結局写真は貰えなかったよ」

 助手席で、ジョン太は言った。

「名前はトリコで、性別は女。外見は、たぶん若い」

「それだけの情報で、捜せるかなぁ」

 鯖丸は、不安げだ。

「観光街のくらき屋って店に、カエデって名乗って入ってる。それだけ分かりゃ、すぐ見つかるだろ」

 観光街には、小口の仕事で何度も入っていた。

 使い走り程度の仕事なら、一人で来た事もある。

 以前入った民宿松吉のある縄手山山系の麓に位置して、観光目的の為に、昔の日本の風景を人工的に再現した街だった。

 だったと言うのは、観光客の要望や、商売熱心な住民の暴走で、だんだん無国籍な歓楽街に変化して来た為だ。

 政府の方針で、地方自治体が出資した事業だったが、もちろん、魔界の住人には、外の政府や地方自治体に属しているという考えは全く無く、関係は険悪になっていると聞く。

 民間の仕事で入る分には愛想がいいが、政府関係には風当たりが強そうだった。

 何度も入る内に、顔見知りも出来たし、今後の仕事の事を考えると、良好な関係は壊したくない。

 政府の仕事だというのは、隠した方がいいだろう。

「くらき屋って、何の店だっけ」

 知らない店だったので、鯖丸は聞いた。

 観光街の飲食店は、グルメガイドが書けるくらい完璧に憶えていたつもりだった。

 実際、会社には内緒で、タウン誌に魔界のオススメB級グルメスポットという記事を書いて、小遣いを稼いだ事がある。

 次回もよろしくと頼まれていた。

 ジョン太は、お前は知らないだろうなぁ…という顔をした。

「女郎屋だよ」

「ええと…女郎って言うと、蜘蛛」

 鯖丸は納得した感じで言った。

「魔導変化した巨大蜘蛛を戦わせて、賭け事をする店だね。闘牛みたいな感じで」

 ものすごいバカを見る目で見られた。

 まぁ、外界に女郎屋が無くなって、百年以上経つので、仕方がないと言えばない。

 同じ内容の店は、風俗関係で存在しているが、昔の女郎屋とは別物だ。

 ジョン太だって、本物の女郎屋が外界にあった頃には、本人どころか祖父母だってまだ生まれていない。

 知識として知っているだけだ。

「女の子を集めて売春してる店だよ」

 一応説明した。

「ええ、そんな所に潜入して、大丈夫なの?その人」

「大丈夫だろ。減るもんじゃないし」

 ジョン太は、軽く言った。

「入り込みやすくていいだろ。何ならお前、今度こそ童貞捨てるか?経費で落ちるし」

「そういうのはちょっと…」

 鯖丸は躊躇した。

 仕事でサキュバスのエロ触手に巻かれたり、別人格の暁が男遊びを繰り返したり、肉体的に言うと、全然清くない気がするが、メンタル的には純情な青年だ。

 AVとエロ雑誌が大好きというのが、純情な青年に含まれると仮定しての話だが。

「最初はやっぱり、自力でどうにかしようと思うので」

「ああ、そう」

 疲れるので、いちいち突っ込むのはやめにした。

「まぁ、ビーストマスターと接触出来れば、それでいいよ。まだ店に出てたら、お前、女郎に惚れて、足抜けさせて一緒に逃げる役な」

「店に出て無かったら?」

 捕まっているなら、そっちの可能性が高い。

「有無を言わせず凄い速さで掠って逃げる」

 ジョン太は断言した。

「こんな仕事に時間はかけられないからな。今日中に終わらす。

 明日は久し振りに家族そろって海水浴に行くんだよ。遊園地にも寄る予定だ」

 おっちゃん、私情丸出しだ。

「そう…いいね、楽しそうで」

 鯖丸は、冷たく言った。

「お前、拓真の夏休みの絵日記を『お父さんは今日も出張でした』で終わらす気か。可哀相だろ、察しろ」

「お父さんは出張でも、ネタは色々あると思うよ。朝顔が枯れたとか、ひまわりが枯れたとか、カブトムシが死んだとか」

「暗いよ。お前の発想が恐ろしいわ」

 やめよとう思ったのに突っ込んでしまった。

「全部事実だから。それと海水浴は先週行った。大山寺海岸。まずい焼きそば食って、となりの遊園地で壊れそうなジェットコースターに乗った。けっこう楽しかった。明日はプールの方がいいと思いまーす」

「てめぇ、人の家庭にさくっと入り込むなぁ」

 どうせメシ目当てだ。

 海水浴に行くと言った時の、拓真の微妙な喜び方が引っかかってはいた。

「明日は、武道館の横の市営プールで遊んで、隣の球場でパイレーツの試合観戦が拓真の第一希望。みおりちゃんは近くのレストランでオムライスが食べたいけど、みっちゃんは内心、ジョン太と二人でイタリアンのお店に行きたいなぁとか思ってる。

 ベビーシッターのご用命はないですかぁ」

「お前、本気で稼ぐモードに入ってるな」

 ジョン太は呆れた。

「まあね。色々あるから」

 鯖丸は答えた。

「それで、オススメのイタリアンの店は?」

「俺が知る訳ないじゃん。コンビニで弁当買うのがやっとなのに」

 鯖丸は、割と普通の事を言った。

「ああ、でも老舗のナポリ亭は、やめといた方がいいかも。あそこ、若手で入った料理人に、仕出し弁当取って、店の料理食わせてないから、味がぶれてるって。空港通りのエル・サントスか、フレンチでも良かったら、カドワキとか」

「どこでそんな無駄知識を…」

 ジョン太は呆れた。

「すいません。実はタウン誌でもバイトしてました」

 今年は、本気で稼ぐつもりらしい。

「じゃあ、パイレーツの試合が終わった時間から頼むわ。あと、チケットの予約もしといて」

「へい、まいどー」 

 運転しながらケータイを開いたので、軽くしばいた。

「運転替われ。まずいから、それ」

 コンビニに入って、いつものまるまるバナナを買ってから、チケットを予約して駐車場を出た。

 何の緊張感もないまま、二人は魔界に入った。

 大変な事件に巻き込まれる前兆とも知らずに。


 ジョン太は、倉庫の隅からオフロードバイクを引っ張り出した。

 乗って来た軽の四駆は、もう少し奥まで入った場所に、魔法陣で隠してキープすると言った。

「こいつの方が、加速もいいし、小回りも利く。街中でビーストマスターを掠って逃げるには、ジムニーじゃ重たいからな」

 メーカーの人が聞いたら怒りそうな事を言い切ったが、三十年前に発売された車としては、頑張っている方だ。

 まだ走っているという事実を、むしろ賞賛されるべきだろう。

 魔界では、最新型の車は構造が複雑なので、色々トラブルを起こして動かない事が多い。

 マニアしか乗らなくなって、大して変化のないマニュアル二輪の方が、最新機種でも魔界で稼働する確率が高い。

 出して来たのは、大排気量のオフローダーで、普通の人間はこんな物には乗らないので、車高も高くてエンジンもシビアだった。

 パリダカとかで走っている様な機種だ。

「アクセルロック出来る様に改造してあるから、きちっとホールドすれば、両手離しても運転出来るよ。乗ってみな」

 自分は、軽四で後から付いて行くつもりだったジョン太は言った。

「ヘルメットは?」

 鯖丸は聞いた。

「魔界に警察は居ない」

 ジョン太は答えた。

 そうかも知れないが、安全性とかは?

