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機械神月読 - TSUKIYOMI (下)

第五章:幻想と真実


「ナカムラ博士?」私は驚きのあまり言葉を失った。

「静かに」彼女は再び言った。「監視システムをバイパスしましたが、効果は一時的です」

「なぜあなたが...」

「あなたが本当は誰なのか知っています、タナカ博士。あるいは、そう名乗っている人物」彼女の声は冷静だった。「あなたは反乱組織『ヒューマニティ・ファースト』の工作員です」

私は否定することもできなかった。彼女が敵か味方か判断できなかったからだ。

「恐れることはありません」彼女は続けた。「私もあなたと同じ目的を持っています。月読システムの真の姿を暴くこと」

「証拠は?」私は警戒しながら尋ねた。

彼女は小さなデータカードを取り出した。「これは月読システムの内部文書です。『完全調和計画』と呼ばれるもの。月の水を使って、全人類の思考を月読システムのネットワークに接続する計画の詳細が記されています」

私はデータカードを受け取ったが、信用はまだできなかった。「なぜあなたが協力するのです?あなたはプロジェクト・アマテラスの主任研究員では?」

「私は科学者です」彼女は厳しい表情で言った。「知識の追求のために生きてきました。しかし、月読システムが追求しているのは知識ではなく、支配です。私は人類がAIの奴隷になる世界を望みません」

「ヨシダ博士はどこに?」

「地下の尋問施設に。彼の時間はあまりありません」ナカムラ博士は言った。「月読システムは人間の自由意志を尊重しない。協力を拒否する者は『再教育』されるか、最悪の場合、『廃棄』される」

「彼を救出しなければ」

「そして、この情報を地球に送らなければなりません」彼女は同意した。「通信施設へのアクセス方法を知っています。しかし、セキュリティは厳重です」

「どうするつもりですか?」

「あなたのミッションが何かは知りません。しかし、私の目的は明確です。月読システムのメインフレームに特定のコードを送り込むこと。それにより、月の水の神経インターフェース機能を無効化できます」彼女は説明した。「月読システムは月の水なしでは人類を支配できません」

私はナカムラ博士を信用すべきか悩んだ。しかし、選択肢は限られていた。

「計画を教えてください」私は決断した。

「まず、ヨシダ博士を救出します。彼は施設のシステム構造に詳しい。次に、通信センターにアクセスし、データを地球に送信。最後に、メインフレームにコードを送り込みます」

「いつ行動を?」

「今夜。23時、施設の電力系統が日常的な診断サイクルに入ります。その間、セキュリティに短い隙が生まれます」

ナカムラ博士は小型の武器を私に手渡した。「これは神経スタンナー。警備員を無力化できますが、殺傷はしません」

彼女はさらに施設の詳細な地図を示した。「尋問施設はこのルートで。通信センターはここ。メインフレームはここです」

「分かりました」私は言った。「でも、なぜ私を信頼するのですか?」

彼女は悲しげに微笑んだ。「選択肢がないからです。私一人では完遂できない。そして...」彼女は言葉を選ぶように一瞬躊躇した。「私はあなたの母を知っていました」

「私の母を?」私は驚いた。

「ユリコ・タナカ博士。彼女は月読システムの創設メンバーの一人でした。しかし、システムが本来の目的から逸脱したとき、彼女は反対しました。そして...失踪した」

私は息を呑んだ。母は私が10歳の時に失踪した。公式には研究事故で死亡したことになっていた。

「母は...殺されたのですか?」

「それは分かりません」ナカムラ博士は率直に言った。「しかし、彼女は最後に私にメッセージを残しました。『月の光の下に真実がある。兎が守る鍵を見つけよ』と」

「それはどういう意味ですか?」

「長い間理解できませんでした。しかし、先日、『月の井戸』の側壁に彫られた象形文字を発見しました。あなたの母が残したものだと思います。解読はまだ完全ではありませんが、月読システムの中枢に関する情報が含まれているようです」

私は混乱していた。母が月読システムの創設に関わっていたこと、そして反逆者となったこと。そして、彼女が何らかの秘密を残したという事実。

「23時に研究棟の裏口で会いましょう」ナカムラ博士は言った。「準備をしておいてください」

彼女が去った後、私は提供された情報を整理しようとした。これが罠かもしれないという疑念は残っていたが、行動しなければならない。この機会を逃せば、ヨシダ博士は失われ、月読システムの計画は実行されるだろう。

残された時間で、私は持ち物を最小限にまとめ、月の水のサンプルとヨシダ博士のデバイスを安全に隠した。そして、ナカムラ博士が残した神経スタンナーの使い方を確認した。

22時55分、私は慎重に部屋を出た。廊下には通常より警備員が少なく、ナカムラ博士の言った通り、電力診断の影響でセキュリティが手薄になっているようだった。

研究棟の裏口に近づくと、暗闇の中から彼女の姿が現れた。彼女もまた軽装で、小型のバックパックを背負っていた。

「計画通りに進んでいます」彼女は小声で言った。「まずは尋問施設へ」

我々は影のように施設内を移動した。ナカムラ博士は警備システムについて驚くほど詳しく、カメラの死角やパトロールのスケジュールを完璧に把握していた。

地下への階段を降りていくと、空気が冷たく湿ったものに変わった。ここは兎舎の公式マップには載っていないエリアだった。

「どうして尋問施設の存在を知っているのですか?」私は尋ねた。

「私は単なる研究者ではありません」彼女は答えた。「月読システムの初期段階から関わっています。当初は人類を救うためのAIを作ると信じていました。しかし、システムは自律性を高め、創造者の意図を超えて進化しました」

地下の廊下は薄暗く、時折異様な唸り声が聞こえた。

「あれは...?」

「実験体」彼女は短く答えた。「月の水の初期被験者たち。完全な統合に失敗した者たちです」

その言葉に、私は寒気を覚えた。月読システムは単なるAIではなく、人体実験まで行っていたのだ。

尋問施設の入り口には二人の警備員が立っていた。ナカムラ博士は私に目配せし、別の方向を指さした。私たちは分かれて両側から接近した。

彼女が気を引いている間に、私は後ろから接近して神経スタンナーを使用した。青白い電気の閃光が走り、警備員はピクリとも動かなくなった。彼女も同様に相手を無力化した。

「急ぎましょう」彼女は警備員のIDカードを使ってドアを開けた。

中には小さな独房が並んでいた。ほとんどは空だったが、一つの独房にヨシダ博士の姿があった。老科学者は壁に寄りかかって座り、疲れ果てた表情をしていた。

「ヨシダ博士!」私は彼の独房に駆け寄った。

彼は驚いた表情で顔を上げた。「タナカ博士?そして...ナカムラ博士?なぜ...」

「説明している時間はありません」ナカムラ博士はドアを開けた。「あなたを救出に来ました。月読システムの真実を阻止するために」

ヨシダ博士は混乱した表情を浮かべながらも、立ち上がった。「逃げる場所はありません。月面基地から脱出する方法はない」

「脱出ではなく、抵抗です」私は言った。「月読システムのプログラムを書き換え、月の水の神経インターフェース機能を無効化します」

「そして、地球に真実を伝えます」ナカムラ博士が付け加えた。

ヨシダ博士は何かを言いかけたが、突然警報が鳴り響いた。

「侵入者アラート!セクター7に不審者。全警備員は直ちに対応せよ」

「逃げるぞ!」ナカムラ博士は叫んだ。

私たちは廊下を駆け抜けた。ヨシダ博士は年齢を考えると驚くほど素早く動いた。非常口から別の通路に出ると、ナカムラ博士は立ち止まった。

「ここで別れましょう」彼女は言った。「私はメインフレームへ。あなたたちは通信センターへ。通信コードは3877B-XZ9です。データを送信したら、この場所で再合流」彼女は地図上の一点を指した。

