9. 封印の解除、そして
バートの復讐を果たし、封印を破るための聖遺物を手に入れた一行は、ついにビチェトレスの封印を解くべく〈封印の迷宮〉へと向かった。
迷宮内に待ち受ける数多の魔獣を突破し、最深部にたどり着いた彼らの前に現れたのは、異形の姿をした怪物だった。巨大な蛇の胴体に、3つの頭―中央にはドラゴン、右にライオン、左に蛇の頭を持つその怪物は、堂々たる威容を誇っていた。
「封印を解きに来た者どもか。我は封印の守護者、ジュトファである」
ドラゴンの頭が重々しい声でそう語った瞬間、ナパタンの神託を受けたガイベルが鋭く叫んだ。
「邪悪なる怪物の甘言に耳を貸してはならぬ!
そのおぞましくも醜悪なる存在は、偽りと欺瞞で人を惑わし、悪しき策謀で世を乱すものなり!」
ジュトファの黄色い瞳が、不快げにぎらりと光った。
「……何を言っている? 我は大神の命により……」
その言葉は、リノードの力強い咆哮にかき消された。
「邪悪なる怪物、呪いの元凶、打ち倒す!」
彼の手にある神剣が、まばゆい光を放った。
「呪い? 誰が? 我はそんなもの知らないぞ!」
自らが神聖なる使命を帯びているという自負に満ちていたジュトファの抗議は、誰の耳にも届かなかった。
ガイベルが神に祈りを捧げながら太鼓を打ち鳴らし、ホーカムは騒々しく金属の打楽器を打ち鳴らした。
「うるさい! なんなんだ、こいつらは……!」
苛立ちをあらわにしたジュトファは、ドラゴンの口から灼熱の炎を吐き出した。しかし、ガイベルの呪術によって防御結界が展開され、炎を防いだ。
リノードとビチェが、同時にジュトファへと突撃した。ジュトファの胴体からは黒い蛇が無数に飛び出し、猛毒の液をまき散らす。
ビチェはすぐに魔法防御壁を展開した。体に触れていなくても、強烈な毒気が肌を刺すように感じられる。ビチェは多数の球状の雷を生成し、それをジュトファ目がけて放ち、蛇たちを攻撃した。
その隙を突いて、リノードの剣が次々と蛇の頭を切り落としていく。だが、その過程で、噴き出した毒液がリノードの腕にかかった。ガイベルの施した毒耐性の加護にもかかわらず、火傷のような傷が生まれた。
―〈癒しの雷〉で治せ。
(癒しの雷?)
ビチェの持つ魔法メイスから、白い雷光がほとばしり、リノードの体を包み込んだ。驚くべきことに、毒液による傷だけでなく、それ以外の怪我までもが癒えていった。
(……こんな力まで? ほぼチートじゃない!)
ビチェが驚くと、ビチェトレスが得意げに言った。
― 驚くことはない。神の力を受けているのだから当然だ。
(……本当に、あなた神だったんですか?)
―〈だった〉とは何だ? 今も神に決まっておろう。不敬者め!
激しい攻防が続いた。リノードが右のライオンの頭と中央のドラゴンの頭を相手にしている間、ビチェは左の蛇の頭の攻撃を防ぐことに集中していた。
リノードが突風を吐き出すライオンの頭を切り落としたその瞬間だった。左の蛇の頭が、幾重にも枝分かれした長い舌を鞭のように振るい、ビチェの体を絡め取ろうと襲いかかってきた。蛇の舌が魔法のメイスに巻きついたのを必死に引き剝がした直後、蛇の頭そのものが伸びてきて、ビチェに一気に襲いかかった。
がばりと開かれた口がビチェの頭を狙って飛びかかったその時、リノードが間一髪で飛び込み、その前に立ちはだかった。ビチェを庇ったリノードの腕に蛇の牙が深く食い込み、彼の手から剣が落ちた。
しかしリノードは、咄嗟に左手で蛇の上顎を掴み、噛まれた右手で下顎を押さえると、そのまま驚異的な怪力で蛇の頭を真っ二つに引き裂いた。
呆然とその光景を見つめるビチェ。
― おい、治療しろ!
ビチェトレスの声に我に返ったビチェは、〈癒しの雷〉でリノードの傷を癒した。続けてガイベルが回復の呪術を施し、ホーカムが矢を放ちながら駆け寄って、治療薬をリノードに飲ませた。
裂けた蛇の頭が再生しようと蠢いている。リノードは息つく暇もなく地面に落ちていた剣を拾い、再び怪物へと突進した。ホカムの放った矢が再生を妨げる。
ドラゴンが火炎を吐こうと口を大きく開けた瞬間、バチェが雷の槍をその喉奥に突き刺して炎を封じた。
― 雷撃、炸裂だ!
