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捕食者

作者: 水春 比呂

 その文書ファイルが、どのような経緯で、自分のコンピューターの中に紛れこんだのかは分からない。めったに見ないディレクトリーを開いたら、記憶にないファイルを見つけたのだった。最初は、何かの間違いでダウンロードしてしまったのかもしれない、と思った。

 読んでみるとかなり奇妙な内容だった。今も、どう解釈すべきか分からないでいる。

 次に示すのが、その内容である。ファイル名は「捕食者」だった。






            *


 捕食者は肉体を持たない生命体である。普通の人間には見えない。ほとんどの人間はその存在すら知らない。

 例外的に、捕食者を見ることが出来る人間はいるが、ほんの僅かである。そして、見ることが出来るといっても、背景と二重写しで、霞のようにぼんやりとした像が見えるだけである。

 捕食者はずんぐりとした円筒形の胴体も持っており、両端は丸く膨らんでいる。手や足はなく、体全体にねじれた四、五十本の触手が生えている。細菌の拡大写真を見ているようだと表現する者もいる。

 体長は一メートル前後で、縦にも横にもなる。かなりの個体が存在しており、あちらこちらで、空中を漂ったり地面に這いつくばったりしている。しかし、その多くは、一個体ずつ、一人一人の人間に取りついている。

 捕食者に取りつかれていない人間はほとんど存在しない。小さな子供から老人まで、ほぼ例外なく捕食者が取りついている。

 捕食者は、人間が生まれた時に、すっと近寄っていく。そして、その人間の資質をじっくり調査し、気に入れば取りつく。捕食者間で取り合いになることもあるが、それでも、だいたいは生後一年以内に決着がつく。一度取りつくと、ずっと同じ人間に密着したままでいることが多い。そして、その人間が死ねば、別の人間に移動する。


            *


 捕食者は人間を餌としている。人間の体と重なるように存在している光の膜に見える生命エネルギーを食べる。肉体には損害を与えない。

 捕食者はいつも人間の光の膜に覆いかぶさっている。そして、捕食者が持っている何本ものねじれた触手を伸ばし、人間の光の膜の至る所にそれらを突き刺している。捕食者が人間を食べている時には、触手が突き刺さった部分の光が薄くなり、やがて、穴が開いた様になる。

 光の膜が完全になくなってしまえば人間は死んでしまうが、捕食者は人間が死なないように加減をして食べている。捕食者は、順次、触手を突き刺す位置を変える。光らない部分は時が経つに従って回復し、また光るようになる。

(以降、捕食者に取りつかれた人間を「被食者」と表現する。)


            *


 被食者に取りついた捕食者は、被食者を操ることが出来る。ただし、そのためには、被食者を調教する必要がある。

 ほとんどの捕食者は、生まれたばかりの、心がほとんど成熟していない人間に取りつく。それは、被食者が若ければ若いほど、調教に対する柔軟性があるからである。また、被食者を好み通りに仕上げていくには、じっくりと時間をかける必要があるからでもある。


            *


 調教の最初の段階では、捕食者は恐怖や苦痛を活用する。捕食者は絶対的な支配者であり、抵抗することは不可能である、と被食者に理解させようとする。

 人間の幼児は、生まれたばかりの頃は、捕食者を知覚する能力を持っている。捕食者が近づいてくると、何者なのかを確認しようとして、注意をむける。最初は、少し警戒心の混ざった好奇心しかない。しかし、捕食者が触手を揺らめかせながら迫ってきて、その触手を自分の体に巻きつかせると、本能的な恐怖を感じるようになる。

 被食者は捕食者を払いのけようとして手足をばたつかせるが、そのようなことでは追い払うことは出来ない。捕食者は触手をがんじがらめに絡ませて、被食者に取りついていく。被食者は激しく泣くことで抵抗しようとする。

