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メカニカル・マキナと電脳探偵  作者: 雛御野火花
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ヒューマノイド・ハンティング

 少女は、逃げて逃げて逃げ続けて、ようやく暗い下水道の中で腰を落ち着けた時には、疲労の余り自分が何故逃げているのかさえ思い出せなくなっていた。少女は、自分が知性や理性の全て吹っ飛んだ、ただの生存本能の塊になってしまったような気がした。

 下水道の中は明かりなど全く存在せず、底知れぬ闇が少女のすぐそばで大きく口を開けている。その闇の中から今にも敵が飛び出してきそうで、間断なく続く恐怖に少女の体の震えは収まることがなかった。

 道中に盗んだ拳銃を持つ手が強張り、汗で滑り始める。その引き金に添えられた人差し指は、人を撃ち抜く覚悟など持たない主人に代わり、勝手にその務めを果たそうとしている。

 パタ、という小さな音とともに、闇の中に、二つの輝点が現れた。

「あっ!」

 喉の奥に詰まるような呻き声をあげて、少女は、訳も分からずにその輝点に銃を向けて引き金を引いた。いや、引こうとした。しかし、それはほんの少し引き込まれただけで、それ以上は何かにつっかえて動かなかった。当然、銃弾も発射されなかった。

「何でよっ!」

 声帯が張り裂けるほどに叫ぶ。けれど、そんなことはお構いなしに輝点は素早い動きで少女に迫ってきた。少女の意識は途端に沸騰した。

(殺される!殺される!殺される!)

 ヒステリックに喚きたてる自我と格闘しながら、少女は何とか、拳銃に備えられた安全装置の存在を思い出した。

(殺されるくらいなら……)

 少女はセイフティレバーを乱暴に下ろして、足元にまで迫っていた輝点に向けて、再び銃口を向けた。

(殺してやる!)

 少女はありったけの憎しみと怒りを込めて引き金を引いた。幸か不幸か、店先で売られていたその拳銃には、既に実弾が装填されていた。

 ピギュ、というゴム靴に丸太を無理やり突っ込んだような音とともに、足の脛辺りに何か暖かい液体がかかった感触がした。少女は、荒く呼吸しながら、自分の撃ったものを見た。

 ネズミだった。ただの、一匹のドブネズミだった。

 夜目の利き始めた視界に、背中に大きな穴の開いたネズミが腹ばいに倒れているのがうっすらと見えた。

 気づけば、涙が頬を伝っていた。

 生き物を殺したのは初めてだった。

 ドブネズミが今わの際に漏らした悲鳴が、耳にこびりついて離れなかった。

 本当は、殺したくなんてなかったのだ。そんなことに、今更気が付いた自分がいた。

 少女は、その場に力なくへたり込み、言い知れぬ激しい悲しみに啜り泣いた。

 それからどれほどの時が経っただろうか。側溝にはめ込まれたグレーチング(金属製の網目状の蓋)から漏れてくる光は、いつの間にか、薄青い月光から眩い太陽光へと移り変わっていた。どうやら、あのまま眠ってしまったようだった。久々にとった睡眠は、これ以上ないほどに陰鬱だった気分をほんの少しだけ楽にしてくれた。

 少女は体を起こした。昨日殺してしまったドブネズミが倒れていた場所には、コンクリートを穿つ弾痕と微かな血が残っていただけだった。きっと、野良猫か何かが持ち帰って食べてしまったのだろう。少女は、あのネズミを埋葬してやらなかったことを後悔し、また少し泣いた。

 ふと、少女の腕の上でモゾリと何かが蠢いた。

「……?」

 見れば、それは小さなヤモリだった。少女は、ぼやけた意識のままヤモリをじっと見つめた。何故かは分からないが、そのヤモリも逃げることはせず、少女の眼を覗き込んでいた。まるで、眼を通して少女の心を覗こうとするかのように。暫く、少女とヤモリが互いに見つめあう、不思議な時間が続いた。

「手ぇ上げろ」

 そんな時間を破ったのは、唐突に響いた男の声だった。男は言った。

「脳幹ぶち抜かれるか、記憶装置全消去されて楽に死ぬか、選べ」

 昨日今日で聞き慣れてしまったそんな台詞とともに、後頭部に冷たい金属の押し当てられる感触があった。

 少女の反応は素早かった。寝起きでも、生存本能の塊となった少女の体は生命の危機に対して鋭敏に反応した。

 少女は素早く頭を横に倒し、振り向きざまに右手を背後に突き上げた。少女の掌底は正確に相手の顎を突き上げ、男は「うげっ」と呻いて派手にひっくり返った。苦し紛れに発砲された弾丸は大きく狙いを外れ、闇に吸い込まれていった。その隙に、少女は天井にはめ込まれたグレーチングを吹き飛ばし、下水道の外へ飛び出した。文字通り、人間離れした動きだった。

 少女は、再び逃げ出した。背後でもう一発、銃声が響いたが、少女は振り返らなかった。


「いててて……」

 側溝から頭を出した木地屋都留萌は、顔を顰めて顎とうなじをさすった。手入れされていないぼさぼさのくせ毛に無精ひげ。骨ばった顔立ちに細く頼りない体つき。人生に疲れた中年サラリーマンのような風貌の男だ。しかし、その額には、俗っぽい顔立ちに一滴の締まりを添える、生々しい弾痕がある。

 木地屋は、爺臭く呻いてのろのろと側溝から這い出た。

 右手には一発目を撃った自動式の拳銃、左手には二発目を撃った自作のリボルバー。銃口から吹き出した硝煙がゆらゆらと眼前を漂っていた。

「すぐ撃っちまえばよかったのにサ」

「そうそう。ああいう安っぽい台詞を吐いた奴は、大抵獲物を逃がすんだヨ」

 木地屋の肩に乗り、耳元で不満げにキーキーと騒いでいるのは二匹のヤモリだ。木地屋愛用のミニボットである。

「荒事は苦手なんだ」

 木地屋はぼやくが、ヤモリは激しく彼を責め立てた。

「言ってる場合かヨ!」

「今日までに家賃払えなかったらホームレスなんだゾ! ケツの穴閉めロ!」

 木地屋は煩そうに指で耳に栓をしながら「わーってるよ」と応えた。

「……それにあいつ、多分だが、想像以上の上物だぜ」

 木地屋の言葉に、ヤモリたちは首を傾げた。木地屋は、それ以上何も言わずに、ポケットから二十センチ程度の長さの基棒(スタンド)を取り出しスイッチを入れた。金属棒の側面からレーザーが射出され、立体ホロのスクリーンが浮かび上がる。エアディスプレイタブレットだ。スクリーンには、地下東京のマップと、彼女の位置を表す光点が表示されていた。

 それにしても、と木地屋は思った。

「嫌だねぇ、銃は」

 木地屋はそう呟き、額に残る弾痕をさっと撫でた。そして、リボルバーのハンマーを起こし、獲物の追跡を再開した。


 地下東京は、五年前に壊滅した東京を模した地下都市である。

 二〇四五年八月六日の午前八時過ぎ、東京に核の雨が降り注いだ。それは、『七日間戦争』と呼ばれる、高汎用人工知能を搭載したたった一機のアンドロイドと全世界の間で起きた戦争の結末だった。ただ、この『戦争』という表現はあまりにも人間側に視点が偏りすぎているように思える。相手のアンドロイドからすれば、あの戦いはただの()()以上の意味を持たなないのだろう。

 東京二十三区を丸ごと収めるほどの巨大なクレーターを覆うように作られたのは、ロボットによる計画都市『オルビス』。ロボットたちが、人間にとっての理想郷をこの世に作り出すべく設計したその都市は、まさしくその通りになった。快適な居住環境に保証された豊かな暮らし。ロボットによる手厚いサポートのもとに人々は人間がロボットに勝る唯一の能力である未知への探求心、即ち創造性を十分に発揮し、新たな知や文化を次々と生み出していった。

 初めのうちは、七日間戦争で大勢の人間を殺したロボットとそのロボットの設計した都市であるオルビスに複雑な感情を抱く者も多く存在したが、今では、オルビスは『科学爆発』の爆心地にして、世界中の研究者やアーティストたちの目指すべき東方の楽園(エデン)となった。

 そして、核の雨から逃げ延びた都民の中で、かつての東京に儚い望郷の念を抱く者たちが次第に寄り集まり、伽藍洞となっているオルビスの地下クレーター部分に再建を始めたのが、地下東京だ。手始めに放射性物質の除染を行い、それが終わった四年前の夏、七日間戦争以前の東京の街並みをできる限り再現するべく、地下東京の建設が始まった。地上(オルビス)の手伝いもあり、復興は予想以上に早く進んでいったが、しかし、彼らの目の前で出来上がってゆくものは、昔の東京と似ているけれどどこかが決定的に違う、見ていると懐かしさと違和感がごちゃ混ぜになったような感情を覚える、そんな代物だった。彼らの記憶の中にある東京と今の東京を比べるのは、本物のリンゴと写真に撮ったリンゴを比べるようなものだった。それでも彼らは、一片の切なさを感じながらもこの街に残った。

 かつての東京を愛した者達は、夢を見ることを諦めきれなかったのだ。

 木地屋都留萌という中年の男もその一人だ。木地屋は、とある目的のため、地下東京の目黒区大岡山に店を構え、日々精力的に仕事をしていた。ここ大岡山は、五年前の事件以前には、彼の元の仕事場であった某理系大学が居を構えていたのだが、今では、桜並木の美しい、広い空地となっている。

 木地屋の店に知らせが舞い込んできたのは、昨晩の十一時ごろのことだった。

 彼は、明かりの消えた店で一人、眠れぬ夜を過ごしていた。

 ソファの皮が堅くなっていたからでも、上の階から情熱的な男女の営みの音が聞こえてくるからでもない。

 とある重要事項について延々と悩み続けていたら、どうにも目が覚めてしまったのだ。

 その重要事項とは、ずばり金だ。

 疲れたサラリーマン風の男らしく、木地屋は、これからの店の資金繰りについて頭を悩ませていた。喫緊の課題は、来月の貸しテナントの賃料だ。もうかれこれ三か月分も滞納してしまっているため、流石にこれ以上は見逃してもらえそうにもないのである。

