神明鳥居はシンメトリー
ある秋の日に祝園玉青から電話があった。
「会社でちょっとした事件が起きたの、もうカオスよ、みんなどうしたらいいかわからなくて蜂の巣をつついたような騒ぎなの、だからしばらく雲隠れすることにした、会社にいても巻き込まれるだけで何も進まない、こんなときは休むに限るわ、…ねえ、タカシにお願いがあるの、ちょっと付き合ってくれない?」
「何をすればいいの?」
「舞台と脚本を用意してよ、昔みたいに」
「昔?」
「忘れたの?」
「高校の頃の話? まさかまだ続けてるの?」
「続けてないわ、自分が選んだ道だけど、就職してから毎日ずっと周りに合わせた演技をして、いい加減疲れたわ、たまにはあの頃みたいに自分のやりたい役をやりたいの」
「封印を解放したいってこと?」
「その言い換えはビジネスでは不要ね、…どうせ暇でしょう? 場所はどこでもいいわ、車出してあげる」
「すごいな、車持ってるんだ、さすが成功者」
「ねえ、タカシ、あなたは経済的な成功なんて考えなくていいのよ、向いてないんだから、明日の朝迎えに行くわ、それまでにゆっくり考えておいてね、あなたは時間を使うほどいい考えが生まれる人だから」
彼女からの連絡は、大学四年の時以来三年ぶりだ。
「就活のあいだ、ずっと楽しくない演技をしていたから疲れたわ」あの時も玉青は同じことを言った。
複数の有名な企業から内定をもらっていた彼女は、聞いたこともないゲーム会社に就職を決めたと言って僕を驚かせた。
「これがお金持ちになるための一番の近道なのよ」
玉青の言ったことは正しかった。彼女が就職した会社は昨年上場を果たし、「入社を決めた条件」だと彼女が話してくれた会社の彼女の保有株は今では驚くほどの価値を持っているのだろう。
最後に合った時の僕にはまだ内定さえ一つも出ていなかった。
「タカシ、気にしなくていいわ、もし希望通りの就職ができなくてもそれがあなたの価値を損ねることにはならないわ、あなたは仕事なんて向いてない、でも生きているだけで価値があるわ」
何を根拠に彼女が僕を特別扱いするのかよくわからないけれど、彼女の予言は決して外れることはない。そして僕は、いざとなれば彼女が助けてくれるのではないかと、そんなことを心のどこかでぼんやりと思っていた。
高校一年のときに彼女と同じクラスになった。美人で明るくて、僕と接点があるとは思ってもいなかった。でもたまたまある日の夕方、彼女の姿を見てしまった。場所は幼稚園を運営しているお寺の境内で、昼間はそれなりに人の声も聞こえるけれど夕方ともなれば人の姿はまばら。たぶん、僕は一人で考え事でもしようと思ってその場所へ向かった。先客がいた。祝園玉青。彼女は一人で何かを喋っていた。その抑揚があまりにもドラマチックで、きっと芝居の練習でもしているのだろう、と僕はしばらく彼女の姿を見つめていた。
そのあとの流れは思い出せない。ただ、いつの間にか打ち解けて話をしていた。
「私、小さい頃からごっご遊びが好きで、もちろん友達とも一緒にやったけど、一人でいるときに空想して自分がなりたい誰かになりきってるときが一番楽しいの」
「じゃあ将来は女優?」
「ううん、女優って華やかだけどパイが少ないじゃない、成功できる人はほんの一握り、私なんか通じる世界じゃないわ、それに女優もお金を稼ぐための仕事でしょう? 私アルバイトをしてわかったの、仕事をするってお芝居をすることじゃないかなって、お金のために演技をするなら女優じゃなくてもいい、普通に就職してお芝居をしている方がきっと私にはむいていると思うわ、たぶん演技をしてお金を稼ぐことは得意じゃないかって思ってるの」
「まさか、そのセリフも演技?」
「違うわ、本心よ」
僕がどんな言葉が彼女を面白がらせたのか、まったく思い出せない。僕は実際に手を使って何かを作ったりつなげたりすることはできないのに、頭の中で思いついた言葉をつなげるのが好きで、彼女はそれをとても面白がってくれた。
彼女が運転するブルーのポルシェのエンジンはいい音がした。
「ガソリン車はそのうち乗れなくなるんでしょう?」
「そうよ、だから今のうちよ、この車でドライブできるのは」