 捕食者は被食者をおとなしくさせるために、まず被食者の光の膜を食べる。捕食者が光の膜をいくぶん過剰に食べると被食者は弱っていき、泣き続ける気力がなくなっていく。被食者がおとなしくなったら、捕食者は食べるのを止めて被食者の様子をみる。被食者は光の膜を回復させ、次第に元気を取り戻し、再び泣き始めるので、捕食者はまた光の膜を食べる。それを繰り返すうちに、被食者は泣いて抗議するのを諦めるようになる。

 被食者によっては頑固に抵抗を続けるが、通常は一年前後で屈服する。


            *


 次の段階では、捕食者は被食者の意識の操作を試みる。被食者の意識への接触は、被食者の頭部の光の膜の深部に、捕食者の触手を挿入することによって実現可能となる。

 人間の意識は大きく分けて、外部からの情報を受け取る部分(受容意識)と、情報を分析し自分の意思を決定し保持する部分(認知意識)とから成っている。前者の意識は情報が外部から来たものだと認識するが、後者の意識は扱う情報を自分自身の感情や考えだと認識する。

 捕食者は認知意識に感情や考えを直接吹きこむことが出来るので、被食者は捕食者が吹きこんだ感情や考えを自分自身の意思と誤認し、それにもとづいて行動するようになる。


            *


 被食者が幼児の頃、最初のうちは複雑なことをさせることは出来ないので、捕食者はごく単純な感情を吹きこむことによって、初歩的な誘導をする。例えば、泣きたい、食べたい、排泄したい、寝たい、などの原始的な感情を吹きこむ。被食者を慣らすために、うまく操ることが出来るまで何度も繰り返す。出鱈目に感情を連続して吹きこみ、育児する者をてんてこ舞いさせて遊ぶこともある。

 被食者に感情を吹きこむことに慣れてくると、捕食者はより強制的に被食者を操る方法を習得しようとする。怒りや恐怖、欲望など、被食者が抵抗出来ないような強い感情を吹きこむことによって、被食者を強制的に操る術を覚える。被食者がもともとその感情を持っており、それを増強するだけという場合は、容易に被食者を操ることが出来る。しかし、被食者が望まないような行為であれば、被食者の意識の中で相反する感情が戦うことになり、簡単には操れない。もとからの感情を打ち消すほど強い感情を吹きこむ、被食者の感情を段階的に誘導する、など、様々な方法を捕食者は工夫する。

 捕食者の技術が向上し、被食者も初歩的な言語を理解するなどして成長してくると、捕食者は次の段階として、より具体的に行動を示唆するような考えを吹きこむようになる。被食者が幼児の頃は、まだ予行演習的な意味合いが強いので、あまり意味のある行為をさせることはない。幼児がしばしば理解しがたい行為をするのは、そのためである。しかし、そのような修練を経て、捕食者は被食者を操る術を次第に身につけていく。


            *


 ある程度、捕食者が被食者を操れるようになると、捕食者が被食者に一度限りの特殊な処理を施す。それは、被食者の捕食者を知覚する能力を麻痺させ、捕食者に関する記憶を忘れさせることである。

 人間は本来、捕食者や自分自身の光の膜を知覚する能力を持っている。そのため被食者も、幼児期には捕食者が自分に取りついていることに気づいている。そのままの状態であれば、被食者は成長するに従って捕食者に対する抵抗力をつけ、反抗心も芽生えてくる。捕食者は被食者を操ることが困難になり、取りついていられなくなる。

 そのため、捕食者は被食者の知覚や記憶を破壊して、捕食者に取りつかれていることを忘れさせる。被食者は捕食者に抵抗しようと考えること自体がなくなるので、捕食者は容易に被食者を操ることが出来るようになる。

 捕食者は、被食者の頭部を取り巻くように広がっている光の膜に処理を施すことによって、被食者の知覚能力や記憶を破壊している。その処理の前後で頭部の光の膜の形が縮小することを、捕食者を見ることの出来る人間はしばしば観察している。少数の人間が捕食者を見ることが出来るのは、捕食者による知覚能力の破壊が十分でなかった、まれなケースである。