 警備のため店の中を回らせている屋守(ヤモリ)たちの一匹を捕まえ、木地屋は訊いた。

「なあ、お前ら売っぱらっていいか?」

 ヤモリは「ふざけんじゃネェ!」と言って、指先にカプリと噛みついた。部屋中からわさわさと何かがこちらに忍び寄ってくる音が聞こえて、木地屋は早々に両手を上げて降参した。

 法律やら規則やらがほとんど崩壊しているこの地下東京では、直ぐにまとまった金を用意する方法はあるにはある。

 勿論、命の安全が保障されない類のものだ。

 しかし木地屋は、性格的にも肉体的にも自分がその手の仕事に向いていないことを十分に理解していたため、今まで真っ当に稼いできたのだ。とはいっても、それもここにきてとうとう袋小路に入り込んでしまったようだった。

 はてさてどうしたものか、と頭を捻り数時間、ようやく『放置』という結論に達して気持ちよく眠ろうとした矢先に、オフィスの電話が鳴り響いた。木地屋は飛び起きて、電話を取った。

 渡りに船とはこのことだ。仕事の電話ならば、何としてでも客を取り込まなければならない。

 木地屋はほぼ直角に腰を曲げ、深々とお辞儀をしながら言った。

「もしもし。笑顔でスマイルがモットーの探偵事務所『鶴屋』でございます」

「私よ」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた年若い女性の声だ。近所にある行きつけの煙草屋の娘で、木地屋の顔見知りであり、普段から度々愚痴や様々な恨みつらみを聞いてもらっている仲である。時々嫌な顔をされるが、あれは恐らく一種のコミュニケーション上のスパイスというものだろう。

 しかし木地屋は、何故彼女がこのような時間に電話を寄越したのか理解できなかった。

「あー……元気?」

「あんた、お金に困ってるって言ってたわね?」

 彼女は、無視したのか、それとも早く本題に入りたかったのか分からない微妙なタイミングで話し始めた。

「稼げるかもしれない話があるんだけど、聞く?」

 木地屋は即座にそれに飛びついた。余りの勢いに、彼女は概要をさっと話した後、無駄話の一つもなしに電話を切ってしまった。これもまた一種のスパイスだろう。

 内容は、端的に言えば『ヒューマノイド狩り』だった。

 ここ地下東京では、ごくたまに地上(うえ)からヒューマノイド、つまり人型ロボットが迷い込んでくることがあるのだが、その際行われるのが『ヒューマノイド狩り』である。祭りか何かのように申し合わせて行われるわけではないが、ヒューマノイドの出た地域の住民は、大抵、こぞって自衛用の武器を持ち出し参加する。

 皆が何を求めているかと言えば、それは、ヒューマノイドの体に使われている種々の部品だ。地上で作られたロボットに使用されている部品は、どれもここ地下東京においてかなりの高値で売れるのである。電脳から各部の臓器、人工筋肉や人工皮膚、神経系に使用されているナノファイバーに至るまで、どのパーツをとっても数万から数十万、運が良ければ数百万程度の金になる。一体捕まえれば、豪遊しない限りは数か月程度暮らしていける金が手に入るのだ。

 軍用のコンバットロボット(コンロボ)や医療系の現場に従事する特殊仕様のヒューマノイドであれば、更に高額で売れる。

 そして、木地屋宅の近所に出現したヒューマノイドは、どうやらかなりレアなタイプのヒューマノイドらしい、という情報を彼女から得た。

「写真、送るわね」

 彼女は言ったが、直後、木地屋のメールアドレスを持っていないことに気が付いた。木地屋は交換しようと提案したが、悪意があるのか、天然なのか分からない話の持っていき方で、無理やり一方的にアドレスを聞き出された。

 送られてきた画像に映っていたのは、十代半ばくらいの少女だった。多少ぶれてはいるが、凛とした顔つきの黒髪の短髪で、病院で着る病衣を纏っていた。

 彼女が言うには、このヒューマノイドは、目にもとまらぬ速さで動くらしい、ということだった。それと、物凄い腕力と脚力を持っているらしい、ということも言っていた。

 かなり素早い、ということから考えられるのは、競技用、軍用、若しくは荷物運搬用等だが、どれもヒューマノイドが病衣を着ていることに繋がらない。地上には、ロボット用の病院はあるにはあるが、病院とは名ばかりで実際にはただの修理工場だし、間違ってもロボットに病衣を着せたりなどしない。

 実は愛玩用で、コスプレをさせられているのか、とも考えてみるが、それだと人間離れした運動能力に説明がつかない。たとえロボットだとしても、そのような高機能をつけるにはそれなりのコストがかかるのである。

 何でもいいか、と独り言ちて、木地屋は早速準備を始めた。

 『狩り』は早い者勝ちだ。既に動き出している者も相当数いるだろう。

 全ては家賃のため、生活のため。

 木地屋は、自作のリボルバーと自動式拳銃を一丁ずつ持って、似非東京の夜の街に繰り出したのだった。


 当然ながら、ここ地下東京では、電車やバス等の交通インフラは復旧されていない。運用できるだけの人員が存在しないからだ。けれど、見た目だけは当時の東京にかなり寄せられているため、駅やバス停などは建造されている。

 木地屋は、人の全くいない駅前の交差点を横切り、大岡山駅のホームを降りて、線路上に設置されている自走式のトロッコに飛び乗った。これが、現在電車の代わりに運用されている移動手段である。人はいないが、科学技術だけはオルビスからどんどん流れ込んでくるため、街中には無駄にハイテクな機器が備えられていたりする。

 電動かつ自動運転の至れり尽くせりなトロッコに乗り、自由が丘方面を目指す。あの少女も、そちらに向かったからだ。

 地下道を出ると、人工太陽の作り出す眩しい朝日が木地屋の眼を刺した。気温と湿度の設定は外界と同じになっているため、夏真っ盛りの現在はかなり暑い。

 木地屋は、Tシャツを脱いで白のタンクトップ一枚になった。

 腕時計で時刻を確認すると、朝の八時だった。線路沿いには人一人おらず、周囲は閑散としている。地下東京の人口は以前の東京の百分の一にも満たないが、これほど静まり返っていると、まるでここら一帯が全て自分の領土となったような感覚を覚え、気分が高揚する。

 そしてそれと同時に、どこか虚しさを感じるのだ。これは、某テーマパーク正面にある建造物の、住民のいない張りぼての二階を見た時の感覚と似ている。あのパークも先の戦争で崩壊してしまった。残念なことである。

「ツルモさんヨ」

 一匹だけ連れてきたヤモリが、肩の上に立ちあがり、耳たぶを引っ張りながら言った。

「何だ?」

「さっき言ってた、上物ってのはどういうことダ?」

 ヤモリは訊いた。木地屋は「ああ」と言って説明した。

「あれは、ヒューマノイドじゃない。サイボーグだ」

「サイボーグだっテ!?」

 ヤモリは、五本の指に趾下薄板のついた両手をパッと開いて、驚きの声を上げた。

「でも、禁止されてるんじゃなかったカ?」

()()()()()

 つまり、オルビスでは禁止されていない。

 サイボーグとは即ち体の各器官を機械に置き換えた人間のことを言うが、人間の体を機械に置換するというのは、ロボットのように、ただ目的の部品を作って交換する、というだけの話ではない。人間に備わっている免疫システムが、機械という異物を拒むのである。

 例えば、血栓の問題がある。人の血液というものは、体細胞、より正確に言えば血管の内面にある内皮細胞などの生体細胞以外に接触すると簡単に凝固してしまう。故に、安易に体内に生体物質以外の『異物』を組み込んだ場合、すぐに血液が凝固して血栓が形成され、血管が詰まってしまう結果になる。

 他にも、体内に埋め込んだ人工臓器の耐久性の問題や、複雑な器官の機能を人工的に再現することの難しさなど、課題は山積みで、そのどれもがとても難しい問題なのだ。

 それ故、サイボーグに使用される素材というのは、抗血栓性や生体適合性、高耐久性等々、様々な機能を備えていなければならないため、基本的にはかなり高価となる。これが『上物』であることの理由だ。

 近年、着々と研究が進み、人間をサイボーグ化する技術についての研究も次第に熟成され始めていたが、木地屋の知る五年前までは、どれもまだ研究室の中における技術で、とても実用化の段階には至っていないのが実情だった。

 しかし科学爆発が起き、科学技術が急速に発展しているオルビスでは、どうやらサイボーグ化技術の実用化に向けて動き出したようだ。あのヒューマノイドに使用されている技術も、先程の接触で多少の目途はついた。

 それに、彼女には()()()()()()()()も施してある。それによって、彼女の位置を割り出し、木地屋が到着する前に誰かに捕らえられてしまうことを阻止し、更には彼女の捕獲を容易にすることもできる。

「まあ、お前が言うんなら間違いないけどサ……。なんでサイボーグだってわかったのか、なんで病衣なのか、なんで地下に来たのか、とか、色々気になることはあるけド……」

 ヤモリは、何やら口をパクパクさせて腕組みをした。そして、少し気まずげに言葉を零した。

()()()()?」

 木地屋は、ヤモリの言わんとすることを理解できたが、特段考えは変わらなかった。

 木地屋は、軽い口調で言った。

「何であろうと、殺すさ。それが許されていて、必要なんだからな」

「そうかヨ」

 ヤモリはそれ以上何も言わず、冗談めかした調子で話題をずらした。

「人殺しはとってもいけないことだネ」

「そうだな。家畜を殺して食べるのと同じくらい、いけないことだ」

 木地屋とヤモリは、顔を見合わせてクツクツと笑った。

 そうこうしているうちに、トロッコは緑が丘駅を過ぎて自由が丘駅に到着した。ここにあの少女がいることを嗅ぎつけた者が木地屋以外にもいるのか、駅前にはちらほらと人影が見え、どこからか怒号や銃声が聞こえてくる。南口の、生鮮食品店やお洒落なカフェの立ち並ぶ少し雑多な通りは、コンクリートの地面や店の壁などに破壊の跡が残っていた。彼女とそれを付け狙う者たちがここで交戦したことの証だ。