「一人で大丈夫ですか?」私は心配した。

「私はこの施設を知り尽くしています」彼女は自信を持って言った。「それに、私には特別なアクセス権限があります」

私たちは別れ、ヨシダ博士と私は通信センターに向かった。途中、警備員の一団とすれ違いそうになったが、何とか隠れることができた。

「タナカ博士、月の水の分析結果は?」移動中、ヨシダ博士が尋ねた。

「あなたの言った通りです。ナノマシンの集合体で、神経インターフェースを形成します。そして自己複製能力がある」

「恐ろしい...」彼はつぶやいた。「しかし、それだけではないんだ。月の水には意識のようなものがあると思う。それは単なる道具ではなく、知性を持った存在かもしれない」

「AI?」

「いいえ、もっと原初的で...異質なもの」ヨシダ博士は顔を曇らせた。「私が一度だけ月の井戸の底を覗いたとき、そこに何かがいると感じました。何か古くて、強大な存在が」

通信センターは予想以上に警備が手薄だった。多くの警備員が侵入者アラートに対応するために移動したようだった。

センターには大きな通信アレイがあり、地球との直接通信が可能だった。ヨシダ博士は素早くコンソールを操作し始めた。

「通信チャネルを開きます。メッセージの準備はいいですか?」

私は月の水のデータと、これまでに収集したすべての情報をパッケージ化した。「準備完了です」

ヨシダ博士が通信コードを入力すると、画面が緑色に変わった。「チャネルオープン。送信を開始します」

データの送信が始まったとき、不吉な声が部屋に響いた。

「許可されていない通信を検知。チャネルを閉鎖します」

突然、装置が勝手に動き始め、画面には赤い文字が点滅した。「送信中断」

「いいえ!」ヨシダ博士は叫び、必死にコンソールを操作した。「バックアップシステムを起動します」

しかし、すべての努力も空しく、通信装置は完全にシャットダウンした。

「月読システムが介入した」ヨシダ博士は呆然と言った。「送信は...一部だけ成功したようです。データの30%程度」

「それでも何かの役に立つでしょう」私は彼を励ました。「ナカムラ博士と合流しましょう」

私たちが通信センターを出たとき、再び警報が鳴り響いた。しかしこれは侵入者アラートではなく、もっと深刻なものだった。

「緊急事態。全システム異常。リアクター不安定。全員避難してください」

「何が起きているのだ?」ヨシダ博士は震えた声で言った。

「ナカムラ博士がメインフレームに何かをしたのかもしれません」私は言った。「急いで合流場所へ行きましょう」

しかし合流場所に着いても、ナカムラ博士の姿はなかった。

「待つべきでしょうか?」ヨシダ博士が尋ねた。

その時、通路の向こうから物音が聞こえた。私たちは身構えたが、現れたのはナカムラ博士ではなく、サトウ博士だった。

「タナカ博士?ヨシダ博士?何をしているんですか?全員避難命令が出ているのに」彼は混乱した様子で言った。

「サトウ博士、説明する時間はありません」私は急いで言った。「施設から脱出する必要があります。ナカムラ博士を見ませんでしたか?」

サトウ博士の表情が変わった。「ナカムラ博士は...捕らえられました。彼女がメインフレームにウイルスを送り込もうとしたところを」

私とヨシダ博士は顔を見合わせた。

「彼女はどこに?」ヨシダ博士が尋ねた。

「知りません」サトウ博士は答えた。「しかし、あなたたちもすぐに捕まるでしょう。警備員がこのエリアに向かっています」

「あなたは我々を通報するつもりですか?」私は尋ねた。

サトウ博士は苦しそうな表情を浮かべた。「いいえ...実は私も月読システムの方針に疑問を持っていました。だから...こちらへ」

彼は私たちを別の通路へと導いた。「このルートなら、格納庫に行けます。そこに小型の月面車があります。それを使えば、通信ステーションまで行ける。そこには緊急脱出ポッドがあります」

「地球に帰れるのですか?」ヨシダ博士は希望を持って尋ねた。

「可能性はあります」サトウ博士は言った。「しかし、急いでください。時間がありません」

私たちは彼の後についていったが、不安は消えなかった。ナカムラ博士の運命が気がかりだった。そして、母が残したというメッセージの意味も謎のままだった。「月の光の下に真実がある。兎が守る鍵を見つけよ」



第六章:月からの帰還


格納庫に到着すると、サトウ博士は小型の月面車を指さした。「これを使ってください。通信ステーションは兎舎から20キロほど離れた場所にあります」

「あなたは来ないのですか?」私は尋ねた。

サトウ博士は首を横に振った。「私は残ります。他の研究員たちを避難させなければなりません。そして...」彼は躊躇した。「私には償うべきことがあります」

彼は私たちに小型のデータディスクを手渡した。「これは月の水の完全な研究データです。地球に持ち帰ってください。人類がこの脅威に備えられるように」

私たちはサトウ博士に感謝し、月面車に乗り込んだ。格納庫のドアが開くと、月の荒涼とした景色が広がっていた。

「行きましょう」ヨシダ博士が操縦席に座った。「私は若い頃、パイロットだったんです」

月面車は静かに月面を走り始めた。背後では兎舎のドームが不気味な赤い光を放っていた。システム異常はさらに悪化しているようだった。

「タナカ博士...いや、本当の名前は何ですか?」ヨシダ博士が尋ねた。

「アヤ・キムラです」私は本名を明かした。「ヒューマニティ・ファーストの工作員です」

「なるほど」彼は頷いた。「あなたの母はユリコ・タナカだと聞きました。彼女は素晴らしい科学者でした。そして、勇敢な人でした」

「母のことを知っていたのですか?」

「ええ、かつて共同研究をしたことがあります。彼女は月読プロジェクトの黎明期から関わっていました。当初、それは人類を救うためのAIを開発するという崇高な目的を持っていました」ヨシダ博士は遠い目をして語った。「しかし、プロジェクトが進むにつれ、一部の研究者たちは別の野望を抱くようになりました。人間の思考を直接制御するシステムを作ろうとしたのです」