 教習所を出てから、二輪には一度も乗る機会がなかった。

 正直言って、免許はあるが得意ではない。自転車にも乗れないのだ。

 一応思い出して、エンジンはかかった。

 ちょっと深呼吸して、クラッチを繋いでからアクセルを開けた。

 あっという間にエンストして、そのまま立ちゴケた。

 だからヘルメットーと言いながら、鯖丸はバイクの下から這い出して来た。

「お前、免許は?」

 ジョン太は聞いた。

「あるよ。ペーパーライダー」

 鯖丸は答えた。

「得意じゃないよ。補習も三時間付いたし」

 バイクの運転で絶対必要な才能は、まず、跨った時に足が地面に届くかどうかだ。

 それでも本気で乗りたいなら、小柄な女の子でもちゃんと免許は取れる仕組みになっている。

 手足が長くて運動神経もいいのに、三時間も補習が付くというのは、ただ事ではない。

「お前、バイク嫌いな?」

 ジョン太は聞いた。

「割と」

 鯖丸は答えた。

「二本しかタイヤないのに走るなんて、意味分からない」

 理数系とは思えない、感情的な意見だ。

「大体、引き起こせないと免許貰えないなんて、どういう嫌がらせだよ」

 それは、転けた時に自分で起こせないバイクに乗せられる訳がない。当然だ。

 しかし、教習所の引き起こし用バイクは、傷まない様に様々な安全装置が付いていて、同排気量の機種より重くなっている。

 たぶん、190キロくらい。

 普通の地球人なら、自分の体重の三倍までのバイクなら、引き起こせる。体が弱い人は別にして。

 一年前のこいつが、どういう状態だったか思い出せない。

「補習って、あれか。引き起こし」

「まぁ、起こせたけど」

 鯖丸はぶつぶつ言った。

「鎖骨にひび入った」

「お前それ、力任せに起こそうとしただろ。コツがあるのに」

 自分だって力任せで免許を取ったくせに、ジョン太は言った。

「今なら平気なのにな」

 悔しそうに言った。

 基本的に、すごい負けず嫌いなのだ、こいつは。

「そうか。じゃあ今なら上手く乗れるな」

 適当におだてた。

「うん、乗れるよ」

 そのまま暴走して、木立の中に突っ込んで止まった。

「ダメだこりゃ」

 バイクは自分で運転する事にした。


 観光街は賑わっていた。

 バイクも隠して、団子とか買い食いしながらぷらぷら歩くと、くらき屋はすぐ見つかった。

 周辺は皆、その手の店らしく、他の地区とは浅い堀で区切られて、橋が架かっている。

 昼時なので、客足は少なかった。

「時間的にちょっと早いけど、まぁ行ってみるか」

 ジョン太はぶらりと木戸をくぐったので、鯖丸も後に続いた。

 何人かの女達はもう支度して店に出ていたが、実際に客が増えるのは夜なので、まだだらだらした感じで座っている。

 女将らしい女が、いらっしゃいと言って出て来た。

「カエデちゃんて居る」

 上がり口にどかりと腰を下ろして、ブーツを脱ぎながらジョン太は聞いた。

「知り合いかい」

 女将は、用心深い顔をした。

「いや、可愛いって聞いたから」

「あの娘はもう辞めたよ。他の娘でいいかい」

 ジョン太は、口の軽そうな娘を物色した。

「じゃあ、あの右端の娘」

「小夜ちゃん、お客」

 右端でまだ爪を塗っていた娘が、はぁいと言って立ち上がった。

「そっちの兄ちゃんは?」

「ええと…」

 出来れば外で待っていたいが、そう言う訳にもいかないだろう。

「窓際に居る人を」

 窓の近くに立って、ぼんやりと外を眺めている娘を指差した。

 他の女の子達より、普通っぽい感じだった。

「雛菊、おいで」

 女将に呼ばれて、娘はこちらに来た。

「よろしくお願いします」

 可愛いが、細い声だ。

 もたもた靴ひもを解いている内に、ジョン太は奥へ消えてしまった。

 店の性質上、別行動になってしまうのは仕方ないが心細い。

 魔界では携帯も通じないので、何かあっても連絡も取れないのだ。

「あの…武器はお預かりする事になってます。規則で」

 刀を渡すと、雛菊と呼ばれた女の子は、木で出来たロッカーに仕舞って、古い銭湯の脱衣所にある様な木製の鍵を差し出した。

 丸腰になってしまって、益々心細い。

「じゃあ、こちらへ」

 手を取って廊下を案内され、狭い階段を登った。


 襖を開けると、畳を敷いた普通の部屋があった。

 狭いが二間になっていて、奥の部屋には布団が敷いてあるのが見えた。

 ちょっとどきどきする。

 座布団が出されたので、とりあえず座った。

「何か飲みます?」

 うなずくと冷酒が出て来た。

 一緒に、小鉢に入ったつまみが出された。

 昼間からええ感じの贅沢だ。

「うわ、美味い。何これ」

 ちょっと箸を付けてから聞いた。

「釜揚げのシラスですけど」

「そうなんだ。初めて食った」

 この辺の近海で取れるのは知っていたが、こんな食いでのない魚は、自分で金を出して買った事がない。

 大根下ろしを乗せて、醤油を垂らしてある。

「ごはん欲しいなぁ、これ」

 雛菊と呼ばれていた女の子は、初めて緊張した表情を崩して、可笑しそうに笑った。

「頼みますか」

「いや…いいよ」

 ガラスの器に入った冷酒を、少し飲んだ。

 きりっと冷えていて、辛口で美味しい。

 室内を見回すと、部屋自体は狭いが、内装はシンプルでいい感じだった。

 昔の茶室とかに、少し似ている。

 もしかしたら、そんなに安い店ではないかも知れない。

 目の前の女の子も、中々可愛い。

 派手な着物を着ているが、実際は自分より年下かも知れない。

 どう云った経緯で、こんな仕事をしているんだろうと思った。

 自分の意志でやっているなら、いいんだけど…。

「君は、ここに来てどれくらい?」

 色々聞いてみた方がいいと思ったので、尋ねた。

 二杯目をお酌してくれた雛菊は、ちょっとためらってから答えた。

「二ヶ月程です。不慣れですみません」

「いや…いいから。俺も不慣れですから」

 ちょっとあわててしまった。

「あの…女の子に年聞くのは失礼だけど、君は幾つ」

「十六才です。今年で十七」

 きゃぁぁ、ばりばり年下やん。

 鯖丸は、ちょっとむせた。

 けっこう可愛いし、このままの流れでやっちゃってもいいかと思っていたが、もうダメだ。

「お客さん、大丈夫?」

 背中をさすられた。

「うう、セーラー服物は好きだけど、本物の女子高生は無理だよ、犯罪だよ」

「お客さん、何か変わった人ですね。皆気にしませんよ、そんな事」

 こういう仕事は辞めなさいと言いたかったが、どんな事情があるのか分からないので言えなかった。

 自分だって女の子だったら、手っ取り早くこっち方面の業種に流れていたかも。

「実はね、カエデって娘を捜してるんだけど」

 言ってみると、雛菊は緊張した表情に変わった。

「お客さん、政府関係の人?」

「違うよ。そんな風に見える?」

 自分の外見からして、すごい説得力のあるセリフだと分かっていた。

 雛菊は首を横に振った。

「ううん、全然見えない」

 そう言われる自信はあった。

「あ、もしかしてカエデ姐さんの弟?」

「違うけど知り合い」

 雛菊が姐さんと呼んでいるという事は、ビーストマスターの外見は、少なくとも十七才以上だ。

 自分が弟だと思われたから、二十一才以上に見えていると思いたいが、童顔なのは自覚しているので、自信はない。

「何で姉弟だと?」

 聞いてみた。

「雰囲気が似てるから。魔力高そうな所とか」

 政府公認魔導士だから、それは魔力は高いだろう。

「姐さんは、すごくいい人だったの」

 雛菊は言った。

「無茶なお客さんを追い出してくれたり、調子の悪い娘を治してくれたり」

 ビーストマスターは、割といい人らしい。

「外からの密偵だって分かった時も、お店の皆は反対したんだけど、結局晒し者にする事になって」

 何となく、話の核心に近付いている。

「晒し者って、どういう?」

 雛菊は、俯いた。

「言って。君から聞いたなんて、絶対言わないから」

 雛菊は、しばらく黙っていたが、顔を上げた。

「広場で晒し者になってます。たぶん今日くらい、燃やされるかも」

「今日の何時に」

 鯖丸は焦った。ぐずぐずしていたら、ちょっとヤバイかも。

「分からない」

 雛菊は言った。

「ジョン太、ヤバイ。すぐ出よう」