 この処理は被食者が三歳ぐらいの時に行われることが多い。この処理を施された被食者は、捕食者に関する記憶だけでなく、三歳になるまでに経験したことのかなりの部分を忘れる。また、顔つきや性格の変化も見られる。(この処理を「三歳の儀式」と言うことにする。)






 ここまでの記述を読んだとき、これは本気で書かれたものなのだろうかと疑問に思った。創作だとしても、論文のような形式になっており、人を楽しませようとしているようには思えない。架空の存在をでっちあげて、世間を驚かそうとしているのだろうか。

 とは言え、それなりに興味深いとは思った。






            *


 捕食者は感情や考えを被食者の認知意識に吹きこむときに、なるべく統一性のあるマインドセットを吹きこむようにしている。それは不統一な指示で被食者を混乱させないためであり、被食者が疑問を感じて捕食者の存在に気づくのを防ぐためでもある。

 捕食者はマインドセットを意図的に何度も繰り返し吹きこむ。そうすると、そのマインドセットは被食者自身の性質として強く定着するようになる。それは、被食者の脳には、繰り返したことを識閾下にパターン化して定着させるという機能があるからである。

 捕食者が吹きこんだマインドセットが定着すると、被食者は最低限の指示で容易に操れるようになる。それは、馬を繰り返し調教し、より操りやすいように手なずけるのと同じことである。


            *


 捕食者が被食者に定着させるマインドセットは、感情の要素が多い場合もあるし、考えの要素が多い場合もある。そして、その内容も様々である。どのようなマインドセットを定着させるかは、個々の捕食者によって異なっている。

 感情が行動の基準になる傾向のあるマインドセットを定着させた場合、被食者はあまり考えないで行動する傾向があり、手間をかけずに従わせることが出来る。しかし、知的な行動をさせることは難しくなるし、感情的になりすぎて制御出来なくなる可能性もある。

 ただ、感情的であるということには陶酔的な喜びがあり、被食者の感情に同調して捕食者も楽しむことが出来るので、そのように調教することを好む捕食者は多い。

 考えが行動の基準になる傾向のあるマインドセットを定着させた場合、捕食者は被食者に様々な考えを植えこんで行動を誘導する。それはプログラムを組んでいるようなものなので、被食者は半ば自動的に行動するようになる。捕食者が頻繁に被食者を操る必要がないという利点がある。

 どのような考えを植えこめば捕食者が意図した通りに動くようになるかを考えるのは、やりがいのある挑戦である。捕食者は試行錯誤をしながら目標を実現することで、知的な喜びを得ている。


            *


 マインドセットを検討する場合に気をつけるべきなのは、被食者の行為を正当化する理由づけを用意することである。正当化する理由づけは、被食者が納得出来さえすれば、どんな内容であってもかまわない。一般的には、愛や理想、正当、正義、使命、義務、権利などの言葉で説明される場合が多い。

 被食者の行為を正当化させるのは、被食者の動機づけを円滑に行うためである。捕食者は被食者の行動させるために、しばしば欲望を吹きこんで強く動機づける。しかし、被食者は欲望を否定的にとらえる傾向があるので、欲望が動機であることは隠した方がよい。正当化とは、そのために使われるレトリックである。他にも、「結果さえよければどんな手段を用いてもよい」という表現も、被食者を安心させるためによく使われる。


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 被食者はマインドセットを植えつけられることで、自分で感じることも考えることも出来なくなり、捕食者の意図通りに生きるようになる。被食者が自分自身だと思っているものは、ほとんどが捕食者によって植えつけられたものになる。被食者は自分が望んだことを実行していると思っているが、それは錯覚である。


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 全ての捕食者が被食者を操ることを重要視しているわけではない。被食者を長期間活用出来る食糧とするだけで満足して、必要最低限の調教と操作でよいとしている捕食者も存在している。そのような捕食者は被食者を活発に行動させることを好まず、ただ長持ちさせようとする。ただし、そういった捕食者は少ない。

