第10話 顔も知らない弟
レグルス大公の娘が帝国城へやってくる。その知らせは、静かな波紋となって城中に広がっていた。
当然、そのことについても叛逆の牙への報告は必要だ。
クレアは月明かりの差し込まない夜を選んで、地下用水路のアジトに向かった。
「そうか。姫君がお戻りになられるか」
「はい。それに加えて人間の剣士が護衛についているとか」
「人間だと?」
聞き捨てならないとばかりに上司が不機嫌そうに尋ねる。
暗がりの中でも、その険しい表情ははっきりと見て取れた。
「なんでも獣王様が昔助けた者のようです。獣人の戦士にすら勝つ強さだとか」
「くだらんホラ話に興味はない。一体どこのバカだ、そんな子供でもわかるような嘘を……」
いや、我らが獣王様なのですが。
その言葉をぐっと飲み込んでクレアは報告を終える。
上司の短絡的な性格は、時として組織の足かせになっているのではないかとクレアは感じていた。
今のところ叛逆の牙の中では、クレアが群を抜いて重要人物の傍にいると言える。
帝国城に潜入したスパイの中で、これほど中核に近い立場にいる者はいない。
クレアの上司は、官僚として上り詰めており、侍女の宿舎で同室のメイドは元帥の娘のメイドになれた。
それでもクレアほどの情報は得られていなかったのだ。
「そういえば、ドラキュラ。旧モルド領から連絡があった。どうやら貴様に弟が生まれたようだ」
「弟、ですか?」
クレアは現在十六歳だ。
随分と歳の離れた弟ができたものだと驚いていると、上司は淡々と告げた。
「どうやら出稼ぎにやってきた狼の獣人女性に手を出してしまったらしい」
「モルドの血は業が深いですね……」
どうしてこうも獣人女性に対して節操がないのか。
先祖から続く血縁者の度重なる不祥事に、クレアは心の中で溜息をついた。
そもそも叛逆の牙の成り立ちが、獣人の使用人へのお手つきである。
クレアの嫌いな人間の身勝手さを象徴するような出来事だった。
当然、それを聞いてモルド家直系の血筋であるクレアは複雑な心境になった。自分もその忌まわしい血を引いているのだから。
「まあ、お前からしたら複雑な話なのだろうが、我らにとっては朗報だ。なにせ、生まれた子は先祖返りを起こしていたのだからな」
「先祖返り……まさか獣王様と同じ?」
クレアの声が僅かに震える。その意味するところを察していたのだ。
「ああ、そうだ。狼の血を色濃く残した皇族の血を引く獣人が生まれたのだ」
上司はどこか興奮した様子で口元を歪ませた。その表情には、新たな武器を手に入れたかのような喜びが滲んでいた。
「彼が成長して戦士となったとき、蝕みの宝珠を持たせれば獣王様の右腕となれる最強の戦士が生まれるだろう」
生まれたばかりの命も叛逆の牙にとっては、有用な道具でしかない。運命という名の鎖が、まだ見ぬ弟の首に巻き付いていく。
彼らは同胞の憎しみを忘れず、復讐するためだけに生きている。
そんな星の下に生まれてしまった弟をクレアは不憫に思った。
「ちなみに、名前は何というのですか?」
「お前の父はベオウルフと名付けたようだが、少しでも経歴を偽装する手間は省きたいからな。戦士になるまでは母方の性を名乗らせるよう伝えておく」
ベオウルフ・ルナ・モルド。
それが新たに生まれた顔も知らない弟の名前だった。
その名が意味する運命の重さを、クレアは痛いほど理解していた。