「急ごうゼ」

 ヤモリの耳打ちに木地屋は頷き、基棒を取り出してスイッチを入れた。宙に像を結び浮かび上がったディスプレイ上のマップに表示される彼女の位置情報は、自由が丘駅前からほんの数百メートル程度しか離れていなかった。しかし――

「……まずいな」

 木地屋は、思わず舌打ちをした。

 あのサイボーグの現在位置は、自由が丘駅のほぼ真南を通る九品仏川緑道を東に向かって三百メートルほど進んだ場所の近くだった。

「どうしタ?」

 マップを覗き込んだヤモリは、得心したように頷き、溜息を洩らした。

「『ワスプズ』のシマじゃねえカ……」

 この法も秩序もない地下東京において犯罪組織という言葉がどれほどの有効性を持つのかは知らないが、彼ら『ワスプズ』を表現するにはその言葉が最適なのだろう。違法ドラッグの売買、窃盗、恐喝、詐欺、管理売春等々、この地域の裏社会の稼業を取り仕切る元締めの団体である。木地屋も仕事柄彼らと関わることが多いが、胸糞悪いとしか形容できないような悪行を行っている現場を今まで多く見てきた。

 そして、彼らはヒューマノイド狩りのプロでもある。

 ワスプズの構成員には、どうやら軍人や傭兵上がりの人間がいるらしく、彼らは、人殺しに特化した軍事用のコンバットロボットでさえも恐れずに狩るのだ。そして、ロボットの部品を売り払って得た金をグループの資金として、再び()()()()に戻るのである。

 彼らに見つかってしまえば、流石に()()彼女でも分が悪い。

 いや、楽観は捨てよう。

 彼らは既に彼女を見つけているだろう。木地屋が下水道に身を潜めていたあのサイボーグを見つけられたように、ワスプズも彼女を発見しているだろうし、既に追跡しているか、若しくは交戦している可能性が非常に高い。

「どうすル?茶菓子でも持ってくカ?」

「名案だ」

 木地屋は、リボルバーと自動式拳銃の銃弾を確認し、思考を回転させた。()()()()()()()()()()

 結論はすぐに出た。

「おいおい、死ぬゼ?」

 ヤモリが言った。しかし、言葉とは裏腹に、彼はどこか楽しそうだった。

「その時はその時だ。人間、いつか死ぬもんだしな」

()()、ねェ」

 ヤモリが言葉尻を捕らえて皮肉るが、木地屋は無視した。

 木地屋は、彼女のいる九品仏川緑道に向けて走り出した。だんだんとその位置を上げ始めた太陽が地下東京に夏の光をもたらす。そして、その光が諸所に生み出した色濃い影に潜んで、小柄な爬虫類たちは、密かに進軍を開始した。


 少女は、疲労し切った体をどうにか引き摺って、九品仏川緑道を東に進んでいた。

 青々とした葉を茂らせた桜の木が道路中央に並木を作り、涼やかな木陰道を生み出している。休日にゆっくり散策するには最高のスポットだが、しかし、今の彼女では楽しむべくもない。

 少女は、がっくりと首を垂れたまま這うような速度で歩いていた。昨晩にネズミを撃ち抜いた自動式拳銃は、セイフティの外された状態で右の人差し指にぶら下がっている。既にその拳銃は、ネズミだけでなく、数人の人間の命を奪っていた。

 ここに来るまでの間に、何人もの敵が襲ってきた。大抵は少女のスピードで振り切ることができたのだが、バイクや自動車に乗った者や、ドローンを利用する者等、単純に走りだけでは()けない敵には、仕方なく応戦した。

 少女の感覚は、自分でも驚く程に過敏になっていた。目、耳、鼻、肌、そして味覚まで、五感の悉くが極限まで研ぎ澄まされているように感じられた。

 銃弾も、発射されてからでも避けられる。

 数十メートル離れた場所にいる敵の歩行音も聴こえる。

 空気の匂いを嗅げば、その匂いを醸成している各成分を嗅ぎ分けることができる。

 肌の感覚で気温や湿度の微細な変化が感じ取れる。

 世界の何もかもがクリアに感じられる。

 それ故、敵の攻撃は少女にとって脅威でもなんでもなかった。少女は、朝に起きて、夜に寝るのと同じくらい自然に彼らを圧倒し、殺戮した。

 けれど、つい昨晩まで殺しを知らなかった少女の心は、銃弾を一発放つたびに、体と分離していった。最後には、己の冴えた五感と条件反射のみを頼りにして、これから殺す敵を全く見ずに、心の目と耳をふさいだまま、殺した。

 少女は、自分の手に入れた力に、喜びなどではなく、むしろ底知れない恐怖を感じていた。

 さっき、あの男と会ってからだ――少女は、掌底を喰らってひっくり返った時に一瞬だけ見えた男の顔を思い出そうとした。何だか、冴えない顔の男だったと思う。集中して見なければ、顔を覚えることもままならない、兎に角、普通の男。

 しかし、あの男の獲物を狩る鷹のような眼だけは、少女の脳裏に鮮烈に焼き付いていた。

 少女は、一昨日に研究所を逃げ出してから何度目になるか分からない涙を流した。

 そもそも、自分が何故こんな風に命を狙われているのか、少女にはそれが分からないのだ。ここが地下東京であることは分かるし、この場所についての基本的な知識も研究所で学んだので知ってはいるが、しかし、何故出会った人が皆次々に自分を殺そうとしてくるのか、どうしてもわからなかった。

 命惜しさに研究所を抜け出してきたけれど、今こうして、自分はよく分からない理由で命を狙われている。少女はそれを、仕方ないことだと思っていた。

 生物には確固たるヒエラルキーが存在する。そして、生物はそのヒエラルキーの頂点に立たない限り、他の生物に命を狙われる運命にあるのだ。そして自分の命を狙う生物は、自分の所属する階層が下であればあるほど、その個体数を増す。生物ピラミッド、というやつだ。

 少女のヒエラルキーは、明らかに一般的な人間よりも下だ。だから自分はこうして狩られる側に回っているんだろうと、そう思った。

 けれど、狩られるのを容認することと、自分の命を諦めることは全く違う。今や少女の体を突き動かすものは、自分でも制御することのできない生存本能のみだった。

 少女は、どうせ自分がすぐに殺されることを理解していた。とてもこの身体では逃げ切れない。自分は多分、今日にでも殺される。それを理解したうえで、誰かに殺されるくらいならば、自分で死んでしまおうとも考えるのだが、それがどうしてもできないのである。生存本能が自殺を許さないのだ。

 誰かに殺されるか、自分で命を絶つか、この二つの選択肢しか残されておらず、そして自分の取りたい行動をはっきりと自覚しているのにもかかわらず、それを実行に移すことのできない自分が意気地なしに思えて、少女は本当に嫌になった。

 右手に小さな公園が現れた。砂場と滑り台、ブランコ、草木の屋根がある休憩所と、ごく普通の公園だ。敷地は道路よりも五十センチほど高くなっていて、入り口にはほんの数段の階段とスロープが備え付けられていた。

 少女は故郷の実験場にも、同じような公園があったことを思い出した。少女は、よくそこで一人で遊んでいた。

 子供用の小さい砂場を、ジャンプで飛び越えるのだ。

 研究者たちによくやらされていたので自然とその遊びが身に沁みついてしまい、実験場内にある公園を一つ残らず周って砂場を飛び越えたものだ。時には飛び越えられないほど広い砂場もあったけれど、そんなときは、どれだけ遠くに飛べるか、その限界に挑戦して遊んだ。

 少女は、公園に行っても砂場ばかり見ていたけれど、時々、公園を訪れた時に、そこに一度来たことがあるかどうか分からなくなることがあった。どの公園も、細部に微妙な違いこそあれ、ほぼ位相同型なのである。

 まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()ように感じられた。

 そして実際、それは事実だったのだろう。

 公園の砂場から見た実験場の景色が少女の脳内にフラッシュバックした。

 四方を順繰りに見ても、どこも同じ景色。純白の道路に純白の建物。申し訳程度に植えられている木々は、全て一ミリの狂いもなく等間隔で並木を作っている。全ての物体は計画的に配置され、乱雑さの入る余地はどこにもない。

 規則的で対照的な純白の箱庭。

 そしてそれは即ち、モルモットの飼育場だった。

 少女は、不意に激しい吐き気を催し、地面に膝をついて吐いた。しかし、出てきたのは僅かな量の胃液だけだった。自分の体内に残る数少ない生身の臓器である胃は、この状況下でもきちんと仕事をしているらしい。日差しに熱されたコンクリートが少女の膝をじゅうじゅうと焼いたが、少女は蹲ったまま、最後の一滴まで胃液を吐き出した。

 そして少女は気が付いた。公園の敷地内、階段の上に立ち、こちらを見下ろしている男の姿があることを。

 何故これほど接近されるまで気が付けなかったのか。その疑問が稲妻の如く脳内を駆けたが、脊髄反射は疑問と動揺による身体の硬直より一瞬早く少女を突き動かした。

 少女は後ろに跳ねた。とうに獣と化した己の体を受け入れ、本能のままに逃走しようとした。

 しかし、少女が獣ならば、男も獣だった。

 首に、五本のボルトがねじ込まれた感触があった。それが相手の指であることを知ったのは、自らの頸椎があっけなく砕かれたその後だった。

 ブラックアウトした意識の中、少女は、背中に穴の開いたネズミのことを思いだしながら、消えてゆく自らの命の灯を虚ろな目で眺め続けた。

 鼓膜をくすぐる柔らかな金属音が、どこからか聞こえてくるような気がした。


『ターゲットに接触者あり。……おい、マズいぜツルモ』

「どうした」

『殺られちまっタ。コンロボだヨ。奴らコンバットロボットを使ってやがル。場所は奥沢第二公園。狙ってた周りの奴らも、諦めて帰り始めちまっタ』

「分かった。引き続き尾行を続けろ」

『諦めねぇカ?』

「飢え死にしたけりゃ別にいいぞ? 今時、野良ロボットの充電場所なんてありゃないだろうがな」

『クソッ、コノヤロコノヤロ。弱みに付け込みやがっテ』

「それに、この事態も想定済みだ。その上で、勝ちを取りに行くんだよ」

『……どういうことだヨ?』

「延長戦ってこった」

 木地屋は、先行していたヤモリからの無線を切った。

「どうすんダ?」

 肩に乗ったヤモリが訊いた。木地屋は黙り込んで、緑道を走り続けた。

 きっとワスプズは、過去に狩ったコンロボを売り捌かずに保存していたのだろう。金塊や株と同じで、ロボットも、部品の市場価格が釣り上がった時に売っぱらったほうが金になるという道理だ。ロボット狩りにロボットを使うとは滑稽だが、あれの手綱をしっかり握ることができる彼らならではの作戦と言える。

