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運命と未来について

掲載日:2019/05/26

  

 知り合いと話していた時、丁度その頃エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を読んだ後だったので、ブロンテの話をした。ブロンテが三十で死んだ事。死の前に「嵐が丘」を書き終えた事。それらを話すと相手は

 

 「三十才で死んだなんて、かわいそうに。もっと長生きできればよかったのに」

 

 と言うので、僕は、エミリー・ブロンテのような人の場合、死の予感そのものが彼女の創作の原動力になった可能性がある、実際「嵐が丘」という作品はそういう死の匂いが色濃く出ている…そういう事を説明しようとしたが無駄だった。相手は僕の話には興味を示さず

 

 「もっと長生きできればよかったのに」

 

 と繰り返すのみだった。

 

 これは現代人の標準的な考え方だろうが、こうした人にとってはブロンテが長生きしてくれたほうが良かったのであり、場合によっては、長生きしてくれれば傑作を乱発したかもしれないと夢想さえする。もちろん早死にがいいとは決まっていないが、我々の世界を見回した時、寿命はじめ様々なものが潤沢にあるにもかかわらず偉大な芸術家はほとんど出てこないという事実に注意しなければならないように僕は思う。バッハは、彼が望むようなオルガンをいつでも自由に使える境遇にはなかったらしい。バッハにあらゆる音楽的道具を施しさえすれば「もっと」バッハは偉大になったのに…しかし、これはいかにも現代的な考え方だろう。

 

 先の会話の相手であった知り合いにとっては究極的には、エミリー・ブロンテの渾身の一作であるところの「嵐が丘」はそんなに興味のないものなのだろう。エミリー・ブロンテがたとえ凡庸であっても、長生きしてほんわか生きてくれればいいし、その過程でたまたま「傑作」が生まれれば我々はそれを「楽しむ」事ができる。そう、現代人にとってはあらゆる傑作も自分のためにある楽しみの道具でしかない。だから、作品よりも作者が、作品よりもそれを味わう読者のほうが重大となっている。


 文学志望の人間と付き合ってみればわかるが、彼らは文学の事などてんで知らないし興味もない。ただ漠然と作家になりたい、それも小説というのは特殊専門技能ではないから誰でもできそうという事で参入しているにすぎない。彼らは文学者になる道が絶たれれば文学を捨てるだろう。文学は「夢を叶える」という美名と結びついたものとしてのみ意味あるにすぎない。

 

 こまごまと書いてきて何が言いたいかと言えば、「運命」というものについてだ。昔の仏像でも、中世の壮麗な建築でも、僕らはそれをただ綺麗なもの、美しいものとして眺める。しかし、昔の人間にとって宗教とは生の限界線の向こう側にある「救い」だったのであり、だからこそ仏像を彫る彫師は自分を掛けて彫っており、それは今の僕らからすればあまりにも真剣なものだった。真剣なものだったから後世に残ったのだろう。

 

 例えば、パスカルの指摘するような事柄…クロムウェルの結石という問題がある。政治家として大暴れしたクロムウェルを撃沈したのは、彼に変わる巨大な力ではなく、彼の中にできた小さな結石だった。ここにパスカルは人間の卑小さ、その運命というものを読むのだが、現代ではこれは外科手術で簡単に取り出す事ができるだろう。そこで、我々は過去から比べれば絶えず歴史を改変していると見る事ができる。我々に「運命」はなくなった。我々は絶えず運命を解消しているのだ。

 

 交通事故が起きたとする。人が死んだとする。その時、人はこれを人間に襲いかかる悲劇とは見ない。立川談志が異様な洞察力で看破しているように、例えば自分の子供が事故で亡くなったとする。その時、相手から高額の賠償金が取れるとする。しかし、その時に、(この件には自分自身の過失もあるし、責任もある。自分は自分の悲しみを大切にしておきたい)とこの親が言っても人は承知しない。人はなぜ金を取らないのか、と憤りすらするだろう。


 人は、善意と愛情の仮面を装いつつ、死というものをいつの間にか金や、相手に対する懲罰の問題とすり替えようとする。確かに金は必要だろう。相手を法的に罰するのも必要だろう。だが、その件と人間には死という運命があるという重大な事柄とはまた別だ。人は後者の問題を前者で薄めようとする。子供がなくなれば金、少子化が問題であれば、子供を産めば金をやればいい、と結論する。

