婚約破棄を解消するために、口を滑らさざるを得ない王太子殿下(18)
スルーしようと思っていた、刺繍入り手巾贈呈編です。
大して甘くならないと思っていたのですが……。
どうぞお楽しみください。
「……染みにならなくて良かったですわ」
アズィーは自室で、自ら刺繍を施した手巾を眺める。
昨日うっかり指を刺してしまい付いた血の跡は、どこに付いたかも分からないほど完璧に洗い落とされていた。
「これをスターツに差し上げたら、どんな顔をするのでしょう……」
驚く顔。
微笑む顔。
照れる顔。
何を想像しても、アズィーの胸には暖かな気持ちが満ちた。
しかしその顔に、小さな陰りが落ちる。
「……この手巾はずっとスターツのそばにいられるのね。羨ましい……」
そう口にして、アズィーははっと我に返った。
「な、何を考えているのかしら私は! 手巾に嫉妬するだなんて……!」
それでも胸から離れない、切ない気持ちを押し潰そうとするかのように、アズィーは手巾を持ったまま胸を押さえる。
「……どうかスターツが喜んでくれますように……。そしていつか私にときめきを感じてくれますように……」
切ない祈りを繰り返しているうちに、アズィーはそのまま眠りについた。
手巾を宝物のように抱きしめたまま……。
「おはようアズィー」
「ご機嫌麗しゅう殿下」
いつも通りの朝。
昨日のように避けられていない事を確認し、こっそりとほっとするスターツ。
「あの、これを殿下に差し上げたいのですが」
「ほう、何かな」
可愛らしく上品な包装を見て、スターツの胸が高鳴る。
(な、何だ……? アズから贈り物をもらえるような記念日ではないはずだが……? いや、何でも良い! アズがくれるものなら何だって嬉しい!)
まさかそれが先日の休みの空回ったもてなしの礼だとは、スターツには想像すらできなかった。
ただただ嬉しさと期待に胸を膨らませるだけだ。
「……開けても、良いか?」
「……えぇ」
震える手で包みを開けると、ふわりと香る甘い匂い。
スターツの脳に衝撃が走る。
(これはアズの匂い……!? 何か身に付けていたものを贈って来たのか!? この大きさからして、服ではない……。まさか下着!? いや、そんなはずは……!)
動揺するスターツは、袋の中に手を入れた。
指先に触れた布の感触に頭に血が昇るが、
(いや! ここで開けても良いと言ったのだ! よもやそんなものを渡すはずがない!)
頭を無理矢理冷静に引き戻し、ゆっくりと取り出す。
「……おぉ、手巾か。我が王家の紋章が刺繍してあるな。アズィー、これは君が自ら縫ってくれたのか?」
「えぇ、拙いですがどうぞお使いになってください」
「感謝する」
周りに聞こえるように言いながら、スターツの内心の動揺は更に深まっていた。
(ここからアズの匂いがするという事は、アズの身に触れていたという事か……!? おのれ手巾の分際で生意気な……! はっ!? 私は手巾に何を……!?)
訳のわからない嫉妬から頭を逸らそうと、スターツは見事な刺繍に目を向ける。
王家の紋章はその立場に相応しく、複雑で豪華な装飾をされているが、アズィーの腕はそれを見事に再現していた。
「見事だなアズィー。我が王家の紋章を完璧に縫い取っている」
「過分なお言葉、ありがとうございます」
「謙遜する必要はない。これほど緻密に縫える者は王宮にもそうはいない」
「……お、おやめくださいませ殿下。恥ずかしゅうございます……」
目を伏せて消え消えにそう答えるアズィーに、スターツのときめきは頂点に達する。
それがスターツの口を滑らせた。
「やはりアズィーは我が婚約者に相応しいな」
「えっ……」
アズィーの動きが止まる。
そこでスターツは失言に気が付いた。
(し、しまった! アズが婚約者の演技をしているという事を忘れて私は……! 急に足を止めて、お、怒らせてしまったか!?)
しかしアズィーはそんな事をかけらも考えてはいない。
ただただ飛び跳ねたくなるほどの喜びを抑えるのに必死なだけであった。
(わ、私を婚約者に相応しいだなんて……! み、皆の前だから仰ってくださったのでしょうけれど、嬉しくて堪りません……!)
皆の前では言葉を取り消せないスターツ。
嬉しさを抑えるのに必死で声を出せないアズィー。
絞り出すように沈黙を破ったのはスターツだった。
「……それでは、その、学園に向かおうか……」
「……はい」
ぎこちなく差し出した手を、アズィーが嬉しそうに握る。
後ろでは生徒達が、朝から甘さに浸っていた。
「お姉様……! あれはいずれアズィー様も同じ紋章になるから練習している、そういう事ですわよね……!?」
「私もそのように見えましたわ……! あぁ、何て尊いのかしら……!」
「あの二人のぎこちなさはのぉ、お互い演技の婚約者のはずなのに、スターツ様が変な事を言ったから気まずくなったのじゃよ……」
「……キャンター。何か君、老けてない……?」
そんな一部の的を射た声も、スターツの耳には入らない。
(手を握ってくれたから、アズは怒ってはいないようだ……。それは良かったが、この手巾は一体どうしたら……。手を触れずに瓶にでも入れておこうか……)
思いがけなく手に入った宝物の処遇と、一日ぶりのアズィーの手の感触で、頭がいっぱいなのであった。
読了ありがとうございます。
自分の匂いに人は鈍感なもの。
なのでアズィーは手巾に自分の匂いが移った事に気付いていません。
気付いていたら、手巾はスターツの手から取り戻され、密かに闇に葬られていた事でしょう。
口に出さなくて良かったねスターツ。
次回もよろしくお願いいたします。