第35話 日常は続き、そして始まる
今日も執務室には穏やかな日常が訪れていた。
潜入工作員であるクレアにとっては数少ない安らぎの時間。
「レグルス大公。アルギエからのお手紙です」
「うむ、すまんな。ぬ、ロアナからだ」
クレアが手紙を渡すと、レグルス大公の表情が僅かに和らいだ。
帝国城にやってくるときは面倒くさそうな表情を浮かべるというのに、なんだかんだで彼も父親なのである。
封を開け、手紙に目を通したレグルス大公は満足げに頷く。
「どうやら、順調に領地の運営について学んでいるようだ」
「ロアナ様も相変わらずのようですね」
天真爛漫なロアナの顔を思い浮かべ、つい笑みが零れる。
もうしばらくあの子とも会っていない。
成長したロアナは獣人の王家の血筋を引く者としての責務に追われていた。
あのトンチキなござる口調が聞けないことに寂しさを覚えていたのだ。
「人前であのトンチキな姿を見せていなければ良いが……」
「大丈夫ですよ。ああ見えてロアナ様は分別のあるお方です。人前ではうまく猫を被ってーーいいえ、獅子を被っていることでしょう」
「ふっ……」
クレアの言葉に、レグルス大公はどこか嬉しそうに目を細める。
「どうされましたか?」
「いや、な。クレアもそういった言い回しをするようになったのだと思ってな」
「ああ。なるほど」
思えば、当初のクレアは端的に物事を伝えることが多かった。
それは彼女が感情を殺して任務につく潜入工作員だったからである。
だが様々なヒトとの交流を通してクレアの雰囲気は幾分か柔らかくなった。
「私が変わったのならば、それはどこかの騎士様のおかげでしょうね」
特に前世の知識を持つ異世界からの転生者との交流は、クレアに大きな影響を及ぼしていた。
「まったく、あ奴はどれだけ人様の人生に影響を及ぼせば気が済むのだ」
「あなた様が拾った命でしょう?」
「……余が育てたわけではない。そもそも転生者という特殊な環境にあったわけでな」
複雑そうな顔をして言い訳をするレグルス大公。その姿は叛逆の牙があがめ奉る獣王とは思えないものだ。
「うふふ……」
でも、それでいいのかもしれない。
クレアはそう考えていた。
苦しかった過去に捕らわれることはない。
幼い頃に受けた痛みも、受け継がれた憎悪も、一時の安寧も、そのどれもが今を形作る大切な要素だ。
いつか、この歪んだ循環を断ち切るときが来るのかもしれない。
清々しい笑顔を浮かべてクレアはそんなことを考えていた。
「おっちゃん! 新作スイーツできたぞ!」
そのとき、執務室の扉が勢いよく開かれ、新作スイーツを携えたソルドが入ってきた。
また平穏な日々が始まる。
たとえ一時のものだとしても、この日常だけは失いたくない。
心からそう思うのであった。
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