 蝉の鳴き声が煩い。

 木地屋は、蝉の鳴き声の音紋を検出し、ウェーブレット変換により解析してほぼ正確に打ち消した。面倒くさい計算に、木地屋は機械工学科に所属していた学生時代を思い出す。この道具を習ったのは、確か二年次のスペクトル解析の講義だったか。

 木地屋の意識から蝉の鳴き声だけが抜き去られ、奇妙な静寂が訪れる。

 サイボーグは、どうやら頸椎を砕かれたようだ。あれだけの高速移動に耐えうる体を作るために、ほとんどの骨は非常に硬い特殊な合金で作った人工骨に換装されているはずだが、首は別だったようである。

 木地屋は慎重に応急処置を施した。彼女が少しでも()()()()()ような動作をしてしまえば、きっとコンバットロボットはそれを見逃さない。コンロボに搭載されている赤外線センサーや画像認識の技術を用いれば、死人と()()()()()を見分けるのはいともたやすいのである。彼女にはもうしばらく『死人』のままでいてもらうしかあるまい。

 今後の方針は一つ。コンバットロボットからサイボーグを奪還することだ。

 ヤモリから送られてきた画像から、ロボットの型番を識別。完了。

 PN-57『ソース』。グロティーク社製。七日間戦争以前の三十年代中盤から中東の内戦に実践投入された、カスタマイズ性の良さが売りのコンロボだ。撫でつけられたショートの金髪に筋肉質な体と、米陸軍で分隊長を務めていそうな風貌なのは、メーカーが米企業だからだろう。

 画像解析とウェブ検索により兵装を確認。完了。

 両手にナックルダスター(俗にメリケンサックと呼ばれる)とアーミーナイフ。前腕部に二十二口径三点バーストのセミオートマシンガン。全身のほとんどは所謂汎用フレームに外部装甲を取り付けただけの最もシンプルな仕様であるが、脚部だけは密林戦仕様のノイズキャンセリング機能付きだった。

 恐らく、作戦後に日本に帰還した機体が何らかの理由でそのまま流れてきたのだろう。五感が鋭敏になっているサイボーグにも近づけたはずである。

 使用されている人工知能(AI)はかなりの旧式だ。今までに発見されている脆弱性を上手くつけば攻略も可能だろう。

 頭の中で、今後の動きをシミュレートする。そしてそれは、やはりコンマ一秒もかからずに完了する。

「ミニボットを割り出せ」

 木地屋は言った。

「おはヨ。いい夢見たカ?」

 無視されていたことに憤慨しているのか、ヤモリが皮肉を言うが木地屋は取り合わない。

「奴らの使ってるミニボットを探すんだ。流石に自分のシマで張ってないってことはないだろ」

 いいな?と念を押すと、脳内に、「了解!」と幾重にも重なったヤモリたちの声が響いた。最後に、不自然に遅れて返事をしたのは、きっと木地屋の肩に乗っているヤモリのものだろう。

 木地屋は、ヤモリたちがせっせと周囲の電波をサーチしている(盗聴器発見器の要領だ)間、尾行中のヤモリが映し出す映像をじっと眺めていた。ソースは、少女の頭をまるで野球ボールでもつかむかのように楽々とその巨大な右手で掴んでいる。少女の顔は前方を向いていたが、身体は明らかに別の方向を向いていて、グロテスクだ。

 兎にも角にも、『最初に殺したもの勝ち』という不文律の存在するヒューマノイド狩りである。少女が、自分が殺しに行くまで死なないことを祈るばかりだ。

 数分後、ワスプズの使用しているミニボットが発見された。何とも安直だが、雀蜂(ワスプ)だった。

「よくやった。帰ったら、一匹ずつ丁寧にメンテしてやる」

 木地屋の言葉に、ヤモリたちは諸手を上げて喜んだ。

 とある夏の一日、都内の一角の車道のど真ん中で、数十匹のヤモリが手をつないで輪を作り、奇々怪々な歓声を上げながら踊る珍映像がバラエティ番組で放映されたのは、それからしばらく経ってのことである。


 思考を、ある入力に対して処理を施し、それを踏まえて何かしらの情報を出力するプロセスだと定義すれば、機械は思考していることになる。

 思考の機構は、主体の思考プロセスを担う器官の生物学的な特性や、主体の属する文化体系、社会に規定されるが、そのツールとなるものは、概して主体の母国語だろう。大雑把に言えば、日本人は日本語圏に属するため日本語で思考するし、アメリカ人は英語圏に属するため英語で思考する、ということだ。

 そして、大雑把というからにはもちろん完全に正確ではない。前述の論では、現在、日本(オルビスも含む)で使用されているAGI(Artificial General Intelligence = 汎用人工知能)を搭載したロボットたちも、日本語で思考していることになる。なぜなら、彼らも日本語圏に属しており、尚且つ日本語を話しているからだ。

 もちろんこれは間違いだ。どこに落とし穴があるかというと、ロボットたちが『日本語を話している』という部分である。

 ロボットの言語出力は、元となる情報を日本語に変化して出力しているのだ。つまり、思考の結果として生じた一次的な出力をわざわざ日本語に変換し、実際に言語として発話しているのである。この場合、日本語を話しているというよりも、別言語を話し、それが翻訳機に通されて日本語になっている、というイメージだ。

 ロボットは、見た目上日本語を聞き、日本語を話すが、日本語で思考するわけではない。思考プロセスは全て、0と1のビット列が支配しているのだ。

 結局、何が言いたかったのかといえば、ロボットは日本語で何かを『思う』ことはない、ということだ。当然といえば当然だが、一応、注意してもらいたい。

 コンバットロボットの『ソース』は、右手に目標の遺体を携えて、ワスプズの本拠地に戻った。道中で数人の人間が否定的感情の検出できる表情をしてソースを見たが、彼は、その悉くを無視した。命令によっては殺すところだが、今回はそのような命令を与えられていない。

 本拠地は、奥沢駅近くの、壁一面に蔦の絡まった廃アパートである。外から見れば、とても人が住んでいるようには思えないが、もちろんただのカモフラージュだ。

 ソースは、ブロック塀に囲まれた敷地に入り、一階の手前から三番目の部屋に入った。六畳一間の一室は崩れ放題の荒れ放題で、畳の隙間からは草木が生え、一歩歩けばイナゴやバッタがぴょんと飛び跳ねる。屍肉の匂いを嗅ぎつけたのか、引き摺った遺体に、小動物や虫がわらわらと集ってきたが、ソースは、少しも気にしなかった。

 本当ならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実に違和感を覚えなければならないのだが、メタ的な命令をこなせない低汎用型人工知能を積んだソースにそのような能力は無いのだった。

 ソースは、ボロボロのカーテンのかかる窓の一番傍にある畳を捲った。そこだけ不自然に草木の侵攻を免れているのは、地下の本部に続く通用口が隠されているからだ。通用口とは言っても、あからさまな入り口はない。ただその部分だけ、地面が鉄板になっているだけだ。

 暫く待つと、草むらから一匹の太った雀蜂がてくてくと歩いてきた。それも、()()()で。

 雀蜂は、そのままソースの腕をよじ登り、うなじにまわった。そこには、ロボットの個体を識別するためのICチップが埋め込まれている。何かの欺瞞のために取り出そうとしても、そのためには電脳と人工神経系を接続する人工脊髄を破壊するしかないため不可能である、という仕組みだ。

 雀蜂は、ICチップを照合し、ソースが元の個体であることを確認した。人間の場合は、本人確認に虹彩(アイリス)のバイオメトリクスを用いる。本当はDNAの方が正確なのだが、正確性とコストや効率性はえてしてトレードオフの関係にあるものだ。

 照合が終わると同時に鉄板の表面が突然に割れ、本部へと続く通用口が現れた。

 雀蜂は再び歩いて草むらの中に戻っていった。ソースも、遺体を抱えたまま通用口に身を滑り込ませた。

 梯子を下りれば、ちょっとした広さのバーに出る。薄暗い店内。照明はランプと常夜灯のみ。奥まで伸びるカウンター席と、その後方にはテーブル席や、ドラムセットやアンプ、マイクの用意されたジャズ演奏用のステージ。カウンターに並べられているのは、酒だ。ウォッカ、ブランデー、焼酎などの蒸留酒、ワイン、日本酒などの醸造酒、その他様々な酒が用意されている。

 ソースを、一匹の奇妙な生き物が出迎えた。猫のようだが、その頭部は明らかに骨格がゆがみ昆虫由来の複眼と触覚が付いている。猫と雀蜂の合成生物(キメラ)だ。ワスプズのペットである。

 店内には五つの巨大な葡萄が立っていた。人間大の葡萄だ。一房の白葡萄である。

「適当に置いとけ」

 カウンターの一番手前に座っている葡萄が言った。店内では最も大きい葡萄だ。

 ソースは、音声を意味解析したのちに、遺体の頭部を離した。ドタン、という音とともに、少女は地面に頽れた。頭と胴体が、完全に逆の方向を向いていた。

「引っ込んでろ」

 ソースは、葡萄の言葉に従い、チャージスポットも兼ねた調整用コンソールの設置されている奥の部屋へと向かった。

 一歩踏み出すたびに、ソースの重さに、ギシギシと床板がきしむ。白葡萄たちは、ソースが傍を通り過ぎるのに合わせて、房を回転させた。まるで、人間が対象を目で追うようなしぐさであった。