 廊下に駆け出して叫ぶと、ジョン太はすぐに出て来た。

 こちらも似た様な情報を入手したらしく、本気で階段を飛び降りて、武器を仕舞ったロッカーを開けた。

 鯖丸も後に続いた。

 ブーツとか登山靴とか、どうしてこういう脱ぎ履きに不便な装備を選択したのかと二人で後悔しながら、靴をひっつかんで、通りに飛び出した。

 広場は娼婦街の中央にあった。

 絶対、それ目的に立てられた、長く伸びた朽ち木の上に、女が後ろ手に縛り付けられていた。

 周囲には、何十人の人間が係わったのか、もう判別も付かない結界が、ぎりぎりと巻き付けられていた。

 いくら魔力が高くても、個人でこれを破るのは無理だ。

 政府関係者に向けた、この街の人間の恨みが、目に見える様で怖かった。

「どうする、ジョン太」

 鯖丸は聞いた。

「結界があるな。お前、あれ破れるか」

 魔力の低いジョン太にも見える様な結界ならお手上げだ。

「分からないけど、下の方は結界が薄い。木ごと切り倒して、持って逃げるなら出来るけど」

「よし、バイク出そう。タンデムで行くから、お前後ろで斬れ」

「分かった」

 二人は屈み込んで、靴をきちっと履き直してから走り出した。


 バイクに二人乗りするのも初めてだった。

 けっこう怖い。

 おまけに、ジョン太の運転はめちゃくちゃ乱暴だった。

 車が走る様には出来ていない狭い道に、アクセルをゆるめないでがんがん突っ込んで行く。

 後輪をスライドさせながら、直角に角を曲がった。

 地面がぐわっと近づいた。

「うわ、やめて、転ける」

 鯖丸は叫んだ。

「後ろで引き起こすな。ホントに転けるから」

 ジョン太は怒鳴り返した。

 こんな状態であの木を切り倒せるか、ちょっと不安だ。

 躊躇しているのが分かったのか、ジョン太が言った。

「無理なら降りてからにするか。捕まるかも知れんけど」

 広場に人が集まっていた。

 燃やすとか言ってたけど、まさか。

「出来るよ。このまま行って」

 ジョン太はにやりと笑った。

 負けん気が強いのを、すっかり利用されている。

 バイクはそのまま突っ込んだ。

 人混みがさっと二つに分かれたが、逃げない奴が何人か居る。

 仲間が助けに来る事を予想して、人を配備していたのだ。

 手の中にナントカ波みたいなやつを溜めて撃ち出そうとしていた奴を、ジョン太が走り抜けざまに蹴り飛ばした。

「おりゃあ、ライダーキック」

「ジョン太、それライダーキック違う」

「最近のはこんなんだよ」

 もちろんウソだ。

「行くぞ」

 車体を真っ直ぐにして、一直線に木に向かって加速した。

 鯖丸は、ステップの上で立ち上がり、背中の刀をすらりと抜いた。

 加速する中で、ぴたりと刀を構えタイミングを計った。

 刃が高速で空を斬った。

 一瞬遅れて、びしりと木の幹に亀裂が入った。

 ジョン太はそのまま走り抜け、アクセルターンで車体を切り返した。

「落ちるー」

 鯖丸はジョン太にしがみついた。

 ビーストマスターを括り付けている木が、ぐらりと傾き始めていた。

 あっちもすぐに落ちそうだ。

 広場を走り抜け、落ちてくる木ごとビーストマスターをひっ掴んだジョン太は、片手でどうやってギヤチェンジしているのか、一気に加速した。

 堀を飛び越え、路地を抜け、街を出るまで走り続けた。


 ある程度街を離れた場所で、ジョン太はバイクを止めた。

 まだ、抜いたままの刀を片手に掴んでジョン太にしがみついていた鯖丸は、よろよろ降りてきて、やっと刀を仕舞った。

 やっぱりバイクダメだ…と、ぶつぶつ言っている。

 木に括り付けられたまま地面に横たわっているビーストマスターが、少し身じろぎした。

「大丈夫かな?」

 しゃがみ込んで様子を見ているジョン太の横から、鯖丸ものぞき込んだ。

 情報通りビーストマスターは、若い女だった。

 アンチエイジング治療が一般的になったので、昔の様に見た目で細かい年齢を特定するのは難しいが、少なくとも未成年ではない。

 長い黒髪を結い上げて、胸が大きく開いた着物を着ている。

「苦しそうだ。早く解かないと」

「そうだな。ぜひ早く解こう」

 言いながら、二人は全く同じ事を考えていた。

 おっぱい、でかっ。

 90パーセントくらいよこしまな気持ちで手を伸ばした鯖丸は、結界にはじき飛ばされて地面に転がった。

 そのまま痺れて、しばらく起き上がれなかった。

「ダメだ。結界から解かないと」

 目をこらしたが、あまりにも多人数でめちゃくちゃに巻いてあるので、かなり時間をかけなければ、解けそうになかった。

 こんな中に長時間居たとしたら、そうとう弱っているはずだ。

「解けないから、このまま持って来たんだろ。俺がやるよ」

 ポケットから折りたたみナイフを取り出したジョン太は、ちょっと顔をしかめながらも、普通に結界の中に手を突っ込んで、縄を切り始めた。

 魔力が低いって、ある意味すごい。

 結界からずるりと引き出されると、女は苦しそうにうめいた。

 長時間縛られていたのか、縄をかけられていた手足に、ひどい擦り傷が出来ている。

「おおい、大丈夫か」

 軽く頬をはたくと、ビーストマスターは目を開けた。

 引き込まれそうな瞳だった。

「水かなんかあっただろ」

 ジョン太は、ビーストマスターを抱き起こしながら言った。

 鯖丸は、バイクのカウルに差し込んであった飲みかけのペットボトルを持って来た。

 渡されたスポーツドリンクを少し飲んで、女は咳き込んだ。

 それから、自力で体を起こした。

 着物の裾から真っ白な太股がのぞき、二人はちょっと息をのんだ。

 まだ自分の状況が分からないらしく、ビーストマスターは、周囲を見回した。

「ビーストマスターのトリコだな」

 ジョン太は、確認の為に聞いたが、女は答えなかった。

「政府の依頼で、あんたを回収に来た」

「民間か」

 驚いた様に言った。少しハスキーで色っぽい声だ。

「どうして…?」

 確かに、こんな状態になると分かっていて民間企業に救出を丸投げしたのだとしたら、ひどい話だ。

「さぁ、詳しい話は聞いてないからな。聞くつもりもないし」

 言っている事は普通だが、おっちゃんいつの間にか乳に話しかけている。

 気が付いたトリコに、思い切り顔面を蹴られた。

「私の顔は、そこかぁ」

「うわ、こいつ芸風が所長に似てるぞ」

「良かったじゃん、元気そうで」

 鯖丸は、自分も立ち上がった高い位置から真剣に見ていたくせに、いい人側に回ろうとした。

 トリコは、残ったスポーツドリンクを一気に飲んで、少し人心地が付いたらしく、二人の男を見比べた。

 変なコンビだ。

 しかし、あの状況から自分を救出したのだから、腕はいいのだろう。

「じゃあ帰ろうか。立てる?」

 若い方の男が、手を差し出した。

 握っただけで、物凄く魔力が高いのが分かる。

 民間にランクSが居ると聞いた事があるが、こいつかも知れない。

 もう一人の、魔法整形で獣人の姿をしている男も、けっこう使えそうだ。

「待ってくれ」

 立ち上がり、二人を交互に見て、言った。

「荷物を盗られた。あれを回収しないと、帰れない」

「そうか」

 ジョン太は、うなずいた。

「車を取って来よう。話は後で聞く」

 鯖丸を引っ張って行って、バイクに跨った。

「待って、どっちか残った方が…」

「じゃあ、お前一人で、これ運転して車取りに行けるか?」

「それは無理」

 ジョン太には、魔法陣の解除が出来ない。

 結局二人で行くしかないのだが、何か、トリコに聞かせたくない話もあるらしかった。


「よーし、さっさと帰ろう。明日はお休みだー」

 車の助手席で、ジョン太は清々しく言った。

「ええっ、荷物の回収は?」

 鯖丸はたずねた。

「知らん。回収を頼まれたのは、あの女だけだ」

 車を魔法陣から出した二人は、バイクを残して引き返していた。

 バイクは、帰りに寄って回収する段取りだ。

 めんどくさいから、乗って付いて来ればいいのに…と、鯖丸は言った。

「あいつ、魔力高そうだから、気付かれる前に素早くやりたいんだよ」

 ごそごそと、シートの後ろから何か出して来た、

 頑丈そうなロープと、布の固まりだ。

 広げると、人一人入りそうな袋状になっている。

 某国が昔、某海岸とかで、某民間人とかを誘拐するのに使ったと言われている、某伝説の拉致袋だ。