気持ちよく車の流れる平日の関越を降りると、都内とは風景が違う。
「同じ埼玉でもさいたまアリーナのあたりとは全然違う、この辺はすごくのどかな感じがするわ、心の平和が取り戻せそうよ」
「そうかな? 反対のことを言う人もいるけど」
「誰?」
「シャーロック・ホームズ」
「そうなの?」
「最初の短編集「シャーロック・ホームズの冒険」の一番最後の話は知ってる?」
「知らないわよ」
「一番最後の話は『ブナ屋敷』。事件の調査でワトソン博士はホームズと一緒にロンドンから汽車に乗る。彼は、窓から見える田園の景色の美しさに心が洗われるって思うんだ。でもホームズは違う。離れ離れに点在する家を見て、都会だったら近所で犯罪が起きてもわかるけどこんな場所で悪事が行われたら、その秘密は何年も守られる。そう感じるんだよ、田舎は寂しくて恐ろしいってね」
「まあ、わかる気もするけど」
「で、この『ブナ屋敷』は残念ながら12番目の話なんだ」
「何が残念なのよ?」
「だって…、11番目だったらゾロ目だったのに」
「ゾロ目がそんなに重要?」
「ねえ、11という数字から何を連想する?」
「別に何も、…ああ、サッカーって11人?」
「そうだよ、日本にもかつて蹴鞠というのがあったけど8人でやっていたらしい、なぜ11人にしなかったのだろう? この国の人は昔からゾロ目が好きなはずなんだけど…」
「そうなの?」
「11といえば百人一首の第11首は誰の歌か知ってる?」
「さっきから私の質問すべてはぐらかしてるでしょう? そんなの知ってるわけないじゃない」
「答えは小野篁、この人は相当怪しい人でね、一度隠岐に流罪になった、でも許されて京都に帰ってきた、そして祇園のすぐ側に六道珍皇寺ってお寺があってね、そこにある井戸から毎晩閻魔大王のもとに通っていたという伝説があるんだよ」
「そうなの?」
「仏教に六道ということばがあって、六道の辻というのは現実の世界と冥界の境と呼ばれていた場所、小野篁は両方の世界を自由に行き来できたらしいよ」
「それは怪しいわね」
「じゃあ、11と六道の6をかけるといくつ?」
「66」
「じゃあ、京都の有名なお祭りって何?」
「祇園祭?」
「うん、祇園祭は33の鉾が出るんだけど、昔はその数は66だったんだよ、当時の国の数が66だったことが理由らしいけど」
「ゾロ目ね」
「でもね、当時の国の数は68なんだよ、壱岐国と対馬国を島扱いして66国2島と数えたらしい、だけど隠岐国と佐渡国があった、両方とも島なのに、だったら64国4島にするべきでしょう? 64なんて8かける8,2の6乗、いい数だと思うけどそれよりもゾロ目の方が魅力的だったってことだよ」
「もうわかったわよ、それで…、なぜ今日の舞台はここなのよ?」
「六十六部になろうかと思って」
「何よ、それ」
「どこかに連れて行ってくれる、というから旅かなと思って、昔は旅と言えば巡礼者のするもの。かつてそういう巡礼者がいたんだよ、66回写経をしてそれを全国66か所の霊場に収めた、もともとは修行僧がやっていたらしいけど江戸時代には何人かで一緒に全国を回る職業集団になっていたらしい、日本で巡礼者と言えば四国のお遍路さんが有名だけど、六十六部は明治になって禁止されて歴史の彼方に消えてしまったみたい、お遍路さんだったら48霊場あって1番から48番までちゃんと番号もついてるけど、六十六部は番号どころかその66か所がどこだったのかもいくつか説があるみたい」
「…で、六十六部がこの場所とどう関係あるの?」
「この先に神社があって、かつてはお寺もあったらしいんだよ、そのお寺でかつてある人が『巡礼のお金ができたから六十六部にいれてくれ』と頼んで仲間にしてもらった、って記録が残ってる、だからその神社で六十六部ごっこをしようよ」
「私は何の役?」
「六部の仲間に入れてくれって頼む人」
「いま六部って言わなかった?」
「六十六部は省略されて六部とも言われていた、六部殺しの伝承は全国にあるみたい」
「六十六部って殺し屋なの? じゃあ私は殺し屋役?」
「反対だよ、殺される方」
「ええ、殺されるの?」