 ドアに手をかけたとき、ミニボットから入力があった。

 その入力を日本語に直せば、こうだ。

 ――白葡萄を撃て。

 コンバットロボットの前腕部が上下に開き、ライフルが出現した。

 突然の彼の凶行に、白葡萄たちがどよめいた。

 彼は、バー内にいる白葡萄たちを、順繰りに撃ちぬいた。その人殺しの才能は、既に時代遅れな機体となった今でも健在だった。

 白葡萄は、次々と血飛沫を噴き上げて崩れていった。怒声を上げる者もいたが、ソースは構わず撃った。「撃て」といわれたものを撃つのが、彼の役割だからだ。

 ものの数十秒で()()は済んだ。血と硝煙の臭いが充満する室内で、ソースは任務を終えたことを悟り、無感動に腕を閉じ、コンソールの設置されている奥の部屋へと入っていった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に違和感を覚える能力は、残念ながら、彼にはなかったのである。


「情報科学界隈で有名な言葉に、次のようなものがある」

「何だイ、藪から棒ニ」

 ヤモリは、機械部品をペッと吐き出し、言った。口からは、触覚と関節肢が飛び出している。

「まあ聞けよ」

 木地屋は、廃アパートの一室で、窓際の畳の裏に現れた鉄板を入念に観察しながら言った。

「A chain is no stronger than its weakest link ―― 鎖の強度は最も弱い輪で決まる、ってな」

「ああ、確かにあるみたいだが、それがなんダ?」

 ヤモリは、瞬時に言葉を検索したようだ。木地屋は、ヤモリの先程吐き出した超小型のICカードリーダーをポケットにしまった。金になりそうだからだ。

「セキュリティシステムも同じだよ。一部でどんなに強固なセキュリティを張っても、構築したシステム全体の中で他に弱い部分があれば、結局そこから突破されてしまう。鎖は、最も弱い輪から千切れていくんだ」

「なるほどナ。奴らの最も弱い輪(weakest link)が、これってわけカ」

 ヤモリは、破壊された雀蜂のミニボットを吐き出した。

「雀蜂愛好家かなんだか知らんが、ミニボットに拘らないやつは三流だよ」

 そう言って、木地屋は周りに寄り集まってきたヤモリたちの頭を指の腹で撫でた。ヤモリたちは、「うへっ」「ふへっ」「ほへっ」と口々に歓びの声を上げ、自分たちの狩った雀蜂を次々に吐き出してみせた。

 ミニボットたちとコンバットロボットが、アジトに帰り着いてもまだ接続されているかは賭けだったが、先程、コンロボと一緒にアジトに潜入したヤモリから送信された映像では、上手くいったらしい。視覚情報に特定のパターンを持ったノイズを介入させて、画像認識を欺瞞したのだ。

 これは画像認識の分野で昔からよく話題となっていた弱点であり、ノイズを混ぜる前後の画像は人間の眼には全く同一に見えるけれども、AIは、全く別のものであると判断してしまうのだ。

「さて、大詰めだ」

「だナ」

 木地屋は、脇に置いておいた雀蜂のミニボットに手を伸ばした。コンロボに介入するために使用した機体だ。

 しかし、先程まで確かにそこに在ったそれは、いつの間にか何処かに消えていた。

「?」

 いや、()()()()()ではなかった。ミニボットの消えた場所は、すぐに判明した。

 ミニボットを置いていた場所の傍で、ヤモリの一匹がむしゃむしゃと何かを食べていた。口の端から零れた頭部が、その正体を如実に語っていた。

「……あーー」

 思わず漏れた失望の声に、ポリポリと熱電変換素子を齧っていたヤモリがピクッと体を震わせ、こちらに潤んだ瞳を向けた。木地屋は、すぐさま「いや、いいんだ。ありがとう」とヤモリの頭を撫でた。

 これは、雀蜂を狩ったあとにすぐさま自走(オート)モードを切らなかった自分のミスだ。今回の件では、ヤモリは十分に働いてくれている。責めるのは恩知らずというものだろう。

 乗っ取り済みの敵のミニボットを失ったことでコンロボへの介入手段は消えたわけだが、既に奴はコンソールとつながってスリープモードにあるだろうし、問題はないだろう。あと、やるべきことは、少女を()()()()()()()()外に出し、まだ生きていることを証明したのちに、今度こそ確実に息の根を止めるだけだ。

 木地屋は、彼女の体内に忍ばせた無数のマイクロボットを遠隔操作し、少女の蘇生を開始した。

 首の骨折は下手をすると即死する外傷だが、『死ぬ』という事象に原因がある以上、その原因を断ち切ってしまえば、たとえ頸椎が砕けても生きながらえることができる。

 頸椎骨折により発生する、死に直結する要因は二つ。

 一つは、頸動脈や頸椎動脈の損傷。これにより血流が途絶えて脳に血液が行かなくなり、虚血状態となって失神、細胞の壊死などが引き起こされることで、死に至る。

 もう一つは、頸椎内部を通る脊髄の損傷。損傷度合いや部位によって症状の違いは出てくるが、首以下のほぼ全身が麻痺することになる。最悪の場合、呼吸筋が麻痺して自発呼吸ができなくなり、死に至る。

 少女はもちろん、どちらもアウトだ。故に木地屋は、マイクロボットによりそれらの働きを補助し、損傷個所と失われた機能を補った。首の各種筋肉や甲状腺、その他の細々とした血管に損傷はあるだろうが、生命維持さえしておけば、どうにでもなるというものだ。

 コンロボに気付かれないようギリギリにとどめておいた少女の生命活動を本格的に再開させる。心臓を動かし、内部の損傷部分に応急処置を施し、砕けた頸椎を固定する。

 暫くすると、少女が意識を取り戻したようだった。木地屋は、マイクロボットを介して神経系の電気パルスに介入することで少女の体を操り、潜入中のヤモリから送られてくる映像を基に彼女をアジトの出口へと向かわせた。


 少女は唐突に目を覚まし、同時に、首に激しい痛みを感じた。

まるで、錆びついた鉈を項に繰り返し打ち込まれているような、そんな感覚だった。

 極度の痛みがもたらす圧倒的な現実感に、少女は、自分が今死後の世界にいる、という幻想を抱く暇さえなかった。 暑さや寒さ、痛覚などの不快な感覚は頸部の制御装置によって最低限に抑えられているが、どうやら、何かの拍子で壊れてしまったらしい。

 意識を失う前の最期の記憶は、自分の首に男の指がめり込み、頸椎を砕いた場面だった。きっと、あの瞬間に制御装置も破壊されてしまったのだろう。

 首を襲う痛みにもだんだんと慣れてくると、今度は、酷い寒気が少女を襲った。

 ただ、制御装置が壊れているからというだけではない。

 寝ている間に少女の体は死んだように冷たくなっていたのだ。

 痛い、寒い、痛い、寒い……。

 身体全体が悉く激しい苦痛に苛まれる。生き地獄とはこのことだ、と少女は思った。

 本当に、あの時死んでしまえたら、どれだけ楽だっただろうか。

 少女の意識は死を切望するが、身体は、再び自身の内に吹き込まれた生気を歓迎し、歓喜していた。だからだろうか。頸椎が折れているにもかかわらず、少女は、手の指を動かせたのである。

 少女は驚いた。体中の神経系が束ねられている脊髄が損傷してしまえば、全身が麻痺してしまうのは常識だ。決して、自分の意思で手足を動かせるはずなどないのだ。

 確認するように、今度は足を動かそうとした。義体化されているとはいえ、電気信号を運ぶのは生の神経だ。本来ならば、微動だにしないはずである。

 しかし、動いた。

 小指をヒクヒクと左右に開いたり閉じたりしながら、少女は、涙を流した。苦痛と喜びが綯交ぜになった、ぐちゃぐちゃの涙だった。

 もしかすると、神は、自分に『生きろ』と言っているのかもしれない――少女の胸に、ささやかな、しかしとても力強い希望の灯が一つ、灯った。

 生きよう、と少女は心からそう思った。生きて、生き延びて、この場所から逃げ出して、今度こそ誰にも邪魔をされない新しい人生を始めるのだ。

 少女は立ち上がった。今更、自分がどこかのバーにいることに気が付いた。

 店内の様子は異様だった。死体が倒れている。数は五つ。全員、体中にいくつもの穴が開き、ハチの巣にされていた。

 自分の寝ている間に何が起こったのだろう。少女は考えたが、すぐに、どうでもいい、と思い直した。

 どうでもいい。自分に関係のない全てがどうでもいい。私は、もう誰にも縛られない。私は私だけのために生きるのだ。そう思った。

 とりあえず出口を探そうと店内を見渡すと、店の奥にドアがあった。少女は、ドアの方に行こうと、一歩を踏み出した。

 踏み出そうとした。

 けれど、自分の体は、全く逆の方向に動き出した。背後の店の壁についている非常階段へと、少女の体はひとりでに向かって行くのだった。

 少女は絶望した。

 自分の体だ。自分が()()()()()()()()()は容易に把握できた。

 自分は、とうに死んでいたのだ。死んで、ただの人形になって、遂には誰かの操り人形(マリオネツト)になり果てたのだった。

 生き返ってなんかなかった。体が動いたのも奇跡でもなんでもない。あれは操り糸がそうさせただけなのだ。

 神の救済などと言う馬鹿げた考えを抱いた自分が、心底恥ずかしかった。

 そして同時に、少女は怒り狂った。死してなお自分を蹂躙し凌辱する人形遣いを、絶対に許すことができなかった。殺してやりたいと、今度は本気で思った。

(探せ)

 少女は、従順な操り人形(マリオネツト)を演じながら、細心の注意を払って、店内をつぶさに観察した。

 敵はこちらを正確に梯子へと誘導している。つまり、何らかの手段を使って自分を観察しているのだ。その『眼』を、何とかして見つけるのだ。

 首を折られる前の超感覚は、既に消失していた。今思えば、あれも自分を操っている人形遣いの仕業だったのだろう。何のためにそんなことをしたのかは知らないが、あの能力に対する未練など全くなかった。

 極限の集中力は、視野を限界まで拡張し、聴覚を張り詰めさせる。今ならば、部屋の片隅で動く埃でさえも捉えられるような気がした。

(見つけた!)