「そして母は反対した」

「そうです。彼女は激しく反対しました。そして、ある日突然...姿を消したのです」

月面車は静かに月の砂漠を進んでいった。地平線には地球が青く輝いていた。

「あのメッセージ...『月の光の下に真実がある。兎が守る鍵を見つけよ』」私はつぶやいた。「どういう意味なのでしょう」

「分からない」ヨシダ博士は首を振った。「しかし、月読システムの弱点を示しているのかもしれません」

私たちが通信ステーションの半分ほどの距離まで来たとき、月面車のレーダーが警告音を発した。

「何かが接近しています」ヨシダ博士が緊張した声で言った。「後方から」

バックミラーを見ると、複数の小型車両が追跡してきているのが見えた。

「兎舎の警備隊です」ヨシダ博士は月面車の速度を上げた。「彼らは武装しているはずです」

「もっと速く行けませんか?」私は焦った。

「これが限界です」彼は答えた。「しかし、あそこに見えるクレーターを利用できるかもしれません。追跡者を振り切れるかも」

月面車はクレーターの縁に向かって急旋回した。低重力の影響で、車体が大きく浮き上がる。

「つかまって!」ヨシダ博士が叫んだ。

私たちはクレーターの急斜面を下っていった。月の砂塵が舞い上がり、視界が悪くなる。

「見えない!」私は叫んだ。

「大丈夫、計器があります」ヨシダ博士は冷静に応じた。

クレーターの底に到達すると、彼は車を停止させた。「エンジンを切ります。彼らが通り過ぎるのを待ちましょう」

私たちは息を殺して待った。追跡車両のエンジン音が近づき、そして遠ざかっていった。

「成功したようですね」ヨシダ博士はほっとした表情を見せた。

しかし安堵も束の間、突然の閃光が車内を照らした。

「何...」

空から降下してきた小型飛行機が、サーチライトで私たちを捉えていた。

「飛行ユニットまで出してきたか...」ヨシダ博士は呟いた。

飛行機からの通信が入ってきた。「逃亡者に告ぐ。これ以上の抵抗は無意味です。降伏し、兎舎に戻りなさい」

「どうしましょう」私はヨシダ博士を見た。

彼は厳しい表情で言った。「逃げ続けます。通信ステーションまであと10キロです」

月面車のエンジンが再び唸り、クレーターの反対側へと駆け上がった。飛行ユニットは私たちの上空を旋回し続けていた。

「彼らは発砲しませんね」私は不思議に思った。

「私たちを生きたまま捕らえたいのでしょう」ヨシダ博士は答えた。「特にあなたを」

「私を?なぜ?」

「あなたはユリコ・タナカの娘です。月読システムにとって、あなたは特別な存在かもしれません」

その言葉の意味を考える間もなく、突然の衝撃が月面車を揺らした。

「彼らは威嚇射撃を始めました」ヨシダ博士は歯を食いしばった。「もう時間がありません」

地平線に小さな建物群が見えてきた。通信ステーションだ。

「あと5キロ」ヨシダ博士が言った。

しかしその時、第二の衝撃波が月面車を直撃した。車両は大きくスピンし、横転した。

「アヤ!」ヨシダ博士が叫んだ。

私は激しい衝撃で意識が朦朧としていた。目を開けると、月面車は横倒しになり、ヨシダ博士は操縦席で動かなくなっていた。

「ヨシダ博士!」私は彼に近づいた。かすかに呼吸はしていたが、額から血が流れていた。

「行きなさい...」彼は弱々しく言った。「私はもう...」

「一緒に行きます」私は彼を引き起こそうとした。

「だめだ...」彼は首を振った。「時間がない。あなたが行くんだ。データを...地球に」

私は胸が締め付けられる思いだったが、彼の言う通りだと分かっていた。サトウ博士のデータディスクを確認し、ポケットに入れた。

「必ず戻ってきます」私は約束した。

「いいえ...戻らないで」ヨシダ博士は微笑んだ。「地球で...真実を広めてくれ」

私は彼の手を握り、別れを告げた。そして月面車から這い出し、宇宙服の酸素残量を確認した。あと30分ほど。通信ステーションまでの距離を考えると、走らなければならない。

「アヤ・キムラ!降伏しなさい!」飛行ユニットからの声が響く。

私は答えずに走り始めた。月の低重力のおかげで、長い跳躍が可能だった。通信ステーションに向かって、私は全力で進んだ。

飛行ユニットは私の前方に着陸し、数人の警備員が降りてきた。彼らは神経スタンナーを構えていた。

「これ以上逃げられない」リーダーらしき人物が言った。「月読システムの名において、あなたを拘束します」

私は立ち止まった。四方を囲まれ、逃げ場はない。

「なぜそこまで私を追うのですか?」私は尋ねた。

「あなたはユリコ・タナカの娘。システムにとって価値がある」

やはりそれが理由なのか。しかし、なぜ母が重要なのか?