「六十六部は旅をしながら日本中を回っていた、なんていうと聞こえはいいけど乞食みたいな人もいた、自分の生まれ育った土地には居場所がないから旅をする、だから行く先々で物乞いをしたり泊まる場所を求めた、そしていつの間にか噂が広まった、六十六部を殺すとその家は裕福になるってね」
「それで殺されたの?」
「うん、だけどね、殺した六十六部を神として祀る家族もいたんだよ、あなたのおかげで幸せになれましたってね」
「へえ、都合のいい神もいたものね」
「祀られないとどうなると思う? 祀られるの反対は?」
「祟る?」
「そう、祟る、六部殺しの伝承でポピュラーなのはね、六部を殺した家は裕福になるんだけど子供には恵まれない。でも何年かたってやっと子供が生まれる、でもねこの子供が異形なんだよ」
「いぎょう?」
「うん、背が伸びないとか、目が見えないとかね、…で、ある夜子供を背負っていると突然その子供が言うんだよ、こんな晩だったな、お前がオレを殺したのは」
「ホラーね」
「そう、怪談だね、そういえば怪談の作者、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは帝大の英語の先生だったんだよ、だけど後任に先生が決まってクビになる、その先生が夏目漱石、漱石は神経を病んでいたとよく言われるけど、夢十夜という本の中で六部殺しの話を書いてるんだ、六歳の子供を背負って歩いていると子供がだんだんと不思議なことを次々と言い出して、最後に『百年前にお前がオレを殺したのはこの場所だったな』って言うんだよ、すると子供を背負っていた父親は百年前の自分の記憶がよみがえる、っていうお話、漱石先生はハーン先生に祟られていたのかもしれない」
「まあ、次から次へとよく出てくるわね、もうそろそろじゃないかしら」
「ああ、鳥居がある、あそこだね」
彼女は道路わきに無造作に車を駐車した。外に出るとポルシェには似合わないガタガタの道路、それでも玉青は気にしないといった顔で、バターンとドアを閉める。僕は彼女の前を歩き、鳥居の前で立ち止まった。
「見てよこれ、珍しい、しんめいとりいだ」
「シンメトリー? 当り前じゃない、鳥居はみんな左右対称でしょう? 何が珍しいのよ?」
「はは、玉青は面白いこと言うね、確かにシンメトリーだけど、僕が言ったのは神明鳥居、この鳥居は柱が二本立っていて、笠木と呼ばれる横にした木を乗せて、二本の柱の間には貫っていうもう一本横にした木が通してある。シンプルでしょう? よくあるのは明神鳥居の方で、柱の上に島木と笠木っていう二本の木が乗っていて両端が反り返ってるのも多い、イメージできる」
「わかるわ」
「神明鳥居はシンメトリーなんて、面白いよ、ははは」
「そんなに面白くないけど、それより早く始めましょうよ」
「いちおう、脚本用意したけど」
「いらない」
「どうして?」
「タカシの話を聞いていたらイメージつかめたわ、アドリブで行きましょう」
玉青は僕の手をつかんだ。
「時代はいつ?」彼女は訊く。
「江戸時代」僕は答える。
「わかったわ、あの鳥居は結界、結界をくぐれば江戸時代、私たちは六十六部よ、鳥居の前で目を閉じて十数えてから、あちら側へ行きましょう」
僕たちは手をつないだまま目を閉じて十まで数えて鳥居をくぐった。
「さあ、私を旅に連れていけ」玉青は男を意識してか低い声を出す。彼女は江戸時代に入り込んだ。
「旅の資金はできたのか?」僕は言う。
「ああ、ここに用意したぞ」
「ではその金はこちらが預かろう」
「なんだと?」
「当然だろう、オレたちなし旅ができると思うのか? 追いはぎにでもあってその金を全部奪われるのが落ちだろう、お前の命を守ってやるのだ、いやならお前が生まれた土地で過ごせばいい」
「ここに私の居場所はない」
「だろうな、旅はいいぞ、…なに、心配はするな、オレたちは仕事をしながら旅をする、金は旅の途中で稼げばいい」
「どんな仕事をするんだ?」
「頼まれればなんでもだ、たいていは死体の埋葬だ、行き倒れたものの魂を極楽浄土へと連れていく、そして最後はオレたちも極楽場へとたどり着くのだ」
「六十六か所の霊場の最後は極楽浄土か、確かに人間はこの世に生を受けた瞬間から死に向かう旅を始めるものか…ふふふ、ふふふ」彼女の笑い声は明らかに女の声に戻っている。
