2. 契約
その夜。
木の枝や茂みを無造作にかき集めて焚き火を起こし、バートはその前に膝を抱えて座っていた。
どうにか体を引きずって安全都市を目指していた途中、ピューマ型の魔獣と鉢合わせしてしまった。死に物狂いで戦い、剣を奴の腹に突き刺したあと、無我夢中で逃げた。命はなんとか繋がったが、その代償に荷物も剣も失ってしまった。
今の彼は、まさに丸腰だった。この状態でまた何かに襲われたら、今度こそ、本当に終わりだ。
ぼんやりと炎を見つめているうちに、またしても、涙がこぼれ落ちた。重たい岩が胸にのしかかっているようで、息をするのもままならなかった。
胸を押さえていたバートは、指先に感じる硬い感触に、懐にしまっていた小さな塊の存在を思い出した。あの剣と一緒に見つけたもので、正体は分からないが、剣と同じように、何らかの意味を持つものだと感じて持ち歩いていた。
だが、こんな小さな塊で、今の状況をどうにかできるはずもない。今夜さえ越えられるか分からないというのに。
バートは苛立ちまぎれに、それを無造作に投げ捨てた。コツン、と床に落ちる音がしたが、バートは気にも留めなかった。
悔しくて、情けなかった。もし、この地獄から運良く生き延びたとしても、その後どうすればいいのか、まるで見当もつかない。
復讐したい。この酷い裏切りの代償を奴らに払わせたい。
だが、今の自分では、ヘンダーソン一人にすら敵わないことは痛いほど分かっている。だからこそ、憤りと無念さだけが込み上げてきた。自らの無力さが悲しく、己が恨めしかった。
その時だった。バートの耳元に、誰かの声が響いた。男とも女ともつかない、中性的な声だった。
― 裏切り……なんと悲しく、残酷なものか。
引き裂かれた心、砕けた希望。それでも、何もできぬ無力さと敗北感。
その心、よく分かる。我もまた、苦き裏切りを経て今に至った。
復讐を望むか? お前の敵に、今の恨みと痛み、悲しみを返すための力を欲するか?
バートはぎょっとして、辺りを見回した。その視線の先に、先ほど投げ捨てた黒い塊が宙に浮かんでいるのが見えた。
「……悪霊か?」
バートが呆然と呟くと、再びその声が聞こえてきた。
― 無力に涙を流すだけで、この場で終えるつもりか?
今のままでは、お前はこの地を出ることなく死ぬだけだ。
奴らの望み通りにな。そうすれば奴らは言うだろう。
「自分たちの手で殺したわけではない」と、まるで慈悲でもかけたかのように己を正当化し、お前の信頼と純粋さを愚かさとして嘲笑うに違いない。
あの時の奴らの態度、言葉がまざまざと甦った。それは、バートの中にくすぶっている怒りと憎しみを、激しく燃え上がらせた。
(そうだ。このまま死んでたまるか。奴らの思い通りにはさせない。
報いを与えられるのなら、たとえ悪霊に魂を売ることになろうとも……!)
「復讐したい。力が欲しい!」
バートの叫びに、声は言った。
― 契約には、代償が必要だ。その代償を払う覚悟はあるか?
「奴らに報いを与えられるのなら、どんな代償でも払います!」
黒い物体は、まっすぐバートの前へと飛んできた。
― 我が名はビチェトレス。
お前の復讐のため、力を与えよう。
その代わり、汝には、我が神体を取り戻す使命を果たしてもらう。
心より我との契約を望むのならば、右手を差し出せ。
バートが右手を差し出すと、その上に浮かんでいた黒い物体の表面にひびが入り、卵の殻が割れるように砕け落ちた。そして姿を現したのは、菱形の透明なクリスタルだった。その内部には、黄金色の稲妻が封じられていた。
クリスタルはゆっくりとバートの右手へと降りてきて、その手のひらに吸い込まれるようにして、やがて跡形もなく消えていった。
バートは、自分の体からかすかに黄色い光が揺らめき、そして消えていくのを見た。
その直後、彼は自分の服装が変わっていることに気がついた。整ったシャツにしゃれた革のベスト、マント、新しいズボンにブーツまで―非常に洗練され、高級感のある装いだった。それだけではない。足をはじめ、体のあちこちにあった傷もすべて癒えていた。
不思議さと同時に、ようやく背筋が寒くなるような感覚も湧いてきた。自分は何か、とてつもなく重大なことをしてしまったのではないかという、そんな思いが頭をよぎった。
― そんなに怯えるなって。契約は契約だ。
お前が約束さえ守れば、あとは自由にしてやる。心配するな。
ビチェトレスの声が聞こえてきた。
「僕の魂を……持っていくんじゃないんですか?」
― 魂? まあ、魔界の下等な連中の中には、そういうのを欲しがる奴もいるが、我の趣味じゃない。
我の契約条件さえ果たしてくれりゃ、それで十分だ。
「僕は……何をすればいいんです?」
― せっかちだな。徐々に分かってくるさ。
それより、今はお前の復讐が先じゃないか?
「ええ、まあ……そうですね」
復讐のことが脳裏をよぎった瞬間、バートは契約の代償として得た「力」とは何か、気になって仕方がなかった。
その思考を読んだかのように、ビチェトレスが口を開いた。
― お前は強い力と魔法に憧れていただろ? お前は我の力を借りて、武力と魔法の両方を操る魔法戦士になるのだ。
「本当ですか? じゃあ、今ここで」
― 今の姿じゃ駄目だ。変身が必要なんだよ。
「変身……ですか?」
― ああ、変身。我はまだ完全な状態じゃないからな。力を与えるには、我の姿を少し投影する必要がある。
その言葉を聞いたバートは思わず身構えた。
頭に角が生えたり、尻尾が伸びたり、鱗の皮膚になったり、最悪の場合ヤギの頭でもついたらどうしよう……。そんなことになったら、復讐どころか、モンスターとして冒険者たちに討伐されてしまうかもしれない。
― おいおい、我をなんだと思ってる。我はそこらの悪霊どもとは違うんだぞ。れっきとした〈神〉だ。
変身後のお前は、最高にイカす姿になるさ。むしろあまりに格好良すぎて、人間どもが群がってくるかもしれないから、その覚悟はしとけよ?
その言葉を聞いて、安心すると同時に、少しわくわくする気持ちも湧いてきた。格好良い魔法戦士……その響きの素晴らしさに、バートは一瞬、復讐の決意さえ忘れそうになった。