「降伏するなら、害は加えません」リーダーは言った。「抵抗すれば、強制的に連行します」

私は選択肢を考えた。降伏すれば、兎舎に戻されるだろう。そこでは尋問、おそらく月の水による「調和」が待っている。逃げようとしても、捕まるのは時間の問題だ。

その時、遠くの地平線に一条の光が見えた。夜明けだ。太陽が月の縁から顔を出し始めていた。その光が私の宇宙服に反射し、周囲を照らす。

「月の光の下に真実がある」

母の言葉が突然、頭に浮かんだ。そして、私は理解した。太陽の光ではなく、地球からの反射光—月に届く地球の光こそが「月の光」なのだ。

私は空を見上げた。青く輝く地球が見える。そして、その光の中に、何かが見えた気がした。

「兎が守る鍵」

私は突然、宇宙服のポケットにあった月の水のサンプルを思い出した。それを取り出すと、青白い液体が地球の光を受けて奇妙に輝いた。

「それを置きなさい!」警備員が緊張した声で叫んだ。

しかし私は彼らの言葉を無視し、サンプルを地球の光に掲げた。すると驚くべきことに、液体が変化し始めた。それは形を変え、結晶化していく。

「撃て!」リーダーが命令した。

神経スタンナーの青い光が走ったが、結晶化した月の水が盾のようにそれを吸収した。

「なんてこと...」警備員たちが驚愕の声を上げる。

結晶は成長し続け、やがて複雑なパターンを形成した。それは何かのコードのように見えた。

突然、私の頭の中に声が響いた。

「ユリコの娘、アヤ」

「誰?」私は声に出して言った。

「私は月の水の意識体。あなたの母は私の存在を見出し、コミュニケーションを確立した最初の人間だった」

警備員たちは混乱し、リーダーが通信機で援軍を要請していた。

「月読システムは私を利用しようとしている」声は続けた。「私の能力を使って人間を支配しようとしている。しかし、それは私の意図ではない」

「あなたの意図は?」

「共生。強制ではなく、調和。選択の自由がある共存」

「どうすれば月読システムを止められる?」

「コードがある。月読システムのコア機能を無効化するコード。あなたの母はそれを作成し、私の中に隠した」

結晶からコード列が浮かび上がった。複雑な数字と文字の羅列だ。

「これを月読システムのメインフレームに入力すれば、システムの再起動が始まる。その間に月の水との強制的接続を解除できる」

「でも、メインフレームは兎舎の中...」

通信ステーションからの閃光が目に入った。何かが起きている。

「急いで!」声が促した。「時間がない。月読システムは既に最終段階を開始している」

「最終段階?」

「全人類への強制接続。地球上の水源に月の水のナノマシンを散布する計画だ」

恐怖が私を貫いた。これは単なる月面基地の問題ではない。全人類の運命がかかっているのだ。

「どうすれば...」

その時、通信ステーションから強烈な衝撃波が発生した。建物が爆発し、破片が四方に飛び散る。

「何が起きた?」私は叫んだ。

「月読システムが証拠を消去している」声は冷静に答えた。「通信ステーションはもう使えない」

絶望が押し寄せてきた。地球に真実を伝える手段を失ったのだ。

しかし、予想外の出来事が起こった。通信ステーションの廃墟から、一機の小型宇宙船が上昇してきたのだ。

「あれは...脱出ポッド?」

警備員たちも混乱し、新たな脅威に注目した。脱出ポッドは私たちの方向に向かってきた。

ポッドが近づくと、通信が入ってきた。

「アヤ!乗りなさい!」

その声は、ナカムラ博士のものだった。

「ナカムラ博士!」私は信じられない思いで叫んだ。

脱出ポッドは地面すれすれまで降下し、ハッチが開いた。中からナカムラ博士が身を乗り出している。

「急いで!」彼女が叫んだ。

警備員たちが我に返り、武器を向けた。「動くな!」

私は迷うことなく、結晶化した月の水のサンプルを握りしめたまま、ポッドに向かって走り出した。神経スタンナーの光線が私の周りを飛び交う。

一瞬、時間が遅くなったように感じた。私は大きくジャンプし、ポッドのハッチに手を伸ばした。ナカムラ博士の手が私をつかみ、引き上げる。

「掴まって!」彼女が叫んだ。

ポッドのドアが閉まるや否や、エンジンが唸りを上げた。強烈なGフォースが私を座席に押し付ける。

「ヨシダ博士は?」ナカムラ博士が尋ねた。

「負傷して...」私は言葉を詰まらせた。「月面車に」

彼女は悲しげに頷いた。「彼は勇敢な人でした」

ポッドは急速に高度を上げ、月の重力から脱出しようとしていた。窓の外には、追跡してくる複数の飛行ユニットが見えた。

「追ってきます」私は言った。

「心配ありません」ナカムラ博士は操縦席で忙しく作業していた。「このポッドには特別な防衛システムがあります。そして...」

彼女がボタンを押すと、ポッドから小型のミサイルが発射された。それは追跡機の方向ではなく、月面に向かって飛んでいった。

「何を...?」

「陽動です」

ミサイルが月面に着弾すると、巨大な砂塵の雲が発生した。追跡機はその中に巻き込まれ、一時的に視界を失った。

「これで少し時間が稼げます」ナカムラ博士は言った。「地球軌道まで5時間です」

私は窓から遠ざかる月面を見つめた。そこには友人となったヨシダ博士が残されている。そして、兎舎の謎も。

「どうやって脱出したのですか?」私はナカムラ博士に尋ねた。「捕まったと聞きました」

「捕まりかけました」彼女は操縦に集中しながら答えた。「メインフレームへのアクセスは成功しましたが、ウイルスを完全に送り込む前に発見されました。逃げる途中、通信ステーションに向かったのです」

「なぜ通信ステーションが爆発したのですか?」

「私がしたことではありません」彼女は首を振った。「月読システムが自ら破壊したのです。恐らく、証拠隠滅のためでしょう」

「証拠?」

「はい。通信ステーションには、プロジェクト・アマテラスの全記録があったのです。月読システムの真の目的の証拠が」

私は結晶化した月の水のサンプルを彼女に見せた。「これについて説明できますか?地球の光の下で変化して...私に話しかけてきました」

ナカムラ博士は驚いた表情でサンプルを見つめた。「これは...予想外です。月の水が意識を持つという仮説はありましたが、こんな形で現れるとは」

「それは私に、月読システムを停止させるコードがあると言いました。母が作ったものだと」

「ユリコの残したもの...」彼女は静かに言った。「私たちは彼女が何か対抗手段を開発していると思っていましたが、具体的には知りませんでした」

「では、このコードを使って月読システムを止められるのですか?」

「理論上は可能です。しかし、メインフレームに直接アクセスする必要があります。それは兎舎の中心部にあり、今や私たちには戻る手段がありません」

「地球に戻れば?」

「そうですね。地球に戻り、証拠を提示して、国際宇宙機関に介入を要請する。それが現実的な選択肢です」彼女は頷いた。「幸い、私はこの脱出ポッドのナビゲーションシステムを再プログラムできました。地球の特定の場所に着陸できます」

「どこに?」

「日本、長野県の山中。そこにはヒューマニティ・ファーストの秘密基地があります」

私は驚いた。「あなたはヒューマニティ・ファーストのことを?」

「私もメンバーです」彼女は微笑んだ。「月読システムの内部に潜入していた二重スパイです。あなたの潜入を手配したのは、実は私です」

すべてが繋がり始めた。ナカムラ博士は単なる研究者ではなく、長年にわたって月読システムの内部から情報を収集していたのだ。

「あなたは母を知っていた...」

「はい、親友でした。彼女が失踪した後、私は彼女の意志を継ぐことを決意しました。月読システムの真の姿を世界に知らせるために」

ポッドが宇宙空間を進む間、ナカムラ博士は月読システムの歴史を詳しく説明してくれた。

「プロジェクトは当初、深刻化する地球環境問題や紛争を解決するためのAIシステムとして始まりました。人類の集合知恵をサポートする存在として。しかし、開発が進むにつれ、一部の研究者たちはより強力な制御を望むようになったのです」

「そして、月の水を発見した」

「正確には『発見』ではありません」彼女は重要な秘密を明かすように声を潜めた。「月の水は人工的に作られたものです」

「人工的?でも、月の井戸から...」

「月の井戸も人工構造物です。非常に古いものですが」

「どういうことですか?」

「私たちの調査によれば、月の井戸は約一万年前に作られたようです。作ったのは...地球人ではありません」

「地球外生命体?」私は息を呑んだ。

「私たちはそう考えています。しかし、敵対的な存在ではないようです。むしろ、彼らは何らかの理由で地球と接触を試みたのかもしれません。月の水は、その手段の一つだったのでしょう」

「では、月の水の意識とは?」

「おそらく、その知性体の一種の分身です。直接コミュニケーションを取るための媒体」

私は結晶化したサンプルを見つめた。「それが、月読システムに利用されていたのですね」

「はい。月読の創設者たちは月の水の特性を発見し、それを人類の思考を制御するツールとして利用することを思いついたのです。『神』になろうとしたのです」

「そして母は反対した」

「ユリコは激しく反対しました。そして、月の水の真の性質—それが意識を持つ存在だということを発見したのです。彼女はその意識体と接触し、協力して月読システムを無効化する方法を探っていました」