 ほとんどの捕食者は、自分が構想したように被食者を調教しようとし、様々な工夫をすることで知的な喜びを得ている。そして、被食者を自分の意のままに制御し行動させ、支配者としての操縦感を楽しんでいる。特に、被食者同士を競い合わせることは捕食者を非常に興奮させる。多くの捕食者が夢中になって、被食者同士を争わせている。


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 捕食者は闘争心の強い性質を持っている。人間に取りつくようになる前、捕食者はお互い同士で直接争っていた。もともとは普通の生存競争だったのだろう。しかし、進化の過程でそれが異常に過激化し、しばしばやりすぎるようになっていったのだとされている。

 そのため、滅んでしまいかねないほど捕食者同士で殺し合うことが普通になっていた。生存者が減ると一時的には平穏になるが、個体数が回復するとまた争いが再開する、という不毛なサイクルを繰り返していた。

 捕食者同士が直接争うことが少なくなったのは、被食者を活用することによって、十分に闘争心を満足させることが出来るようになってからである。

 捕食者は遠慮なく被食者を戦わせる。興奮して抑制を失い、戦いを激化させることもある。大勢の被食者の命が失われることもあるが、捕食者自身は傷つかない。被食者が減りすぎると取りつく対象が減るという問題はあるが、その場合は一旦休戦し、被食者の生殖欲求を高めて被食者の数を増加させることで、解決している。


            *


 人間が歴史を記録するようになる以前から、捕食者は人間を支配し続けている。あまりにも昔のことなので、捕食者自身も自分たちがどこからやってきたのかを忘れている。どうやって人間を見つけ、人間に取りつくことを覚えたのかは分からない。人間を見つけたことは、捕食者にとって大変な幸運であった。


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 被食者を操ることを好む捕食者の多くは、大掛かりなゲームに参加している。それは人間の社会全体を舞台としており、その中で被食者を操ることによって成り立っているゲームである。

 ゲームは暗黙のルールによって運営されている。明確に定められたルールによって、厳格に運営されているというわけではない。

 ルールの多くは長い年月の間に積み重ねられた様々な試行錯誤の果てに成立している。しかし、それも絶対的なルールではない。力のある捕食者が、強制的に都合のよいルールに変更することもある。力のない捕食者が提案したルールでも、巧みなルールだと多くの捕食者に認められて、受け入れられる場合もある。社会全体の大きな時代の流れの中で、捕食者の意図とは関係なくルールが変わっていく場合もある。

 ルールの内容も多岐に渡っている。舞台である社会は、入れ子のような構造であったり、互いに重複するような構造であったりする様々な領域で構築されており、その領域ごとに独自のルールが存在している。領域内のルールを外に漏らさないようにしている場合もあり、全てのルールを把握するのは極めて困難である。

 ゲームに参加する捕食者たちは、常に舞台である個々の領域を観察して、ルールの内容を読み取らなければならない。ルールに気づかずに手痛い敗北を喫したなら、それは気づかなかった捕食者の方が悪いのである。暗黙のルールを読み解くことはゲームの一部であり、捕食者の知的な喜びになる。


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 捕食者は自分の好みや能力に合った領域を選んでゲームに参加する。各領域はそれぞれの特徴を持っており、一様ではないので、捕食者は飽きずにいられる。捕食者のスキルが上がった場合は、より上級の領域に挑戦することも出来る。

 ゲームで競う内容も様々である。一対一で対決することもあれば、チームを組んで対決することもある。武力による対決もあれば、経済力による対決もある。何かを成し遂げようとする場合もあれば、逆に何かを破壊しようとする場合もある。上級者になると、多様な対決を同時にこなして、自分の能力を限界まで使う。


