平穏な都
2016/09/04
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キヨウを照りつける太陽。
陽は正中高度へ昇り、時刻は正午を告げる。
「皆さーん、お弁当持って来ましたよー」
少年が大きな風呂敷を広げると、作業者たちは続々と集まってきた。
包まれていた大量の弁当箱を順に取り出し、ひとつひとつを作業者に手渡していく。
「おう、サンキュー!」
「ちょうど腹減ってたんだよ」
「労働後の飯がまた美味いんだ、これが」
汗をぬぐいながら、男たちは嬉しそうに弁当を受け取った。
ゲームとはいえ、食事が与える恩恵はバフの他――ストレスの緩和や疲労回復にも侮れない効果がある。
「おーい、こっちまだ貰ってねーぞー?」
「早くしてくれー、腹減ったー」
前後左右から次々と作業者が押しかけ、小さな配給者のキャパシティはすぐに上限を振り切ってしまった。
とはいえ、このように順番を無視されてしまえば、誰が従事しようが二本の腕で捌ける量に大差はないだろう。
「あわわ! 並んで、並んでくださいー!」
少年は懸命に訴えかけるも、対象人数が多すぎて声は届き切らなかった。
離れた場所に居た作業者たちも、昼食の到着に気がつき、少年を中心にした人だかりはどんどん膨らんでいった。
「あなたたち、順番くらい守りなさい!」
そこに凛とした声が通る。
わずかな静寂の後に、全員が声の方を振り返った。
「全く……いい大人が何やってるの。分別くらい弁えられるでしょう」
立っていたのは花魁のような艶姿の女性――スズランだ。
彼女が一喝すると男たちは、
「「「は、はいっ!」」」
普段の教育も行き届いているのか、親に叱られた子のように全員がきっちりと整列をした。
中には“いい大人”と言い包められたことに首を傾げる若者も居たが、配給者の安堵した顔を見れば頷かざるを得ない。
「あ、ありがとうございます! スズランさん」
ぺこりと頭を下げる少年――もげ太。
彼は、配る手を休めずにスズランさんに礼を述べた。
「いいのよ。もげ太くんもお疲れ様」
そんな少年の頭を優しく撫でるスズラン。
撫でられたもげ太はちょっとくすぐったそうだ。
そんな二人を微笑ましく眺める作業員もいれば、奥歯を噛む者もまたちらほら。
一部には絶大な人気を誇る戦天だが、キヨウにおける一般的な嗜好で言えば彼女の方が異性に人気がある。
「い、いえ、僕はこれくらいしかお役に立てませんから……」
もげ太が、わずかに俯く。
城の修復作業に当たる男たちと違い、初心者である少年に修復や修繕といったスキルはない。
そんな少年が、神無風のメンバーのひとりとして作業を手伝おうとすると、必然、荷物運びのような役割しか負えないわけだが……。
それとて、ステータスの低いもげ太では、可視状態での運搬は難しく、インベントリに直接収納できる量しか運べない。
初心者のインベントリはぎゅうぎゅう詰めになっていることも多く、結局のところこうしてお弁当を配るくらいしか出来ることはないのだった。
「そんなことはないわよ。ただ機械的に受け取るより、こうして愛情込めて配られる方が誰だって嬉しいわ」
「そう……ですか?」
「そうよ」
周りの男たちもうんうんと頷いてみせる。
スズランは微笑むと、片手を広げてもげ太に差し出した。
「わたしにも貰えるかしら?」
「あ――はい、もちろんです!」
伸ばされた手に、少年は両手で弁当を手渡した。
「ありがとう。ほら、貰ったわたしが喜んでるんだから嘘じゃないでしょう?」
「……あは」
少年が笑うと、男たちもつられて笑いが零れたようだ。
一端は引き締められた空気が再び軽くなる。
「ちょっと、姐さーん。横入りはルール違反じゃないんですかー?」
「そうですよー。俺たちだって早くもげちゃんから弁当貰いたいのにー」
ここぞとばかりに、ブーブーと文句が浴びせられる。
至極真っ当な言であるのは確かなので反論のしようがない。
――というのは、常識人に限っての話だ。
