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一話 鯖丸

 騒音はとうに止んでいた。

 暗闇の中で、子供は体を縮め浅くゆっくりと呼吸した。

 まるで、空気が無くなってしまうのを恐れる様に。

 足音が近付いて来た。

 何人もの、低重力に慣れていない人間の耳障りな足音。

 子供は飛び起きて、闇の中で正確にエアロックの解除キーを押した。

 スーツの腰に付いたハーネスを、壁のハンドルに固定し、空気が吸い出される時の耐衝撃姿勢を取った。

 キーの隣で、赤いLEDがアラームと共に点滅した。

 エアロックの解除はキャンセルされ、ドアが乱暴に開いた。

「ガキが1人だ」

 吐き捨てる様な口調だった。

「俺たちを宇宙に放り出そうとしやがった」

 恐ろしくて相手をまともに見られなかった。体ががくがく震えた。

 エアロックから引きずり出され、住み慣れたコロニーの中に戻された。

 でも、見慣れた光景も、見慣れた人達も、そこには無かった。

 人も物も破壊されて、無造作に折り重なっていた。

 重装スーツごと廊下を引きずられながら、ああ、地球人は力持ちだなぁ…と思った。

 それより現実に近い事を考えたら、脳が壊れそうだった。

 レスキューに救助されるまで、それから数日の記憶は今も無い。





 NMCという会社の中四国支所は、小汚い雑居ビルの二階にあった。

 Mがマジックの頭文字だという事は容易に想像が付いたが、Nが何の略なのかは分からなかった。CはたぶんカンパニーのCだろう。

 正規の旅行会社や貿易会社が取り扱わない様な雑事を生業にしているというウワサは聞いていた。

 いわゆる魔界の便利屋だ。

 どれくらい昔に魔界がこちら側へ開いたのか、正確な年代は、今も特定されていない。

 おそらく二百年以上前だろうと言うのが、現在支持されている説だ。

 今現在、魔界は地球上に1368箇所、月面に4箇所、その他の宇宙空間に12箇所確認されている。

 もちろん数字は毎年変わる。

 魔界というのは、異空間とこの世界が接触した場所に開く穴で、穴の周囲は向こう側の世界の法則が浸食し、こちら側の物理法則が少しねじ曲げられる。

 穴の周囲では、ハイテク機器と呼ばれる物の大半が作動せず、光学装置も働かない。

 人やその他の生き物が持つ概念が強く働き、肉体の変形や、魔法と呼べる様な力を発動する。

 そんな危険な場所でのバイトに応募したのは、単に、ものっすごおおく時給が高かったからだ。

 特待生なので学費は免除されていた。

 しかし、特待生なので、特待してくれている部活には、絶対参加しなければならない。

 毎回全国大会まで行くので、その間に生活費を稼ぐ為のバイトは、休みが多くてクビになった。

 唯一、事情を分かって親身になってくれていた全国チェーンの丼物屋が、ある種の丼に入れる動物の伝染病が元で潰れて以来、三度のメシもまともに食べられない状況だった。

 大体二食、そこで食っていたのだ。

 家賃も払えず、ワンゲルの部室でシュラフにくるまって、何代前かの部長が置いて行った骨董品のブラウン管テレビを見つつ寝る毎日だ。

 もちろんワンゲル…ワンダーフォーゲル部の部員ではない。

 こういう体育会系のくせに文系くさい部には、特待生など居ない。この部に所属している友人に甘えただけだ。

 実際には剣道部だった。

 NMCのウェブサイトでは、とにかく能力さえ高ければ、高給優遇勤務時間も考慮すると書いてあった。

 この場合の能力というのは、たぶん魔力の事だが、自分が魔法使いに適しているかどうか、今の所全く分からなかった。


 中四国支所の所長は、眼鏡をかけた中年の女だった。

 ボリュームの多い髪を、肩の後ろで太く短い三つ編みにして垂らしている。

「武藤玲司くん…」

 履歴書の名前を読み上げた。

「学生さん…保護者の方は、居ないのね」

「居ないとマズイですか?」

 事務所は、机とロッカーと荷物がごろごろしている場所だった。

 病院と悪徳金融業者しか使わない様な、味も素っ気もない衝立で入り口近くを区切って、粗大ゴミ置き場から拾って来た様な応接セットを置いている。その、粗大ゴミに腰掛けて、武藤玲司は聞き返した。

「ううん、聞いてみただけ」

 所長は投げやりに言って、肩をすくめた。

「面接。誰か空いてる?」

「あ、俺入ります」

 衝立の陰から、ぬっと犬が出て来た。

 と思ったのは一瞬で、コーヒーを飲みながら出て来たのは、犬系のハイブリットだった。

 地方都市でも割とハイブリットは居るが、こんなに原型に近い個体は珍しかった。

 がっちりした背の高い体に、犬っぽい頭部が乗っている。

 体は、見える範囲では毛皮に覆われていた。

「お願い」

 所長の仕事は、そこで済んでしまったらしかった。

「じゃあ面接行くけど、二十時間くらい空いてる?」

 二時間と聞き間違えたのだろうかと思った。

「二十時間ですか?」

「うん、明日の朝くらいまで」

 特に問題はなかったが、二十時間も何されるんだろうと不安になった。高給優遇の四文字で不安を打ち消した。

「はい、全然大丈夫です」

 心にもない事を元気よく言い切った。

 犬っぽい男は、コーヒーをすすりながら、所長から受け取った履歴書と目の前の少年を見比べた。

「ええと…武藤君、大学生なんだ」

 高校生かと思った…という言葉は飲み込んだらしかった。

「これから魔界に入る。面接のついでにちょっとした仕事を手伝ってもらいます。採用してもしなくても、今日の分のバイト代は出るから、ま、気楽にやってみてください。あ、僕はこういう者です」

 名刺を渡された。

 ジョナサン・T・ウィンチェスター

 と、カタカナで書いてあった。肩書きは課長になっている。

 これだけ原型に近いハイブリットだと、元々の人種は分からない。というか、些細な問題に思えるが、彼のしゃべる日本語には、全く訛りがなかった。名刺がカタカナ表記というのも謎だ。大体、何課の課長なんだ。

 突っ込みどころが多過ぎる。

 黙って名刺を受け取った。

「じゃあ、移動するから付いて来て」

 ロッカーからダッフルバッグを取り出して肩にかけ、ウィンチェスター課長はドアを開けた。

 武藤玲司は、おそるおそる後に続いた。


 魔界のゲートまでは、車で一時間程かかった。

 途中の道筋で、昼時になったので定食屋に入った。

 長距離トラックの運転手が利用する様な店で、何でも遠慮せずに食えと言いながら、課長は大盛りのごはんを注文して、自由に取るシステムになっている棚から、どんどんおかずを取って並べてくれた。

