第1話 目覚めの日
秋の光が、小さな村を柔らかく包んでいた。
黄金色に染まる麦畑の向こう、わらぶき屋根の家々が規則正しく並び、煙突から白い煙がのぼる。
空には一筋の雲もなく、澄んだ青がどこまでも続いている。
アレン=リヴィエールは、村外れの小高い丘に立ち、腕まくりをして作業をしていた。
収穫祭──一年に一度、村中の人々が喜びを分かち合う大切な日。
この日のために、子どもたちも大人たちも総出で準備に追われていた。
「アレン、手が止まってる!」
軽やかな声が飛んでくる。
振り向けば、同い年の幼なじみ、サラが両手いっぱいに花を抱え、眉をひそめていた。
「ごめん、ごめん!」
アレンは笑って手を振り、抱えていた麦束を整え直す。
今年も豊作だ。畑は実り、家々には笑い声が満ちている。この村で生きること、それがアレンにとってすべてだった。
けれど、その平穏は、あまりにもあっけなく破られる。
──突風が吹いた。
「うわっ!」
アレンはよろめき、足元に転がっていた小石に躓いた。
抱えていた麦束が宙に舞い、まっすぐサラの方へ飛んでいく。
(やばい!)
咄嗟に叫んだ。
同時に、右手を無意識に突き出した。
──バシュンッ!
掌から、眩い赤い光が走った。
それはまるで意志を持った生き物のように、空気を震わせ、一直線に麦束へ飛び込んだ。
ドンッ!
乾いた爆裂音と共に、麦束は砕け散り、火花が散った。
サラは間一髪、地面に飛び込んで避ける。
沈黙が訪れる。
丘の上にいた村人たちが、皆、アレンを見ていた。
誰も声を出さない。ただ、信じられないものを見るような目で、アレンを見つめていた。
「魔法……?」
誰かが呟いた。
アレンは、自分の手を見下ろした。
そこには、まだ微かに、赤い残光が揺らめいていた。
誰もが固まったままだった。
サラも、土埃にまみれたまま、目をぱちぱちさせてアレンを見上げていた。
「……アレン、今の、なに……?」
自分でもわからなかった。
けれど、確かにこの掌から、あの赤い光が放たれた。それはまぎれもなく──魔法だった。
ざわ……ざわ……と、周囲にざわめきが広がる。
「魔法使い……?」 「こんな田舎で……ありえるのか?」 「まさか、呪われてるんじゃ……?」
恐れと驚きと興味がないまぜになった声。
アレンは立ち尽くしたまま、胸の中が冷たく縮こまっていくのを感じた。
そのとき。
「皆、下がれ」
低く、しかしよく通る声が響いた。
人々の間を押し分け、杖を手にした一人の老人が近づいてくる。村長のオルウェンだ。
「アレン、こちらへ来なさい」
アレンはぎこちなく歩き、オルウェンの前に立った。
老人の目は厳しかったが、そこに恐れや軽蔑はなかった。
「大丈夫だ。怖がることはない」
そう言って、オルウェンはアレンの肩に手を置いた。
その手は、意外なほどに温かかった。
「収穫祭はこれで終いだ。皆、準備を片付け、家に戻れ」
村人たちはしばらく戸惑ったあと、散り散りに去っていった。
サラも、心配そうにアレンを振り返りながら、他の子供たちに連れられて丘を下っていった。
──秋の陽は、すでに西に傾きかけていた。
◆ ◆ ◆
村長の家は、村の中央にある大きな樫の木のすぐそばにあった。
石造りの質素な家だったが、古い絨毯と木の香りが温かみを感じさせた。
アレンは暖炉の前に座り、村長オルウェンの前に縮こまっていた。
手には、まだあの奇妙な感触が残っている。
「お前は……何も教わっていないのか?」
「はい……」
アレンは小さな声で答えた。
魔法なんて、今まで本で読んだことはあったが、村の誰も使えなかった。
オルウェンは深くうなずいた。
そして、棚から古びた木箱を取り出すと、ゆっくりと蓋を開けた。
中には、黄ばんだ羊皮紙の束が入っていた。
そこに描かれていたのは──複雑な魔法陣と、見慣れない古代文字だった。
「かつて、この世界には魔法帝国アスラが存在した。
魔法を極め、世界を統べようとした者たちだ」
オルウェンは遠い目をしながら語り始めた。
「しかし、彼らは滅びた。
力に溺れ、争いに巻き込まれ、やがて自らを滅ぼした」
アレンは息を呑んだ。
教科書でぼんやり読んだことはあったが、そんな大昔の伝説の話を、まさか今、現実に聞かされるとは思わなかった。
「その血脈、その力は、途絶えたはずだった。
だが、稀に──何代にもわたる眠りを超えて、目覚めることがある」
村長はまっすぐアレンを見た。
その瞳は、まるで過去と未来を見通すようだった。
「アレン。お前の中には……古の力の欠片が、宿っているのかもしれない」
アレンは、拳をぎゅっと握りしめた。
自分が──普通ではないかもしれないという恐れ。
それでも、その手のひらに確かに残っている"何か"の温もりに、目を背けることはできなかった。
「これから、お前は試されるだろう」
オルウェンは静かに続けた。
「村の外の世界は広い。だが、すべてが優しいわけではない。
異質な力を持つ者に、世間は冷たい」
アレンは黙って聞いていた。
膝の上に置いた手が、知らず震えていた。
「だがな、アレン」
村長は微笑み、アレンの頭にそっと手を置いた。
「恐れるな。力とは、奪うためのものではない。
守り、繋ぐためにあるのだ」
アレンの胸に、温かなものが流れ込んでくる。
小さな村で生まれ育った少年にとって、今日という日は、
世界の形が音を立てて変わった日だった。
◆ ◆ ◆
夜。
アレンは一人、村外れの丘に立っていた。
冷たい風が、草を鳴らし、空には満天の星が広がっている。
村は静かだった。
祭りの準備はすっかり片付けられ、家々の灯りももう消えかけている。
アレンは空を見上げた。
数えきれないほどの星々が、ただそこに瞬いている。
人間の小さな営みなど、何一つ気に留めないかのように。
(これから、俺は……どうなるんだろう)
不安だった。
怖かった。
けれど──それ以上に、心の奥底で、小さな、けれど確かな高鳴りを感じていた。
もっと、広い世界を見たい。
もっと、自分の力を知りたい。
(きっと、あの空の向こうには……まだ、俺の知らないものがたくさんある)
アレンはそっと右手を上げた。
昼間、光を放った手のひら。
今はもう何の反応もない。ただ、夜風が優しく肌を撫でるだけだった。
それでも、彼は知っている。
──もう、戻れないのだ。
星の海を見上げながら、アレンは静かに拳を握った。
(俺は、行く)
誰に言うでもなく、心の中で誓った。
この手で、自分自身の運命を掴み取るために。
──この日を境に、アレン=リヴィエールの物語は、静かに、そして確かに動き始めた。