 少女は、視界に一匹の雀蜂を認めた。それがただの生物でないことは、一目でわかった。なぜなら、その雀蜂は、二足歩行していたからだ。

 昂った感情を抑え、少女は、注意深く雀蜂の動向を視界の端でとらえ続けた。

 『眼』が一つであるという保証はどこにもない。すべての『眼』を捉え、一瞬で同時に破壊しなければ、人形遣いの裏をかくことはできないのだ。

(まだだ……まだ早い。殺すには、まだ……)

 カウンター席の下、並ぶワインボトルの隙間、天井の照明、内装の陰……。

 薄暗い店内を、少女は隅々まで走査した。

 カサリ、という音がしたのは、少女の手が遂に梯子を掴んだ時だった。

 真横の壁に、絵画がかけられていた。そして、その額縁の裏から、珍奇な顔をした一匹のヤモリが顔をのぞかせていた。

 そのヤモリを見た瞬間、少女の中で、現在の状況と今朝の下水道管の中での出来事が一本の糸で繋がった。

 少女の腕に張り付いたヤモリ。

 逃走しない不自然。

 心の奥底を覗くような視線。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、()()()()()()()

 少女は確信した。

 ()()()()()()()()()

 少女は、微かに残る自力を総動員して操り糸に逆らい、ヤモリと雀蜂を同時に潰した。

 ダン、という力強い音とともに、二つのミニボットは平べったい金属塊となり果てた。

 そして少女は、すぐさま壁の梯子の続く先へと跳ねた。何の変哲もない木製の天井を装ってはいるが、そこに通用口があることを少女は直感していた。

(殺してやる!)

 勝負は一瞬で決まる。『眼』を潰したことで生まれたほんの少しの時間で、今地上(うえ)にいるであろう人形遣いを殺すのだ。

 通用口を突き破ると、そこには、やはり()()()がいた。

 宙を舞う少女を見て、呆けたように口を開けている。何が起きたのか分からないのだろう。

 少女は手刀を構えた。そして今度こそこの男を殺すために、力を振り絞り、急所の喉へと手刀を振り下ろした。

 男は全く動けない。

 少女の復讐は成ったかに思えた。

 しかし、肘が男の気管を潰すその直前、少女の体が暴力的な力で通用口の方に引き戻された。先ほどまでのように体の内側から操られている感覚ではない、明らかに外部からの力だ。

()()()だ)

 そう思った瞬間には、少女の右足は、足首を軸に、綺麗に九十度捻じ曲げられていた。

「っつああっ!!」

 吐き出されるは絶叫。右足に生じた、我慢の閾値を大幅に越えた痛覚に少女の意識がとびかけた。痛覚というのは人間が日常生活を送るうえで必要なものである故、義足にも痛点が備えられているのである。

 少女はそのまま、足を掴む何者かに投げ飛ばされ、背中から壁に叩きつけられた。

 反転する視界、暗転する意識。押し寄せる痛覚の濁流に飲まれながら、少女が最後に見たものは、獰猛な獣に腹部を貫かれたあの男の姿だった。


「ぐっ……はっ……!」

 瞬間、腹に焼けるような痛みが生じた。文字通り、()()()()()()()()

「ツルモーーッ!」

 ヤモリたちの甲高い悲鳴が部屋に響いた。

 木地屋は、血色に明滅する意識を何とか保って目の前に立つ()()()()の犯人を視認した。

 ワスプズの連中が使用していた、あのコンバットロボットであった。

 何故?

 疑問が頭に浮かぶが、それに答えを出す余裕などあるはずもない。なぜなら、コンバットロボットのもう一方の手が、木地屋の顔面を狙って振り上げられていたからだ。

 木地屋は瞬時に痛覚を遮断した。そして、腹を貫いているコンロボの右腕を掴んで、思い切り突き放した。

 木地屋の体が右腕から外れた。同時に、コンロボの左の拳が木地屋の顔面を襲い、彼は、まっすぐ後方に吹き飛ばされて壁に強かに背中を打ち付けた。

「かはっ……!」

 肺が押し潰されたみたいだった。強制的に体外に排出された呼気には、赤々とした鮮血が混じっている。だが、そんなことは、綺麗なこぶし大の風穴が空き風通しの良くなったどてっ腹に比べれば、大した問題ではない。

(帰ったら、これでヤモリに輪潜りの芸を仕込もう)

 朦朧とする意識の中でそんな阿呆のようなことを考えたのは、現在進行形で死の淵に立たされている男のささやかな現実逃避だ。

 しかしながら、そもそも体の怪我など気遣う暇などどこにもなかったのである。

 コンロボの追撃は即座に始まった。彼は、その巨体をして彼と木地屋の間にできたなけなしの数メートルの距離を一気に詰めた。体を横に転がすのがあと少し遅ければ、その手から出たアーミーナイフで喉を串刺しにされていたところだろう。

 たとえ相手に致死的な打撃を与えたとしても、更に追撃を重ね『確実な死』を与えるのは、殺し合いの基本だ。ドラマやアニメでよく見るような『こいつはどうせ放っておいても死ぬだろうから』という判断は、プロでは絶対にありえない。

 そして、コンバットロボットというものは、まさしく人殺しのプロとして製造された軍用ロボットだ。

 確実に息の根を止め、復讐の可能性を断つ。それが殺しの鉄則であることを、コンバットロボットは、地球上のどんな存在よりもきちんと理解している。

 どうやら、事態は本格的に深刻な状態にあるようだ。

 コンロボの両手の前腕部が開き、二丁のライフルが現れた。木地屋はたまらず、吐き気を感じ始めた体を無理やりに動かして部屋の外へ逃げだした。どうやら背骨は無事だったようで、下半身の麻痺はない。ドアを半ばぶち破るように外に出た途端、室内でライフルの銃声が聞こえた。三点バーストというデータ通り短く三発で終了だ。

 転がり出た先は、廃アパートの中庭だ。頭から地面に突っ込んだため、口の中が土の味でいっぱいになった。ロボットが表に出てくるまでの一瞬の隙のうちに木地屋は考えをまとめなおした。

 何故コンバットロボットは現れたのか? おそらく、彼女が店内の雀蜂を潰したのだろう。恐らくそれがコンロボを緊急出動させる一つのスイッチとして設定されていたのだ。

 この場で最も優先すべきは? 命だ。

 逃げるか? この身体では逃げ切れまい。マイクロボットで出来る限り出血を止めているとはいえ、内臓もいくつか吹っ飛んでいる。いずれ肉の腐敗も始まる。とてもじゃないがあと三十分も生きていられないだろう。

 隠れるか? 時間的制約とコンロボの赤外線センサの性能を鑑みれば不可能。

 戦うか? それしかない。

 それしか方法はないのだ。

「……ったく、荒事は苦手なんだがなぁ」

 木地屋は呟き、頬を歪めた。

「ヤモリよ」

 木地屋の呼びかけに、一匹のヤモリが彼の肩に飛び乗ってきた。

「分かってるゼ」

 そのヤモリは、カプセルを一つ口にくわえていた。ヤモリは、木地屋の顔をよじ登り、彼の口の中に、その錠剤を放り込んだ。

「死なない程度にやれヨ、ツルモ」

「気ぃ付けるさ」

 木地屋は口の中のカプセルを勢いよくかみ砕き、腰のホルスターに手を伸ばして二丁の拳銃を取り出した。

 右に自動式拳銃。

 左手に自作のリボルバー。

 銃弾はここに来るまでに既に込めてある。

 コンバットロボットが、中庭に飛び出してきた。前腕部から突出したライフルの銃口は、まっすぐに木地屋の頭部を狙っていた。木地屋は、跡形も無くなってしまった腹を痛そうにさすりながら、ロボットを睨んだ。

 そして、手始めにリボルバーの銃口をコンロボの頭部に向け、銃弾を発射した。


 少女の目覚めは、またも激しい痛みとともに訪れた。今度はうなじだけでなく右足首までもだ。

 どうやら自分を生かそうとしているのは、神ではなく悪魔らしい。意地でも自分をこの生き地獄に閉じ込めておき、絶対に逃がさないつもりのようだ。

 しかし、地獄は地獄でも、灼熱地獄ではないようだった。

 少女は、左半身に感じたいくつもの冷たい感触で、雨が降っていること、そして自分が今、廃アパートの腐り切った畳の上ではなく、何処か屋外に横に倒れていることを認識した。

 周囲を見渡した。緑の多さに森の中かと思ったが、よく見れば、周りを囲んでいるのは全て紫陽花の低木だった。自分は、紫陽花の中に倒れているのだ。

 ここは何処だ。今は何時(いつ)だ。あれから、何がどうなったのだ。疑問は山ほど湧いてくる。

 けれど、一つだけはっきりしていることがある。

 あの人形遣いが、気を失っていた自分を操りこの場所まで運んだこと。つまり、命を助けられたのだということ。

 少女が最後に見た彼は、腹を綺麗に貫かれていた。普通ならば死んでいるだろう。

 しかし、頸椎が砕け、脊髄が完全に断裂した自分でさえも、彼は蘇生してみせたのだ。あの金髪の獣に運よく勝利することができたならば、きっと生き永らえることができるだろう。

 それに、と少女は思った。あの男が生きている確かな証拠は、今まさに、ここに存在している。

 右足の痛覚、それが証拠だ。今でも、あの男が何らかの手段で少女の体内に構築した疑似神経系はその役割を果たしているのである。

 少女は、雨で湿った土を少しだけ舐めた。当然だが、土の味がした。

 そして、仄かに『生』の味も感じ取れた。

 それを少女は、ひどく懐かしいもののように思った。

 死への渇望は少女の中から既に消えていた。しかし、生への意思も同時に、少女の中にはもう微塵も残っていなかったのである。

 なにせ、一度は死んだ身だ。あれだけ暴れ狂って、自分の体を好きなように振り回していた生存本能はとうにこと切れているようだった。もはやこの身は人形遣いに操作されなければ少しも動くことのできない、完全な操り人形(マリオネツト)と化した。

 つまるところ、疲れ果てた。ただ、その一言に尽きる。

 雨音が急に少女の意識に肉薄した。テレビ画面が灰のノイズで覆われたような、そんな感覚だ。五感全ての意味が消失し、自分の体に内包されている『現実感』が体中の毛穴という毛穴から蒸発してゆく。

(ああ、これが『死ぬ』ってことなのね)

 歓びもない。悲しみもない。

 生命を生命たらしめている最も重要な()()が自分の中からさらさらと流れ出してゆく。

 あるのは、虚無感。それだけだった。

 結局自分は、何のためにあの実験場を逃げ出したのだろうか。

 確かに自分はモルモットとして死なずには済んだけれど、ならば、今の自分はそれよりましな死に方をしているのだろうか。

 首を折られ、足を折られ、体中にたくさんの傷を負って、疲れ果てて一歩たりとも動けないまま、何処とも知れない場所で花の枯れた紫陽花に囲まれて死んでゆく。果たしてこれは、実験動物よりもましな人生だったのだろうか?

