落下傘のダンス
風に吹かれ右往左往。
ただ落ちていくだけの、醜く滑稽なダンス。
何の種類かわからない虫の鳴き以外、何も聞こえない静寂と暗闇の中で落ち葉を踏みしめて歩く。ほんの一週間前まで赤い文字で埋め尽くされていた天気予報が「寒さ対策をしましょう」なんて宣うほどに冷え込んでいる。
公園や道の脇に植えられている木々は季節を思い出したように葉っぱを落とし、それが絨毯のように敷き詰められている。落ち葉の裏側までは日が通らないので、昨晩の雨がまだ乾いておらず情けない音をしきりにわめいた。まだ雲は残っていて、時々月にかかって頭上の光が淡くなる。と、言っても車やその他様々な人工の光の方が強いが。
白い息を吐いて、目の前に現れた青い光を放つ看板の前に立つ。どこにでもあるようなコンビニエンスストア、俺のバイト先である。なんの変哲もない俺にぴったりの無味乾燥な職場。淡い光を放つ看板に衝突を繰り返す虫を横目に、スタッフ用の裏口から中に入る。
着替えてからレジに立つ。深夜は客も少なく、店員も少ない。元々口数の少ない俺には最適な環境だった。主な業務は棚の整理や床の掃除、コンビニ店員よりは倉庫番と呼んだ方が近いだろう。
「これとこれ、あと四十二番を三つ」
ボックスの注文だ。自分の背後にある棚から空色のシャープなデザインの箱を取り出す。服装などを見るにトラックの運転手だろうか、これから高速での長旅に行くので大量にタバコを買い込むのではと考えた。
いつからか赤い横線の光が出なくなった読み取り機を、妙な縦線の羅列に押し当てて合計金額を表示させた。この人は…三十台だろうな。年齢確認の必要もないだろうし最適化された動きでいくつかのボタンを押す。客が差し出した紙幣をレジへと食わせ、吐き出された小銭を返した。
「レシートは要らないから」
用済みの縦長を足元のゴミ箱へ流し込んで一連の流れが終わる。自動扉を通っていく背中にやる気のない声を返して、中断していた床の掃除を再開した。人が土足で歩き回ると相当床も汚れるもので、雨の日ともなればそれは一層ひどい。
ヒール、革靴、大きな運動靴、擦り切れて踵の模様がなくなったスニーカー。子供のものだろうか、歩く方向が一定でないやけに小さな足跡。床についた過去の記憶を覗き見る。サイズや形から性別や年齢だとかを想像した。やっている作業が非常に単調なので、死んだ目でどうでもいいことばかりを考えて過ごしている。
一時間ほどで掃除を終え、眼鏡を外してポケットにかけた。そのままバックヤードに移動し入れ替える品物の箱をワゴンへと乗せていく。大体いつもの同じラインナップなので箱の見た目で判断し大雑把に作業を続けた、足りなかったらその都度取りに戻ればいい。
「眼鏡かけないんすか?」
いつの間にか隣に来ていた同じシフトの大学生に話しかけられた。客が来なくて暇なのだろう、彼はこちらの作業を手伝うようにワゴンに駄菓子などを追加していく。それ必要だったか?
