【一話】せんりつ
金や銀、銅色の歯車が、音無く噛み合い、回る。数十枚、直径四メートルを超える歯車の前には、防音ガラスが二枚、並行に並び、垂直に接する左右の壁には、数千冊の本が並べられている。
時計の中の様な部屋の中央で、私は、パタンと本を閉じ、ソファに頬杖を付き、朝にセットした付け髭を撫でながら、余韻を味わう。
読後の焦燥感は、やはり、好きだ。特に、誰かにとってはハッピーエンドで、しかし、誰かにとってはバッドエンド、そんなストーリーを読み終えた時の、胸に穴が開けられた、あの鬱の様な感覚は、世界を、雨降る日の夜中の二時、の様にさせてくれて、同時に、昔を思い出させてもくれて、とても好きだ。
「いや、しかし、ゴミではなかったか?」
敬愛する先輩の作品を、自分から見て右側の本棚に押し込んだ。もう一度、いやしかし、とは思うことはなく、ゴミと判断した本が並ぶ右側へ、強く押し込んだ。
ソファの隣に置かれたガラス机から、カップを手に取り、珈琲を嗅ぎ含み、
「せんりつ」
と口で模し、頬を人差指で叩いた。今日考える言葉が決まった瞬間だ。
せんりつ、が「旋律」であれば、水色の譜面だ。頭の中の画は、然程具体的では無く、今さっき思い描いた画などもう忘れ始めているのだから、もしかすれば、水色を背景にした白色の譜面だったかも知れない。
「まあいいか」
胸ポケットに手を当てたが、メモ帳は取り出さなかった。
青空の下の吹奏楽部も連想出来る。懐かしさを感じさせてはくれるし、頭の中を少し綺麗な色にしてくれる気はする。けれど──。
足を組み替えた。何度も何度も組み替えた。
考えれば考える程に、模せば模す程に、その水色は「安い色」と思えて仕方なくなっていく。立ち上がり、珈琲を飲み込んだ。俯き、顎の付け髭を撫で回し、ソファの周りをグルグルグルグル回り始めた。
顔を上げて、立ち止まった。
「……戦慄か?」
歯車の壁と対極側の、黒で塗り潰された壁へ呆けた視線を向けた。壁中央にある扉の右側に置かれた四角い水槽を眺め、吐息を吐く様に言う。
「魚の死に顔って、見たことあったか?」
先程読んだ小説にも何ら関係のない事を、唐突に思い、歩き出し、部屋を後にした。
魚が暴れ狂う姿に、徐々に泳ぎが遅くなっていく姿に、然程興味を抱かず、「せんりつ」という言葉を、再度考えていた。
特段羨ましがられる様な一〇代を過ごした訳ではないからなのか、知らずのうちに嫉妬を抱いているからなのか、やはり、先程の水色は、ビー玉程度にしか思えない。ガラス板を挟んで見上げる空程も美しくは思えないし、連想するもの全てが、酷く安く思える。
「雨……」
いや、そこまでの妖艶さは一切ない。純粋を演じている色、か。
吐息の様な笑い声を溢した。
「っ戦慄の方がしっくりくる」
浮き始めた魚を一瞥するが、ただ不快であった。
鉛筆も紙も握らなかったことを、然程後悔はしていない。もう小説は書く気はないのだから。どうでも良い。
何を考えていたかすら、思い出せず、しかし、灰色だけは頭に残っていた。
「話し相手がいなくなってしまった……」
付け髭までして、出かける準備をしたにも関わらず、その相手のことすら忘れて、魚を買いに家を出た。
数時間後、訳の分からぬ紋様を首筋につけられ、私は死んだ。しかし、死後、数十後日、婚約の話が破棄されたことを知った。殺す、と手紙を添えられていた。