第8話 禁書庫
放課後のエリアリス・アカデミー中央塔。
夕暮れの陽が石畳を黄金色に染め、影を長く伸ばしていた。
アレン=リヴィエールは、ソフィア=ノーラと並んで、厳めしい扉の前に立っていた。
――中央塔図書館。
学院内で最も古く、最も秘密を抱える場所。
入り口には、二重になった魔力結界が施されている。
通常、生徒は自由に立ち入ることができない。だが今日は、事情が違った。
「じゃあ、行こうか」
ソフィアは鞄から緑色の許可証を取り出し、扉脇の認証盤にかざした。
魔力が反応し、低い唸り音とともに結界の一部が解除される。
「すごいな……本当に通れた」
「一次閲覧区画だけだけどね。でも、きっと何か手がかりが見つかるはず」
ソフィアは小さく微笑み、扉を押し開けた。
中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
高い天井、幾重にも連なる書架、重厚な木の香り――。
そこは、知識の海だった。
二人は足音を忍ばせながら、案内図に従って進んだ。
一次閲覧区画――それは、中央塔図書館の中でも「比較的安全」と認められた文献だけが保管されているエリアだった。
簡単な魔導史の入門書、初級錬金術指南、古代文明の年表など、内容も厳しく選別されている。
「封印魔法について、詳しい資料……あるといいけど」
アレンが棚を探りながら呟いた。
「この辺りに、古代術式に関する目録があるはず」
ソフィアも手際よく検索石を操作する。
だが、探せど探せど、出てくるのは断片的な記述ばかりだった。
「封印」という単語は散見されるものの、その具体的な構築式や応用例に触れた文献は、まるで存在しない。
(やっぱり、簡単には手に入らないか……)
アレンが肩を落としかけたその時だった。
ふと、目の端に奇妙なものが映った。
石造りの書架の隙間に、微かに揺らめく青白い光。
近づいてみると、それは、わずかに“ひび割れた結界”だった。
「ソフィア……これ……」
アレンが呼びかけると、ソフィアも目を凝らす。
「……結界障壁。これ、普通じゃない」
彼女は専門家らしい鋭い観察眼で続けた。
「本来なら、禁書区画との間に絶対遮断結界があるはず。でも、ここは……劣化して、隙間ができてる」
「つまり、向こう側に……?」
「本物の禁書庫が、ある」
二人は顔を見合わせた。
胸が高鳴る。恐怖と興奮が、ないまぜになった感情が、心を打つ。
「どうする?」
ソフィアが小声で尋ねた。
許可されたエリアを出るのは、もちろん規則違反だ。
だが、そこにあるかもしれない真実を、見過ごすことはできなかった。
アレンは、ごく小さく頷いた。
「……少しだけ、見るだけなら」
ソフィアもまた、わずかに微笑み、頷き返した。
そっと、ひび割れた結界の隙間へ――二人は歩みを進めた。
隙間を抜けた先は、まるで異世界だった。
空気はさらに冷たく、重く、澱んでいる。
書架に並ぶ書物も、どれも古び、魔力の波動を纏っていた。
ここは明らかに、一次閲覧区画とは異なる。
「これが……本物の禁書庫……」
ソフィアが囁くように呟く。
床に敷かれた赤黒い絨毯には、消えかけた封印陣の痕跡。
壁には、警告の古代文字が無数に刻まれている。
『無断立ち入り禁止』『未知なる力への警戒を怠るな』
アレンはごくりと唾を飲み込んだ。
(引き返すなら今だ……でも)
心の奥で、何かに引き寄せられる感覚があった。
そして、奥の棚に、一際目立つ本が鎮座しているのを見つけた。
黒革装丁、銀色の留め金。
そして背表紙に刻まれた文字。
《エル=サラの記録》
「……!」
アレンとソフィアは、無言で顔を見合わせた。
授業で聞いたばかりの、あの名だ。
ソフィアが、おそるおそる手を伸ばす。
ぱちり。
留め金が自然に外れた。
「待って……」
アレンは思わず声をかけたが、ソフィアは静かに首を振った。
「見るだけ。……危険なら、すぐ閉じるから」
彼女の指先が、本をめくった。