「あら、ここはフレンドの特別口なのよ? 知らなかったのかしら?」
悪びれもなく、平然と告げるスズラン。
男たちは異口同音に「えー」などといった不平不満を零すが、通用するはずもなかった。
にっこりと無言の微笑みを向けられるだけで、男たちは睨まれた油蝦蟇状態。
中には、それでもなお興奮するものも居たが。
「それじゃあ……わたしはそろそろ失礼するわね」
「あ、はい。ありがとうございました!」
ひらひらと手を振り、スズランは去っていく。
残ったもげ太は、一列になった男たちへのお弁当配りを再開するのであった。
「こういう時、特に手伝いもしないのが姐さんなんだよなぁ」
ぽつり、と作業者の誰かが呟くと、何処からともなくそのこめかみに銀のかんざしが〈どしゅ!〉と突き刺さった。
◇
ヒラヒラと蝶が舞う陽気。
心地良い風を受けながら、組んだ腕を枕に身体を伸ばす。
「む? こんなところで何をしておるのじゃ?」
うっすらと目蓋を持ち上げると、木漏れ日に映る小さな影が覗き込んでいた。
「…………戦天か。何の用だ」
声を掛けられたネームレスは、不機嫌そうに答えた。
「かの千人斬が随分と無防備じゃのう……。して、用事がなければ話し掛けてはならぬのか?」
「わざわざその千人斬に話し掛けるヤツも危篤だろうが。用がないならさっさと向こうに行け」
冷淡に返すと、何を思ったのか少女は着物の袖と懐から紙と筆とを取り出し、さらさらと何かを認め始める。
「……なにやってんだ?」
そんな突飛な行動を不思議に思ったネームレスが尋ねると、
「その“危篤”とやらに“もげ太”も含まれておるのじゃろうか、と。端書きじゃの」
「は?」
「これは伝達義務じゃ。気にするでない」
「マジやめろ!」
つまり、少女が行っているのは、独自にエモート化された会話ログの保存だ。
ネームレスは、立ち上がってそのメモ用紙を破り捨てた。
「冗談じゃの」
「ちっ…………これだからガキは」
「ほう。まだ言うか?」
「あー、くそっ!」
影天は忌々しげに口を噤んだ。
「犬も学べば何とやら――じゃのう」
「そんな言葉はねぇ! つーか、わざわざ起こして喧嘩しにきたのか? あぁ?」
「よく言う。寝てなどおらん癖に……」
「そりゃどういう意味だ?」
「いやの。よもや、あの影天がこれほど健気とは知らなんだゆえ――の」
キリュウが意味ありげにチラリと城門の方を見やる。
そこには、今なお忙しなく配給を続けている少年の姿があった。
「………………」
「過保護じゃのう。まぁ、これはおぬしに限った話ではないが」
「うっせぇ。俺の勝手だろうが」
そう言って、ネームレスはツンと拗ねたように芝生に寝転がった。
「そこまでに気に掛かるなら、手伝いでもしてやれば良いものを」
「誰が俺から飯貰って喜ぶんだよ」
「意外と多いのではないかの? 公板辺りに『影天から弁当を貰った件』――などと賑わいそうじゃ」
「やめろっつの」
年頃の少年がネットサイトへ関心を抱くように、年頃である戦天もその例に漏れなかったようだ。
浮世離れした口調との違和感が凄まじいが。
「ま、男子に好かれるのも悪いことではないぞ?」
「好かれたくもねーし、余計なお世話だ」
外装の修繕には主に男性プレイヤーが従事している。
しかも、ガテン系ばかりなので喜ばれてはことだ。
「そうか? 薄い本が捗るのじゃ」
「そっち系かよ、テメェ――!?」
「や。我はいたってノーマルじゃ。近頃は、おぬしと焔のとの絡みが主流のようじゃの。以前は“焔の、髪死に多毛こと無かれ”が今や“焔の、影死にたもうこと泣かれ”として人気を呼んでおる」
「どこのどいつだ、んな本出してやがんのはぁ――!?」
「絵師は著名人じゃが、原作は“魔法少女ぴかちう”となっておったの」
「よーし、コロス!」
ネームレスが、その人物に察しがついているのかいないのか。
なんとなく火に油を注いだ本人は鎮火を試みつつ話を続ける。
「……しかし、こんなところで油を売っておっても良いのかの? この頃は、随分と無精をしておるというではないか」
