第7話 リリアの秘密 『氷の鏡』
深夜の静寂が、陽光寮の廊下を包み込んだ。
月明かりだけが、窓越しに木の床を淡く照らし、静謐な陰影を形成している。
階段を二階へ上がり、リリア=エルグレアは自分の寝室の扉をそっと開けた。
室内は柔らかなランプの灯りに満ち、窓際の小さな机の上には一対の銀製燭台が並ぶ。
そして、その中央には、古びた「封印式の鏡」が置かれていた。
鏡縁には氷の結晶のような模様が細工され、小刻みに凍結紋章が浮かぶかのように光を反射している。
リリアはコートを脱ぎ、マントの裾をそっとたたんで椅子にかける。
そして、静かに鏡の前に腰を下ろした。深い青みを帯びた瞳に、月光がちらりと映り込む。
「……久しぶりね、こんにちは、リリア・エルグレア」
囁くような声で、自らに語りかける。封印式の鏡とは、代々エルグレア家に伝わる秘蔵品であり、
表向きは“魂の浄化”を行うとされる魔法器だ。しかし、リリアだけは知っている。
──この鏡は、真実の祈りを映し出す鏡。
そして同時に、魂の奥底に潜む“古代の力”をも露わにする装置でもあることを。
彼女はゆっくりと両手を鏡面にかざし、微かな魔力を流し込んだ。
水のような冷たい感触が、指の先から全身に広がる。
鏡の氷結模様が淡くきらめき、次第に映像が浮かび上がってくる。
最初に見えるのは、薄れかけた自分自身の姿。
繊細な顔立ちに、憂いを帯びた大きな瞳。
だがその背後――鏡の奥底には、青と銀の旋律を奏でる魔導紋章が潜んでいる。
まるで古代アスラ文明の紋章にも似た、複雑怪奇な光の輪郭だ。
リリアの心臓は高鳴る。
指先を走った冷気は、脳裏に封印魔法の禁忌を思い起こさせた。
「封印魔法エンシェルの真髄は魂の共鳴にあり――」
文献で読んだだけの言葉が、鮮やかに脳裏を駆け巡る。
彼女は息を呑み、襟元を軽く押さえた。
──これは、危険すぎる。
深呼吸し、再び魔力の流れを整える。
しかし、鏡に映る自分は微動だにせず、逆にその紋章は静かに脈動を始めた。
封印の輪郭がゆっくりと光を強め、鏡面に淡い蒼の渦を作り出している。
リリアは自分の名前を小さく呟いた。
「リリア・エルグレア……あなたは本当に、大丈夫なの?」
遠い昔、封印魔法を扱った祖先たちは、この鏡を用いて力を査定し、
力を制御できない者を排したという。
自分自身がいつ、その審判に値するのか、
恐れと好奇が入り混じる心が、鏡の前で揺れ動いた。
リリアは息を整えるように深く吸い込み、椅子から立ち上がった。
鏡の前に立つ自分自身をまっすぐ見据え、そのまま背筋を伸ばし、両手を鏡縁にそっと添える。
銀氷の紋様が指先から伝わる冷気を吸い込むかのように、しんとした静寂が部屋を満たした。
「私は…誰も、巻き込みたくない」
心の奥底から湧き上がる言葉を、リリアは吐息混じりに繰り返す。
これまで誰にも言えず、胸に秘めてきた恐怖と責任が一瞬にして溢れそうになる。
封印式の鏡は、その声に反応して微かに揺らめき、氷結紋章の輪郭が淡く炭青の光を放った。
鏡面に映るリリアの瞳は揺れ、瞼の縁からは薄く涙がにじむ。
幼子のように「私は誰にも求められているのか?」と、己の存在を問いかける。
だがその奥底で小さく、強い意思が燃え上がる。
「たとえ力を持っていても…私は――」
次の瞬間、鏡の中心に不意に異なる光紋が浮かび上がった。
ほんの一瞬、古代文字で構成された禁呪の紋章が、その氷の中に暗黒の影を落とす。
青白い光に混じる、暗紅の細い線。読者にだけ気づくほど一瞬で消えたそれが、
リリアの胸に新たな戒めを刻み込む。
(――この力は、祝福か。それとも呪いか)
鏡に映る自分の背後には、確かに“古代の呼び声”が残響のようにうごめいていた。
だがリリアは、決して後ろを振り返らず、その紋章を見つめたままゆっくりと頷く。
「…私は、運命に抗う」
その言葉は、自室の壁に反響することなく、リリア自身の心の闇を切り裂いた。
やがて再び氷結の輪郭が静まり返り、鏡はただの鏡となる。
リリアはそっと手を離し、長いマントの裾を整えてから、鏡に最後のひと言を告げた。
「誰も傷つけない。私は、必ず――この力を制御する」
鞄を肩にかけ、リリアは窓辺の月明かりを振り返ることなく、自室を後にした。
その背中には、古代魔法の暗い影を受け止める覚悟だけが、凛として息づいていた。