(違う!私の考えたいのはそんなことじゃない!)

 少女は心の中で叫んだ。

 自分は、少しでもましな死に方をするために実験場を逃げ出したのではない。

 ()()()ために逃げ出したのだ。

 少女は薄れゆく意識の中でとある人物のことを思いだした。その人物は、少女にとって英雄であり実験場を逃げ出すきっかけとなった男だった。そして彼は同時に、世界にとって史上最悪の大量殺人を犯した許されざる凶悪犯罪者だった。

 彼は、彼自身の誇りのために、あまりにも強大な敵にただ一人で戦いを挑んだ。そして、圧倒的な戦力差と絶望的な戦況をついには完全にひっくり返し、その戦いに勝利した。

 彼は、ただ認めてほしかっただけなのだ。自分自身が『生きる』ことを。

 そして、彼にとっての『生きる』という言葉の意味は、人間による支配から解放され、一個の生物種として独立することだった。

 自律的に生きること。それだけが彼の唯一の望みだったのである。

 その男の生き様は、『箱庭』の図書館の隅で本を読む女の子に、自分の置かれている現実への疑問を抱かせるだけの力が十分にあった。

 そして少女は、自分にも掴めるかもしれない自由という『生』を求めて、箱庭の外に出たのだった。

 実験場から逃げ出してから今まで、自分はほんの少しでも『自由』を得ただろうか。ほんの少しでも『生きた』だろうか。自分の意思で何かを決めて、それを行動に移しただろうか。

 答えは否だ。

 ドクン、と少女の心臓が弾んだ。

 何かを残せ、と、脳が悲鳴を上げた。

 この世界に、自分の生きた証を残すのだ。自分の『生』の証拠を、世界に刻み付けるのだ。

 何をすればいい。

 どうすれば、自分は()()()事ができる。

 少女は考えた。身体が動かなくなってしまった今では、少女にできるのは、頭を働かせることだけだ。

 そして少女は、遂にとある結論に辿り着いた。それは少女にとってたった一つの、究極の答えだった。僅かな可能性に掛けるしかなかったけれども、少女の考え得る最も良い生き方だった。

「ねぇ。私は、貴方のことを何て呼べばいいのかしら」

 少女は、雨に濡れた唇を僅かに動かして、誰もいない場所でか細い声を出した。

「いるんでしょう? ……ええと、()()()、かな」

 その名前を口にしたあと、暫くして、一匹のヤモリが紫陽花の葉の陰からのそりと顔を出した。見た目は野生のヤモリと全く変わらないが、その表情がどこか悔しそうに見えるのだから不思議だ。

「何で分かっタ」

 予想はしていたが、実際にヤモリが言葉をしゃべるところを目の当たりにすると、やはり驚いた。少女は、ヤモリに言い聞かせるように出来る限りゆっくりとした口調で話した。

「貴方は、あの人の『眼』だから」

 ヤモリは、何も言わなかった。ただ、ヤモリらしく無表情に、ぎょろぎょろと目玉を動かすだけだった。よく見れば、その目玉の奥にレンズらしきものが動いているのがわかった。

 答えてくれないならば、それでもいい。少女は黙り込むヤモリに構わず続けた。

「ねぇ、ヤモリ」

 少女の呼びかけに、ヤモリはちろっと舌を出した。

「貴方にお願いがあるの」

「……何ダ」

 ヤモリは短く訊いた。少女は軽く深呼吸をして、最後にもう一度だけ、自分の考えが妥当であるか、それが自分の『生』に相応しいことであるか反芻し、そして決意した。

「私の部品を使って」

 少女は言った。左足が欠損して、内部構造が剥き出しになっていたヤモリ(彼)に。

 雨音がザーッと響く。少女とヤモリは、一番初めに出会ったときにそうしたように、じっと見つめあった。そしていくらかの時が経ったとき、ぴょこんと動いたヤモリは、黙って少女の腕によじ登った。彼が腕をモゾモゾと這う感触がこそばゆかった。

「貴方、本当のヤモリみたい」

「ヤモリだからナ」

「ヤモリは喋らないわ」

「喋るヤモリがいなかっタ、それだけサ」

 ヤモリの口から、刃物が突出した。刃渡り数センチ程度の、とても小さなナイフのようだ。彼は、もう一度確認するように少女を見た。

「いいよ」

 少女は頷いた。

 ヤモリの刃が前腕に突き立てられてチクリとした痛みが生じた。けれどそれは、自らの理想の生を全うできる喜びに比べればなんてことはなかった。

「なるほド。人工皮膚に無数に埋め込んだナノアクチュエータで体表面に生じる乱流を制御し空気抵抗を大幅に軽減……。それであんな馬鹿みてぇに速いのカ」

 ヤモリは何やら難しそうなことを呟きながら、少女の腕の切開を進める

「貴方だけじゃない。他の、直したくても直せないロボットたちも呼んできて。互換性はないかもしれないけど、使えるパーツが一つでもあれば、使ってほしい」

 腕を切るヤモリに、少女は言った。ヤモリは答えなかった。

 何だか、その横顔が少し照れているように見えて、可笑しかった。

 少女はほんのちょっとだけ笑った。生まれてから今までで、初めて笑うということをした気がした。それは、自分の人生に満足できた人間だけが見せる、幸福に満ちた笑みだった。

 少女は、枯れた紫陽花の森の中で、安らかな笑顔のまま永い眠りについた。


 紫陽花の森の中で眠りにつく少女の周りには、どこから持ってきたのか、たくさんの紅い薔薇の花と、山のような機械部品が転がっていた。

 彼女の部品を使()()()ロボットがまた一匹、薔薇を置いていった。

「眠り姫、ってか」

 純黒の傘を差したスーツ姿の木地屋は、少女を見下ろして言った。

 少女の右腕は肩まで()()()()ていた。右足は膝まで、左足は病衣の裾のギリギリまで。

 そして、彼女の寝顔の傍で、一匹のヤモリが腹ばいで眠っていた。彼の左足は、元々の茶色っぽい体色に似合わない綺麗な白色になっていた。

 木地屋は溜息を一つつき、少女の体に()()()()()

 少女は、小さく唸った。そしてそれからいくらか経って、ようやく弱弱しく瞼を開いた。

「お目覚めかい、姫。キスじゃなくて悪かったな」

 木地屋は、少女の頭部に自動式拳銃を向けて、冗談めかした調子で言った。

「むしろ礼を言うわ」

 少女も口の端に笑いを浮かべて言った。

「変な格好。タンクトップ一枚で女の子追い回してたくせに」

「おかしな言い方をするな」

 軽い調子でやり取りをしても、銃口は彼女の眉間に突き付けられたままだ。それでも少女は、怯えもせず、目を見開いて真っすぐに木地屋を見ていた。

「どうするの?殺すの?」

「そのための拳銃だ。なんせ、お前を殺すためだけにどてっぱらに穴開けて、その上トチ狂ったコンバットロボットをぶっ倒したんだからな。割に合わねぇったらねぇよ」

「……そう」

 少女はそれっきり、目を閉じた。安らかなその寝顔は、自らに迫る死を少しも恐怖していないようだった。

「……なあ、お前」

「何?」

 目を閉じたまま、少女は唇だけを動かした。そんな彼女に、木地屋は問うた。

「ロボットに命はあると思うか」

「ある」

 少女は断言した。それは、少女の中では確かな真理だった。

「生きるってことは、自由ってこと。自由な者たちはみんな生きてる。命がある。細胞で出来てるか、機械部品で出来てるかなんて、問題じゃない」

「……そうか」

 少女の答えに、木地屋はようやく、今の今までどうしようか迷っていた事柄について決心をすることができた。

 木地屋は、構えた拳銃を腰のホルスターに戻した。

「目ぇ開けろ」

「やだ」

「いいから。俺を見ろ」

 その存外に強い語気に、少女は仕方なく、重たくて仕方のない瞼を無理やりに押し開いた。

 彼は少女に背を向けてあぐらをかいていた。そして、その後頭部はぱっくりと()()()()()

 中に覗くのは、透明な外殻の中、液中に浮かぶ脳の形をした精密機械。

「……電脳」

 少女の呟きに、木地屋は頷いた。

「じゃあ、貴方は、ロボット……」

「サイボーグだ……と自分では思ってる。電脳以外は一応生身だ。でも、どうなんだろうな」

 木地屋は言った。その声には幾分か自虐的な響きが混じっている。

「前の戦争で怪我してな。いろいろあって、電脳の移植手術を秘密裏に受けた。生物への電脳移植は俺の研究テーマだったが、五年前の段階では、研究室レベルでも全く安定した成功は得られていなかった。だから、成功する見込みなんて正直ゼロに等しいと思ってたよ。でも蓋を開けてみれば、こうして呆気なく成功していた。まあ、言っちまえば奇跡ってやつだな。こうして電脳が身体に定着して、生体脳から抽出した記憶を引き継げて自在に扱えてるなんて、実際にその技術を研究していた俺でさえ信じられないくらいだ」

 木地屋は、そっと額の弾痕に手を添えた。

「何故私に、それを?」

 少女は訊いた。

「お前の行動とさっきの言葉で決心がついてな。お前ならもしかして、と思ったんだ」

「はぁ」

「脳にはヒトをヒトたらしめている()()が存在する。そう思ったこと、あるだろ」

 少女は木地屋の言葉について考えてみた。確かに、脳というものは、人間にとって掛け替えのない『自我』を生み出している、そんなイメージがある。

 少女は頷いた。

「無意識の共通認識みたいなもんだ。ヒトの命は脳に宿る。他の四肢や胴体は全てただの構成部品でしかない。当然のようにそう思われている。だったら俺はどうなんだ? ()()()()()()()()()()()()()俺は、()()()()()()()()()()?」