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 捕食者が人間に取りつくときには、自分が参加しようとしているゲーム内容にあった資質を持つ人間を捕食者は選ぼうとする。捕食者は人間の資質を何とか見極めようとするが、取りつく対象の人間はまだ幼児期なので、そう簡単ではない。見極めがつかず、その人間の血統を考慮する場合も多い。その人間の両親、あるいは、もっと前の祖先を考慮して、人間を選択する。それが期待通りである場合もあれば、期待はずれの場合もある。競走馬と同じであるが、捕食者にとっては、それも面白い。その人間の資質に合わせて調教を工夫することも、ゲームを面白くする。思いがけず高い資質を持った人間にめぐり合って、捕食者を狂喜させることもたまにはある。

 捕食者が積極的に高い資質の被食者を掛け合わせて、優れた血統の人間を生み出そうとすることも多い。恋愛感情や性的欲求を高めて対象の被食者たちを結びつける。そのため、資質の高い被食者ほど生殖活動が活発になる傾向がある。


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 捕食者は、被食者の行動を方向づけるために、思想というものを発明して利用している。もともと、被食者を操るために被食者の認知意識に吹きこまれたものは、その場限りの単純な感情や考えでしかなかった。思想は、そのノウハウを積み上げ、体系化し、より強固な効果を生み出すようにしたものである。


            *


 思想には「もっともらしさ」というものが要求される。思想は決して真理を追究して作られたものではないが、被食者がそれを信じこめるだけの「もっともらしいさ」は付与しなければならない。そのため思想を作る際には、特定の方向に注意を向けるように誘導したり、断定的な表現で疑問を抱かないようにしたり、感情的になるようにして判断力を鈍らせたりなどの技術が必要である。視野が狭い思想ほど、被食者を制御しやすい。

 思想はなるべく、洗脳しやすいもの、一度洗脳されると抜け出しにくい中毒性の高いもの、そして感染力の強いものであることが望ましい。言葉だけで実体のない観念的な経済学や、神の啓示として吹きこむ宗教など、いくつかの有効なパターンがある。絶対だとか真理だとかいう言葉で修飾すると、さらに有効性が高まる。


            *


 思想は被食者の集団を制御するのに都合がいい。団体戦などで、多くの被食者を行動させる必要がある場合に多く用いられる。

 そのため、捕食者たちが、共同で強力な思想体系を発展させることも多い。最初は、誰か一人の捕食者が、洗脳した被食者を通じて思想を発表する。そして、それが有用だと認められると、同じ陣営に参加する他の捕食者たちも参加して、それをより詳細で強固なものに仕立て上げる。

 思想は、単に一人だけのものであればそれほど影響力は持たないが、複数の被食者に次々と呼応させることで、戦略的な道具として活用出来るようになる。言わば、集団的な催眠術である。


            *


 様々な思想が存在し対立しているのは、対決している各陣営がそれぞれの思想を作っているからである。被食者をより強力に操れる思想を打ち出した陣営の方が有利になると考えられているので、各陣営は競い合って思想を考案している。

 個々の作戦ごとに、武力行使に発展させやすい思想を打ち出すこともあれば、安定を志向する思想を打ち出すこともある。捕食者たちは、先の先を読んで、思想を活用している。

 思想だけでいつも被食者をうまく制御出来るということではない。思想はあくまで道具の一つである。随時、戦況を把握し、作戦を熟考し、被食者を小まめに誘導することによってこそ、捕食者は有利にゲームを進めることが出来る。






 自分がこれを書いたという可能性を考えてみた。捕食者は被食者の記憶を削除出来るという記述もあるから、書いたことを忘れさせられているのかもしれない、と思った。

 しかし、そうだとすれば、もっと記憶に穴があって、何かおかしいと気づくのではという気もする。第一、自分が捕食者のことをこれほど詳しく知りえたとは、どうも思えない。

 もしかしたら、捕食者か何かの存在が自分を夢遊病者のように操って、自覚しないままにこれを書かかせたのかもしれない。……そんなことが出来るのだろうか。






            *


 捕食者が被食者を十分に調教すると、被食者は捕食者の指示通りに考えたり行動したりするようになり、ついには捕食者の思念と被食者の思念が同じ波長を描くようになることがある。捕食者と被食者の思念の差異がなくなるため、空回りや反応の遅延などといった無駄がなくなり、捕食者は被食者を円滑に操ることが出来る。