 しばらく、まともな物を食べていないので、涙が出る程有難かった。

「で、名前何にする?」

 突然聞かれて、武藤玲司はむせた。

「え…僕の名前は武藤玲司ですけど」

「俺の名前はジョン太」

 ウィンチェスター課長は、ハシを握ったまま真顔で言った。

「向こうに入ったら、絶対本当の名前で呼ぶな。魔力が高くて熟練度も高い奴なら、相手の本名を知っただけで殺せる」

 むせそうになった。

 魔界が治外法権で、中には物騒な場所もあるとは聞いていたが、生死に関わる様な話をされるとは思わなかった。 

 喉に入れた米粒が、胃まで落ちて行かない。

「あと、仕事中はタメ口な。上司とか年上とか、気にしないでいいから」

「はい、わかりま…」

 怖い目で睨まれた。

 コンビニや外食チェーンとは全然違う、とんでもない職場に応募してしまったのだと遅蒔きながら気が付いた。

 でも、雇ってもらえれば時給は高い。ごはんだってこんなに食べさせてくれる。

 武藤玲司は、意を決した。

 しばらくうつむき、手元の皿を見つめた。

「分かった、ジョン太」

 半分食べ終わった鯖のみそ煮から目を離し、顔を上げた。

 喉に引っかかったごはんを、きっちり飲み込んでから言った。

「俺の名前は鯖丸。今後ともよろしく」

 どっかのゲームに出てくる悪魔みたいな自己紹介を、ジョン太は苦笑いしながら聞いて、うなずいた。


 ゆっくりメシを食った上に、コンビニで買い物なんかしていたので、ゲートに着いた頃には三時を過ぎていた。

 おにぎりとウーロン茶とまるまるバナナを買ってもらったので、武藤玲司…鯖丸はゴキゲンだった。

 ジョン太は、可哀相な子供を見る目で、鯖丸をちらりと見た。

「あのさ…普段、ごはんとか、ちゃんと食べてる?」

「まぁ、それなりに。パンの耳とか、農学部の畑からこっそりもらって来たキュウリとか」

 しょっぱい話だ。こいつが採用になったら、とりあえず焼き肉でもおごってやろう。

 舗装が無くなった道をしばらく進んで、車は止まった。

 前方には、踏切と大差ないゲートが見える。

 魔界の周囲は、申し訳程度にてっぺんに有刺鉄線を巻いたフェンスで仕切られていた。

 フェンスがあるのは、道が通っているゲートの周囲だけで、あとは草木が茂るに任せている事、実際のゲート…というか境界は、もう少し内側にある事、こんなゲートが、この魔界だけで東西南北に四カ所ある事、ゲートを通るには許可証が必要だという事。

