小説とエッセイの違いについて
エッセイというのは矛盾が無いように書くのが普通です。例えば「人に優しくしよう」が主題のエッセイで「ところで筆者は昨日、イライラしていたので家族に八つ当たりしたらすごくスッキリした」なんて書いてしまったら「あんた言ってる事とやってる事が全然違うじゃないか」と呆れられてまともに読んでもらえない事でしょう。
またエッセイというのは論旨がブレるのも基本的にNGです。「人に優しくしよう」が主題のエッセイで「人に優しくしたら利用されて酷い目にあった」なんて体験談を出して「やはり人に優しくするのは良くなかった」なんて話がブレだしたら読者に「結局あんた何が言いたいんだよ」と思われてしまいます。
エッセイというのは最初に論旨を出しておいて、論旨を補強する形で論を展開していくのが普通です。エッセイでは「過剰に人に優しくすると甘やかす事になるかも知れない」といった感じで論旨を否定しかねない事実をあえて提示する事もありますが、そういった不利な事実を提示する事で想定される反論を「加減を考えれば人に優しくする事に問題はない」という風に潰しておく事ができる為、論旨はより一層補強される事になります。Twitterで流れて来る主義主張もレスバも同じような感じで、自身は矛盾せず一貫した論を述べ、想定される反論を潰し、他者の矛盾を指摘し相手を論破し、自身の無矛盾性を更に補強したりしています。
しかし、常々気を付けておかねばならないと思うのが「そもそも矛盾していない人間はいない」という事です。「人に優しくしよう」なんてエッセイを書いている人は確かに優しいかも知れませんが、家族と他人が同時に溺れていたらどちらから助けるのでしょう。普通に考えたら家族から助けるでしょうが、この場合溺れ死ぬ事となった他人にとってエッセイストは「優しい人」と言えるのでしょうか。実際の人間は様々な矛盾を抱えながら生きている訳で、いかに大層なお題目を掲げてみてもその通りに生きていくのは難しいでしょう。ちゃんとしたエッセイというのは内部的には矛盾していないのですが、実際に生きる人間に適応しようとしたらどうしても無理が出てきます。
一方で小説というのは矛盾の塊であります。優れた小説程、キャラクターは内部に矛盾を抱えながら生きています。そして作者は矛盾した人間存在を矛盾したままに描く事で、現実に落とし込まれた形の思想を提示する事ができます。罪と罰のラスコーリニコフは「犯罪について」という論文を書き、人間を凡人と非凡人に分け、非凡人は犯罪的行動によって使命を果たしてよいというテーゼを立てました。この論は内部的には矛盾していないのですが、実際に殺人を実行に移したラスコーリニコフは自論の欠陥を、人間は凡人と非凡人に区切れるもんじゃないという事をその身を持って思い知っていく事となります。
もしドストエフスキーが「ロシアの大地と民衆は素晴らしい! キリスト教は素晴らしい!」なんてエッセイを書いたとしても、世界的な文学になったとは考えにくいでしょう。罪と罰は小説という形式を取ったからこそ普遍的な文学になったのです。
またエッセイというのは基本的に「良い」「悪い」といった価値判断が主軸となっている一方、小説は必ずしも明確な価値判断を必要としないのが特徴です。小説の中で一匹の虫が描写されたとして、作者が虫をどう思っているのかを示す必要はありません。特に効果も意味もなくただ虫はそこにいた、という事もありえます。これは無駄にも見えますが、人間が生きる世界というのは元来そういうもので良くも悪くもないもので溢れかえっています。有体にいってしまえば「どうでもいいもの」とも言えるのですが、こういった「どうでもいいもの」があるからこそ世界は有機的に成り立っています。良いものと悪いものしかない世界を想像してみると恐ろしく無機質でつまらない世界になってしまいます。
本来世界は良いとか悪いといった人間の表面的な価値判断を超えたところに複雑な構造を持っています。「良い」「悪い」といった価値判断となるとどうしても上から目線になってしまいますが、「どうでもいい」はずの雑草や虫なんかをじっと見ていると、途方もない生命の神秘が潜んでいる事が分かります。
世界を「良い」「悪い」で裁いてばかりいると世界の矛盾と複雑さが見えてきません。「どうでもいいもの」を愛せない人は結局自分も愛する事はできません。何故なら世界にとっては自分もまた「どうでもいいもの」の一つで、人間の知性は意識的にしろ無意識にしろその事に気付いてしまうからです。
世界と言うのは本来「良い」「悪い」で簡単に区切れるものではなく、ただそこにあるものです。そういった世界の在り方を描写しつつ、生きた人間を通して「矛盾した思想」を示す事ができるという点に小説の神髄があると言えるでしょう。