「別に無精じゃねーだろ。別に面倒だからやってねーわけじゃねぇ」
少女が指摘をしているのは、レベリングのことだ。
言われたように、少年と行動を共にするようになってからは、かなり疎かになっている。
「我や光のは蓄えもあるゆえ、しばし休息したところでどうということもないが……おぬしは大事ないのか?」
「…………ちっ」
彼がこのように示唆を受ける理由は、単純にプレイ時間の影響だ。
影天も十二天という確固たる地位を築いてはいるものの、安泰の地位にいるかと問われると決してそうではない。
少なくとも、十二天の地位を狙う数多くのプレイヤーが真っ先に標的にするとなると名前が挙げられるひとりが彼――ネームレスである。
理由は至極単純で、第三世代と呼ばれる後発プレイヤー月天を除けば、十二天中二番目にレベルが低いのが影天だ。
……余談ではあるが、最も低いのが、リアル多忙中の氷天だったりする。
「平気とまでは言えねぇが……また、痛ぇとこ突くな」
これを聞く人が聞けば驚くだろう。
本音で言えばネームレスは、十二天というポジションに対して大きな固執はない。
暇つぶしが上手く転じたのが、たまたま現在に繋がっているだけだ。
とはいえ、そんな理由で剥奪を受ければ、理由を知った時に一番落ち込むのはとある少年だろう。
彼としては痛し痒し、だ。
「ま、強さなんてもんはレベルが全てじゃあねぇ。それは、月天のヤツが証明してんだろ?」
「おぬしに、あ奴ほどの鬼神染みた強さがあるとも思えぬがのう」
「けっ。言ってくれんじゃねーか」
満月の月天は、無敵――と言われるほどの強プレイヤーだ。
その能力と時間に制限があるとはいえ、新月においても二つ名持ちですら太刀打ちできないらしい。
また半月でさえ、下位の十二天と真っ向から打ち合えるというのだから“オフィシャルチート”――なんて仇名が付くのも仕方がない。
「つーか、んなくだらねぇ話振るためにわざわざ話し掛けてきたのかよ。いきなり暇な身になったとはいえ、少し持て余し過ぎだろうが」
「そこまで暇人ではない。ただ、もげ太の相手をしようにもタイミングを逃しておるせいで、たまたま手が空いておるだけじゃ」
つまるところ、戦天は戦天で少年が気になって周りをウロついているのだろう。
ネームレスは、そんな少女がたまたま出くわした同類――というわけだ。
「………………」
「何か言いたそうじゃの?」
「別に」
こいつも大して変わらねぇじゃねーか――なんて思ったところで口には出さない。
無駄に抉れるだけなのが分かり切っているからだ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言うが良いぞ」
「そんなに気になんなら、テメーが手伝ってやれよ。歳も見た目もいい配給コンビだろ」
言われたとおり、本当にはっきりと言うネームレス。
キリュウはやや目を丸くし、
「馬鹿を言うでない。我を誰だと思うておるのじゃ! 親からいただいたこの身――断じて安売りはせぬぞ!!」
「そりゃ大袈裟過ぎんだろ! つか、微妙に意味深な上にもげっちに謝れ!!」
冗談なのか本気なのかさておき――どれだけ育ちがいいのだろうか、この少女は。
言葉遣いを考えれば、どこぞの名家の箱入り娘でも違和感はないのだが……名家の生まれがVRMMOなどに手を出すものか。
「じゃあ、頑張ってるもげっちに昼でも持ってってやれよ。あの分だと全部無くなんぞ?」
「おぉ、なるほど。それはなかなか名案じゃの! ――って、それも大事じゃが……おっほん」
わざとらしいまでの咳払い――キリュウが小さな手を丸めて口に当てる。
少女も何か用件があるからこそわざわざ来たのだろう。
ここからが本題ということか。
「……おぬし、もげ太を見ておるのじゃろう?」
「あ? 別に俺はそんなんじゃ――」
「たわけ。今さら妙な見得を切るでない」
「………………」
ネームレスが言う前に一蹴される。
スズランといいキリュウといい、どうもキヨウにはやりにくい相手が多い。