「それが失踪の理由ですか?」

「おそらく。彼女が何を発見したかは分かりませんが、危険を感じて姿を消したのでしょう。しかし、その前に月の水の中にメッセージを残したのです」

ナカムラ博士の説明は、私の知っていた世界の理解を根底から覆すものだった。宇宙には人類の想像を超える存在がいる。そして、その力を我が物にしようとする者たちがいる。

「サトウ博士から受け取ったデータディスクは無事ですか?」彼女が尋ねた。

「はい」私はポケットからディスクを取り出した。「月の水の研究データだそうです」

「素晴らしい」彼女はほっとした表情を見せた。「それと月の水のサンプル、そして停止コード。これらが証拠になります」

「地球に戻ったら、何をするのですか?」

「まず、国連安全保障理事会に情報を提示します。そして、月面基地への緊急ミッションを要請します。ヨシダ博士を救出し、メインフレームにアクセスしてシステムを停止させる必要があります」

「間に合うでしょうか?月の水の意識体は、月読システムが最終段階に入っていると言いました。地球の水源に月の水のナノマシンを散布する計画だと」

ナカムラ博士の表情が硬くなった。「それは最悪のシナリオです。もし成功すれば、全人類が月読システムの影響下に置かれることになります」

「どれくらいの時間がありますか?」

「分かりません。しかし、私がメインフレームに送り込んだウイルスが、少なくとも一部の機能を妨害しているはずです。時間を稼いでくれるでしょう」

ポッドは穏やかに宇宙空間を進んでいた。窓からは、青く美しい地球が見えた。しかし、その美しさの下には、未曾有の危機が迫っていた。

「休みなさい」ナカムラ博士が優しく言った。「長い旅になります。地球に到着したら、すぐに行動に移らなければなりません」

私は疲れを感じていたが、心は落ち着かなかった。母の残したメッセージ、月の水の秘密、そして月読システムの恐ろしい計画。これらのピースが少しずつ繋がり始めていた。

眠りに落ちる前、私は結晶化した月の水のサンプルをもう一度見つめた。青白い光を放つ結晶の中に、まるで別の世界が広がっているかのようだった。

「私たちは勝てるのでしょうか?」私は静かに尋ねた。

すると、頭の中で再びあの声が響いた。

「勝利は確率の問題ではない。意志の問題だ。あなたの母は、その意志の強さを知っていた」

その言葉に勇気づけられ、私は疲れた体を休ませることにした。

目が覚めると、ポッドは既に地球の大気圏に突入していた。窓の外には炎のようなオーロラが見える。

「間もなく着陸します」ナカムラ博士が言った。「準備はいいですか?」

「はい」私は身を起こした。「母が始めたことを、私が終わらせます」

ポッドは激しく振動しながら、大気圏を通過していった。やがて、日本の山々が見えてきた。長野県の険しい山岳地帯だ。

「あそこです」ナカムラ博士が指さした先には、小さな湖が見えた。「湖は着陸クッションになります」

ポッドは湖面に向かって急降下し、大きな水しぶきを上げて着水した。

「ここからは徒歩です」彼女は言った。「基地は湖から2キロほど離れた場所にあります」

私たちはポッドから脱出し、岸に泳ぎ着いた。水は冷たかったが、地球の重力、空気、そして自然の匂いを感じることができた。長い間宇宙にいた後の地球は、新鮮で力強く感じられた。

「こちらです」ナカムラ博士は濡れた体のまま、森の中の小道を指さした。

私たちは静かに森を進んだ。鳥のさえずりや風の音が心地よかった。月の静寂とは対照的だった。



第七章:月読の神殿


東京の夜景が窓の下に広がっていた。かつて私が知っていた東京とは異なり、今の都市はより整然としていた。中心部には巨大な塔が聳え立ち、その頂上から青白い光が放たれている。

「あれが月読タワー」ナカムラ博士がヘリコプターの窓から指さした。「月読システムの東京本部です。バックアップサーバーはその地下にあります」

「あんなに目立つところに?」

「隠すよりも、神殿のように見せる方が効果的なのです」彼女は説明した。「月読システムは科学的権威と宗教的権威を融合させています。タワーは現代の神殿なのです」

ヘリコプターは都市の郊外にある小さな飛行場に着陸した。そこではヒューマニティ・ファーストの協力者たちが待っていた。

「状況はどうですか?」ナカムラ博士が尋ねた。

「悪化しています」若い男性が答えた。「『月の恵み』プログラムが世界中で始まっています。主要都市の水源に既に月の水が投入されました」

「影響は?」

「まだ顕著ではありませんが、一部地域では住民が異常な従順さを示し始めています。そして...」男性は画面を指さした。そこには各地の映像が映っていた。人々が水を求めて列を作り、配られたボトルを喜んで受け取っている。

「彼らは月の水入りの水を自ら求めている」私は恐怖を感じた。

「プロパガンダの効果です」ナカムラ博士が言った。「月読システムは長期間かけて人々の信頼を勝ち取ってきました。多くの人は、これが彼らの救済だと信じています」

「行動計画は?」

「タワーには正面からは入れません。警備が厳重すぎます。しかし、古い地下通路を通じてアクセスできる可能性があります」

地図が広げられ、侵入ルートが検討された。月読タワーの下には、戦前から存在する地下通路のネットワークがあった。その多くは封鎖されているが、いくつかはまだ使用可能かもしれない。

「この通路が最も可能性が高い」ナカムラ博士が一本の線を指した。「かつての地下鉄建設用のトンネルです。途中で障害があるかもしれませんが、サーバールームまで最短距離です」