そこに現れたのは、草書体とも異なる古代文字がびっしりと書き込まれたページだった。
――エル=サラの記録――
――古代魔法文明アスラ・最後の遺産――
見開きの左には、地割れした大陸の地図とともに「魔力災害」の項目。
緻密な図版で古代都市が崩壊し、周囲の大地に巨大な亀裂が走る様が描かれている。
燃え盛る炎が空を染め、正体不明の瘴気が立ち上るその異様な光景に、アレンは息を呑んだ。
「……こんな災害が、本当にあったのか?」
そっと左頁を指で辿ると、さらに詳細な考察が続く。
「古代アスラ王国の最盛期、王都ナル=カシアは五元素の力を結集し、
世界を繁栄へと導いた。しかし同時に“封印せし力”を蔑ろにし、
精霊の怒りを買い、魔導機構は暴走を始めた――
それが“魔力災害”である」
隣の右頁へ視線を移すと、「失われし封印魔法」の記述が目に入る。
緻密な魔法陣と呪文、そして
「封印魔法エンシェルの真髄は“魂の共鳴”にあり――
魔導士自身の意志が呪文に宿らぬ限り、封印は完全とはならぬ」
と書かれていた。
アレンは掌に冷たい汗を感じた。
禁書庫の静寂を切り裂くように、彼の鼓動だけが大きく高鳴る。
ページの隅には、アスラの紋章と似た図像が小さく描かれており、光が照らすたびに淡い輝きを放っていた。
「これは……いけない。本物の“古代封印魔法”の研究記録よ。
こんな資料が学院に残されているなんて……」
ソフィアの声には戸惑いと興奮、両方が混ざっていた。
アレンはさらに奥の頁をめくる。そこには失敗例として、「封印に失敗しし者の魂が消えた」という断定的な記述が赤い染料で強調されている。
(魂の消失……?)
背筋がひんやりした。
目の前に広がるのは、ただの学術書ではない。
──人々の滅びの記録。
アレンは頁に指を置いたまま、自分の運命と重ね合わせるように呟いた。
「もし……俺が“共鳴”できなかったら?」
ソフィアは表情を曇らせる。
だが、その瞬間、背後から足音がした。
扉の開く音と共に入ってきたのは、リリア=エルグレアだった。
彼女の瞳は、いつもよりも険しさを帯びている。
リリア=エルグレアの足音が、古書の並ぶ厳かな空気を切り裂いた。
アレンは驚いて顔を上げ、手にしていた羊皮紙を慌てて閉じようとする。
しかし、ソフィアの「待って」という声が優しくも厳粛に響いた。
「リリア……」
リリアはテーブルまで素早く歩み、止まった。
淡い水色の瞳が禁書庫の奥で揺れるランプの光を映し出している。
「アレン君、ソフィア。ここは“禁書庫”――深く入り込みすぎてはいけない。
この本は、学院でも最も危険視されている“封印魔法”の記録よ」
アレンが息を飲む。
確かに、ページをめくるごとに重苦しい言葉と図像が積み重なり、
読むほどに誰かを傷つけるほどの魔力と呪縛を感じさせた。
「失われし封印魔法の真髄に触れれば、読み手の魂まで巻き込まれる――
と、ダリル教授の講義で聞いたばかりだわ」
リリアの声には、いつもの静けさを超えた緊張が混じっていた。
アレンは本をそっとテーブルに伏せ、封印符文の描かれた扉に視線を移す。
(もしこれ以上調べたら、本当に――)
背中がぞくりと震えた。
だが同時に、「なぜリリアがそんなに警戒するのか」を知りたくもなる。
「リリア。君は、どうして……この本のことを知っているんだ?」
アレンが胸にあった疑問を口にした。
一瞬、リリアの表情が凍りつく。
だが次の瞬間、彼女はわずかに笑って言った。
「私も、昔……同じ過ちを犯しかけたことがあるの」
それだけ言い残して、リリアは踵を返し、夕闇の中へと消えていった。
アレンとソフィアは、その後ろ姿を、しばらく言葉もなく見送っていた。
胸の奥に、小さな棘のような違和感が残る。
リリアが抱えている“何か”。
自分たちがまだ知らない、遥かに深い闇。
そして――。
エル=サラの記録に刻まれていた、古代魔法の封印と、魔力災害。
知らなければよかったとさえ思うような、危うい世界が、そっと二人に触れた夜だった。