 しかし、その水準に達した被食者は捕食者に同化したのも同然であり、他の被食者たちの中では異質な存在と見なされ、敬遠される場合が多い。性格ばかりか顔さえ爬虫類に似ているとして、排除されてしまうこともある。


            *


 そもそもそれだけの調教能力がない捕食者や、捕食者の異質さがゲームに与える影響を嫌う捕食者は、被食者の思念の型を捕食者のそれに、同化させすぎないように配慮している。そのため、捕食者の本来の性格を生かす工夫をし、場合によっては、捕食者の方が被食者に合わせることもある。

 そのような方法は、被食者が属する社会に適応する能力を阻害しないだけでなく、被食者の潜在的な能力を見出すことも可能にしている。捕食者の一方的な要求を押しつけるのではなく、被食者の資質を見極めて育てた方が、ゲームにおいて有利な状況を作れる可能性が高く、何より、その方が面白いと考える捕食者は少なくない。

 ただ、中には過剰に被食者に合わせようとして、一種の中毒症状を起こす捕食者も存在している。被食者に合わせようとするあまり、被食者の思念を捕食者自身の思念の延長であるかように錯覚するようになるのである。そのような捕食者は客観的な判断が乏しくなり、ゲームの目的を見失って暴走する傾向がある。


            *


 捕食者が被食者の思念を考慮することが多くなったため、捕食者の戦い方は以前と比べるとかなり変化している。かつて捕食者同士が直接戦っていた頃には、敗者が完全に滅びるまで徹底的に戦っていた。しかし、今は、そこまで激しくやり合うことが少なくなっている。

 それは、被食者が本来持っている穏やかさに、捕食者が影響されたからだという可能性もある。結果的に、長い年月をかけて被食者が捕食者を改造してきたのだという見方もある。


            *


 被食者の中には、捕食者による調教を免れる人間も存在している。彼らは必ずしも捕食者の存在に気づいて、調教を免れるわけではない。彼らは、自分に打ち勝つだとか、精神を統一するだとか、よく意味の分からない題目を唱えて修行していることが多い。

 彼らは無念無想になることを目指して修行する。感じることも考えることも停止しようとする。取りついている捕食者はそれを妨げようとして、しきりに認知意識に干渉する。認知意識に思念を吹きこもうとしているのは被食者自身ではなく捕食者なのだから、その囁きを止めるすべはない。しかし、ごく一部の被食者はその囁きを自分のものではないと否定したり、単に無視したりする境地に至る場合がある。そうなると、捕食者は被食者を調教するすべがなくなってしまう。


            *


 捕食者の存在を疑って、調教に抵抗するようになる被食者もわずかに存在している。それは、自分の心の中の囁きを不合理だと思うことをきっかけとする場合が多い。捕食者は被食者の欲求に反するような囁きを、被食者の認知意識に吹きこむことがある。被食者の一部はそれを怪しいと感じて、何かが自分にとりついているのではと思いつく。そんな馬鹿なことがあるはずはないと結論する場合がほとんどではあるが。

 何かに取りつかれているという仮説をもとに、どれが捕食者の考えでどれが自分の考えであるかを、判定しようとする被食者もいる。しかし、考えれば考えるほど捕食者に考えを吹きこまれる隙が出来るので、余計に分からなくなる。考えることに疲れ果てて、狂って暴走したり、自殺を選んだりすることもある。

 自分の頭の中でぐるぐると回っている考えを悩ましいと思ったあげくに、考えることを止めてしまえばいいと思いつく被食者もいる。そうすると、頭に浮かぶ考えは捕食者から吹きこまれたものだけになり、被食者は次第にその偏りに気づくようになる。被食者は、それを捕食者から吹きこまれた考えであると確信しているわけではない。しかし、そうではないかと疑っているし、その偏りに抵抗を覚えるようにもなる。そのため、はっきりとは気づかずに、捕食者の調教を拒否することが多くなる。