 

 現在というのは運命というものを失っている。なぜかと言えば、運命とは生の限界線であるのだが、この限界は絶えず掘り崩され、生の可能域にあらゆるものを繰り入れられると人は信じているからだ。それが現代の信仰であり、宗教である。生きる事の無際限の拡大は、金の増大、数値の増大と一致して考えられ、これは無限でありここに生の不可能性は突破されたと人は信じようとしている。成功者が「成功なんて大したものではない」と心の底から言っても人はこの言葉を信じようとはしない。それは嘘だと考える。そうして失敗者がなにかを言ってもすべて「嫉妬だ」と切り捨てる。ここで彼は自分が信じようとしているものがなにかとは考えない。

 

 思えば川上弘美の「センセイの鞄」はあまりにも悲劇感覚の欠けた作品だった。川上弘美は自分の好きなようにやっていると思っているのだろうが、「好きなようにやる」とは時代の偏見に沿う事以外のなにものでもない。僕の調べた限り好きなようにやって個性を表した天才は一人もいない。偉大な天才はみな勉強家で、ただ真摯に自分の道を進んだだけだった。…例えばIPS細胞で不老不死になれるかもしれないという期待もまた、生の不可能性を消去したいという精神運動にほかならない。あらゆる運命、生の矮小さを感じる視点は、社会改革とかテクノロジーとかいった問題にすり替えられ、それによって我々は自分を見つめる事が不可能になっている。

 

 人が死ねば「かわいそう」と言いSNSではやたら死を悲しむ声が聞こえるが、沈黙の悲しみ、沈黙の祈りというのはどこに言ったのだろうか。沈黙を疎外し、運命を排除してしまえば、文学などは痩せこけた骨格でしかない。文学の消失は、人間が自らの運命から逃避したという事柄と一致している。自分から逃走してしまえば何も残らない。

 

 死というものを饒舌で紛らわす。「かわいそう」「残念」という言葉で死を「他人のもの」として、自分の死については考えない。誰かが死について話せば「暗い奴」という事になる。死をテクノロジーによって解決しようとしたり、死者を病院に送り込んでみたり、生の困難を社会システムの問題にしてみる。こうしていつの間にか個人の人生は分解・解体され、生における不可能性は取り外され、綺麗事の可能性のみが問題となった。この空間内では死んだ造花しか生きられないだろう。

 

 花は散るから美しい、と言う。では散らない花は美しいのだろうか? もし人類が念願であった不老不死になったら、今よりも遥かに堕落した存在となって、生きていようが死んでいようがどうでもいい存在になってしまうだろう。生の無限の延長は死そのものと同じ水準に到達してしまうだろう。

 

 バッハは、自らの困難を感じ、自分の道を邁進したから天才になった、という事を我々はどんな観点から眺めるのだろう? エミリー・ブロンテを「もっと長生きすればよかったのに」と言う人はブロンテが何歳まで生きればよかったというのか? 


 本屋に行けば死後も意識は続くというスピリチュアル本が置いてある。結構売れているようだ。これまでにないくらい我々の寿命は伸びたが、人生は七十年、八十年では短いと言う。だから意識は永続して欲しいと言う。そこに運命はあるのか。生の限界はあるのか。彼らは祈るという事をしない。…いや、「祈り」という言葉は生の内部を押し広げる運動としてしか想起されず、神はそれに手を貸す事のみを期待されている。僕の家に来た新興宗教の勧誘者は「信仰を持つようになったら途端に会社で昇進した」と嬉しそうに言った。それがどうかしたというのか? 信仰とはそういうものか? それが「願い」か?

 

 神を失い、生の悲惨さを克服し、自然を制服したと思っている人間。どこに出歩いてもこの人間達に我々は取り囲まれている(我々自身がそれなのだ)。文学を絞め殺している最中の男、彼が文学者だとか文学志望だとか名乗る。それは普通の光景だ。

 

 近代に現れた人間の自由を無際限に享受した時、我々は抵抗そのものを失ったために空白の存在になった。空白の中では、修辞をひねるしかなく、こうして現代のアーティスト達が発生した。これは資本主義の波に飲まれて何者でもないものになった。過去ーー中世において絵画を描いたり、仏像を作ったりした人々は、生の向こう側に彼岸を見ており、彼らの刻印した神へのはしご…その精神性は我々に作品として残された。これをただ博物館で、日曜日の時間を潰す為に見る我々は惨めではないのか。「自らを惨めだと感じない人間は惨めだ」というパスカルの言葉は古いとともに新しい命題ではないのか。