 どれも、事前に知っていた。

 遊び半分で魔界に不法侵入している、いわゆる『プレイヤー』は、知り合いの学生にも何人か居た。

 用心棒として一緒に来ないかと誘われた事もあったが、バレた時のダメージ(学費免除の打ち切りや、わずかながらだが受けている奨学金の停止など)は、報酬より大きかった。

 魔界に入るのは、初めてだ。

 ジョン太は、何枚かの書類を、ゲートの横に居る係員に差し出して、サインを貰っていた。

 遮断機が上がり、車が走り出してから、ジョン太は言った。

「紙の書類じゃないと、ダメなんだ。魔界で正常に働く機械は、少ないからな」

 ケータイを取り出して、メールを打ち始めた。

「ケータイ使えるの、ここまでだから、今の内に外と連絡取っとけよ。朝イチの講義があったら、代返頼むとか…さ」

「大丈夫です。どうせ皆、俺のケータイ止められてるの知ってるし」

 ちらりと見たジョン太の打っているメールの文末が「愛してるよ、ハニー」とかいう、月並みな英文だったのは、見なかった事にした。

 まぁ、見なかった事になっているだろう。

 余程の運が悪い劣性遺伝を抱えてなければ、ハイブリットの方が普通の人間より身体能力は高い。

 自分が見えるかどうかぎりぎりの物は、普通の人間には見えないと判断するだろう。

 ケータイも使えないのかよ…という、同情的な視線が帰ってきた。


 境界は、目に見えた。

 特に色や形がある訳ではない。

 それでも、壁があるのが分かって、車が無造作に進み始めたので、鯖丸は「あっ」と、声を上げた。

 ジョン太はちらりとそれを確認してから、ハンドルを切った。

 ゲートと境界の間の土地には、いくつかの建物が無造作に配置されていて、たいがいは何かの会社名が表示されていた。

 NMCと壁に書かれた倉庫に、車は横付けして止まった。

 セキュリティーは高そうだが、電子機器は全く使っていない。職人芸な鍵が差し込まれ、シャッターが開いた。

 照明は、呆れた事に白熱灯で、しかも手動スイッチだった。

 倉庫の奥に歩いて行って、持って来たダッフルバックの中身を出し、ジョン太は着替え始めた。

 一分もしない内に、ハイブリットという以外は普通のサラリーマンの様な身形が、西部劇のガンマンに豹変した。

 左右のガンベルトにねじ込まれている拳銃は、本物なのだろうか。

 プレイヤーの知り合いから聞いた話が本当なら、銃も本物のはずだった。

 魔界では、外側の法律は機能しないし、それ以上に、外側のテクノロジーも機能しない。

 素人でもある程度当てられる光学式の銃は、全く作動しない。

 反動が大きくて、命中させるのが難しい火薬式の銃しか使えない上に、レーザーサイトも、自動照準機も、役に立たないのだ。

 剣道の有段者だというだけで、鯖丸がプレイヤーの用心棒に誘われたのは、魔界では銃と刀が互角に戦えるからだった。

 自分の身形を整えてから、ジョン太は鯖丸を振り返った。

「えーと、特に戦ってもらう予定とかないんだけど、用心の為に一応何か持っといてもらえる?」

 倉庫の中には、色々な武器や備品があったが、銃が自分に扱えるとは思われなかった。

 仮にも銃的な物を使ったのは、ゲーセンでゾンビを撃った時くらいだ。

「あの…竹刀とか」

 自分が一番使い慣れている武器を口に出したが、ジョン太の本物っぽい拳銃を見て、もう少し破壊力のある物に言い直した。

「木刀とか…」

「ああ、観光地の焼き印とか入ってるやつ」

 ジョン太は笑ってうなずいた。

 倉庫の奥にある箱を開けて、何か長い物を取り出した。

 鯖丸は、木刀を受け取ろうと、倉庫の奥に入った。

 何だか分からないが、凶悪な匂いがした。

 手の中に放り込まれた木刀は、絶対に木材の重量ではなかった。

「木刀はないけど、日本刀的なやつならあるから」

 目の不自由なおっさんが、こんなのを振り回している時代劇を、見た記憶があった。

 躊躇していると、気に入らないと勘違いしたジョン太が、別の刀を出して来た。

 さっきの仕込み杖よりも、更に圧倒的にずしりと重かった。

 黒光りする鞘、がっちりした鍔、使い込まれた柄。

 そっと、10センチ程鞘から抜いてみた刀身は、思ったより分厚くて、にぶく光っていた。

 人をぶった斬る為の、バリバリの実用品だ。

 剣道部の監督に、自宅で試し切りをさせてもらった事があったが、これに比べたら監督の刀は装飾品だった。

「お、目が高いね。それ、良い刀だよ」

 横合いからジョン太が言った。

「所長が現場にいた頃使ってたやつだけど、日本刀ちゃんと扱える奴は少ないし、今は誰も使ってない。」

「ええっ、あのおばちゃんが?」

 無愛想で地味な感じで、デスクワーク以外の事をしていた様には見えなかった。

「うん…本人の前でそういう風に呼ばない様にな。あの人、ああ見えてすごく怖いんだ」

 ジョン太は二メートル近い長身で、骨格も筋肉もがっちりしていた。

 原型に近いハイブリットなので、はっきりした年齢は分からないが、自分よりはだいぶ年上で、この仕事にはそれなりのキャリアもありそうだ。

 それが怖いというのだから、本当に怖いのだろう。

 鯖丸はがくがくとうなずいた。

「それ、採用が決まったら、お前の専用にしちまってもいいよ。とりあえず、そのヒモ外すか?」

 刀には、忍者の様に背中に下げる為のストラップが付いていた。

 普通の紐ではなく、肩に当たる部分は、ハニカム構造でメッシュの、幅があるベルトになっている。

 下げてみると、少し短かったが、上下の紐で調節出来る様になっていた。

 思ったより具合が良い。

 昔のお侍と違って、着物も着ていないし、帯も巻いてない。ベルトもしていないし、肩から下げる方が合理的に思われた。

 きっと所長もそう思っていたのだろう。

「いえ…このままで」

 鯖丸は言った。

「採用になるかどうかは、自信ないけど」


 ジョン太は、倉庫の一番奥にあるデスクの引き出しからファイルを取り出して開いた。

 ここでは絶対口に出して呼ぶなと言われた本名を、日付と時刻の次に書き込んで、その後に何か英文で三行程走り書きした。

 拳銃二丁の型番と、弾丸の数だと分かった。クイックローダーという文字も見えた。

 もちろん、クイックローダーが何なのか、鯖丸は知らなかった。

「お前も書いて。名前の次に、改行してその刀の名称と管理番号」

 番号は、鞘に小さなシールが貼ってあった。

 刀の銘柄が分からなくて、あちこちひっくり返していたら、横からジョン太が言った。

「正国って書いとけ」

「本物なんですか」

 敬語になってしまったが、ジョン太は特に注意しなかった。

「いや…レプリカだろ。戦国時代の実用刀が、こんないい状態で残ってたら、うちの会社で買える訳ないし」

 それはそうだ。

 俗に同田貫というやつで、子連れ狼の拝一刀も愛用していたので有名だ。まぁ、実在の人物じゃないけど。

 名前を書き込んで、ファイルを閉じた。

「じゃあ行くか。仕事は、家出娘の回収。依頼者は父親。写真はこれ。顔、憶えて」

 美人ではないが、それなりに魅力的で、何より特徴のある顔立ちの娘だったので、すぐに憶えられた。

 写真はその場に置かれた。

 持って行かないらしい。持っていたら何か不都合があるのかも知れない。

「名前は三田村朔美、十七才。以前から家出を繰り返していたが、一月前不正なルートでここに入った事が確認されている。

 ドラッグの常習者が仲間に居て、本人もその可能性が高い。麻薬の…」

 そこでジョン太は、少し変な表情をして、言葉を切った。

