第2話 旅立ちの朝
朝靄の中を、一台の馬車がゆっくりと村の中央広場へ入ってきた。
車輪の軋む音に振り向いた村人たちは、馬車に掲げられた銀の紋章を見て、どよめいた。
──【魔法評議会】の紋章。
──四つの元素を表す交差する星。
アレン=リヴィエールは、母親の隣で立ち尽くしていた。
何が起こるかはわかっている。それでも、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
馬車の扉が開き、黒衣に身を包んだ使者が降り立った。
細身で背の高い男。銀色の髪を持ち、鋭い琥珀色の目がアレンを見つめる。
「アレン=リヴィエール君だな?」
使者の声は静かだったが、不思議と抗えない力があった。
「は、はい……!」
アレンは思わず背筋を伸ばす。
「我ら魔法評議会は、君の魔導資質を認め、エリアリス・アカデミーへの入学を正式に招待する」
使者は、懐から一枚の巻物を取り出し、アレンの前に広げた。
そこには、美しく精緻な魔法陣が描かれ、アレンの名前が刻まれていた。
「君は、選ばれた」
村人たちが息を呑んだ。
それが、どれほど特別なことか、皆知っていた。
アレンは震える手で、招待状を受け取った。
手触りは羊皮紙のように柔らかいが、その重みはずっしりと心にのしかかった。
◆ ◆ ◆
午後には、村人たちが広場に集まり、小さな送別会が開かれた。
収穫祭の残り物を並べ、即席の宴が始まる。
「アレン、これ……」
サラが、小さな革袋を手渡してきた。
中には、青く輝く小さなマナ石が一粒入っていた。
「みんなで集めたんだよ。これ、お守り。
危ないときは、これに願って。きっと、守ってくれるから」
アレンは喉が詰まり、何も言えなかった。
ただ、サラから袋を受け取り、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
その一言に、すべての想いを込めた。
他にも、パン職人のトムじいさんが焼いた焦げたパン、
仕立屋のマリアが作った粗末なマント、
羊飼いの子供たちが編んだ花冠──
村の皆が、それぞれの形でアレンに餞別を贈った。
(俺は……こんなにも、皆に支えられていたんだ)
胸が熱くなり、目頭がじんとした。
村長オルウェンが前に立ち、杖を突きながら言った。
「アレン。お前の道は、誰も歩んだことのない道だ。
恐れるな。歩み続けよ。
お前の背には、私たち皆の願いが乗っている」
村人たちが一斉に拍手した。
アレンは拳をぎゅっと握り、何度も何度も頷いた。
(絶対に……恥じないように生きる。
この村の、みんなの誇りであり続けるために)
別れの言葉を胸に刻み、アレンは使者の馬車に乗り込んだ。
村の広場には、まだ見送りの人々が残り、手を振っていた。
サラが、両手を大きく振りながら、何か叫んでいる。
「がんばれー! 負けるなー!」
アレンは、力いっぱい手を振り返した。
胸の奥がきゅうっと締め付けられる。それでも、顔は笑っていた。
馬車がゆっくりと村を離れていく。
家々が小さくなり、畑の波が途切れ、やがて森が道を覆った。
──旅が始まった。
◆ ◆ ◆
馬車の中は静かだった。
使者の男は無口で、必要以上に口を開かなかった。
アレンは、窓の外を流れる風景をぼんやりと眺めながら、これからのことを考えていた。
(魔法使いになる……)
信じられなかった。
昨日までは、ただの村の少年だったのだ。
それが今、王国屈指の魔導学院へ向かっている。
道は次第に広がり、森を抜けると、大きな石造りのゲートが現れた。
その中央には、淡く青白い光を放つ、巨大な魔法陣が刻まれていた。
「あれが──転送門だ」
使者が初めて口を開いた。
「この門を使えば、王都マジカスまで一瞬で移動できる。
マジカスは、エリアリス・アカデミーがある、魔導文明の中心地だ。
すべての魔法士が憧れる場所──君も、すぐにその空気を味わうことになるだろう」
アレンは呆然と見上げた。
これほどの大きさと精緻さの魔法装置は、村では一度も見たことがない。
(王都……マジカス……そんな場所が、本当にあるんだ)
「初めてなら、気分が悪くなるかもしれん。目を閉じてろ」
使者はそう言うと、転送門の中央に馬車を進めた。
──次の瞬間。
世界が裏返った。
身体が引き裂かれるような感覚と、同時に、空間に溶け込むような奇妙な浮遊感。
目を閉じたアレンは、歯を食いしばりながら耐えた。
◆ ◆ ◆
眩しい光の中、馬車が到着したのは──
巨大な都市だった。
石畳の広場。高く聳える白亜の塔。
空には、浮遊する馬車や小さな飛行艇が行き交っている。
「……ここが、マジカス……」
アレンは呆然と呟いた。
見渡す限りの人、人、人。
魔法で動く自動販売機、透明なカーテンのような防塵結界、道端では子供たちが遊びながら魔法の花火を飛ばしている。
(世界って、こんなに……広かったのか)
胸の奥が熱くなる。
そして、同時に──小さな、不安も芽生えた。
(……こんなすごい場所で、俺はやっていけるのか?)
不安を振り払い、アレンは小さく拳を握った。
(負けない。俺は、ここで……)
小さな決意が、彼の中に灯った。