 

 ドストエフスキーは書簡で「仮に美と肉が共に入るのであればそれは不幸だ」というような話をしていた。ドストエフスキーが何を言いたかったと言えば、肉を犠牲にするという事が霊性の現れであるという事で、彼の頭にあったのはキリストだった。


 我々は肉の飽満を手に入れ、地中から牛肉を引き出すのに成功して、そうして霊性も同時に失ったのだった。我々は運命が消失している場所に出会っているのだが、現在、もう一度、文学というものを真剣に考えるのであれば、運命が消失しているのが現在の運命なのだと認識しなければならないだろう。生の限界を自然が画定していた時代が終わったが為に、我々は自分達の内に生の限界を発見しなければならないだろう。


 僕が唯一の手がかりとして感じるのは「寂しさ」だ。人間世界から放逐された寂しさ、即ち、人間であろうとするが為に人間から疎外された寂しさ、そこに「運命」があるように感じている。フェルナンド・ペソアやシオランといった人は我々に先行してその寂しさを感じていた。悲劇は、悲劇が存在しないという我々の人生そのものにある。悲劇がないというのが唯一の悲劇なのだ。


 生そのものに限界はなく、この限界のない無限性は資本主義と結託し、大海のように流れ、世界を荒れ狂っている。アーティストが望むのはこれとの一体化であるが、それによって彼は偽りの個性を与えられ個性を失くす。そんな人達をたくさん見てきた。現実には制約が必要であり、その最大の制約は死であり病であろうが、これを克服した世界は何なのか。ディストピア小説をそれを裏側から描く事によって、芸術性をなんとか保っていたが、本当にディストピアがやってきてしまえば、その危機を描く事すらままならない。


 おそらく我々は過去に帰らなければならないだろう。人間がまだ、様々な現実的な限界の下であえいでいた時期、その時期に、埋もれていた精神の欠片が見つかるだろう。そうしてそれが現在において何になったのか、その行く末を見なければならない。それは人間が破滅していく劇かもしれないが、それを見る必要があると思う。


 歴史はこのようなフラットな世界に到達したのかもしれない。しかし、そこに至る道は単調ではない。我々は過去を失っているから現在を素晴らしいと思っているのだ。もう一度、我々は自らの内に限界を発見しなければならないだろう。そうしてその為には、学ぶべき過去をまず何よりも自分達の未来に置かなくてはならないだろう。


 僕がバッハの評伝を読んで得た唯一の知識は、彼が晩年に目を潰すまで過去の楽譜を学ぶ勉強家だったという事だ。彼の目にあるのは過去の楽譜だったが、それだけで彼にとっては途方もない作品を作るのに十分だった。彼にとっての未来は過去だったのであり、芸術においてはしばしばそういう事はある。


 過去と縁を切った人間には時間はない。彼らは断片化された時間の中を漂う。そうして断片化された彼らは、自分が時間から疎外されているのを無意識的に感じて恐怖するが為に、互いに身を寄せ合って互いに慰め合う。それが現在見えている光景だ。彼は存在しないが故に、存在しない同士で身を寄せ合って、存在を確認しないと気が済まないのだ。ところで彼らは早晩消え去るだろう。そうしてその後には、誰ともしれぬ無名の人間が新しい時代を告知するだろう。ところがその人間は恐ろしく古風な人間かもしれない。


 思えば、哲学に新しい地平を導いたカントは生粋の保守派だった。彼は過去を守る為に、新しい場所を切り開かなくてはならなかったのだ。時間というのはたいてい、このような人間から生まれる。未来を鼓吹する人間から未来が生まれる事はない。そもそも、現在から理解されている未来というのは未来ではないのだ。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] うーん。 神と人間の関係・・・生みの親と育ての親が違うような人がいて、そういうギクシャクした関係とか人生を書いてみたいんですけど・・・なかなか。難しいんですよね。 おそらく、渇望が無ければそ…
2019/05/27 00:41 退会済み
管理
[一言] 悲劇好きですねぇ じゃあ自分の身に起こった悲劇でも書いてよ。 観念だけじゃ同じことばかり書いてるよ
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