 拳銃も扱える様だし、この人は麻薬常習者に何らかの思い入れがある、元警官とかだろうか…と、鯖丸は思った。

 全然違うと知ったのは、もっと後からだった。

「中毒者は、普通の状態より魔力が高くなる傾向がある」

 精神が病んだ者や、性癖がねじ曲がった者の方が、魔力が高い傾向にあるという事実は、一般にも知られていた。

 逆に、あまりにも心が健全な者は、魔界に入ると正気を保てないという俗説もあった。

 鯖丸がこの仕事に応募した、収入の高さ以外の理由は、それだった。

 たぶん、ジョン太には普通の貧乏学生に見えているはずだけど…そうだと願いたいけど。

 自分より病んでいる奴は、今まで見かけなかった。

 もしかしたら、割と魔力とか言うやつが高い可能性があるんじゃないだろうか。

「確保は俺がやるし、こいつの匂いも憶えてる。犬の半分くらいの嗅覚はあるし、捜し出すのも困難じゃない」

 もちろん、むつかしい仕事だったら、バイトの面接なんかには使われないだろう。

「ただ、俺は全く魔法が使えないんだ」

 少し驚いた。

 魔力の高い低いや、技の熟練度の差はあったが、魔界に入ればたいていの人間は、軽微な魔法くらい使えたからだ。

 ごくまれに、魔力が異常に低い人間も居ると聞いていた。

 別に、魔界以外では何の不自由もないし、魔界では自分が使えない代わりに魔法があまり効かないというメリットもある。

「俺が気が付いてないのに、明らかにおかしいと思った状況になったら報せてくれ。それがお前の仕事だ」

 鯖丸は、うん、分かったとうなずいた。


 魔界は思ったより広かった。

 直径は十数キロ近くで、半島の突端に位置している為、三割程は海が占めていたが、それでもかなりの面積がある。

 魔界が出現するまでは港町だった場所は、今でも都市として機能していた。

 周囲には、昔ののどかな田園風景と、山野が広がっていた。

 もっと恐ろしい場所を想像していた鯖丸は、拍子抜けした。

 唯一怖かったのは、ジョン太が何のためらいもなく境界に車ごと突っ込んだ時だった。

 慣れているとかではなく、明らかに境界が見えていないらしい。

 ゆるいゼリーの中を通る様な抵抗感があって、周囲の空間にモアレがかかるのが見えた。

「人によっては、けっこう綺麗だとか言うんだけどね」

 自分では見えないのを残念がっている口調で言って、車のオーディオに、見た事のない四角いプラスチックを差し込んだ。

 昔のハードロックが、爆音で流れ始めた。鯖丸は耳を塞いだ。

「KISSのデトロイトロックシティ。デジタルリマスターじゃなくてレコード音源なんだぜ、いいだろ」

 何が良いのか全然分からない。ただ、カセットテープというのを生まれて初めて見た。骨董品だ。

 そう言えば魔界では光学ディスクは再生出来ないと聞いた事があった。

 夕暮れが近付いていたが、空はまだ青く、空気は爽やかだった。

 魔界が出現するまでは、国道として使われていた昔のアスファルト道路を、車は疾走した。

 路面はぼこぼこに荒れていたが、まだまだ現役の道として機能していて、良く分からない動物が引く荷車を追い越した。

 魔法で変形された動物や、勝手に自分で変化した生き物は沢山居るとジョン太は説明した。

 暗くなる前に、街の手前に着いた。

 車をその辺の藪に無造作に突っ込んで隠し、二人は魔界のメインストリートに入った。


 電気ではない灯りが点っていた。

 明らかに人ではない外見の者も混じった人混みを、ジョン太は迷わず歩いていた。

 獣人もかなり居る。

 ハイブリットではなく、魔法整形者だ。普通に見える人間も、もちろん外観をいじっている可能性はあった。

「魔力がすごく高い奴は、意識しなくてもここに入っただけで外見変わる事もあるし…な」

 ジョン太は説明した。

 鯖丸は、自分の外観を、見える範囲で点検した。いつも通りだ。

 すごく魔力が高い可能性は、少なくとも減少したが、内心ほっとしてもいた。

 自分が抱えている心的トラブルが、外見に反映した姿は、見たくなかったし、見せたくもなかった。

 ジョン太は、見た目は怖いが、いい人に思われた。

 こういう人には、特に見せたくない。

 街並みは、徐々にメインストリートから離れて、いかがわしい雰囲気になって来た。

 建物の角ごとに立っている、けばい化粧の女達が何か分からない程には、子供ではない。外でもこういう所は、けっこうやばい場所だ。

 女達の何人かは知り合いらしく、向こうからジョン太の名前を呼んで来た。

「なにー、その子新しい相棒?」

 三人組の女が声をかけて来た。

 それぞれ、違う動物の皮で出来たコートを着て、それに似合った外観に、自分を変えている。

「かわいいー」

「ねぇ、時間あったら、遊んでく?」

「悪いけど、今日は時間ねぇんだ」

 ジョン太は断った。

「一月前、ここに来た外界の女を捜してる。たぶんジャンキーで、プレイヤーと連んでる奴」

 女達はくすくす笑った。

 多いもんね、そんな奴…というささやきが聞こえた。

「カシマの店に行ってみたら?一月前に新入りが来てるし」

 三人は、手を取り合って更に笑った。

「それで相棒にデジタルジャンキー連れて来たのぉ。ウケるぅ」

「おねーさん達、デジタルよりもっといいドラッグ、紹介するよぉ」

「一晩中、勃ちっぱなしだよぉ」

 ジョン太は、怖い目で三人を睨んだ。

 中の一人が小さい声でごめんと言って、三人は街角で通常業務に戻った。

 ジョン太、ドラッグには厳しいんだったよ、忘れてたけど…という会話が聞こえた。

 ジョン太は振り返って、自分の首筋を手の平で押さえた鯖丸が、後ずさるのを見た。

「いや…別に」

 ジョン太は声をかけたが、鯖丸はもう一歩下がった。

「あの…こういうの、最初に言っとかないのは…でも…」

 家出娘を捜しに来たのに、もうちょっとでこいつが人混みの中に逃げそうだ。

 でも、気持ちは分からないでもない。

 似合いもしないくせに、中途半端に肩まで髪を伸ばしているのも、時々不思議な動作をするのも、理由は見当が付いていたが、気が付かないふりをしていた。異端なのはけっこう辛い事だ。良く知っている。

「そのプラグいいよな。俺も着けたかったんだけど」

 鯖丸は、えっ?という顔で止まった。

「ハイブリットの身体改造は、普通人よりむつかしくてさ」

 何で、採用も決まってないバイト候補にそんな話までしてしまうのか、自分でも不思議だったが、ジョン太は言った。

「船外作業用重装宇宙服のジャックインプラグだろ。知ってるよ、上に居た事あるし」

 安堵のため息に似た物と一緒に、鯖丸は肩を落とした。

 着ぐるみのロボットと呼べそうな重装宇宙服を的確に操作する為に、脳と宇宙服を直結するインターフェイス埋め込み手術は、地球外の住人の間では、めずらしくはなかった。

 信じられない程良く鍛えているが、鯖丸の動作や身体的特徴は、明らかに低重力で生まれ育った物だった。

 成長期が終わる前に地球に戻ったとしても、大変な治療とリハビリが必要だったはずだ。

 更にたちが悪い事に、宇宙服のインターフェイスと、ある種の性的な電脳ソフトやデジタルドラッグに接続する為のソケットは、素人には見分けが付かなかった。

 のんきなガキに見えるが、そうとうひどい目に遭って来ているはずだ。

「そんな事…」

「詮索されたくないなら、聞かないさ。俺だって、話したくない事は山程あるし」

 鯖丸は、少し黙り込んでから言った。

「ジョン太は、良い人だね」

 ジョン太の毛皮の表面が、ぶわっと逆立ってから、元に戻った。

 喜んでいるのか嫌がっているのかさえも、全然分からなかった。

 