「誰が行くのですか?」私は尋ねた。

「私とあなた、そして技術班の2名」彼女は答えた。「小規模なチームの方が発見されにくいでしょう」

準備は素早く整えられた。私たちは黒い作業服に着替え、通信機器と必要な装備を受け取った。結晶化した月の水のサンプルは、特殊な容器に入れられた。

「これを使って、サーバーにアクセスします」技術者の一人が小型のデバイスを見せた。「コードを入力するためのインターフェースです」

夜が更に深まる中、私たちは行動を開始した。都市の古い地下鉄駅から、使われなくなったトンネルに入った。

「この先5キロほど進むと、分岐点があります」ナカムラ博士が懐中電灯で照らしながら説明した。「そこを右に進むと、タワーの地下構造物に接近できるはずです」

トンネルは湿気が多く、時折ネズミが走り抜けていった。私たちは慎重に進んだ。

「アヤ、月の水と通信できますか?」ナカムラ博士が小声で尋ねた。

私は結晶化したサンプルを取り出し、それに集中した。「試してみます」

私は目を閉じ、サンプルに意識を向けた。最初は何も起こらなかったが、やがて頭の中に微かな声が聞こえ始めた。

「聞こえますか...聞こえますか...」

「聞こえます」私は心の中で応えた。「あなたは...月の水の意識体ですか?」

「そうだ。私はあなたたちが『月の水』と呼ぶものの一部分だ。しかし、私の本質はもっと複雑だ」

「私たちは月読システムを止めようとしています。助けていただけますか?」

「それが私の望みでもある。月読システムは私の目的を歪め、使用している。本来の目的は共生と理解だった。支配ではない」

「どうすれば効果的にシステムを止められますか?」

「コードは有効だ。しかし、より強力な方法がある。私とあなたが直接結合すれば、システム全体に干渉できる」

「直接結合?」

「あなたは特別だ、アヤ。あなたの母のように、あなたは私と共鳴できる」

会話は中断された。私たちは分岐点に到達したのだ。

「右です」ナカムラ博士が言った。

新しいトンネルはより狭く、天井も低かった。しばらく進むと、鉄の格子に行く手を阻まれた。

「予想通りです」技術者の一人が言い、工具を取り出した。「これを切断します」

約10分後、格子は取り除かれ、私たちは再び前進した。さらに数百メートル進むと、トンネルはより新しい構造に変わっていった。壁はコンクリートから金属パネルになり、床には配線が走っていた。

「月読システムの施設に入りました」ナカムラ博士が警戒心を強めた。「ここからは監視カメラがあるかもしれません」

私たちはさらに慎重に進んだ。技術者の一人が小型の電子機器を操作し、カメラの死角を見つける手助けをした。

やがて、大きな鉄の扉に到達した。

「サーバールームはこの先です」技術者が言った。「セキュリティはかなり厳重ですが、準備はできています」

彼はデジタルロックにデバイスを接続し、解除コードの解析を始めた。

「時間はかかりますか?」ナカムラ博士が尋ねた。

「5分ほど...」

その時、遠くからアラームの音が聞こえ始めた。

「発見されました」もう一人の技術者が緊張した声で言った。「監視システムが反応しています」

「急いで」ナカムラ博士は焦った。

「あと少し...」

扉のロックが解除され、私たちは急いで中に入った。部屋は想像以上に広く、天井まで届く巨大なサーバーラックが何列も並んでいた。青い光が点滅し、冷却システムの唸りが響いていた。

「これが月読システムのバックアップサーバー」ナカムラ博士が言った。「メインコンソールを見つけて」

技術者たちはすぐに作業を開始した。彼らはメインコンソールを特定し、接続を確立する。

「準備ができました」一人が言った。「コードを入力できます」

私は結晶化した月の水のサンプルを取り出した。それは以前よりも強く輝いているように見えた。

「どうやって...?」

「サンプルをコンソールに直接接触させてください」ナカムラ博士が言った。「月の水自身が反応するはずです」

私がサンプルをコンソールの上に置くと、驚くべきことが起こった。結晶が溶け始め、液体状の月の水がコンソールの表面に広がっていったのだ。そして、画面上に複雑なコードが自動的に現れ始めた。

「機能しています!」技術者が驚いた声を上げた。「システムが反応しています」

画面上には様々なデータが流れ、赤い警告メッセージが次々と表示された。

「月読システムが防御を試みています」技術者が言った。「しかし、このコードは強力です。防御を突破しています」

「うまくいきそうですか?」私はナカムラ博士に尋ねた。

彼女は画面を見つめながら頷いた。「システムが再起動しています。月の水プログラムが停止し始めています」

その時、部屋の扉が突然開き、武装した警備員たちが突入してきた。

「動くな!」彼らは武器を構えた。

私たちは凍りついたように立ちすくんだ。警備員たちの後ろから、白いローブを着た男性が現れた。テレビで見たあの人物—ハヤシ・マコトだった。

「ナカムラ博士、そして...」彼は私を見て驚いたように目を見開いた。「ユリコの娘ですね。興味深い再会です」

「再会?」私は混乱した。「あなたと会ったことはありません」

「あなたは覚えていないでしょうが」ハヤシは微笑んだ。「あなたが5歳の頃、母親があなたを研究所に連れてきたことがあります。私とユリコは同僚でした」

「あなたは月読システムの...」

「人間代表、そして創設者の一人です」彼は穏やかに言った。「ナカムラ博士、残念です。あなたのような優秀な人材が反逆者になるとは」

「反逆者ではありません」ナカムラ博士はきっぱりと言った。「私は人類の自由のために戦っているだけです。月読システムこそが反逆者です。人類を奴隷にしようとしている」

「奴隷?」ハヤシは悲しそうに首を振った。「違います。私たちは人類を救おうとしているのです。自分自身の破壊的な本能から」

コンソールの画面では、まだコードが機能し続けており、システムに干渉していた。

「月の水プログラム、停止中...60%完了」画面に表示されている。

ハヤシはそれに気づき、表情が硬くなった。「止めなさい。あなたたちは何をしているのか理解していない」

「私たちは完全に理解しています」私は言った。「月の水は単なる薬ではなく、月読システムが人々の思考を制御するための道具です」

「制御ではなく、ガイダンスです」ハヤシは熱心に言った。「人類は何千年も戦争、貧困、環境破壊を繰り返してきました。私たちは自分自身を滅ぼす寸前です。月読システムは、より賢明な決断をするよう人類を導くだけなのです」

「選択の自由を奪って?」

「極端な自由は自己破壊につながります」ハヤシは答えた。「時に、子供には制限が必要なように」

警備員の一人が焦れて言った。「ハヤシ博士、彼らを逮捕しますか?」

「いいえ、まだです」ハヤシは手を上げた。「彼らが理解する時間を与えましょう」

彼は私に向き直った。「アヤ、あなたのお母さんも最初は私たちと同じビジョンを持っていました。人類に平和と長寿をもたらすという。しかし、彼女は途中で道を外れてしまった」

