第34話 そのときまでは
地下用水路は帝国城内のあらゆる汚水が集まる場所だ。長い歴史を持つ帝国城の地下には、複雑に入り組んだ用水路が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
流れる汚水の表面には、腐敗したゴミや排泄物が浮かび、鼻をつく悪臭が立ち込める。
時折、水面から立ち上る泡が音を立てては消えていく。その度に、新たな悪臭の波が押し寄せてくる。
水の滴る音が地下用水路の静寂をかき乱し、どこからともなく聞こえてくる不気味な音が訪れる者の神経を逆撫でする。
そこに生息する生物は、光の届かない暗闇に慣れたものばかりで、ネズミや虫、さらに得体の知れない生物たちが時折、影を潜めるように姿を現す。壁には緑がかった苔が生え、その表面には無数の小さな虫たちが這い回っている。
常人ならば、まずこの場所には足を踏み入れることはない。
その暗がりの中で、一つの小さな光が揺らめくのが見える。蝋燭の温かな明かりは、周囲の闇をかすかに押し返していた。
「……まったく、相変わらずですね」
クレアの溜め息が、湿った空気に吸い込まれていく。彼女のエコーロケーションによって暗闇の中でも相手の姿は、はっきりと捉えていた。
「地下用水路は危ないから入らないようにと、何度も忠告したはずですが?」
クレアは軽やかな足取りで少女の前に回り込むと、困ったように告げる。
目の前には、琥珀色の髪をした少女が立っていた。かつての幼い姿面影を残しつつも、女性らしく成長したルミナの姿があった。
帝国の第一皇女として相応しい気品ある容姿に成長していたが、その目に宿る好奇心の輝きは昔のままだった。
「あ、クレア!」
ルミナは昔と変わらない明るい笑顔を浮かべる。
その表情には、純粋な喜びと少しばかりの悪戯っぽさが混ざっていた。十年以上前、この同じ場所で初めて出会ったときの無邪気な笑顔そのままに。
「ルミナ様。これ以上は先に進ませませんよ」
クレアの声は毅然としていたが、その口調には微かな優しさが滲んでいた。
「昔は見逃してくれてたじゃないですかぁ」
甘えるような声音で言うルミナに、クレアは目を細める。
その仕草には、十年の付き合いから生まれた親しみが感じられた。
水面に映る蝋燭の光が、二人の影を歪めながら揺らめいている。
「もう子供ではないのですからそうはいきません」
「そこをなんとか!」
ルミナは昔と同じように駄々をこねる。
しかし、その仕草には皇女としての教育を受けた優雅さが自然と混ざっていた。
体勢を低くして、上目遣いでこちらを覗き込むその姿は、まるで舞踏会での所作のように洗練されていた。
「はぁ……」
クレアは深いため息をつく。その音が地下用水路に響き、水面に映る蝋燭の光が大きく揺れる。壁に映る影が歪み、二人の姿が一瞬重なって見えた。
「今回だけですよ」
結局、昔と同じように甘やかしてしまう。どうにも、クレアはルミナに弱かった。
それは獣人としての強さも、叛逆の牙の幹部としての冷徹さも、この少女の前では意味をなさないことを、彼女は十分すぎるほど知っていた。
「さすがはクレアです! わからず屋のお父様やヴァルゴ大公とは大違いです!」
「皇帝陛下と宰相様になんてことを」
苦笑まじりに諫めながらも、クレアの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
ルミナの喜ぶ声が、暗い地下用水路に響く。その声は、昔のように純粋な喜びに満ちていた。
石壁に反響する声は、まるで光が闇を押し返すかのように、じめじめとした空気を払い除けていく。
「ですが、次からは必ず捕まえますからね。あと、地下用水路は本当に危ないので、せめて脱走するなら侍女の宿舎にしてください……」
クレアの声には本気の心配が滲んでいた。
彼女は地下用水路の危険を知っている。構造上としても危ない場所であり、自分達のような危険人物もいるのだ。少なくとも、お転婆な皇女殿下が訪れるべき場所ではない。
「もちろんです!」
ルミナは楽しそうに笑う。その笑顔は、帝国の暗部を知らない純真さを湛えていた。
軽やかな足取りで走り去っていくルミナを見送りながら、クレアは口元を緩ませていた。
彼女の足音が遠ざかっていく中、水滴の音だけが残されていく。
「まったく、困ったお方です」
呟きながら、クレアは暗がりの中へと消えていった。その背中には、決意と覚悟が滲んでいた。
彼女には、まだやるべきことがある。叛逆の牙の幹部として、そして一人の獣人として。
水滴の落ちる音が、静かに時を刻んでいく。
この地下用水路で始まったクレアとルミナの奇妙な絆は、これからも続いていく――闇が光によって討たれるそのときまで。