「お前、これに軽ーくでいいから、動きを止める魔法かけとけ」

「うわ、ジョン太また、えぐい事考えてる」

 言いながらも、鯖丸は車を止めて道端に袋とロープを広げ、不慣れな手つきで念入りに拘束魔法をかけ始めた。


 車が戻って来た時、トリコは大人しく座って待っていた。

「おう、待たせたなー」

 ジョン太がにこやかに手を振ったので、彼女も曖昧に笑って振り返した。

 そのまま車を降りると、いきなり目にも止まらない速さで、後ろ手に隠した袋を頭からかぶせて、上からロープで縛り上げた。

 ジョン太がハイブリットだと気が付いていなかったトリコは、そんなに速く動けるとは思わなかったのだろう。

 あっさり袋に押し込められて梱包され、悲鳴を上げた。

 まぁ、気が付いていても避けられるスピードではないのだが。

「ぎゃぁぁぁ、何すんだてめぇ、出せー」

 綺麗な外見からは、全く似合わない言葉遣いになっている。

「こんな事なら、結界から出さない方が良かったなぁ」

 トリコを後部座席に放り込んで、ジョン太は言った。

「そうだねぇ」

 鯖丸まで、ひどい事を言い始めた。

「くそっ、てめぇらの血は何色だー。ゆるさんぞ。次に会ったら生きて帰れると思うなー」

「何か言ってるよ、ジョン太」

「放っとけ。撤収ー」

 車は走り出し、ビーストマスターは後部座席で二人を罵り続けた。


 翌朝、鯖丸は、ジョン太からの電話で起こされた。

 夜の打ち合わせならメールでいいのにと思ったが、丁度早起きしなければならないので助かった。

「お前、昨夜どこ行ってたんだよ。電話したのに」

「え…ちょっと」

 夜の公園で竹刀を振り回していたら、警察に職務質問されてそのまま連れて行かれそうになったので、帰って来て着歴も見ないでふて寝したのは、黙っておく事にした。

「ごめん、急ぐ用だった?」

「また、名指しで依頼が入った。早く報せた方がいいと思ってな」

 ジョン太は言った。

「明日からだ。日程は分からないが、どうする」

 今日から、一日遅れで合宿に参加する予定だった。

 鯖丸は少し考えたが、答えた。

「やるよ。どんな仕事?」

「荷物の回収」

 昨日も、そんな話を聞いた気がする。

 悪い予感がした。

「ビーストマスターから、個人的に依頼が入った。荷物の回収に行くから、俺達にサポートを頼みたいって」

「何で、個人で?」

 生きて帰れると思うなと言っていた。まさか本当に生きて返さないつもりとか…。

「さぁ、クビになったのかも」

 ジョン太は、適当な事を言った。

 まぁ、荷物の回収じゃなくて、回収のサポートなら、そんなに大仕事じゃない。

「明日朝六時な。よろしく」

「早っ」

 分かりましたと言って、電話を切ってから、急いで身支度を調えて家を出た。

 とりあえず、今日だけでも合宿に顔を出しておこう。幸い、近場でやっている。

 最近ちょっとハードだと思う。

 たまには昼頃までゆっくり寝たいなぁと思ったが、結局合宿先までは習慣で走って行ってしまう鯖丸だった。


 良く考えたら、合宿先の武道館は、ジョン太が来る予定のプールや野球場と同じ敷地内にある。

 後の移動が大変楽だ。

「ナイス、昨日の俺」

 溝呂木先生に事情を話すと、いつも通り怒られたが、すっかり慣れきっている鯖丸は、機嫌良く練習に参加した。

 一人で出来る練習は毎日続けていたが、やはり相手が居る方が格段に楽しい。

 午後から昼飯を食って、少しの間休憩している所へ、迫田がやって来た。

 頻繁に魔界に入って行方不明になる自分と違って、練習熱心で後輩の面倒見もいい迫田は、皆から慕われている。

 何で武藤なんかと友達なんだろうと言われているのは、知っていた。

「久し振りだなぁ」

 と言って、向かいに座ってメシを食い始めた。

「三日前にも会ったけど」

 茶を飲みながら答えた。

「いや…お前が練習に出て来るのが」

「そうだっけ」

 言われてみれば、そんな気もするが、忙しかったのであんまり記憶がない。

「合宿には、これから普通に出られるのか」

 迫田は聞いた。

「ううん、今日だけ。今晩は子守のバイトで、明日から魔界」

「何やってんだよ、お前」

 迫田は、ため息をついた。

「何って、日々貧乏と戦っているんだよ」

 鯖丸は断言した。

「そこまでバイト入れなくても、どうにか生活出来るだろ」

「色々、予定があって」

「知ってるけど」

 メシを食う手を止めて、迫田は言った。

「お前最近、先輩達に睨まれてるぞ。小林さん達とか」

「そんなの最初からじゃん。俺、生意気だもん」

 鯖丸はしゃあしゃあと言い切った。

「いつかしめるって。後、選抜のメンバーから外すとか」

「俺を外して、どうやって団体戦で勝つつもりなんだ」

 仕事を離れた武藤君は、割と性格が悪い。

 間の悪い事に、背後にその小林さん達が居た。

「ちょっと来い。話がある」

「ここで出来ない話ですか」

 嫌そうな顔で立ち上がった。

 迫田は、無言だが全身で行くなと言っている。

「いいから来い」

「はーい。武藤行きまーす」

 連邦軍の白い奴みたいに、行ってしまった。

「アホだ、あいつ」

 迫田はつぶやいたが、時々ある事なので、後でメシを食い終わってから、骨は拾いに行ってやる事にした。


 先輩四人に20発ほどボコられた武藤玲司は、反撃に転じて竹刀を奪い取り、全員をぶちのめした。

 おかげでまた溝呂木に怒られた上に、道場の隅で正座して、午後からを過ごす事になった。

「座りに来たんじゃないのに…全く」

 全然反省していない。

 おまけに、座ったままマジ寝してしまった。

 溝呂木は、お手上げだと思ったのか、もう何も言わなかった。


 パイレーツの試合が終わる頃に、鯖丸は時間通り現れた。

 顔に何カ所か絆創膏を貼っていて、見える範囲だけで凄い事になっている。

「うわ、何だそれ」

 家族そろって楽しそうに出て来たジョン太は、驚いた。

「別に」

 ふてくされた顔で言った鯖丸は、美織ちゃんを見ると、にこりと笑って抱き上げた。

「よし、みおちゃん、オムライス食いに行こう」

「待て待て」

 ジョン太は止めた。

「お前、そんな顔でうちの子二人連れ歩いてたら、捕まるぞ」

「何で?」

 警察はもういい。

「明日、大丈夫かよ」

「平気だよ。魔界に入ったら、自分で治す」

「大丈夫?」

 心配そうに声をかけたジョン太の嫁のみっちゃんも、鯖丸に比べたら軽傷だが、顔に少し痣が出来ている。

「ええ?みっちゃんこそどうしたの、それ」

「別に」

 ちょっと不機嫌そうに言った。

「じゃあ武藤君、お願いね」

 いや…捕まるから、と反論するジョン太の腕を掴んで、行ってしまった。

 ジョン太は別に、女性に優しい訳ではないが、奥さんに暴力を振るう様なタイプでもない。

 どちらかというと、座布団代わりに敷かれている感じだ。

 ケンカをしている様にも見えなかった。

「何かあった?」

 拓真に聞くと、微妙な顔をしていたが、言った。

「母さん、プールの監視員と、マジ切れでケンカした」

「何でまた…」

 聞こうとしたが、止めた。

 普通の人に近いタイプならどうという事もないが、ジョン太の様なハイブリットは、公衆浴場やプールでは、割と嫌がられる事もある。

「僕がプールに行きたいって、言わなきゃ良かったのに」

 拓真は、俯いてしまった。

 朝顔とひまわりが枯れて、カブトムシが死んだというのに、夏休みの絵日記が、益々ネガティブな感じになりそうだ。

 まぁ、朝顔とひまわりとカブトムシは、拓真本人の責任だが。

 鯖丸は、拓真の手を握って歩き出した。

「いいじゃん、マジ切れされるくらい愛されてて」

 拓真は、顔を上げた。

「俺なんか、憎まれてこの有様だよ」

「武藤君、いい子なのに憎まれてるの」

 拓真は聞いた。

「実は悪い子だ」

 鯖丸は答えた。

「分かってるけど、直らないんだよな…ああ、近いからここのファミレスでいいか」

 歩いて五分もかからない所にファミレスがあった。

 パイレーツの試合が終わったばかりなので、少し混んでいる。

「みおちゃん、パフェも食べようか」

「うん、食べる」

 絶対、自分も食いたいだけの様な気がする。

「分かってるなら、直せばいいのに」

 席に案内されながら、拓真は言った。