 カシマの店は、奥まった場所にあった。

 崩れかけた昔の雑居ビルを骨組みに、迷路の様に建て増しと補強が繰り返された薄暗い建物が並んでいる。

 さっきの街角が、上品に見える様な場所だ。

 こんな所には、外からの観光客は絶対来ない。

 魔界で暮らしている地元の人間だって来ないだろう。

 複雑な階段を登って、ドアを開けると、煙草の煙と、煙草じゃない何かの煙と、その他何だか分からない匂いが一気に流れ出して来た。

 鯖丸は少しむせたが、ジョン太は平気な顔でずかずかと店の奥へ入って行った。

 絶対、自分より嗅覚が鋭いはずなのに、平気なんだろうか…。

 案内されたテーブル席に、頭と背中に羽毛の生えた男が注文を取りに来た。

「梅昆布茶」

 ジョン太は真顔で言い切った。

「ねぇよ、そんなもん。ミルクでも飲んどくか、あぁ」

 ジョン太が言ったのに、鯖丸の方にヤンキー風のメンチを切っている。

「何でもいいや、それとビール」

 あっという間にテトラパックの牛乳と缶ビールが二人の前に置かれた。

 鯖丸が手を伸ばす前に、ジョン太はテトラパックを手に取り、ストローをぶっさしてちゅるちゅるすすった。

「お前は飲んでいいぞ」

 ジョン太は小声で言った。

「一応あと何ヶ月かは未成年なんだけどなぁ…」

 もちろん建前だ。ただ酒ならいくらでも飲める。

 牛乳もビールも、外のスーパーで普通に見る品物だった。

「誰か指名ある?」

 羽の生えたヤンキーがたずねた。

「えーと、名前は聞いてないんだけど」

 ジョン太は少し考えるふりをした。

「一ヶ月くらい前に来た娘で、なんかこう、ぽっちゃりしてて鼻が上向きで、髪の毛がくるくるっとした…」

 更に付け加えた。

「指名するって、約束しちゃったんだけど…いいかな」

 ヤンキーはうなずいて、店の奥に声をかけた。

「おおぃ、さっちゃん、御指名だよ」

 はぁい…と、奥から声が聞こえた。

「ここって、キャバクラ的なあれですか」

 ジョン太は、首を横に振った。

「それ、キャバクラ関係者が聞いたら泣くぞ。もっとひどい所だよ」

 奥から女が出て来た。

 片手を上げて「はぁい」と挨拶して笑ったが、明らかに足元がよろよろだ。

 写真で見た女の面影はあった。たぶん、本人だろう。

 全然ぽっちゃりしていない。

 やせこけて、暗がりでも老け込んで見えた。

「指名、ありがと。すぐ、奥行くぅ?どっちが指名してくれたの?それとも二人で?」

 ジョン太は急に、体一つ分空けていた鯖丸の隣ににじり寄って座り直し、手を握った。

「実は俺ら、関西の方の穴でパートナーやってたんだけど、何か煮詰まっちゃって」

 プレイヤーや、その他頻繁に魔界に出入りする外の人間は、魔界を俗語で『穴』と呼ぶ。

 本当に最深部には穴があるのだが、観光や一時滞在の仕事で立ち寄る人間は、そういう呼び方をしない。

「何か新しい展開が必要かな…って」

「ああ、分かる分かる。それで、どっちかとしてるとこ、見せたらいいの?それとも二人で?」

「ううん、俺らがしてるとこ、見ててくれ。そんで、こいつがええ感じになって来たら、お前も参加して欲しいんだけど」

「わぁ、面白そう」

 明らかに、何かの薬品臭い息を吐きながら、女は言った。

 そうか、いやに時給が高いと思ったけど、そういう事か…。どうしよう…ジョン太は嫌いじゃないけど。

 店の奥にあるドアをくぐりながら、ぐるぐると考えを巡らせていた鯖丸は、ふいに肘で小突かれた。

「おい」

 耳元に、ジョン太の鼻面が寄せられた。

 本物の犬と同じで、少し湿っていてくすぐったい。

「廊下の突き当たりに、扉が見えるな」

 鯖丸はうなずいた。

「あれ破って外へ出たら、一気に車まで走る。遅れずに付いて来い」

 良かった、お芝居なんだ。まぁ、そりゃそうだ。でも、びっくりした。

 色々な考えがぐるぐる回っていたので、気が付くのが一瞬遅れた。

 本来女が案内するはずだった部屋…廊下に面したいくつかの扉の一つが、開いていた。

 ほんの数センチだった。

 魔界の外だったら、絶対に気が付かないはずだった。

 ドアの内側から、何かがドーム状にぐわっと漏れ出していた。

 歪んだ空気が、濃厚な香りと、微細だがしつこい振動と、奇妙な感覚を垂れ流している。

 二歩進んだ時、腐った様な生暖かい風が、ほんの少し吹いた。

 体中が嫌な予感で堅くなって、鯖丸は止まった。

「ジョン太…」

 ジョン太は、こちらを向いた。

 この異変を、絶対に関知していないと確信した。

「何か、変だ」

「そうか」

 ジョン太の反応は、異常に早かった。

 答え終わった時にはもう、クッションを扱うより軽々と女を自分の肩に担ぎ上げ走り出し、同時に拳銃を抜きながら振り返り、鯖丸の目線の先にあるドアに、続け様に三発撃ち込んだ。