「見ていて何とも思わぬのか」
「……そりゃ、どういう意味だよ?」
キリュウの言葉の腹を探る。
それは、彼女に言われた時点で何かが引っ掛かっているのを自覚したからだ。
「ゲンマも気を遣ってはいるようじゃが……何分、今のあやつは多忙極まる身じゃ。本人がどう思おうと、もげ太ばかりに感けている余裕もあるまい」
「だから、何が言いてーんだ?」
「分からぬか? 本当に、このままでいいのか――と聞いておるのじゃ」
主語のない問いだが、強調されたその言葉に、ネームレスは胸を毟られるような錯覚を得た。
「このまま何ごともなければ、もげ太はずっとキヨウを拠点として過ごしていくことになるじゃろう。今や楓柳を下した神無風の一員としての」
「………………」
戦天が告げた言葉に、影天が黙り込む。
「あれで存外に主体性は高いようじゃが……それよりも協調性の方が高いようじゃからの。必然的にそうなるであろ?」
「……会ったばっかなのに、良く分かってんじゃねーか」
つまらなそうに言ったものの、内心は嬉しさ半分、複雑さが半分といったところか。
彼を理解できる人間が増えるのは有り難いが、自らが付き合ってきた歳月を考えると複雑に感じるのだろう。
「無論、今が最も慌しい時期にあるのは間違いあるまい。もう少し町が落ち着きを戻せば神無風の者や楓柳の皆とて、もげ太とともに遠出もできよう」
「…………それで?」
「もげ太は、あの性格にあの外見じゃからの。キヨウでもさぞ人気者になるじゃろう。そうなれば、もげ太は“みんなのもげ太”になるじゃろうのう」
「…………良いコトじゃねぇか」
彼の言葉に嘘はない。
天然で『友達百人できるかな』路線を行く彼ならば、おのずとそうなるはずだ。
そして、それが悪いはずもない。
「いいのか? 赤ネのおぬしにとっては、随分と居心地が悪くなってしまうぞ?」
「…………もげっちは、そんな色眼鏡で見ねぇよ」
「もげ太だけの話ではない。我や……他天、あるいはスズランやゲンマクラスのプレイヤーならいざ知らず、一介のプレイヤーがそなたをどういった目で見るかなど明白であろう」
「また言いたい放題だな」
「事実であろ。とはいえ、我もあまり他人事ではないのも事実じゃがの」
「あん? テメェもPKしてぇのか?」
「そういう意味ではないわ! ……えっほん、そうではなくて――じゃの。大きいギルドや町にいれば、それだけ近しいプレイヤーも現れてくるものなのじゃ」
「そりゃあな……でも、距離で言やそこまで気に掛けるほどじゃ――」
「――心の距離の問題ではない。“レベル”や“装備”が近しい者が見つかれば、そういった者同士で繋がっていくようになるのがゲームなのじゃ。分かるであろ?」
「………………」
今の彼女の台詞は、ある意味では皮肉だ。
分かるが、分からない。分かりたくもない。
「……ちっ」
だが、分かってしまう部分もある。
立場が近しい者がいない場合は、他者との繋がりを得ることができない。
つまり、彼のように単独で行動するようになる者もいれば、少女のように大ギルドに所属しながらも孤立してしまう者もいる。
分からない部分はというと、彼は近しい者同士で繋がったことなど一度もないということだ。
ただひとり、少年を除いては。
「我じゃからこそ……分かる部分もあるのじゃ」
対極だが、ある意味では似た者同士でもある影天と戦天。
互いに通じる部分もあるのだろう。
「テメー……まさか、もげっち独占してぇ――なんて言い出さねーだろうな?」
「その通りなのじゃ」
「って、おいコラ――!?」
あまりにきっぱりと言い放たれすぎて、咄嗟に捻りのない突っ込みしか入れられなかった。
「まぁ、さすがに極論過ぎるがの。要点のみであれば大差はない」
「否定になってねぇぞ……?」
「くくく、しておらぬからのう」
ネームレスは思った。
ガキは変なところで怖いな――と。
「そう――まずは話術で巧みにお主の不安を煽り、頃合いを見て自陣に引き入れようと企む。我が明晰な頭脳にかの伏竜も真っ青じゃの」