 子供は時々、すぱっと本当の事を言うのだ。


 その後、家に二人を連れて帰る為に、電車を降りて夜道を歩いていた、顔中痣だらけで小汚いジャージを着た不審な青年は、本気で警察に捕まった。

 おまけに、昔暁がやんちゃな事をしていた頃に顔見知りになった警官がまだ居て「お前、何やってんだ」と言われた。

「一見変質者ですが、ベビーシッターでーす」

 こう見えて前科者の鯖丸は答えた。

「変質者じゃありません。ちょっと食欲が異常なだけです」

 拓真が、おかしな弁解をしてくれて、みおちゃんが大泣きし始めた頃に、ジョン太とみっちゃんが迎えに来た。

「だから、捕まるって言ったのに」

 ジョン太はぶつぶつ言いながら、警察に事情を説明して、親子四人で仲良く帰って行った。

 鯖丸は、ため息をついて見送った。

「いいなぁ、俺も早く嫁さんとか子供が欲しい」

 童貞のくせに、一足飛びにそこまで結論が行くのが恐ろしい。

「お前はその前に、一般常識をどうにかしろ。捕まるわ、そんな格好で歩いてたら」

 顔見知りの警官は、言った。


 ひどい休日が終わって、早朝に事務所へ行くと、ジョン太はもう来ていて、茶を飲んでいた。

 おはようございますと言って事務所にはいると、ジョン太は少し不機嫌に「おはよう」と言った。

「昨日はごめん」

 謝ると、別にいいよと言われた。

 剣道部の先輩にも、こういう風に接したら、もめ事は起こらないのだが…。

「いいけど、お前、拓真の絵日記が、凄い事になって来たぞ」

 写メで撮った絵日記を送って来た。

『きょうは、みんなでプールに行きました。

 お母さんは、お父さんのめいよを守るためだと言って、

 プールのおじさんと乱とうしました。』

「いい話じゃん」

 鯖丸は言った。

「続き読め」

 ジョン太は言った。

『そのあと、野球を見ました。パイレーツはまけました。』

「あ…内容が辛くなって来た」

「もっと辛くなる」

『ばんごはんは、お父さん部下のむとうくんとオムライスを食べました。

 むとうくんは、変しつ者とまちがえられて、けいさつにつかまりました。

 ひどい一日でした。』

「うっ…辛い」

 捕まった時よりダメージが大きい。

「これ、学校に提出するのかよ。誰も見たくないよ、こんな辛い絵日記」

「俺は面白いと思うけど」

 ジョン太は言った。

 絵日記が面白い必要があるのだろうか。受け狙いで描いている訳でもないのに。

 全く…と、言いながら自分もお茶を飲もうとした鯖丸は、部屋の中にもう一人人が居るのにやっと気が付いた。

 適当にその辺のイスに座って、茶を飲みながらジョン太が出したらしい羊羹をつまんでいる。

「ええと…この人は」

「依頼者だ」

 ジョン太は答えた。

 依頼者が、イスから立ち上がった。

 と言うより、降りた。

 小さい。

 たぶん、自分の肩までもないくらいだろう。

 中学生くらいに見える女の子だ。

 癖のある赤毛で、ソバカスだらけの無愛想な顔をしている。

 細い手足が、大き過ぎる服から付き出していた。

「バカ話が終わったら、そろそろ出ようか」

 大人びた口調で言って、こちらに近付き、右手を差し出した。

「よろしく。変質者の武藤君」

 ジョン太、無差別に絵日記を人に見せるなー。

 鯖丸は、苦い顔で少女の手を握った。

 ちょっと覚えのある感触だ。

 ええと…依頼者。依頼者って、確か。

「ええっ、ビーストマスター?」

 一昨日見た色っぽい女とは、何の共通点もない外見だ。

「子供じゃないですか」

「そう。あのFカップも、魔法整形のにせ乳なんだよ」

 ジョン太は本気で残念そうだ。このおっちゃんは、全く。

「お前こそ、整形だと思ったのに、本物の獣人とはな」

 ビーストマスターは言い返した。

 ジョン太も悪いが、それは言い過ぎだ。

 魔界で魔法整形の人間を指して言うなら問題はないが、外では一番ひどい類の差別用語だ。

 普通、本人の前では言わない。

「いくら客でも、ちょっと酷くない、それ」

 鯖丸は、トリコを睨んだ。

 強面に見えるが、一年も付き合っていれば、ジョン太が意外に繊細な所もあるというのは、分かる。

「放っとけ。行くぞ」

 いつものダッフルバッグを肩にかけてから、ジョン太は振り返って中指を立てた。

「てめぇ、魔界に入って乳でかくなったら、揉むからな。憶えとけ」

「うわ、どっちも最低だ」

 先が思いやられた。


 車の中でも険悪な雰囲気だったが、幸い二人とも仕事の話はきちんとしていた。

 変質者呼ばわりされて、全然気にしていない鯖丸が、一見一番大人の対応に見えるが、実は天然なので気が付いていないだけだ。

「荷物と言っても、盗られた物全部を回収する必要はない」

 移動する車の中で、トリコは説明した。

「必要なのは、これくらいの」

 指で、形を作って見せた。

「石だけだ。石と言っても、そう見えるだけで本当は石じゃない」

「じゃあ、本当は何だ」

 ジョン太は尋ねた。

「ファイヤーキング」

「ああ、あれね」

 鯖丸は初めて聞くが、ジョン太は知っている様子だった。

「ばあちゃんがワンセット持ってたな。色は?」

「普通に緑っぽいやつ」

「はいはい」

 鯖丸には、さっぱり話が見えなくなった。

「石に見えるなら、破片だろ。アンティークとしての価値なんかないぞ」

「個人的に大切な物なんだ。だから、個人で依頼している」

 あんなに険悪だったくせに、二人だけで会話がかみ合っている。

「何なのそれ」

 鯖丸はたずねた。

「昔アメリカで作ってた、安もんの耐熱ガラス食器だよ。俺、ガキの頃割って怒られたから憶えてる」

 ジョン太は、コレクターに石を投げられそうな事を言った。

「トゲ男って奴に、荷物ごと持って行かれた。どっかのちんぴらだと思うが」

 ジョン太は、腕組みして考え込んでしまった。

「それ、思ったよりマズイ奴だ」

 しばらくして、言った。

「向こうに入ったら情報屋に頼んでみよう。相手がトゲ男なら、大体の動きは知ってるはずだ」

「民間にも、情報屋が居るのか」

 トリコは、驚いた様に言った。

「居るよ。お役所仕事と違って、優秀だ」

 ジョン太は答えた。


 いつも通りの定食屋で、いつもの朝飯を食って、三人は魔界に入った。

 鯖丸は、口の中を切っているらしく、ちょっと顔をしかめて味噌汁をすすっていたが、いつも通り大メシを食らってトリコを驚かせていた。

 倉庫の中には、段ボールで梱包された荷物が届いていて、中から見覚えのある銃と折れた刀が出て来た。

 去年、かまいたちにやられた時に紛失していた装備だった。

 何だか懐かしい。

「先月、船虫とあっちまで行く仕事があったから、回収してレストアに出してたんだ」

 ジョン太も、嬉しそうに銃を取り出したが、AK-47とスコーピオンを見比べて、結局小型の短機関銃だけ持って行く事に決めたらしかった。

「刀は直らなかったな」

「直せるかも。腕を繋げるより、全然簡単だし」

 鯖丸は言ったが、とりあえず今回は、使い慣れたいつもの長刀を手に取った。

「お前ら、セキュリティーゆるゆるだな」

 トリコは、めずらしそうに辺りを見ながら倉庫に入って来た。

 民間企業の倉庫に入るのは、初めてらしかった。

「別に、秘密なんて、本名と客のプライバシーくらいだしな」

 ジョン太は、さっさと着替えて、標準装備の32口径と44口径を身に着けて、車に乗り込んだ。

 車が境界を抜けると、トリコの外見が変化した。

 少年と大差ない体形が、徐々にふくらみ、一昨日見た色っぽい体つきに変わって行った。

 身長も伸びている。

 魔力の高い奴は、魔界に入っただけで、意識しなくても外見変わる事があるしな…と、最初に面接で入った時に、ジョン太が言っていたのを思い出した。

 そこまで魔力の高い人間には、今まで会った事がなかった。

 一昨日見た、色っぽいカエデ姐さんが出現する事を期待したが、後部座席で、二回り大きくなった体に合わせようと服を整えているのは、単にトリコが大人になった様な外見の女だった。

 一昨日のあれは、潜入捜査の為の整形だったらしい。

 でも、胸はFカップだ。

 街の手前で車を降りたジョン太は、ちょっと残念そうだったが、結局巨乳なら何でもいいらしく、しばらく横目でトリコの乳を鑑賞して、情報屋に連絡を付けると言って、一人で先に行ってしまった。