 非常口と書いた、くさりかけたプラスチック片がぶら下がったドアが蹴り破られるまで、一秒もかからなかった。

 呆然としていた鯖丸は、背後からの圧迫感が更に大きくなり、我に返った。

 ジョン太の後を追って、非常口の外へ駆け出した。

「あ…」

 非常口だから当然あるはずの非常階段が無かった。足が空中を泳いだ。

「うわ、バカ、お前」

 不思議な事にジョン太は普通に十メートルくらい下の地面に立っていて、鯖丸を受け止めようと女を下に降ろして両手を差し出した。

 いくら屈強な大男でも、それは無理だろう。

 鯖丸だって、東洋人としては背が高い部類に入る。それなりに筋肉も付けているので、見た目より体重もある。

 しかし、ジョン太の顔は、明らかにそれが出来ると確信している風だった。

 力を抜いてそのまま落ちろという風な事を、早口の英語で叫び始めるのが分かった。

 でも、セリフが終わる頃には、地面に落ちているだろう。

 鯖丸が生まれ育った低重力環境では、十メートルの落下くらい、何でもなかった。だから不思議と、恐怖感は無かった。

 でも、1Gで落ちたら、死ぬんだろうか、怪我で済むんだろうか。

 体がふわりと浮いている自由落下の状態は、心地よかった。

 そして、落下の為に周囲を吹きすさんでいた空気の流れが、ふいに止まった。

 ジョン太はあんぐりと口を開けて、自分の目の高さに浮かんでいる鯖丸を見た。

 いや…何か紙の様に軽い物を受け止めた感触はあった。

 重さがほとんど無い。手を放すと、ふわりと宙に浮いた。

「ジョン太」

 浮いたまま、鯖丸は言った。

「さっちゃんが逃げる」

「ああ」

 ふらふらと立ち去りかけていた女を、ジョン太はがっちり捕まえ直した。

 鯖丸は周囲の状態を一瞥し、くるりと体をひねって、地面に足を着けた。

 宇宙空間で働いている地球生まれの人間なら、泣いて悔しがる様な動きだった。

 地面に足が届いた瞬間、重力が戻ったらしく、鯖丸は不快そうに顔をしかめた。

「お客さぁぁん」

 ふいに、上空から声がした。

「お店の娘を勝手に連れ出されちゃ、困るんですけどぉ」

「あっ、まー君」

 女は、ジョン太に担がれたまま、手を振った。

 さっき部屋から漏れ出していた変な空気は、こいつだという事はすぐ分かった。

 あの変な空気と振動が、男の周りを取り巻いていたからだ。

「返してもらえますかねぇ」

 ジョン太は迷わず発砲したが、弾丸は男の体までは届かなかった。

「ちっ、思ったより魔力高いな。ショットガンにすれば良かった」

 言いながら、反対側のガンベルトから一回り大きい銃を引き抜き、撃ち込んだ。

 どうしてそんな物が見えるのか分からなかったが、三発撃ち出された弾丸が、全く同じ軌跡を描き、男の周囲に回らされた空間に次々と衝突するのが分かった。

 一発目ははじき返されたが、二発目は確実に空間をえぐり、三発目が男の肩を打ち抜いた。

「くそっ、てめぇ。魔力低いくせに、上手い事使いやがって」

 男は、肩を押さえて怒鳴った。

「魔法じゃなくて名人芸なんだけどなぁ…」

 しゃべりながらばらばらと薬莢を地面に落とし、クイックローダーが空になった一丁目の銃に、一瞬で六連発リボルバーの弾丸を装填した。

 ああ、そうやって使うのかと鯖丸は納得した。

 最近リボルバーの拳銃なんて、アクション映画でもほとんど見ない。

「一応説明するけど、この女の両親から捜索願が出てる。お前、外へ出たら1ダースくらいの罪状突きつけられて逮捕されるぞ」

「違うの、まー君は悪くないのぉ。あたしが勝手に好きになったのぉ」

「うわぁぁ、こいつバカだ」

 心底嫌そうにジョン太はぼやいた。

「よし、安全確保」

 女のみぞおちに軽く拳をたたき込んで気絶させた。

「わぁ、ジョン太鬼畜」

 鯖丸はつぶやいた。

「うん、俺でもそれはしないな」

 まー君にまで非難された。

 ジョン太は平気だった。心が強いタイプだ。

「逃げるぞ」

 走り出そうとした二人の前に、爆風が襲いかかった。

 まー君は、ゆっくりと空中を下りてきた。

 いつの間にか囲まれていた。

 三人くらい居る。

 いつの間にかと思ったのは自分だけらしく、ジョン太は周囲の気配に神経を張り巡らせて対応していた。

 この人は一体何なのだろうと思った。

 そして、自分はなぜ、あんな事が出来たのだとろうも思った。

「こいつら、どうします」

 三人はまー君の手下らしい。それぞれ、怖い形に自分を整形している。

 まー君が一番普通だった。

 細身の体にだらりとした服を着て、シルバーのアクセサリーを二つ三つ付けて、顎にだけ短くひげを生やしている。すごく良く居るタイプだ。

「殺っちまっていいよ。女は殺すな」

「捜査官だったら、後で面倒な事にならないか?」

 鬼に似ている男が言った。

「別にいいだろ。たぶん民間だし」

 まー君は、くるりと鯖丸の方を向いた。

「こいつからやろう。魔力が高くて、面倒くさそうだから」

 片手を上げて、口の中でぼそぼそと何か呪文の様なものをつぶやいた。

 空気が振動し始めた。

 嫌な音を立てて、周囲の空間がぐしゃりと歪んだ。

 重い。

 がくりと膝が下がった。刀が肩に食い込んだ。動けない。

 落ち着け。地球に来た頃はこんなだったろ。がんばれば動けるはずだ。

 歯を食いしばって体を伸ばす間もなく、見えない手がずしりと重みを増した。

 重力に引っ張られているのではない、上から押さえつけられているのだ。

 鱗のある男が、アーミーナイフを持って、近付いて来た。

 不自然な姿勢で、頭の上にナイフをかざして、こちらを狙っている。

 たぶん、この魔法が効いている範囲内は、何もかも重くなるのだ。正面から刺しても当たらないのだろう。