「楽しい?」僕は訊いた。
「うん、すごく楽しい、こんなバカなことの相手をしてくれるのはあなたしかいないから」
「ありがとう」
「子供はごっこ遊びが好きでしょう? 自分以外の何者かになりたいって思うのは人間の本能じゃないかしら?」
「そうかもね」
「じゃあ、私はどうやって殺してもらおうかな?」
「まずは一晩の宿を求めるところから…」
僕たちは誰もいない神社の境内で子供のように戯れた。ブルーのポルシェを見た時、祝園玉青は手の届かない場所へ行ってしまったかと思ったのに、目の前でおどけてみせる彼女は僕を笑わそうとしているようにしか見えない。
神社で30分ほど過ごしたのち、僕たちは車に戻った。
「どうしよう、車のエンジンがかからない」玉青が言った。
「え?」
「おかしいわ、突然電波が入らなくなったわ、タカシのスマホはどう? 電波は入る?」
「オレの? あれおかしいなあ、ない、落としたかも…、探してくるよ、鍵開けてくれない?」
「開かないのよ、キーが利かない、ロックされて閉じ込められたかも」
「嘘でしょう?」
「嘘じゃない、嫌な予感がするわ、これからきっと雨が降るわ、雷も鳴る」
「予報では一日降らないはずだけど」
「だって、西の空が真っ暗よ」
「本当だ」
「この辺りに防犯カメラなんてないわよね? 言霊ってすごいわ、言ったことが全部本当になる」
「何の話?」
「シャーロック・ホームズの話よ、この場所で私たちが殺されて車を隠されたらどうなる? このあたりの人たちが私たちを殺したという秘密を守り通そうとしたら、私たちの足跡は完全に消されるわ、田舎は恐ろしい場所なのよ」
「そんな…」
「会社でちょっとした事件があったて言ったでしょう、覚えてる?」
「うん」
「実はね、社長が失踪したのよ」
「え?」
「社長もこんな場所で殺されていたら遺体も出てこないわ、社長はフェラーリを運転していたわ、ロシア辺りに車を売りさばくルートはあるかもね、私たちと違って殺したらお金になる人よ、そんな人が毎日何も変化の寂しい場所に突然現れたら殺してお金を奪おうって考えるが当然よね」
「どうしたの、急に?」
「六十六部はお金を持って旅をしていたのよ、彼らを殺した家が裕福になるのは単に殺してお金を奪っただけなのよ、殺したんだもの、せめて神様くらいにはしてあげなさいよ、ねえ、本当に覚えてないの?」玉青は僕の目をまっすぐに見つめて顔を近づける。
「何の話?」
「本当は思い出すのが怖いだけなんでしょう? 人間の記憶なんて都合よくできてるのよ、殺した人間を神として祀ったり、不都合なことは全部忘れたりね、ねえ、あなたが私を殺したのはこんな場所だったわよね」
「やめてよ…」
「どう、なにか思い出した?」
「玉青、何言ってるんだよ?」
彼女は僕から体を離すと、まるでお面を取ったかのように突然柔和な表情になった。
「終わりにしてあげる、付き合ってくれてありがとう」
「え?」
「今のも全部演技、どう? 上手になったでしょう?」
僕は言葉が出ない。彼女はバッグからスマホを出した。
「返すわ」
「…」僕のスマホだ。
「さっき隙を見て抜いておいたの、雷情報もスマホでチェックしたわ」
「じゃあ、本当に演技?」
「そうよ」
「もしかして六部殺しの話、知ってた?」
「ううん、知らない、全部アドリブよ」
「そうなの? すごい…」
「仕事でこんなことばかりしてるのよ、いつもその場しのぎで乗り切ってる、だから…私の言葉は軽いのよ、あなたみたいに時間をかけて考えることができないし、時間をかけても何もアイデアが浮かばない、それが確認できただけでもよかったわ」
「ごめん、何を言ってるのかよく理解できない…」
「好きなことを仕事にするのはつまらないって本当ね、今日はすっきりしたわ、ありがとう」
「こんなのでよかったの?」
「うん…、タカシは誠実なのよ、だからビジネスには向かない、でもそれでいいじゃない、私みたいに嘘つきになったらだめよ、私は人の才能を見抜く自信はあると思ってるわ、私みたいな嘘つきに本心を言わせるのはあなたの才能よ」
「そうかな、まさかそれも嘘?」
「さあ、どうかしら…」
玉青はにこっと笑って、車のエンジンをかけた。