 二人で残されてしまった鯖丸は、ちょっと気まずくなったので、怪我を治すのに専念した。

 トリコは、怪訝な顔をしてそれを見た。

「何だお前。そんな根本治癒の魔法使わないと、打撲傷を治せないのか」

 表面の怪我なら、もう普通の回復魔法で治せる様になっていたが、内部損傷の治療は、割合難しい技術だ。

 表面だけ綺麗にして、痛みを取る事は出来るが、これから仕事だから、きちっと治しておいた方がいい。

「まぁ…それ程ベテランでもないんで」

「それ、大怪我した時だけ使うやり方だぞ。いちいち使ってたら面倒だし、痛いだけだろ」

 急に両手を握られた。

 魔力が通る時の、少し痺れる感覚があった。

「はい、治った」

 トリコは、手を離した。

 全身が綺麗に治っていた。

「うそっ、早」

 鯖丸は、若い女の前だという事も忘れて、シャツをめくって体を点検した。

 外から見えない部分も、完璧に治っている。

「民間でも、そんな怪我する程危ない仕事、やるんだな」

 ちょっと意外そうだ。

 仕事でもっと重傷を負った事もあるが、これは全然関係ない自業自得だ。

「いえ…これは部活の先輩に生意気言って、しめられただけです。治してくれてありがとうございます」

「え…学生?」

 去年、新しくランクSが登録されたのは、知っていた。

 まだ二十歳前後の大学生だったはずだ。

 民間に居るランクSって…。

「ええ、お前学生?」

「はい」

 そう言えば、見た目がやたら若いと思った。

「じゃあ、バイトか、これ」

「バイトですよ」

 鯖丸は答えた。

 何てこった。いくら狭い業界とはいえ、西日本で一番腕利きのコンビが、片割れバイトかよ。

 評判と、仕事の実績だけ見て、どんな奴らか確認もしないで依頼してしまっていた。

 一昨日の二人組だと分かった時点で、解約しておけば良かったかも。

「それじゃあ、あの…」

 獣人と言いかけて、先刻事務所でこの青年に睨まれたのを思い出した。

 こういう仕事では、信頼出来るパートナーが一番大事だ。

 その辺りでは、こいつらは大丈夫そうだった。

「ハイブリットの男は、どういう経歴の奴だ」

「それ、言わないといけない事ですか」

 鯖丸は、たずねた。

「別に」

 トリコは、答えた。

「ただ、一時的にはトリオでやる訳だし、どんな奴か知りたいのは当然だ」

 自分のデータは、公開出来るギリギリの部分まで、依頼状に記入していた。

 当然、鯖丸も知っていると、トリコは考えていたが、ダメなバイトはそんなもん目を通してもいない。

「ジョン太は、この仕事はたぶん十年くらいのキャリアで、元軍人です。銃の腕はゴルゴ並ですよ」

 鯖丸は、小声で付け加えた。

「魔法は全然使えないけど」

「ええっ」

 そんな奴が、魔界で仕事しているとは、尋常ではない。

 それでもキャリアが十年くらいあって、ランクSのバイトを任されているのだから、使えない奴ではないだろうが…。

 いや…、それより。

「何でだ。あの男、そんなに魔力は低くないだろう。何かの病気か?」

「え…?」

 今まで、ジョン太が魔法を使えないのは、魔力が低いせいだと思っていたが、所長やハザマは、確かに別の意見がある様子だった。

 それでも、何かの理由をどうにかすれば、魔力が低いなりに軽微な魔法は使える様になるというくらいの意味だと思っていた。

「いいえ、ジョン太は魔力低いですよ。その方が便利な事もたくさんあるでしょう」

 確かに、解除も出来ない重合結界に、素手を突っ込んで自分を救助している。

 異常に魔力の低い人間にしか、そんな事は出来ない。

 しかし、自分を掴んだ腕からは。もう少し高い力を感じた。

 余程の事情があるのだろうが、係わっている閑はなかった。

 石を取り戻せれば、それでいい。

 ジョン太が戻って来た。

 情報屋と連絡が取れたと言った。


 観光街の表通りは賑やかだった。

 様々な店や屋台が並び、お祭りの日の表参道を思わせた。

 たいがいは外からの観光客だが、魔界の別の街から来た客や、プレイヤーらしい姿も多く混じっている。

 武器を携行して、一見魔法整形に見える獣人が混じっている三人は、たぶんプレイヤーに見えるだろう。

 なぜ、外の人間が獣人という言葉に、あんなに過剰に反応するのか、トリコには未だに分からなかった。

 獣人は獣人だ。

 ジョン太は、皆を先導して一軒のうどん屋に入った。

 暖簾には『うどんのめん吉』と染め抜いてあった。

 いらっしゃいと、景気のいい声をかけられた。

 カウンター席以外は、狭いテーブルが二つしかない店だ。

 カウンターの向こうで、スキンヘッドの店主が、一人でやっている様子だった。

 ジョン太は、カウンターに座って、勝手に注文した。

「素うどん三つ」

「へい、まいどー」

 ジョン太に続いて、鯖丸とトリコも席に座った。

「俺、天ぷらうどんが良かったのにー」

「私は、おろしぶっかけうどんが」

 魔力の高い奴は、大体わがままだ。

 ジョン太は無視して続けた。

「それと、いつもの。領収証ちょうだい」

 素うどんはあっという間に出て来たが、鯖丸のにはエビ天が一個乗っていて、トリコの分には大根下ろしがトッピングしてあった。

 わがままも言ってみるものだ。

 何か、天ざるうどんの残り物の様にも見えたが。

 ジョン太は、うどん代にしては過分な金額を差し出して、自分も素うどんを食い始めた。

「トゲ男は、殿の所にいる」

 うどんのめん吉は、言った。

「殿って言うと、あれ?」

 ジョン太は、カウンターの奥にある、換気用の小さな窓を箸で指した。

 窓の外には、小高い山があった。

 一年くらい前までは、確かに普通の山だった。

 今は、山頂に作られた妙な建造物がどんどん浸食し、蟻塚とバベルの塔を足して二で割った様な奇妙な構造が出来上がっていた。

 殿とかいう男が(殿だからたぶん男なのだろう)城と呼ばれるその建造物を造って、そこに居るらしかったが、何を目的にしているのかも、どんな奴なのかも、知っている人間はほとんど居なかった。

 侵入する事は、難しかったし、入って帰って来た者もあまり居なかった。

 政府関係の捜査官も、どんどんそこに吸い込まれて消えているという話だ。

 本人の口からは聞けなかったが、トリコが探っていたのも、たぶん殿だ。

「トゲ男は、殿に会って戻って来た数少ない奴だ。今は、殿の配下で何かやっているらしい」

 その辺までは、トリコも知っている情報だったが、こんな民間の情報屋に知られているとは思わなかった。

「ビーストマスターから、何か盗んだって話だよ。あいつもプレイヤーだし、いつも魔界に居る訳じゃない。整形も極端だから、魔界を出たら、もう誰だか分からない。捕まえるなら、今だな」