 一撃目は、自分から倒れれば避けられる。でも、その後は…起き上がれないまま、やられ放題だ。

「くそっ」

 鯖丸の周囲で、空気が渦を巻いた。

 見えない空間が、少し震えた。

「こいつ、押し返すぞ。早く…」

 まー君が叫んだ。

 鱗男がナイフを振り下ろした。

 次の瞬間、普通につかつか歩み寄ったジョン太が、鱗男をぶん殴った。

 喉の奥から変な音を出しながら、鱗男はぐるんと一回転して地面に叩き付けられ、ワンバウンドして倒れた。

 今まで大人しくしていた猫に似た男が、跳躍して襲いかかった。破壊力のありそうな太くて長い、湾曲した爪が空を切った。

 ジョン太は、猫男を見もしないで、後ろ回し蹴りを繰り出した。

 猫男はぎゃっと叫んで五メートルほど吹っ飛んだ。

 鯖丸とまー君は、立場は違うが同じ様な表情で、ぽかんと口を開けた。

 しかし、ジョン太が無造作に魔法空間に片手を突っ込み、鯖丸のズボンを腰の所で掴むのを見て、顔色を変えた。

「待て、それは無理。絶対無理だから」

 まー君が止めた。

 ジョン太は、鯖丸を少し引っ張ってから、ちょっとだけ表情を変えた。

 それから、少し腰を落とし「ふん」とか声をかけて鯖丸を空間から引きずり出した。

「すごいな、お前」

 明らかに、軽く引っ張り出せると信じていた口調で、ジョン太はまー君に言った。

「どっちがだ」

 さっちゃんを担いだまま、鯖丸を片手でぶら下げて持っているジョン太に、まー君は怒鳴った。

「そいつが俺の結界内で、何百キロあったと思ってるんだ」

「二百五十キロくらいだろ」

 ジョン太は割合的確な数字を言った。

「オジサンはねぇ、お仕事でここに来てる訳なの。お前らみたいなガキといい勝負してる様じゃ、そもそも仕事にならないだろ」

 振り返って、にやりと笑った。

「大体、こんなチンケな仕事で、残業なんか出来るか。もう帰る。邪魔したら殺すぞ」

 何も挑発しなくてもいいのに…と、ぶら下げられたまま鯖丸は思った。

 俺の方が戦力の要だと思って狙われたのが、気に障ったんだろうか。

 狙われない方がいいに決まってるのに、そうだとしたら、割と大人げない人だ。

 まー君は、しばらくの間、黙って立っていた。

「もういい」

 うつむいたまま、つぶやいた。

「お前、そいつを押さえてれば、攻撃出来ないと思ってんだろ。もういいよ、女なんて、他にも居るからな」

 まー君の体の周囲に、あの、変な空間が無数に浮かんだ。

 一つ一つは小さい。

 しかし、性質は同じで、震えながら命令を待っている。

「ダメだまー君。無茶するな」

 止めに入った鬼に似た男は、一にらみされて後ろに下がった。

「行け」

 合図と共に小さな空間が無数に襲いかかった。

 ジョン太は待ってはいなかった。

 二人の人間を抱えたまま、横っ飛びに吹っ飛んで攻撃をかわした。

 空気の固まりが、派手な音を立てて地面や壁をえぐった。

 二度目もかわせた。たぶん、避けられるから舐めた態度を取れるのだろう。

 わざとまー君を怒らせている様にも見える。

「ジョン太…」

 ぶら下げられたまま、鯖丸は言った。

「降ろして。俺持ってたら、銃が使えない」

 怒らせた方が、攻撃が的確でなくなる。そういう事かも知れない。

 確かに、安全に逃げ切る自信はあるのだろうが…。

 ジョン太は、ちらりとこっちを見た。

「それと、あれ、俺にも出来るかも」

 まー君の方を指さした。

「そうか」

 ジョン太は、物陰で止まって、鯖丸を降ろした。

 次の瞬間にはもう、空いた腕に銃を持っていた。

「無理はするなよ」

 心配そうな表情で言った。

 今まで、あまり心配してくれる人は居ない人生だったので、何だか嬉しくなった。

「一応、保険は入ってるけど、ただの面接だからな。怪我をした時の保証限度額は…」

 ややこしい事を言い始めたので、嬉しさは急激に冷めた。

「やってみる」

 まー君の居る方を、物陰から確認して、刀を抜いた。

 鯖丸の周囲で、足元から頭の先まで、空気の流れが螺旋を描いた。

 刀の切っ先に集める方法が分からない。

 まー君が、空間を撃ち出していた時の空気の流れを思い描いた。

「ええと、こうやって…」

 周囲を渦巻いていた空気が、めちゃくちゃな乱気流になって、しかしじわじわと刀身に集まっていた。

 さすがにジョン太にも見えるらしく、さっちゃんを背後にかばって、少し後ずさった。

「ちょっと待て」

 さっちゃんを地面に寝かせて、両手に銃を持った。

「そそのまま表に出たらヤバイ。援護するから、俺が撃ったら…」

「大丈夫」

 乱気流に振り回されていた両手が、ぴたりと止まっていた。

「ここからいける」

 上段に構えた剣を、一拍置いて振り下ろした。

 さすがに剣道をやっているだけあって、綺麗な型だ。

 繰り出された空気は、螺旋を描きながら曲線に飛んだ。

 銃を構え飛び出すと、後ろに吹き飛ばされるまー君と鬼が見えた。

 動いてはいるが、しばらく起き上がって来ないだろう。

「よし、今の内に逃げよう」

 ジョン太はさっちゃんを拾い上げた。

 鯖丸は、背中から降ろした鞘に、もたもたした動作で刀を収めてから、うなずいた。


 帰り道では二人とも無言だった。

 ジョン太は何か考え込んでいる様子で、鯖丸は、自分がでしゃばった真似をし過ぎて、結局二人を危険な目に遭わせたのかも知れないと、延々と後悔していた。

 意識を取り戻したさっちゃんだけが、後部シートに括り付けられたまま、文句を言い続けていた。

「まー君に何かあったら、あんた達許さないからね。まー君はいっぱい仲間が居るんだから。あんた達なんかもう、魔界で大きな顔して歩けないよ。ぼこぼこにされるんだから。殺されるかもね。まー君は…」