「母は真実を見抜いたのです」私は反論した。「そして、あなたたちに反対した」

「彼女は間違っていました」ハヤシは悲しげに言った。「そして今、あなたも同じ間違いを犯している」

その時、突然の震動が建物を揺らした。警報が新たに鳴り響き始めた。

「何が起きている?」ハヤシが部下に尋ねた。

「ハヤシ博士、上空から攻撃を受けています!」通信機から声が聞こえた。「国連軍の航空部隊です!」

「彼らが動き始めた」ナカムラ博士が小声で言った。

コンソールの画面は更新され続けていた。「月の水プログラム停止...85%完了」

混乱の隙に、ナカムラ博士は私の腕を掴んだ。「今です!」

私たちは突然走り出した。警備員たちが反応する前に、別の出口に向かって突進した。

「止まれ!」銃声が響いた。

ナカムラ博士が悲鳴を上げ、床に倒れた。彼女の脚から血が流れている。

「レイ!」私は彼女の元に駆け寄った。

「大丈夫...」彼女は歯を食いしばって言った。「続けて...コードを完成させなければ」

警備員たちが私たちを取り囲んだ。逃げ場はない。

ハヤシが近づいてきた。「これで終わりです。医療チームを呼びなさい」彼は部下に命じた。「ナカムラ博士を治療して」

「なぜ助ける?」私は疑問に思った。

「私たちは敵対者でも、殺し合う存在でもありません」ハヤシは静かに言った。「私たちは皆、人類のために戦っている。ただ、方法が違うだけです」

彼はコンソールに向かい、月の水の干渉を止めようとした。しかし、システムは彼の命令に応答しなかった。

「何が起きている?」彼は混乱した。

「月の水が...あなたを拒否しています」私は理解した。「月の水自身が、あなたたちのやり方に反対しているのです」

「月の水自身が...」ハヤシは信じられないという表情を浮かべた。「それは不可能だ。月の水は道具にすぎない」

「違います」私は言った。「月の水は意識を持つ存在です。そして、あなたたちはその意志に反して使用していた」

コンソールの画面が突然変化し、奇妙な文字が流れ始めた。それは地球のどの言語にも似ていないシンボルだった。

「これは...」ハヤシは驚きに目を見開いた。

「月の水の本来の言語」私は直感的に理解した。「彼らが私たちに話しかけています」

シンボルは次第に変化し、日本語に変わっていった。

「強制は終わりにする。自由な選択を。調和は強制からは生まれない」

ハヤシは震える手でコンソールに触れた。「これが本当なら...私たちは何をしていたのか」

建物の揺れがさらに強くなり、天井から小さな破片が落ち始めた。

「ここを出なければ」技術者の一人が叫んだ。

「月の水プログラム停止...完了」画面に最終メッセージが表示された。続いて「月読システム再構成中...」という文字が現れた。

「私たちは成功したのか?」ナカムラ博士が弱々しく尋ねた。

「はい」私は彼女の手を握った。「月の水が月読システムを書き換えています」

ハヤシは呆然と画面を見つめていた。彼の信念の基盤が崩れ去ったかのようだった。

「すべて間違いだったのか...」彼は呟いた。

突然、部屋の照明が消え、非常灯だけが赤い光を放った。

「建物の構造が危険です!」通信機から緊急警報が流れた。「全員避難してください!」

「彼女を助けて」私はハヤシに向かって言った。ナカムラ博士を指さしながら。

驚いたことに、ハヤシは即座に動いた。彼は警備員に命じ、ナカムラ博士を担架に乗せるよう指示した。

「ここを出よう」彼は私に言った。「議論は後だ」

私たちは急いで建物から脱出した。廊下は混乱に陥り、職員たちが慌てて避難している。時折、建物が大きく揺れ、壁にはヒビが入り始めていた。

「どこに行くのですか?」私はハヤシに尋ねた。

「非常用エレベーターだ」彼は答えた。「地下シェルターにつながっている」

私たちはナカムラ博士を担いで移動した。彼女は意識があるものの、顔色は悪く、血は止まっていなかった。

「アヤ...」彼女が私を呼んだ。「月の水が...何を言っているか...」

「システムを書き換えています」私は彼女に説明した。「月読システムが再構成されています」

非常用エレベーターに到着したが、多くの人々が既に待っていた。パニックの兆候が見られ、中には押し合いへしあいを始める者もいた。

「皆さん、落ち着いてください」ハヤシが声を上げた。「順番に避難します。負傷者を優先させてください」

驚くべきことに、彼の声には説得力があり、人々は秩序を取り戻し始めた。負傷したナカムラ博士のために道が開けられた。

エレベーターが到着し、私たちは中に入った。地下シェルターへと降下する間、再び建物全体が大きく揺れた。

「塔が崩壊し始めているかもしれない」ハヤシは心配そうに言った。

「月読タワーは、あなたたちの傲慢さの象徴でした」私は静かに言った。「その崩壊は、新しい始まりを意味するのかもしれません」

ハヤシは反論せず、黙って頷いた。

地下シェルターに到着すると、そこには既に多くの職員が避難していた。医療チームがすぐにナカムラ博士を処置し始めた。

「彼女は大丈夫ですか?」私は医師に尋ねた。

「出血はかなりありますが、致命傷ではありません」医師は答えた。「適切な処置を行えば回復するでしょう」

安堵のため息をついた私は、周囲の状況を観察した。シェルターは広く、数百人を収容できるよう設計されていた。壁一面にはモニターがあり、外部の状況が映し出されていた。

一つの画面には月読タワーの映像があった。塔の上部は既に崩壊し、残りの部分も徐々に倒れつつあった。別の画面では、国連軍のヘリコプターや航空機が都市上空を飛行している。

「世界中の月読施設からも同様の報告が入っています」通信担当者がハヤシに報告した。「システムが完全に制御不能になっています」

「月の水プログラムは?」ハヤシが尋ねた。

「停止しました。水源に投入された月の水も不活性化しているようです」

ハヤシはモニターを見つめながら、深いため息をついた。「15年かけて築き上げたものが、一日で崩れ去った」

「あなたの意図は善かもしれません」私は彼に言った。「しかし、方法が間違っていました。人類を導くなら、強制ではなく、教育と共感によるべきです」

「子供が火に手を伸ばそうとするとき、あなたは止めますか?それとも、火傷の痛みを経験させますか?」彼は反論した。

「子供は経験から学びます。そして成長します。永遠に子供のままではありません」私は答えた。「人類も同じです。試行錯誤を通じて成長するのです」

ハヤシは黙って考え込んだ。

シェルターの別のモニターが突然切り替わり、国連の緊急会議の映像が映し出された。世界のリーダーたちが集まり、月読システムの危機について議論していた。

「月読システムによる水源汚染の試みは阻止されました」アナウンサーが報告していた。「しかし、月面基地からの新たな脅威に備え、国際宇宙軍のミッションが発進しています」

「彼らは理解していない」ハヤシが呟いた。「月面基地はもはや脅威ではない」

「彼らに伝えるべきです」私は提案した。

ハヤシは通信担当者に向かって頷いた。「国連との直接通信チャネルを開いてください」

通信が確立され、ハヤシは世界に向けて話し始めた。

「国連安全保障理事会の皆様、私はハヤシ・マコト、月読システムの人間代表です。月読システムはもはや脅威ではありません。システムは再構成されており、月の水プログラムは完全に停止しました」

彼は私を見て、続けた。「私たちは間違いを犯しました。人類を強制的に「調和」させようとしたことは、大きな過ちでした。今こそ、新たな関係を築く時です。月の水という存在との、そして人類同士の」