「そういうのは心の中にしまっとけって」
見た目よりも若いなどと耳にしたばかりだが、この様子だと思っていた以上に中身は子どもなのではなかろうか。
「ともあれ、今の状況はもげ太にとってもあまり良いことではない――と付き合いの浅い我すら思うておる。ならば、当然おぬしとてそう考えておるのじゃろ?」
「………………」
ネームレスが口を噤んだのは、キリュウの指摘が図星を突いていたせいだ。
結論が出なかったのは、それが本当に少年のためか、それとも自分のためなのか判別できなかったせいだ。
「初心者というのは、もっと伸び伸びとプレイをするものじゃの。でなければ、自身の持つ可能性を殺してしまうきらいがある」
「そう……だな。今のもげっちは、鎖に繋がれたチワワみてーなもんだ……」
「たわけめ。室内犬にリードの類など日頃から付けたりせぬわ」
「――無駄なとこで揚げ足取ってんじゃねぇよ!」
とはいえ、言われてみれば繋がれたチワワなど見たこともないのは事実だが。
ネームレスは改めて考え直した。
「……もげっちは、誰にでも懐くようで、だが、本来は誰かが捉まえておけるようなヤツじゃねーんだよ」
「ほう?」
「捉えどころがねぇっていうか奔放っていうか。陽射しとかそよ風みてぇなヤツなんだ」
「ふむ」
「俺らはただ風を受けて回ってるだけだ。陽射しだって浴びてりゃ身体は暖かくなるもんだろ」
「……お主、意外とポエマーなのじゃな? 今後は“詩天”を名乗ってみてはどうかの」
「――うっせ!!」
ネームレスは、名前のように赤くなった耳を隠すように頭を抱えた。
どことなく少年と似た雰囲気を持つ少女に対し、つい口が軽くなってしまったのか。
「まぁ、そういうことであれば、我と同じだの」
「……何がだ?」
「くくく……我に策有り――というと聞こえが悪いの。名案があるのじゃ」
そう言って、戦天はにやりと笑った。
「策――の間違いじゃねぇのか?」
「くはは、どうせなら軍師と呼べ!」
「へーへー、ぐんしぐんし」
「ば、馬鹿にしおって! とにかく、耳を貸せ!」
「あ? ウゼぇ――って、いててっ! テメーのSTRで引っ張んな!」
――ぼしょぼしょぼしょ。
少女の温かな吐息が、直に耳に触れる。
遠目には、頬に口づけしているように見えなくもない。
「どうじゃ? 名案じゃろ?」
「あー……思ったよりもまとも――――って殺気――!?」
突如、背後に感じた冷たい空気に振り返る。
――が、何もなかった。
ただ、視界の先には謎の四本爪痕が残る大木が立っているだけだ。
「む? どうかしたのかの?」
「や、気のせいだった……なんか心臓鷲掴みにされたよーな気分だが」
「心臓の病かの?」
「ちげーっつの」
「ま、ともあれ後は本人次第じゃの。では、そろそろ我は失礼する」
「おう」
告げて、手を振って去って行く少女。
ネームレスも、無意識に片手を上げて返していた。
「あぁ――忘れおったが、あの件の。今では、神無風の管理下ゆえ、おぬしの好きに使うて問題はない」
「うん? あぁ、そりゃ助かる」
あの件――というのは、桜花城の地下に作られた楓柳御用達のギルドダンジョンだ。
「またの」
のしのしと手を振り、少女は今度こそ去って行った。
既にマスターではないキリュウだが、元責任者からの許可も降りたところで、早速ダンジョンに足を踏み入れようとネームレスは腰を上げる。
かなりの投資と拡張が為されており、長年キリュウを含めた楓柳のメンバーがレベリングに愛用していた場所だ。
効率は充分以上だろう。
期待に高鳴る胸に、根っからのゲーマーのひとりである彼も知らず内に舌舐めずりをしていた。
――さぁて、遅れを挽回するかね、と。
そんな折だった。
「随分と…………嬉しそうね?」
「――あ?」
ゆらりと背後から音もなく忍び寄る女性の影。
その細い手が彼の首へと掛かる。
「ひぃああああああああぁぁぁぁぁーーーー…………」
その断末魔が、彼の今日最後の台詞となった。