            *


 優れた調教技術を持っている捕食者は、ほぼ意図通りに被食者を操ることが出来る。しかし、ほんのときたま、被食者が予想外の行動をすることもある。

 それは被食者の行動に突然現れる。被食者自身もそれを事前には意識してない。事後に被食者自身が自分の無意識の行為に気づく場合もあるが、気づかないことも多い。

 そのようなことは、被食者が識閾下の領域を持っているから起こるのだとされている。

 捕食者は被食者の考えをほとんど読むことが出来るが、言語化あるいは感情化しない無意識の領域については読むことが出来ない。人間の識閾下の深い部分では、人間自身も意識してない何かが機能しているとされている。だから、そのようなことは必ずしも不思議なことではない。

 人間の識閾下の領域は、識閾上の領域よりはるかに広いとされている。だから、実は、捕食者は被食者のことがほとんど分かってない、と考えることも出来る。

 捕食者の一部は、被食者は識閾下では捕食者のことを分かっているのではないかと疑っている。そして、人間は捕食者が思っているような存在ではないのかもしれないと思っている。人間の意識は一種の偽装で、捕食者は騙されているのだと主張する捕食者も存在する。捕食者が被食者に取りつくことによって被食者の精神を操っているのではなく、被食者が捕食者を取りつかせることによって捕食者の精神を操っているのだという主張さえある。

 しかし、人間の識閾下は機械的な処理を行うためだけの領域であると考えるのが一般的である。






 ここに書かれていることは、単なる観念的な考察のようにも読める。興味深いと感じる部分もあるが、捕食者の存在を信じられるほどではない。

 もしこれが本当のことであるとしても、自分にはそれを確認しようがない。なぜこれが書かれたのかが知りたいが、知ることは出来そうにもない。

 次が、最後の文章である。断片的なのは、この文書が完成してないということ、なのかもしれない。






            *


 捕食者は「外縁世界」に住んでいる。「外縁世界」とは、被食者が住んでいる「現実世界」のひとつ外側の世界のことである。ただ、「外縁世界」と「現実世界」以外の世界がないということではない。「外縁世界」の外にも内にも、無限に世界は広がっている。

 捕食者が住んでいる「外縁世界」は、「現実世界」と一部が重なっており、そこから捕食者は「現実世界」に侵入する。

 ほとんどの被食者は「現実世界」の外に出て行く能力がない。それは、捕食者が被食者の成長を阻害しているからである。被食者に「現実世界」を出て行く能力がつくと、捕食者は被食者に取りついていることが出来なくなる。被食者が「現実世界」の外の広大な領域に飛び出してしまうからである。まれに、ごく僅かな個体が「外縁世界」あるいはその他の世界に出ることに成功しているとされている。被食者はそのような存在を「如来」と呼んでいる。


            *


 被食者は生死を何度も繰り返す。生まれ変わると前世の記憶を失い、ゼロからやり直す。生まれるという工程には、生命力を再生する意味がある。捕食者は被食者などの生命力を捕食しているが、それを繰り返していると生産性が落ちるので、生まれ変わりという工程を通じて生産力を再生する。生まれ変わりの工程では被食者は死ななければならないが、それは「現実世界」を一旦抜けさせるということでもある。

 死んだ者はこの「現実世界」が一種の檻であることに気づく。捕食者は問題が起きないように、記憶を完全に消去してから再び「現実世界」に放牧する。


            *


 「外縁世界」には捕食者だけが住んでいるのではない。捕食者とは別の形態のものもいくつか存在している。しかし、そのどれもが非常に個体数が少なく、捕食者と遭遇すること自体がめったにない。捕食者とは別の形態のものの内、いくつかは「現実世界」にも侵入している。彼らは被食者のように虚弱な存在ではないので、捕食者は接触を避けている。


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