「どうして今だと?」

 トリコは尋ねた。

 トリコの方をちらりと見て、めん吉は続けた。

「あいつが魔界に居る時期とパターンから見て、トゲ男は学生だ。今、外界は夏休みだからなぁ」

 政府公認魔導士も知らない様な情報を掴んでいる。

 この場合、間抜けなのは政府の方なので、ちょっとがっくりだ。

「盗られた物だけ戻れば、トゲ男はどうでもいいんだが」

 トリコは言った。

「へぇ…」

 めん吉は、意外そうな顔をした。

「じゃあ、城に行ってみるか?盗んだ物は殿に渡したって言ってたからな」

「入れるのか」

 ジョン太が尋ねた。

 めん吉は、くわえ煙草のまま、悪そうに笑った。

「いつものやつなら。追加料金」

 手を差し出した。

 ジョン太は、舌打ちしながらポケットから金を出して渡した。

「領収証くれ」

「まいど」

 領収証は、あっという間に出て来た。

「じゃあ、今晩手引きしてやるよ」

 めん吉は言った。

「宿はいつもの所だな」

 ジョン太は、ああとうなずいた。


 うどんでは足りなかったのか、鯖丸は道すがら色々買い込んでいた。

 大半がジャンクフードだ。

 いくら何でも、もうちょっと健康に気を使った方がいいと思う。

「お前なぁ、そんな食生活続けてたら、今はいいけどいずれ病気になるぞ」

 トリコは注意した。

「だって、お腹空くもん」

 菓子パンを一気食いしていた鯖丸は言った。ダメだ、こいつお子ちゃまだ。

「肉と野菜も、バランス良く食べなさい」

 ビーストマスターの二つ名を持つ政府公認魔導士にまで、おかんの様な事を言わせるとは、恐ろしい天然だ。

 宿は、街の入り口に近い場所にあった。

 普段、民間がどんな様子で仕事をしているのか知らなかったが、特に悪くはない。

 潜入捜査で入る時は、もっとひどい場所で寝泊まりする事もあった。

 気を使ったのか、部屋も別々に取ってくれた。

 夜に、めん吉が手引きしに来るから、それまで自由行動と言って、ジョン太は一人で出掛けて行った。

 トリコは、手持ち無沙汰になってしまったので、宿で貸してくれる二ヶ月遅れの外界の雑誌とか見て過ごしていたが、思い立って、部屋を出た。

 鯖丸は、三つ向こうの部屋に居た。

 ノックをしても返事がないので、勝手にドアを開けた。

 狭い空間にベッドと椅子を詰め込んだ、自分が居た部屋と大体同じ仕様だった。

 自分の部屋にはあった、申し訳程度のシャワーとトイレは見あたらない。

 女だからか、客だからか、一応その辺は気を使ってくれていたらしい。

 鯖丸は、ベッドの上で爆睡していた。

 周囲には、食い散らかしたジャンクフードの包みと、脱ぎ捨てた服と、訳の分からない英文の専門書が散乱していた。

 武器を枕元に置かないで、部屋の隅に立てかけてあるのが、素人丸出しだ。

「おーい」

 声をかけたが、ぴくりと体を動かしただけで、全然起きる気配はなかった。

 夜に備えて仮眠しているとしても、仕事中にこんなに熟睡するか、普通。

「ちょっといいか?」

 頬を軽くはたいた。

 少し起きる気配があったが、また寝てしまった。

 寝顔がけっこう可愛いので、しばらく見ていたが、意を決してベッドのフレームごと蹴り上げた。

「起きろ、こら」

「え…お母さん、あと五分」

 アホな夢を見ている。

 耳を掴んで引っ張り起こす事にした。

「いででででで、何?」

 やっと起きた。

「母ちゃんには、外界に帰ってから起こしてもらえ」

 耳をこすっていた鯖丸は、一瞬物凄い表情をして、こっちを睨んだ。

 それから、本当に目が覚めたらしく、起き上がった。

「何か用ですか」

 普通に、客に対する口調に戻った。

 トリコはうなずいた。

「けっこうめんどくさい事になりそうだから、お前とリンク張っとこうと思うんだけど」

 手早く服を脱ぎ捨てながら、言った。

「別に、客とリンク張るの、契約違反じゃないよな」

「ええと」

 ダメなバイトは、色々思い出そうとしていた。

「リンクって…ええと、ええっ!?」

 もちろん、禁止はされていない。

 しかし、この業界に入って以来、魔法を使えないジョン太と、後はイレギュラーで所長と組んだだけだったので、誰ともリンクを張るどころか、張ろうとした事も無かった。

 どうやってリンクを張るのかも、ジョン太が相棒なら必要ないと言われて、何も教えてもらっていない。

 何となく、色々方法はあるが、一般的にはセックスすればいいというのは知っていた。

 リンクの張り方に関しては、ほぼ素人だ。

 返事をしなかったので同意したと思ったらしく、トリコはベッドの上に上がり込んで来た。

「お前も早く脱げ。時間がもったいない」

 あっという間に一週間大丈夫なTシャツを脱がされた。

「ええ、ちょっと待って」

 さくさくパンツまで脱がされそうになって、あわてて両手で押さえた。

「え?ダメなのこういうの」

 もうちょっと利用規約を良く読んでおけば良かった。

「ダメです。絶対ダメ」

 鯖丸は、パンツを押さえたまま、ずりずりと後ずさった。

「だってあんた、本当は子供でしょう」

「ええと…」

 トリコは、考え込んだ。

 ダメなのは、契約書も読んでないお前だ。

 外界での姿も、本当は見せたくなかったし、こんな事、口で説明するのも嫌だった。

 その場に座って、トリコはため息をついた。

「心身成長同調不全症候群って、聞いた事あるだろ」

 ぼつりと言った。

 聞いた事がある様なない様な言葉だ。

「何だっけ」

 天然の相手は疲れる。

「体の成長が止まる病気だよ。魔界に居ると魔力が身体能力を底上げするからな」

 魔界生まれで、魔力の高い人間だけが掛かる病気だ。

 別に、健康上問題がある訳ではないし、魔界に居る間は、普通に成長している様に見えるので、気が付かない事の方が多い。

 魔力の高い人間は、魔法が使えなくなる外界には、あまり出たがらないからだ。

 トリコは、ちょっとあさっての方を向いて、言った。

「ぶっちゃけ、お前より十コぐらい年上なんだけど」

「ええっ」

 本気で驚いている。

 でもまぁ、腕利きの政府公認魔導士が、そんな子供の訳がないと納得した様子だった。

「そうなんだ。こっちの出身なんですね、初めて見ました、そういう人」

 確かに、魔界出身で魔力が高いのに、外で生活している人間は少ない。

 珍しい人を見る様にトリコを見たが、顔を赤くして視線をそらせた。

「何か着てくれませんか」

 珍しい人はお前だろう…と、トリコはパンツを押さえて座り込んでいる青年を見た。

 良く見ると、けっこう凄い体をしている。

 魔力が高い人間は、どうしてもそれに頼ってしまうので、腹筋が割れているランクSなんか、初めて見た。

 魔法で付いたらしい酷い傷跡が右手と胸に残っていて、首筋には電脳接続のプラグを埋め込んでいる。

 どういうキャラだ、これ。

「これから色々するのに、何でまた着なきゃいけないんだ」

 トリコは、鯖丸のパンツに手をかけた。

「お前が脱げ」

 両手で押さえていたのに、手品師のイリュージョンの様に脱がされてしまった。

 裸の女と向かい合わせで座っていたので、けっこう恥ずかしい状態になっている。

 慌てて隠したが、両手を掴んで、ゆっくり退けられた。

 腕力では絶対勝っているのに、抵抗出来ない。

 鯖丸の股間をしげしげと覗き込んだトリコは、少し驚いた顔をした。

「何で隠すんだ。すごいじゃん、それ」

 そりゃ普通は隠すでしょう。何言ってるの、この人。

 おまけに、何だかとても楽しそうだ。

 単にエロい人なのか、もしかして。

 細い手で押し倒されて、体を押しつけられた。

 やわらかい。

 おまけにいい匂いがする。

 言われるままにあちこち触ったが、自分でももう、何が何だか分からなくなって来た。

 この先どうしていいかも全然分からない。

 AVとかいっぱい見たけど、いざとなったら何の役にも立たない。

 トリコがふいに体を起こした。

 乱れた髪が、ばさりと頬にかかっていて、何だかすごく色っぽい。

 もういいかな…とか言いながら、上に跨って来た。

 もうちょっと普通の体勢ですると思ってたけど、どうやっていいか分からないし、もういいや、全部任せてしまおう。

 そう思うと、ちょっと気が楽になった。

「じゃあ、入れるから」

 トリコは言った。

「ちゃんと繋いでね」

 何をですかー?