「ああ、もう一回殴って黙らせてぇ」

 ハンドルに頭を押しつけて、ジョン太はうなった。

 ジョン太の機嫌が悪い理由が、さっちゃんらしい事に、鯖丸は気が付いた。

「よし、こいつ殴ろう」

 本気らしく、道端に車を止めた。

「ダメだジョン太。一応お客さんの子供なのに」

 何で、バイトどころか面接段階の自分が止める側なんだろうと、鯖丸はぼんやり思った。

「それに、本当に子供だし」

「あんただってガキじゃん。偉そうに」

 自由になる足で、シートの背もたれをがつがつ蹴って来た。

「俺は、もうすぐ二十歳だ。子供じゃない」

「えっ、そんな顔でまー君より年上?うそっ。大体何?そのだっさい服。オタクだろお前。童顔の上に童貞だな、キモっ、死ね」

「この服はね、フリマで上下たった三百円という、すばらしいコストパフォーマンスを秘めているんだよ」

 鯖丸は説明した。

 襟ぐりがわかめの様によれよれになったTシャツと、ブランドの不明な、ビンテージではなく、ただ単にマジで使い古されただけのジーンズだが、三百円は確かに画期的だ。

 持ち主的には、捨てたかった品に違いない。

「ジョン太」

 鯖丸は、にっこり笑った。

 出会って以来、一番いい笑顔だ。

「こいつ、記憶がなくなるくらい殴ろう。そして、オヤジには、まー君がやったって報告しよう」

「待て、お前、温厚な青少年じゃなかったのか。何が気に障ったんだ。童顔か、オタクか、童貞か」

「ぎゃははは。バカ二人が仲間割れかよ。ウケる」

 笑い転げていたさっちゃんは、突然泣きわめき始めた。

「いやだ、家に帰るのいやだ。まー君と一緒の方がずっといいよ。帰るの嫌だー、嫌だよぅ」

 ジョン太は、肩をすくめて車をスタートさせた。

「帰る所があるくせに、贅沢言うなよ」

 鯖丸は小さい声でつぶやいた。


 そんなこんながあったくせに、帰って来たのはきっかり二十時間以内だった。

 会社の倉庫に武器や備品を返却し、ファイルに時刻とサインを入れて、ゲートに向かって走った。

 刀と違ってジョン太の銃には消耗品が含まれている為、減った分の数量を申請して、新しく在庫を増やしてもらう手続きが必要らしかった。

 ゲートからさっちゃんを連れ出す時にも、一連の手続きが必要だった。

 お前にも、後で憶えてもらうからと、ジョン太は言った。

「はい」

 それは、採用という事なんだろうか。

 来た時と同じ定食屋で、朝飯を食った。

 メニューは朝食向けの物に変わっていたが、ごはんはお代わり自由と書いてあったので、三杯食った。

 さっちゃんは、すっかり大人しくなって、借りてきた猫の様に黙って座っていたが、何も食べなかった。

 お茶だけをごくごく飲んでいた。

 トイレに行くと言って、席を外した時に、ジョン太が話した。

「あの娘はたぶん、帰ったら麻薬中毒患者の更正施設に入れられる。たいがいは立ち直れるよ」

 鯖丸は、眉をひそめた。

「いちいち気にしてたらしんどいぞ。これからもある事だし」

 話しながら、メシを食いながら、片手でメールを打っていたジョン太は、顔を上げた。

「今、所長から連絡が入った。お前、合格だ」

 箸を置いて、右手を差し出した。

「よろしくな」

「はい」

 これで学校を辞めなくて済む。

 毎日ご飯も食べられるし、お金が貯まったら、部屋を借りて普通に暮らせる。

 鯖丸は涙ぐんだ。

 突然、トイレの方からおばちゃんのひゃあっという悲鳴が聞こえた。

「女の子が窓に挟まってるよ」

「さっちゃん?」

 鯖丸とジョン太は、顔を見合わせた。

「窓から逃げようとしたの?」

 鯖丸は聞いた。

「だろうけど、ここの便所は、子供でも出られないくらい、窓が小さいんだ」

 知っていたから、一人でトイレに行かせたらしい。

「ただ、女子トイレに入るのは、厳しいよなぁ」

「うん」

 二人は、顔を見合わせた。

「こういうのは、バイトの仕事だな。武藤君、後よろしく」

「新人のバイトには手に余る仕事ですね。課長にお任せします」

 二人はにらみ合った。

 程なくさっちゃんは、先ほどのおばちゃんに手を引かれて、めそめそしながら戻って来た。

「あんた達ひどいね」

 見知らぬおばちゃんは、二人に言った。


 バイトだからと軽く考えていたが、その後の手続きは割とややこしかった。

 山の様な契約書と保険の利用規約に目を通し、サインし、魔界へのパスをもらった。

 自動車の普通免許と、自動二輪の免許を取る様に所長に命じられ、教習所へ通い始めた。

 単なるバイトなのに、会社持ちで免許を取れるのは有難かったが、お金が貯まったら取りたかったオートマ限定免許ではなく、今時マニアしか欲しがらないマニュアル免許なのはまいった。

 車やバイクの好きな者なら楽しいだろうが、どちらも特に興味はなかったからだ。

 魔力の測定の為に、仕事でもないのに一日魔界に呼び出されたのが、一番堪えた。

 測定自体はそれほど苦痛でもなかったのだが、検査官が途中から顔色を変えて、外へ出て行き、また戻って来る事を繰り返し始めた。

 自分の魔力が異様に高い事を報され、ここまで魔力の高い人間は、測定された時点で公的機関に登録されると言われた。

 嫌な感じだったが、付き添ってくれたジョン太は、心配するなと肩をたたいた。

「別に、魔界で重大な犯罪でも犯さない限り、勲章みたいなもんだ。もらっとけ」

「Aクラス以上は、誰でも登録されるんだよ」

 検査官は説明した。

「君の様なSランクは、多くない。国内では二十人以下だ」

 熟練度が上がったら、政府公認魔導士になる事も考えてみてくれと言って、検査官は去った。

 そんな将来設計は、予定外だった。


 その後、さっちゃんと会う事は、二度と無かった。

 意外な事に、まー君とはすぐに再会した。

 面接の時にもらったバイト代で、何か美味しい物を食べようと、コンビニへ行ったのだ。

「ああ、コンビニ弁当を食べられる幸せ…」

 幸せのレベルが低過ぎて涙を誘うが、本人は気が付いていない。

 デザートにぷっちんプリンまで買い込んで、ご満悦だった鯖丸は、店員の声ではっとなった。

「お弁当、温めますかぁー」

 目の前に、まー君が居た。

 魔界に居た時より、ずっと幼く見えるが、まー君だった。たぶん、さっちゃんと同い年か、少し若いくらいだろう。

「はい、お願いします」

 他の手下達と違って、魔法で外見をいじっていないと思っていたが、この子なりに虚勢を張っていたんだなぁ…と、何となく思った。

 レンジから出した弁当を袋に詰めて差し出したまー君は、鯖丸を見てちょっと息をのんだ。

「お前…」

「やぁ」

 軽く片手を上げた。

「何だそれ。魔界出てもそのまんまかよ。魔力高いくせに」

「あれが初めてだから、勝手が分からなくて」

 金を払いながら、鯖丸は言った。

「あ、プリンのスプーンもください。住所不定学生だから、俺。食器持ってないの」

 まー君は、肩を震わせて少し笑った。

「こんな天然に負けたのかよ」 

 スプーンを差し出して言った。

「ありがとうございます。四百八十五円です」

 額と腕に、青黒い痣が出来ていた。

 大した怪我ではなさそうなので、ほっとした。

「朔美はどうしてるか、お前知ってるか」

 尋ねられて、鯖丸は少し迷った。言うなと言われていたからだ。

「西の方の病院に居る。それ以上は言えない」

「そうか」

 まー君は、ため息をついてから、顔を上げた。

「お前の首のプラグ、かっこいいぜ。魔界に居る時は、見せびらかして歩きな」

 鯖丸は、首筋を手で押さえてから、ちょっと考えてうなずいた。

「うん、今度からそうするよ」

 ありがとうございましたー、と言って、まー君は頭を下げた。

 コンビニの店主らしい男が「増田君にも真面目そうな友達が居るんだねぇ」と言っているのが聞こえた。


 マニュアル免許も取れて、煩雑な手続きも終わって、次の仕事に呼び出された時には、面接から一月近く経っていた。

 同じ刀を使っていた所長が見立ててくれたので、鯖丸はずいぶんましな身形になっていた。

 シャツもズボンも、頑丈で伸縮性があってすぐ乾く、高性能な物に替わっていた。

 ジャケットも中々いい物らしく、あんまり私用に使わない様に…と、念を押された。

 久し振りに訪れた支所は、最初に来た時と同じだった。

 ごちゃごちゃしていて、何人かは机に向かっているが、空いたデスクの方が多い。魔界に『営業』に出ているのだ。

 もう昼近かったが、おはようございますと挨拶して入った鯖丸は、奥の机に近寄った。

「おはようございます、ウィンチェスター課長」

 鼻面に眼鏡を乗せ、首を突き出した悪い姿勢でノートパソコンに向かっていたジョン太は、少ししてから返事をした。

「ああ、おはよう」

 顔を上げ、鯖丸の方を見たジョン太は、少し驚いた顔をした。

 鯖丸は、中途半端に長かった髪を、ばっさり切っていた。

 服も新しくなっているし、首のプラグは丸見えだが、ずいぶんこざっぱりした姿になっている。

「お、いいじゃん。さっぱりして」

 鯖丸は、少し照れた様子で頭をかいた。

「散髪代ができたから…」

 長髪のままでもう少しお洒落な感じにも出来ただろうに、勇気あるなぁこいつ…と思った。

 他に何か言おうと思ったが、結局ジョン太は「そうか」とだけ言って、二三度キーをたたいてから、パソコンを畳んだ。

「じゃ、行こうか、武藤君」

「はい」

 鯖丸は、元気な声で答えた。

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