ビチェトレスの声に、ビチェの体が反応する。
ジュトファの頭上に黒雲が渦巻き、電場が激しく閃いた。同時に、無数の雷が一斉に落ち、怪物の全身を貫いた。
「選ばれし者よ、雷の力を受け取れ!」
ビチェの詠唱とともに、太く強烈な雷撃がリノードの神剣に降り注いだ。
全身が雷の力に包まれたリノードが、稲妻のごとくジュトファへと跳びかかり、渾身の一撃を叩き込んだ。巨体のジュトファがゆっくりと傾いたかと思うと、二つに裂けて倒れた。
リノードは剣を高く掲げ、勝利の雄叫びを上げた。ビチェもその瞬間、込み上げる感情を抑えきれなかった。まさに、英雄の誕生を目の当たりにしたような荘厳な感動が胸を満たした。
ガイベルとホカムが歓声を上げながら駆け寄ってきて、4人は歓喜に満ちて抱き合い、勝利の喜びを心から分かち合った。
しばらくして、ジュトファが倒れた場所から、まばゆい光の柱が天へと立ち上った。その光の柱を伝って、銀の鎧をまとった神聖なる存在が天へと昇っていくのが見えた。
(……あれ? 本当に神だったんだ?)
その瞬間になってようやく、バチェはビチェトレスの正体を本気で信じるようになった。
*** ***
後始末を終えて迷宮のダンジョンを出た4人は、それぞれ感慨に耽りながら周囲を見渡していた。
バートは自分がまだビチェの姿のままであることに気づき、もしかしてと思って、ビチェトレスに話しかけた。
(ビチェトレス、まだいますか?)
― もちろん。さっさと報告して戻ってきたよ。
(もう終わったんじゃないですか? なぜ戻ってきたんです?)
― お前を置き去りにして行けるわけないでしょ? お前は、契約をちゃんと守ってくれたんだ。我はそんな義理のない神じゃないの。忠実な契約者には、何かお礼くらいするのが筋でしょ?
(そう言っていただけるだけでもありがたいです……)
何をしてくれるのか聞こうとしたとき、リノードが近づいてきた。
「ビチェの呪い、解けた。これから、故郷に戻り、運命、取り戻す。ビチェ、共に来るか?」
バート―いや、ビチェは、自分に差し出されたリノードの手を見つめた。
そうだった。バートの物語にはひとまず区切りがついたが、リノードの物語はこれから始まる。彼にとっては、これからが本当の戦いなのだ。
出会って日が浅いにも関わらず、自ら進んで呪いを解こうとし、命の危機にあってもバート(ビチェ)を守ることを選んだ男―リノード。
自分の目的を果たしたからといって、彼をそのまま行かせるのは、あまりにも身勝手で恩知らずだと思えた。もう一つ、リノードが果たすであろう偉大な運命を、最後まで見届けたいという気持ちもあった。
(僕、リノードを手伝いたいです)
― でしょ? それが筋ってもんよ。
どこか嬉しそうな、ビチェトレスの声色がそう感じられたのは、気のせいなのだろうか。
(僕に、これからも力を貸してくれますか?)
― もちろんさ。お前は我の忠実な契約者だもの。ただし、今みたいに自由に力を使いたいなら、ビチェの姿じゃないといけない。お前の本来の体じゃ器が小さすぎて、我の力を受け止めきれないからな。
(……えっ、つまり、このままずっと女でいろってことですか?)
― そうしないと、リノードの力になれないよ。今の能力の半分も出せないんだから。せいぜい補助とか、道具の修理とかが関の山だぜ。それでもいいって言うなら、止めないけど?
ビチェは、ひどく緊張しているリノードと、その背後で不安そうに返事を待つガイベルとホカムを見た。出会って間もないとはいえ、彼らは長年付き合ってきたヘンダーソン一味など比べものにならない、本物の仲間だった。
(そうだ……リノードを助けて、すべてが終わったら、その時に自分の道を歩けばいい)
ビチェはリノードの手を取った。
「わかった。一緒に行って、君を助けるよ」
リノードの顔に、晴れやかな笑みが広がった。その笑顔があまりにも幸せそうで、ビチェは自分が正しい選択をしたと確信した。
リノードはビチェをぐっと抱きしめて、力強く誓った。
「俺、ビチェを必ず幸せにする!」
「今までしてくれたことで十分だよ。そんなに気負わなくていいから」
抜け出そうとしてジタバタしながら、ビチェはそう言った。
ビチェ(バート)には知る由もなかった。リノードの脳内では、壮麗な結婚式、幸せな新婚生活、愛の結晶である子どもの誕生、そして成長、やがて孫の誕生に至るまで、壮大な人生のパノラマが展開されていたことを。
(リノードの運命が果たされた時、僕も新たな人生を始めよう……)
それぞれの思いを胸に、新たな旅路がいま、始まろうとしていた。
その頭上では、二柱の神―ビチェトレスとナパタンが拳を合わせ、戯れたように笑っていた。