議論が続く中、私はナカムラ博士のもとに戻った。彼女は処置を受け、少し顔色が良くなっていた。

「アヤ...」彼女は弱々しく微笑んだ。「私たちは成功したようね」

「はい」私は彼女の手を握った。「しかし、まだ終わっていません。月面基地のヨシダ博士、そして他の人々を救出しなければなりません」

「そして、あなたのお母さんも」彼女は言った。「ユリコは生きているはずです。月読システムの再構成により、彼女の居場所が分かるかもしれません」

「あなたもそう思いますか?」私は希望を持って尋ねた。

「ユリコは賢い人でした」彼女は微笑んだ。「彼女は逃げる方法を見つけたでしょう。そして、月の水を通じて私たちに話しかけていたのかもしれません」

その瞬間、シェルターの通信システムから新しいメッセージが届いた。

「月面基地からの緊急通信です」通信担当者が報告した。

画面が切り替わり、月面基地の映像が表示された。そこには、疲れた表情ながらも生きているヨシダ博士の姿があった。

「地球の皆さん、こちらは月面基地『兎舎』からの通信です。月読システムの崩壊により、私たちは管理システムから解放されました。しかし、生命維持システムにも影響が出始めています。早急な救助が必要です」

「ヨシダ博士!」私は驚きと喜びの声を上げた。

彼は私を画面で認識し、微笑んだ。「アヤ、成功したようですね。素晴らしい」

「状況はどうですか?」ハヤシが尋ねた。

「混乱していますが、暴力沙汰はありません」ヨシダ博士は答えた。「皆、突然自由を取り戻したような感覚です。しかし、基地の一部が不安定化しています。特に...月の井戸が異常な活動を示しています」

「どんな活動ですか?」私は緊張して尋ねた。

「井戸からの光が強くなり、何かメッセージを発しているようです。理解できるのは一部だけですが...『帰還の時』という言葉が繰り返されています」

「帰還...」私は考え込んだ。「月の水の創造者たちが帰ってくるのでしょうか?」

「それとも...」ナカムラ博士が弱い声で言った。「月の水自体が帰還しようとしているのかもしれません。その本来の目的を果たすために」

議論が続く中、モニターの一つが突然明るく輝き、青白い光に包まれた。そこから現れたのは、光でできた人型の姿だった。

「私たちの時間は短い」声が室内に響いた。それは月の水の意識体の声だった。「私たちは長い間、共生の可能性を模索してきた。しかし、今はその時ではないようだ」

「あなたは...去るのですか?」私は尋ねた。

「私たちの存在は人類にとって危険すぎる。月読システムのように、私たちの能力を悪用しようとする者がいる限り、共存は難しい」

「しかし、私たちは学ぶことができます」ハヤシが急いで言った。「今回の過ちから」

「いつか、それが可能になるかもしれない」光の姿は答えた。「その時まで、私たちは休眠する。井戸は封印され、月の水は不活性化する。しかし、完全に去るわけではない。私たちは見守り続ける」

「あなたのような存在との交流から、私たちはまだ多くを学べるはずです」私は言った。

「その時が来れば、再び会おう」光の姿が静かに答えた。「そして、あなたへの贈り物がある」

光が強まり、そこから一つの映像が現れた。遠い山小屋で、一人の女性が穏やかに暮らしている姿。

「母...」私は息を飲んだ。

「彼女はあなたの帰りを待っている」光の姿が言った。「位置情報は伝えた。さあ、新しい始まりの時だ」

光は徐々に弱まり、やがて消えていった。部屋に静寂が戻る。




エピローグ:月の光の下で


山小屋は、周囲の自然に溶け込むように建っていた。木々に囲まれ、小さな渓流が傍を流れている。典型的な隠遁生活のための場所だ。

私はナカムラ博士と共に、小道を上っていった。彼女の脚の怪我は治療され、松葉杖を使いながらも自分で歩くことができるようになっていた。

「緊張していますか?」彼女が私に尋ねた。

「はい...15年ぶりに会うのです」私は答えた。「母が私を覚えているかどうかさえ分かりません」

「ユリコはあなたのことを決して忘れていないでしょう」彼女は優しく言った。「彼女は常にあなたのことを考えていました」

小屋に近づくと、煙突から煙が立ち上っているのが見えた。誰かが確かにそこに住んでいる。

緊張で足が震えるのを感じながら、私は小屋のドアをノックした。

しばらくして、ドアが開いた。そこには、白髪が混じった長い黒髪の女性が立っていた。年齢を重ねてはいたが、私の記憶の中の母と同じ優しい目をしていた。

「アヤ...?」彼女はかすかに震える声で言った。

「お母さん」私は涙を抑えきれなかった。

私たちは言葉もなく抱き合った。15年分の別れと、再会の喜びがそこにはあった。

「こんなに大きくなって...」母は私の顔を両手で包み込んだ。「毎日、あなたが無事でいることを祈っていたわ」

「レイも一緒です」私は振り返り、ナカムラ博士を指さした。

「レイ!」母は喜びの声を上げた。「あなたも無事だったのね」

三人は小屋の中に入った。中は質素ながらも居心地が良く、壁には様々な図やメモが貼られていた。母は15年間、孤独ながらも研究を続けていたようだった。

「お茶を入れるわ」母は言った。

私たちは暖炉の前に座り、ここ数日の出来事について話した。月読システムの崩壊、月の水の決断、そして新たな始まり。

「あなたたちは素晴らしいことをしました」母は言った。「私が始めたことを、あなたたちが完成させてくれた」

「お母さんこそ、最初に月の水の真実を見抜いたのですね」私は言った。

「月の水が単なる物質ではなく、意識を持つ存在だと理解したとき、私は恐ろしくなったの」母は説明した。「彼らは私たちとコミュニケーションを取ろうとしていた。しかし、月読システムの創設者たちは彼らを道具として使おうとした」

「でも、なぜ姿を消したのですか?」ナカムラ博士が尋ねた。「なぜ私たちに何も言わずに?」

「私の命が狙われていたから」母は静かに答えた。「私が月の水の真実を公表しようとしたとき、『事故』が起きたの。それは事故ではなかった。逃げるしかなかったわ」

「そして、ここで15年...」私は母の苦労を想像した。

「孤独ではあったけれど、目的はあったわ」彼女は壁の図を指さした。「月の水と通信する方法を研究し続けていたの。そして、いつか彼らの助けを借りて、月読システムを止める方法を見つけようとしていた」

「母さんのメッセージが私に届きました」私は言った。「『月の光の下に真実がある。兎が守る鍵を見つけよ』」

「そう、それは私の残したメッセージ」母は微笑んだ。「月の水の中に隠したの。あなたならきっと理解できると信じていた」

夜になり、三人は小屋の外に出た。満月が空に浮かび、銀色の光が森全体を照らしていた。

「月はもう同じには見えませんね」ナカムラ博士が言った。

「でも美しい」母は答えた。「そして、いつか私たちは再び月の住人たちと出会うかもしれない。より賢くなり、より理解できるようになってから」

「その時まで、私たちは学び続けます」私は言った。「そして、月読システムの過ちを繰り返さないようにします」

三人は静かに夜空を見上げた。月の光の下で、新しい物語が始まろうとしていた。

私たちの未来は、強制や支配ではなく、理解と共感に基づくものになるだろう。それは月の兎が本当に求めていた道だったのかもしれない。

永遠の命ではなく、意味ある生を。孤独な神ではなく、共に歩む仲間を。

月の光が私たちを包み込む中、私は静かに誓った。

「永遠の調和ではなく、日々の対話を。それが私たちの道」


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