「余計なとこにピントが合わなくて集中できるんだよ。見たくないものとかあるし」
「見たくないもの?」
「ほら、光に群がる虫とか」
「ああ、看板の」
もっと言えばお前の顔とか。集中したいこと以外への見えやすさなど気にしない。よって本当に見えないと困るときだけ眼鏡をかけるのだ。床の汚れやレジのボタン、家ではパソコンを見る時などがそれにあたる。
物思いに耽りたい時は眼鏡を外すようにしている。視界のどれにも焦点が合わないので己の頭の中によく集中できるのだ。いつからか街を歩くと情報量が多く感じるようになってしまった。空模様や街並みだけでもパンクしそうなのに、人の顔や看板、広告なんかが溢れていて処理しきれないと感じてしまう。あれだけ多くのものを目にしているのに(目にしているから)、家に帰っても何を見たか思い出せない。
レンズによる補正がなくともすべてが見えていた時はどうやって生きていたか。分からない。あの頃は夢中になる何かがあって、目に映るものへ気を配る余裕などなかったのだろう。巨大な好奇心をどこへやったか。失くしてしまったか。こんな思考をするたび、大人になってしまったと思う。なりたくもない大人になってしまったと思う。
棚の商品を補充し終えて従業員用のスペースへ移動し、窓際で換気扇を回しながら煙草を吹かす。漏れる音声を聞いていると、備え付けのテレビでは殺人事件のニュースがやっているようだ。今日も昨日と同じように、この国ではだれかが殺されている。
「物騒な世の中ねぇ」
朝四時、入れ替えで出勤してきた早起きなおばちゃんが誰にともなく呟く。誰にともなく、とは言ったが控室には彼女を除けば俺しかいないので、何も言わないのも気まずく呻き声のような肯定を漏らした。何を言うか、物騒なのは世の中じゃなく人間だぜ。圧力だとか世間だとかそんなものは関係なく、手を下すのはいつだって人間だろう。その対象が自分であったりもするのだが。
どうやら噂話が好きらしく、俺のような萎びた男にも井戸端会議のような話題をよく提供してくる。三丁目の奥さんの不倫がついにばれただとか、連ドラ俳優がよく来る喫茶店だとか、近所の誰々さんが仏壇に貯金をしているだとか…真偽が確かめにくい話ばかりだが、こちらが聞く姿勢を見せていればそれでいいらしく適当な相槌を返してもお咎めはない。
準備を終えたのか、「それじゃあ」と扉を開けて出て行った。手元のセッターも半分ほどまで火が到達している。一度灰を落としてからまた咥え直した。客を除けば唯一と言える人との会話だが、ここの人間と話していても何の感想も抱けない。ぼやけたテレビを消して、舌を這う煤けた味に耽った。
少しズルをして煙草を煙に変え切ってからタイムカードを切った。ガコガコと不格好な音を立てて時間が印刷されていく。印字された時刻を見ずに引き出しへと放り込んだ。これも見たくないものの一つである。人生を切り取って売り、金を得ているということを実感してしまう。
それだけは、嫌だった。
夏であればもう東の空が白んでいる頃だが、過ぎ去ってしまえば太陽はなかなか顔を出さない。まだ二時間近くも続くこの暗闇を噛み締めるように歩く。羽織ったジャケットに手を突っ込み足元に目を落として、随分とくたびれてきたな、と思う。この靴もそろそろ買い替えないといけない。生きるには何かと金が必要になるものである。こんな無味な生活を続けられるのはいつまでだろう。続けようと思えばいつまでも続けられるのだろうけど、それはなんだか恐ろしい気がした。
今放送されているアニメを見終えたら本格的に働き始めようか。何かの区切りと共に動き始めた方がいいように思えた。今すぐにエンジンはかけられそうもないし、世界を騒がすあれこれが収まってくれることをいつかの自分と共に願おう。
大通りを抜けて、住宅街へ。ほう、と息を吐き出して。
何となくポケットからケースを取り出して中の眼鏡をかけた。途端に、世界の全てが鮮明になる。ああ、何と言う。
「秋の夜ってのは綺麗なもんだな」
アスファルトの粒一つ一つ、古い道路標識の錆、割れ目から健気に目を出す名前の知らない草の花弁、艶めく落ち葉、遠くのマンションは明かりのついた部屋と寝静まった部屋で斑模様を描いている。心なしか虫たちの声も大きく聞こえるようだ。
大きく肺を膨らませて、それから随分と傾いた月を見上げた。満月とは言えないまでも膨らんでいる。居待月と言ったところだろうか。風景がよく見えるのは光がよく届くからだろう。太陽と比べて朧気と評されるが、そんなことはないと思う。街灯の光が届かない路地でもこんなに地面がよく見える。雲がかかる前に帰ってしまおう、と足を速めてから気づいた。
気づいて、しまった。
風に揺れるカーテン。何故揺れる。それは窓が開いているから。そして、解像度の上がった俺の目には、表札に書かれた姓が見えている。
「誰々さんが仏壇に貯金をしている」
生きるためには何かと入用である。漠然とした不安が近頃ずっと心を覆っていた。夏が過ぎ、冷えた空気も未来の自分を予感させた。もし、もし仮に、俺に十分な蓄えがあったとしたら…。
アリとキリギリスを思い出す。キリギリスはどうしたのだったか。楽器を弾いて遊んで暮らし、冬を迎えて凍え死んだ。今の季節にだって愉快な音楽家は一匹たりとも残っておらず、松虫鈴虫くつわ虫コオロギがよく鳴いている。飛び交うは名も知れぬ羽虫ばかり。俺はどっちだ?
