省察
彼の職場のビルの屋上から、一人の男が身を投げた。
彼はそれから、男の声を聞くようになった。これまで一度も聞いたことのなかった、男の陰気な声だった。
耳を塞ぐと、鼓膜の奥からくぐもって響くような声で、呻き声とも嬌声とも聞き分けがつかない。
不気味に思った彼は医師にも相談したが、異常はないということだった。霊媒師にも相談したが、祓ってもらったその間中にも、彼の声が聞こえていた。
自分が一体何をしたというのか。だんだん腹が立ってきた彼は、ついに大声で怒鳴ったのである。「やれ、お前、俺が一体何をしたのか」と。
四畳半に虚しく響く彼の声に、耳元の呻き声が囁いた。「何もしていないよ」と。
「ではなぜお前は俺の耳元で囁くのだ」
男は怒り心頭だった。声は「その結果がお前の惨めな身の上だろうが」と、静かに答えたのである。
夜もむなしく冷や飯を食い、昼も夜もなく働くが、朝という時間も知らぬままだ。遠い記憶や何者かの、古い栄光にしがみつく。青春など、あったことがないのだから。
昨日もとぼとぼと歩いて帰っていたな。あれはなかなか滑稽だった。お前しかいない真っ暗な道を、明滅する電灯が照らすのだから。かえってお前にお似合いだろう。
「勝手に自殺したくせに、何を偉そうに言うんだか。俺はお前がちっとも喋らないから、お前のフォローに手を焼いたんだ」
男はついに頭に血がのぼり、脳が蕩けそうなほど熱を発した。
俺の責任にするのかい。だったらそれはお門違いだ。だってお前が頭から、血を流しているのは何でだろうな。そんな冷たい駐車場で、どうして横になってるんだか。
男は静かに深い呼吸をする。重たい頭が持ち上がらない。どうやら貧血で倒れたようだ。彼は足を持ち上げようとするのだが、足はおかしな方に曲がって動かない。
そのうちに気づいた。彼の体が耳元で、囁く人の体だと。
ではお前、お前が俺だというのなら、答えてみてくれ。一体全体、俺の人生はどうだったのか。そんなに悪いものなのか。
いいも悪いもあるはずない。お前と同じ位には、ほかのも苦しんでいるだろう?
ならば俺は幸福か。これは軟弱だから逃れただけか。
それもそうだな。そうだがな。お前がきちんと逃げてれば、そんなことにはならなかったよ。
そうだな。俺なぞつまらぬ見栄を、抱えただけのつまらぬヒトだ。