 この時点で、目的がリンクを張る事だったのは、もう記憶にない鯖丸だった。

 二十一才の誕生日の一日前に、鯖丸童貞喪失。

 リンクを張るどころか、トリコが二三回腰を動かしたら、あっという間にイッてしまった。


「ええと…」

 困惑した顔で、トリコは鯖丸を見下ろした。

「困ったな」

 困られても、こっちも困るけど。

「もしかして、初めてだったの」

 色々文句を言おうと思ったが、小さい声で「うん」と言うのが精一杯だった。

 トリコは、まいったな…と、頭を掻いた。

「それは…ごめんな、急にこんな感じで、いきなり」

 本気で申し訳なさそうに言った。

 エロいし口も悪いけど、そんなに悪い人ではないらしい。

「いえ…」

 予定とは違うが、初めての相手が色っぽい年上のお姉さんというのは、これはこれでいい感じだ。

 トリコは、鯖丸の隣に寝転んで、しばらく天井を見上げながら、何か考え込んだ。

 それから肘を突いて半身を起こし、鯖丸の顔を覗き込んだ。

「どうする、このまま続けるか?」

 何をと聞き返しそうになって、リンクを張る為にこんな事をしていたのを思い出した。

「嫌なら止めてもいいんだけど」

「嫌じゃないです」

 鯖丸は即答した。

「だったら、いいけど…」

 トリコは、まだ何か考えていたが、聞いた。

「お前、リンクの張り方とか、知ってる?」

「知りません」

 まあ、相棒が魔法使えないんじゃ、知らなくてもいい事だろう。

「トラウマ映像とか、接続事故とか、聞いた事ある?」

「ないです」

 本物の素人だ。

「止めた方がいいかも」

 トリコは言った。

「リンクを張る時は、相手の深い部分まで踏み込むからな。けっこう嫌な物を見る事になるよ」

 鯖丸は、しばらくの間考え込んでいた。

 それから、トリコの方を真っ直ぐ見て言った。

「俺の方がたぶん、相当ひどい事になってると思うけど」

 子供の強がりみたいなものだと思ったが、目が本気だった。

「それでもいいなら」


 強がりどころか、控えめな表現だという事は、すぐに分かった。

 セックスに不慣れな青年の、ぎごちない感じをしばらく楽しんでから、魔力を相手の内側に伸ばした。

 誰でもこんな感じでやるのではなく、自分なりに色々な方法があるとは聞いているが、この辺は本当に個人的な領域だった。

 きちんと繋げる前から、何か深くて暗い物が流れ込んで来ていた。

 血と暴力と、それから、もっと嫌な何か。

 こいつの中身、絶対におかしい。

 繋ぐ前から飲み込まれそうだった。

 本気で、こんな危ない奴とリンク張るのは止めようかと思い始めた時、現実の方の鯖丸が、情けない声を出した。

「あっ…俺、もうダメ」

 ここで終わったら、さっきと同じ、無駄手間だ。

「我慢しろ、もうちょっとで繋がるから」

「そんな難しい事、無理だよー」

 ぎゅっと容赦なく尻をつねると、どうにか止められた。

 そのまま腕を伸ばすと、深い場所で何かに触った。

 一瞬の間を置いて、深淵の中に突き落とされた。


 その場所には、上も下も無かった。

 真っ暗な空間に浮いていて、それでも周囲には光があった。

 瞬かない無数の星が、無限に広がっている。

 魔界生まれで、特に科学知識はないトリコにも、ここが何処なのか分かった。

 宇宙空間だった。

 右手の方向に地球が見える。

 リアルな映像だ。

 反対方向の、宇宙空間に浮かぶ建造物に向けて、どんどん落ちて行く。

 重さのない空間は、思いの外爽快だった。

 明らかに建設中の巨大な建造物を素通りし、小さな人工物に向かって行く。

 けっこう楽しい。

 人工物が、小規模なマイナーコロニーだと分かるくらいまで接近した。

 その中に、壁を通り抜けて吸い込まれる様に着地した。

 楽しかった雰囲気は一変し、辺りは血と暴力の匂いに包まれた。


 繋がるからと言われて、尻をぎゅっとつねられた瞬間、目の前が真っ白になった。

 少しの間、何が起こったのか分からなかった。

 全く別の場所へ放り出された様な気がして、鯖丸は目を開けた。

 自分の体の下で、ちょっと色っぽい感じで体を反らせているのは、さっきまで見たトリコだ。

 それなのに、頭の中では、真っ白な風景が消えない。

 目を閉じると、白い物が横殴りに吹き付けていた。

 一面の雪景色だった。

 吹雪の中に、自分は為す術もなく佇んでいた。

 体には、寒さは感じない。

 それでも、ここが寒い事は理解していて、どうにかしなければ死んでしまうだろう事が分かった。

 吹雪の向こうに、ぽつりと赤い点が見えた。

 点に向かって、歩き始めた。


 マイナーコロニーの内部は、血の匂いで充満していた。

 たぶん少し前まで人間だった物が、通路に、部屋に、血を流して散乱している。

 生きている人の気配は奥の方にあったが、もう見たく無かった。

 きっと、酷い事になっている。

 物凄く嫌だった。帰りたい。

 重い足取りで通路を進んだ。

 奥の部屋に、それは居た。


 赤い点が、徐々に近付いて来た。

 近付くに連れて、それは人だと分かった。

 分厚い、暖かそうなフード付きの赤いコートを着た少女が、雪の中にうずくまっていた。

 こちらを見上げた顔は、外界に居た時のトリコだった。

 顔立ちは同じだが、雰囲気がまだあどけない。

 実際に、見た目通りの年齢だった頃の彼女かも知れない。

 雪の中で、ゆっくりと立ち上がった。

 こちらに笑いかけながら、コートの前をはらりとはだけた。

 下には、何も付けていない。

 細い体と薄い胸が露わになった。

 白いきゃしゃな手が、自分の腕をそっと掴んだ。

 そのまま、ゆっくりと、細い体に引き寄せた。

 エロい感じだ。

 子供は別に好きではないが、目の前の小さな少女が、凄く色っぽく見える。

 このままどうにかなってしまいそうな感じだが、そう言えば現実の方でもうトリコとどうにかなっている最中なのに、ここで二重に…ええと、どうなるんだ、これ。

 指先が、肉付きの薄い腹に触れた。

 すうっと、体の中心に亀裂が入った。

 ばくりと胸から下腹部まで、傷口の様な物が開いた。

 こんなになったら、普通血とか内臓が出て来るはずだが、ただ、得体の知れない蠢く中身がのぞいているだけで、痛そうな顔すらしていない。

 笑いながら、ゆっくりと掴んだ腕を、自分の腹の中にずぶずぶ差し込んで行った。

 生暖かさと、ぐちゃりとした感触が、リアルに伝わって来た。

 鯖丸は悲鳴を上げた。


 機械の類が散乱した、物置の様な場所だった。

 照明だけが、やけに眩しい。

 入り口に、女が一人倒れていた。

 体中を切り刻まれて、下半身は服をむしり取られた姿で、小型の銃を握りしめている。

 どんな殺され方をしたのか、考えたくない。

 部屋の両脇には、少年が二人、うずくまっていた。

 一人は、幼い感じで、絶望的な顔をして俯いている。

 もう一人は、少し年上に見えた。

 暗い顔で、部屋の中央を睨み付けている。

 そして、部屋の中央にそれは居た。

 複数の男達に押さえつけられ、犯されているきゃしゃな体つきの少年。

 目は開いているが、何も見ていない。

 三人の少年は、全員同じ顔だった。

 現実の世界では「もうダメ」とか言っている、あのアホだ。

 これが実際に起こった事だとは思いたくなかったが、トラウマ映像は、傷が深い程事実に近い形で出る。

 自分のそれは、もう少し抽象的だとリンクを張った相手から聞かされていた。

 これ以上見たくない。

 目を閉じたかったが、ここまて来て無責任に放り出す事も、出来なかった。

 何が「相当ひどい事になってる」だ。そんなレベルじゃない。

 ふいに、部屋の中央に居る少年が、狂った様に笑い出した。

 目の中に、暗い光が点った。

 ざくりと口が耳元まで裂け、自分を犯している男の頭に、ばつりと噛み付いた。

 一瞬で辺りは血の海になった。

 男達が次々と食い殺されて行く。

 これ以上は耐えられなかった。早くリンクを張って終わらせたい。

 三人の内のどれとリンクを張ればいいのか分からなくて、トリコは周囲を見回した。

 俯いている幼い少年が、一番鯖丸に近い様に見えたが、感覚は違うと告げていた。

 もう一人の、厳しい顔で部屋の中央を睨んでいる少年と目が合った。

 たぶんこいつだ…と思って踏み出した時、少年は立ち上がり、首を横に振って部屋の中央を指差した。

 よりによって、あれかよ。

 それはもう、人間には見えなかった。

 人をむさぼり食う化け物に変わっていたが、目だけが泣いている子供だった。

 お母さん…お母さん…

「そうか…」

 トリコは、部屋の入り口を、ちらりと振り返った。

「お前、自分がされた事より、母ちゃんをこんなにされた方が辛かったのか」

 化け物の動きが、少し止まった。

「いい子だね。腹が空いてるなら、お食べ」

 部屋の中央に進み出た。

 ばくりと頭が食いちぎられた瞬間、視点が入れ替わった。

 自分の血の味が口の中に広がった。

 吐きそうだ。

 どうにか踏みとどまって、視点を元に戻した。

 繋がった。


 鯖丸は、自分の体に覆い被さって、荒い息を吐いていた。

 ぎりぎり、リンクを繋ぐまでは持ち堪えたらしい。

 今の何?と、間抜けな事を聞いて来た。

 こっちが聞きたいわ…と思ったが、あんなひどい記憶を抱えて、こんなに脳天気に生きて行けるとも思われない。

 たぶん、本人は無理矢理忘れている類の記憶だ。

 そっとしておく事にした。

「繋がったか」

 聞いてみたが、首を横に振られた。

「分からない」

 手応えはあった。

 というか、こんなのとよくリンク張れたものだ。

 ただ、リンクを張ったせいで連動する様になった力の大きさが実感出来た。

 窓の外は、少し暗くなりかけていた。

 めん吉が来ると言っていた夜には、少し間があるが、そろそろ準備した方がいいだろう。

「起きろ。何時か聞いてないから、支度した方がいい」

「だるい」

 鯖丸は、ごろりとベッドに横になった。

 それは、初めてリンクを張ったらけっこう疲れるが、こっちの方が重労働だった気がする。

「仕事だろ。起きろ」

 トリコは、肩を掴んで揺すった。

「うん」

 だらだら起き出そうとして、ふいに変な顔で壁の一点を見つめた。

 壁の向こう側には、廊下と階段があった。

 その階段を、武器を手にした男達が、上がって来る。

「あれ…」

 何で壁の向こう側が見えるんだろうという顔をして、目をこすった。

 それから、男達のただならぬ雰囲気に気が付いて、がばりとはね起きた。

 肩に置かれた手が離れた瞬間、壁の向こうの映像は消え失せた。

「ああ、繋がってるな」

 トリコは、急いで服を着始めたが、パンティーを履いてニットのノースリーブのブラウスを羽織った所で時間切れになった。

 壁の向こうが見えなくても、もう気配で丸分かりだった。

 廊下を曲がり、ドアの前に立った男達が、こちらの気配を伺っている。

 次の瞬間、乱暴にドアが開いた。

 鯖丸は、ちらりと部屋の隅にある刀に目をやったが、間に合わないと判断したらしく、素手で空中を薙ぎ払った。

 刀を使った時程の威力はないが、空気の鎌がドアごと男達を吹き飛ばした。

 魔力を溜める動作が、全く無かった。

 先に技を溜め始めていた先頭の男が、為す術もなく壁に叩き付けられていた。

 魔力が高いのは分かっていたが、ここまで強いとは思わなかった。

「速い…」

 いきなり、背後で窓がぶち破られた。

 飛び込んで来た異形の男が、振り返った鯖丸の脳天に、かけ声もろとも木刀で綺麗な一撃を入れた。

「でも、技を出した後、隙だらけだ。さすが、ダメなバイト」

 廊下と窓から、男達がなだれ込んで来て、トリコと鯖丸を縛り上げた。

「分かってるなら助けてやれ。仲間だろ」

 奥道後温泉と焼き印の入った木刀を腰に差して、異形の男は呆れた様に言った。

「あ…トゲ男」

 これから探ろうと思っていた男が、自ら出て来ている。

 何だか情報だだ漏れの予感がした。

 全身トゲだらけで、額に第三の目を付けた緑色の皮膚の男は、三つの目で二人を見下ろした。

 全裸で縛り上げられている鯖丸をしげしげ見て、驚いた顔で一歩下がった。

「えっ?何でこいつ、政府の奴と」

 知り合い?

 こんなに極端な整形をしていては、外で知り合いだったとしても分からないだろう。

 しかし鯖丸は素顔丸出しだ。

 本名は知られてません様に…と、トリコは思った。

 幸いなのかどうなのか、名前は呼ばれなかった。

 木刀で頭を打たれて、すっかり意識が無くなっていたから、そこまでする必要も無かったのかも知れない。

「連れて行け」

 トゲ男は、背後に居る男達に命じた。

 ここで暴れる事も出来たが、事情を探る為に、トリコは捕まる事にした。

 全裸で拉致された鯖丸は、少し気の毒だと思ったが、夏だし、風邪もひかないだろうから、まぁいいやと軽く流した。


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