考えながらも開かれた闇の扉から目が離せない。こちらへ手招きをするようにゆらゆらと布が揺れ、盗め奪えと言わんばかりだ。不用心なのが悪い、蓄えがあるのにそれを狙われることを考えていない。キリギリスもアリに真っ向から挑めばよかったのではないかと思い至る。自らが何も持っていないのなら、冷気で凍てつき死するなら、畜生に堕ちてでも生き永らえた方が希望があるだろう。俺の目には、あの窓が羅生門のように見えていた。
キリギリスは道を違えたのだ。違えたのなら違え続ければよかったのだ。そう、アリから奪ってしまえば良い。夏は音を奏で楽しく暮らし、冬はアリの蓄えを奪う。なんと外道として素晴らしい、めでたしめでたし。
一歩を踏み出した。その家の中へ、ゆらゆらとしたカーテンへ向けて。周りを見渡した。どこにも誰もいない。誰の目もない。たった今、世界のただ一点へ集中していた。
ああ、この渇望を忘れていた。口角が上がる。丁度雲がかかり、等しく地球を照らしていた明かりが薄れる。俺の姿はより一層闇に紛れる。なんと自分の悩みのちんけだったことか。簡単な話だった、失敗続きの人生に成功を望む方が間違っていたのだ。
開いた窓の桟に手を触れて、
「ホッホー」
と、続けざまに四度、鳴き声がした。
驚いて振り返る。月を隠していた幕が退いて、キジバトの赤い眼が屋根の上からこちらを見ていた。光が照らした己の姿を顧みる。慌てて自分の足跡を不格好に消しながら後ずさりをして、道へ出てからは後ろも振り返らずに走り続けた。
マンションの部屋の前に着いて、肩で大きく息をする。一体俺は何をしようとしていたのか。あの眼がずっと後ろから見ている気がして、何度も何度も首を回す。しかし、扉の隣に付けられた明かりに飛びつこうとしている蛾ばかりに目が向いてしまった。
探す事は諦め、息が整うまでずっとその様子を眺めていた。幾度となく弾かれてもなお光へと集う滑稽な姿を見て、先ほどの自分を思い出した。酷く吐き気がする。何がキリギリスだ。どうかしている。
震える指で鍵を取り出し穴へと挿し込もうとした。ガチガチと金属同士のぶつかる音を数十回と繰り返しやっと手首がくるりと回って戸が開く。逃げるようにその中に飛び込み、重たい金属のそれに背を預けてずるずると座り込む。全身の力が抜けて、そのまま泥のように布団の中に這いずった。
荒い呼吸を整えて、鳴る歯の根を沈めて、無理やり瞳を閉じて夜から逃避した。
マンションの窓から、飛び立つ。俺を縛り付けるものは何もなく、飛び立つ。重力さえも振り切って地球さえも飛び出す。軌道上に数多の砂粒が広がっている。それらを抜けて、光が届く方へ。丸い丸い、あの優しい月の方へ。ゆっくりと向かっていく。もう少しでこの手が届く。
月面に、あの赤い双眸があった。
バサリと布団を跳ね上げて目を覚ました。時刻はすでに正午を過ぎている。見慣れた自分の部屋をゆっくりと見渡して、まずはキジバトがいないこと、次に自分が重力に従っていること、最後に俺の手には何もないことを確認する。目元に触れると、邪魔な眼鏡はかけたままだった。
全部が済んでから蛇口に直接口をつけて三回喉を鳴らし、ふらふらと外へ向かう。何かが鳴いている。鍵のかかっていないドアノブを回して、眩い日の光に目を細める。どこの屋根にも姿は見つからず、声も聞こえない。ならば俺のこれは思い違いだろう。胸を撫で下ろして、汗もかいていないのに顎の下を拭った。
扉を閉めようとして気が付いた。足元に、ちょうど玄関のすぐ隣に、もう消えた明かりの真下に、昨日の蛾が落ちて死んでいた。
それを見て俺は、
俺は、月に辿り着かなくてよかったと思った。
ただ、其処に。
情けなく小さな呻きと涙を流す、何にも至らなかった男が転がって居た。
蝋で固めた 鳥の羽
携え飛んだ イカロスは
太陽の光 照らされて
溶けて地に落ち
生き絶えた