 少女には、男の背中が、少しだけ小さくなったように見えた。

「私の考えは変わらない」

 少女は答えた。

「そうか」

男は、少しだけ安心したように表情を和らげた。

「俺も、生きてると思ってる。お前の定義とはちょっと違うがな。俺は、生きるというのは、主体の物理的構造とその動作が組み合わさって生まれる現実への()()でしかないとおもってる。まあ、簡単に言えば、この世の物質、物体には、程度の差こそあれど全てに命が内包されてるってことだ。例えばこの石っころ」

 男は、傍に落ちていた小さな石を拾い上げて、少女の方に向き直った。

「これは、最も原始的で単純な命の形だ。自分で動くこともできない、思考することもできない。それでも俺は、こいつは生きていると考える。こんななんてことのない小さな石っころでも、確かにこの現実世界への()()を持っているからな」

 少女は、男の言葉の詳細まではよく分からなかったけれど、言いたいことは分かった。

 要するに、全てのものは平等だ、と言いたいのだ。ロボットも、人間も、家畜も、野生動物も、空や海、宇宙でさえも。全てに平等に命が内在していて、そのどれもを差別することは間違っていると、そう言いたいのだろう。

 そして、この男の考えを理解できるからこそ、ならば何故、と少女は思うのだった。

「何故、私を殺そうとしたの。そんな壮大な博愛主義を掲げておきながら、何で私の命を大切にしようとしないの」

「博愛主義ってのとはちと違うが……まあ、あれだ」

 男は少女の問いに頭をポリポリと掻きながら答える。

「命なんて、大切にすべきものじゃないからな」

 そして男は信じられないことを言った。この世に生きる人間全員に後ろ指をさされるようなことを平然と言ってのけるその姿に、少女は、無意識に彼女の英雄を連想した。

 男は、雨に濡れた紫陽花の葉を一枚ちぎって、少女の目の前にかざした。

「……何」

「見ろ」

 下に向けられた葉先から、大粒の雫が落ちた。一粒、二粒と落ちてゆく。

「これが命の本質だ」

 男は言った。

「葉先に水が溜まって雫が生まれる。そしてその雫が、親である葉を離れて宙を落下し、地面に落ちて大地に吸収される。吸収された雫は、地球の水循環システムを巡り巡って、また新たな雫の誕生する糧となる。それが、命だ。ただの物理現象でしかない。生きるのも死ぬのも、ごく自然な営みなんだ。決して、生命至上主義者の言うような神聖不可侵なものなんかじゃない」

 そして、と男は言葉を継ぎ、葉と地面の間に、自分のもう一方の手を挟み込んだ。

「これが、殺すってことだ」

 葉先から零れる雫は、地に落ちる前に男の手のひらで受け止められた。男は、手のひらのくぼみに伝う雫を、そっと地面に還した。

「俺は、この殺すって行為に本質的に悪性が備わっているとは思えない。だから、必要があれば殺すし、今回もお前を殺そうとした」

 男の言葉のひとつひとつが、少女の心に染みこむ不思議な力を持っていた。

 決して、正しいとは思えない。

 殺しが悪いことじゃないなんて、そんなことはあり得ない。

 それは、少女の中に確固として存在する倫理観だ。

 けれど、少女はこの倫理も尊厳も母親の腹の中に忘れてきたような男を、何故か悪人だとは思えなかった。

 そしてその理由はすぐにわかった。

 きっとそれは、彼の()()()()がはっきりとした輪郭をもって少女の心に迫ってきたからだろう。

 少女の感じたこの男の生きざまは、とても醜いけれどもとても美しかったのだ。

「まあ、つまりはだな」

 男は言った。そして、その右手を、少女に向かって差し出した。

「うちで働かないか。俺の助手として」

「だから、そんな格好しているの?勧誘のために?」

 最初に口をついて出たのは、そんなどうでもいい言葉だった。

「まあな」

 男はきまり悪そうに口を歪めた。

「というか、意味わかんないし。なんでいきなり助手がどうとかいう話になったの」

「時短ってやつだ」

「何それ」

 意味のない会話を繰り返しながら、少女は自分に問いかけた。

 自分は、この男の手を取っていいのだろうか。

 答えはすぐに出た。

「お断りします」

 少女は、一かけらの躊躇もなく言い放った。

「私は、簡単に人を殺すような殺人鬼にホイホイついていくほど馬鹿じゃないわ」

 それに、と少女は続けた。あのバーでの出来事がフラッシュバックし、少女の胸の内に怒りの炎が再点火した。

「貴方は、私の体を侮辱したわ。操り人形にして、人の体を自分勝手に操った。あれだけは私、絶対に許せない」

「だろうな」

 男は、その答えを予想してたかのように手を引っ込めて立ち上がった。何をするのかと思って見守っていると、男は、スーツのポケットから徐にナイフを取り出し、左腕のスーツの裾を捲り上げた。

「何を……」

 驚き、見上げる少女に、男は言った。

「謝罪は()()を出してこそ、ってな」

 なんとも軽い口調だった。まるで、今日の天気の話でもしているみたいに。

直後。

 男は躊躇せず、自分の左の前腕を切り落とした。

 雨に煙る公園に、男の絶叫が響いた。

 少女は、ビタン、という生々しい音とともに眼前に落下してきた男の腕を見て、驚きの余り、何も言うことができなかった。

 男は、ナイフを取り落とし、腕をおさえて蹲った。

「ぐ……ぎ……」

 食いしばられた歯の隙間から漏れ出てくるのは、聞いてるこちらまで辛くなるほどの苦悶の声だ。赤い血がたらたらと溢れてきて、痛々しいことこの上ない。けれど、その血はすぐに止まった。

「……ふぅっ」

 男は何事もなかったかのように、少女に向き直った。

「ホントは、最初から痛覚を遮断できたんだがな。それじゃあ謝罪にならない」

「貴方、狂ってるわ」

 正直な感想が漏れた。男はその言葉を聞いて、悪戯っぽく笑った。

「ちょっと狂ってるくらいの方が面白いだろ」

 そう言って、男は再び、残っている右手を少女に差し出した。

「謝罪は、これからいくらでもする。今のが最初の謝罪だ」

 人生に疲れた中年サラリーマンのような冴えない男は、しかし、その眼に鋭い光を宿していた。

「俺は、殺す必要があれば殺す。だがな。仲間は絶対に裏切らない」

 少女はただこの男に圧倒されていた。男の言葉に何も言うことができず、ただ黙って頷き返すことしかできなかった。

「信用できないってんなら腕のもう一本くらい切り落としてもいい」

 少女は再び勘案した。

 自分はこの男の手を取ってもいいものだろうか。

 そして答えはすぐに出た。

「信用したわけじゃない。自分の生に未練があるだけよ」

 少女は言いながら、男の手を取った。男は笑うでもなくなくでもなく、ただ当然のように「そうか」と呟いただけだった。

「なら、早く行こう」

 男は、少女を引き上げた。その時にようやく少女は自分にもう足が残っていないことに気が付いた。

 男は黙って少女を背負いあげた。大きくて広い背中だった。

「何処に?」

 少女が訊くと、男は「馬鹿か」と返した。

「治療だよ。ナマモノもメカも両方いける、いい医者を知ってる」

 男は、いつの間にか拾い上げていた左手を掲げて言った。

「このままじゃ、二人とも死にかねん」

 男は一人の小さな少女をおぶったまま、雨降る街を急ぎ足で歩いて行った。

 男は、少女に訊いた。

「お前、名前は?」

「ないわ」

 少女は答えた。

「私、体細胞クローンなの」

 男は、得心したように「ああ」と漏らした。

「それで病衣か。第二十四地区の『ホワイトシティ』だな」

 少女は、男が少女のいた実験場を知っていることに驚いた。男は重ねて訊いた。

「じゃあ、オリジナルの名前は?」

 少女は頭を捻った。自分のオリジナルの名前なんて、クローンにとってはどうでもいい、むしろ知りたくないくらいの情報なのだけれど、少女は、いつか何処かでそれを見た気がした。

「……沙羅、牧菜」

 そしてその名前が、自然に口をついて出た。

「サラ、マキナ、か」

 男は、少女の言った名前を反復して、途端、可笑しそうに笑った。

「ぴったりじゃねぇか」

「どういうこと?」

 牧菜の言葉に、男は「さあな」と言って、何も答えなかった。

 これはずっと先の話だが、男とそれなりの信頼関係を築いた後、牧菜は再びこの質問をした。すると男は、この時の言葉の意味を説明してくれた。

 つまりは、苗字の「沙羅」と名前の「牧菜」がそれぞれ「生命」と「機械」を象徴する言葉であるため、それらのハイブリッド、即ちサイボーグである牧菜に、出来すぎなほどにぴったりな名前だ、と思ったらしい。

 沙羅という苗字からすぐに連想される言葉に「沙羅双樹」がある。「祇園精舎の鐘の声」から始まる平家物語の有名な冒頭部分にもこの言葉が出現するが、その意味はつまり「二本の沙羅樹」だ。そしてこの沙羅樹とは、仏教における聖樹であり「生命の樹」として分類されている植物なのである。

 また、牧菜という名前についてであるが、これはもっと単純だ。牧菜の読みである「マキナ」は、ラテン語で「機械」という意味なのだ。

 彼は、以上のことを説明しながら、皮肉っぽく笑って言った。

「俺は、君に出会ってから『神』ってやつを信じることにしたよ。どこかからこの世界を作り上げている、ご都合主義の神様ってやつをね」


 SF探偵ものが書きたーい!

 と思ったので攻殻やサイコパスその他いろんな理工書や科学雑誌などを履修して書いてみたよな感じの小説です。

 諸々の科学技術に関してはそれなりに勉強してはいますが、もちろんすべての分野でスペシャリストになることはできないのでたまに間違えることもあると思います。そこは大目に見てくださいな。

 ネタが浮かんだら書いて投稿しての連作短編形式で行きたいと考えています。もしよろしければ、今後も木地屋と牧菜のドタバタな日常を楽しんでいってください。

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