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藍猫古書堂  作者: 神寺 柚子陽
邂逅
4/26

明正逃走劇

2014年、11月21日割り込み投稿。ごめんなさい。

思いついたら、テコ入れしたくなってしまいました。

宜しくお願い致します。


 女子高生、八日町鈴子は、走り出す寸前の態勢で、呆気にとられて呟いた。


「なによ………これ………」


 全身の毛穴が総毛立ち、夏のセーラー服を纏った背中に冷や汗が伝う。生存本能という名の警鐘が頭の中で盛大に鳴り響いていた。


 これは……明らかにヤバい。おかしい。こんなもの、いるはずがない!!

(三階建てのビルくらいの大きさをしたカマキリなんて………いったい、これはどこの映画のセットよ………)


 二足歩行でそびえ立つ緑の躰。頭から二本生えた触覚。鋭そうな二振りの鎌の手。幾重にも重なる丸い虹彩は正気を失った狂気のワインレッドに染まっている。極めつけはその巨大さだ。普通のカマキリは、成人した人間の掌ほどの大きさなのに対して、このカマキリは物凄くデカい。鈴子が見上げてもまだあまりある大きさ。背後の煉瓦造りの洋館や、西洋風の三階建ての建物と同じくらいの身長をしている。―――これは“化け物蟷螂”と呼んだ方が良いだろう。


 のそり、のそり、どすん、どしん、と重たい音を響かせて、ゆっくり街中の路地裏を歩んでいた化け物蟷螂は、鈴子の目の前でやおら立ち止まる。

 方角を確かめるように周囲を見回した。ふいに下を向いて、バケモノ蟷螂の狂気の虹彩が、ちょうど驚いて上を向いていた鈴子の眼と合う。

 見つめ合うこと暫し。

先に反らしたのは鈴子の方だった。

 昆虫類特有の六角形が幾つも敷き詰められたような丸い瞳の眼力に耐えられず、後ずさった時、石に蹴躓いてこけてしまったのだ。尻餅をつく。

 そこへ一陣の風と共に蟷螂の鋭い鎌が振り下ろされた。


「ヒッ!?」

 

 短い悲鳴をあげて、咄嗟の判断で後ろに這って避けた鈴子。

 鎌は鈴子が居た場所の地面を抉り、突き刺さる。その切れ味の良さに鈴子の小さな心臓は凍った。あわてて立とうとして、立てずにまごつく。

その間に、バケモノ蟷螂は地面に刺さった鎌を引き抜き、元の位置まで振り上げる。

 蟷螂は再び、自前の鋭い鎌を振り下ろそうと、赤い虹彩を不気味に揺らめかせる。

 鈴子は生きた心地がせず、夏の気候なのに降ってわいた寒気に体を震わせる。

やっとこさ、もつれた足がマシになり、勢いよく立ち上がって走り出す。

バケモノ蟷螂の鎌が、背後でジャキリ……と突き刺さる鈍い音がした。

西洋文化と日本文化入り混じる帝都・東京の路地裏を、鈴子は恐怖で目元に涙をにじませ、必死に足を動かして逃げていく。背後で三度、ジャキリと鎌が地面に突き刺さる音がした。


(あの化け物蟷螂は、あたしの命を狙っている……!)


鈴子は確信した。

いやよっ! まだ死にたくなんてないんだから!! おばあちゃん、あたしっ、あたしっ、まだ死にたくないっ!! しかも蟷螂なんかにはぜったい、ぜったい、負けたくないっ!!


鈴子は唇を噛み締めて、本能の命じるままに一生懸命、昼前の帝都・東京は日本橋周辺をひた走る。



◇◆◇



 銀座の繁華街にある甘味屋〈桜と橘〉にて。活気の良い美声が響き渡っていた。

 とてもよく似た男らしい双子の店主、志木兄弟の客引きの声だ。


「「いらっしゃいませー! 団子屋〈桜と橘〉の夏の定番、新商品! 葛切り餅と冷やし炭酸水! 冷たい葛きり餅と冷やし炭酸水は如何ですかーー!」」


 息継ぎまでぴったり同じの、ビブラートがかかった低い声。

 揃いのバンダナ、揃いのエプロン、たすき掛けにして逞しい二の腕を見せた色違いの着物。

 少し浅黒い肌、ほぼ同じ身長、体格、顔立ち、髪形。

 典型的な一卵性双子の特徴だった。


 ほぼ表情が変わらず、冷たい印象を与えながら、黙々と調理場に立っている彼の名は左近。

バンダナとエプロンに描かれた『橘の小蜜柑』がトレードマーク。右眼に黒い眼帯をしている双子の兄だ。彼の手により、1秒間に一本の団子が作成させている。


 彼の仕事姿を見つめるおば様方や御姉様方の熱い視線。

急に黙々と作業していた手を止め、視線を上げた左近。

上品な女性方は頬を赤く染めながら、どうしたのかしら? と疑問に感じる。

切れ長の目を優しく艶やかに細め、ふっ……と淡く微笑した左近は、

「味見、してみますか?」

 と、串を一本差し出す。

 受け取った女性は左近の色気にやられ、のぼせ上がりながら、貰った葛きり餅団子を無意識にぱくりと一口。


「!!………冷たくて甘いですわ」


口元を手で上品に隠して花がほころぶ様に微笑んだ。

 はっと目が覚めるような驚き。口の中に広がる爽やかさと程よい甘さ。

 白く透明な餅が口の中で溶けて消えた。

 まるで春の雪。冷ややかなのに優しい風合いが心に届く。


 気のせいだろうか?

左近の片方しかない切れ長の眼がいつもより柔らかく、一心に自分だけを見つめられている気がする。


「あの………私の顔に、なにか、ついていますか?」

「いえ、美味しそうだ、……と思いまして」

 

低い美声で囁かれた声。艶を帯びた眼差し。注がれる視線は串を受け取った女性の唇に―――。


「きゃぁぁぁああああーーーー!!」


店内に複数の黄色い悲鳴が響き渡った。

いつものことだ。

左近は気にせず、弟に目配せをして、調理に勤しむ。

彼にとってはただの確認行事だ。彼女はただ、新作甘味の実験台にされただけである。

女性たちもそれをわかっている。わかっているが、嫉妬の炎は止められない。されど、左近が店内の誰にも気がないことも知っているから、焦がれる思いはファン意識となって、結果、(みつ)ぐのことになる。

要するに、ブルジョアな御姉様方やおば様方は、店の売り上げに大幅貢献してくださった。


「ああ、左近様ぁぁぁああ!! そんなcoolなところが溜まりませんっ」

「こっち見てぇぇええっ」


 しかし、左近は無視。

黙々と仕事を続ける合間に、ちらと弟の右近に目配せしただけで、あとは知らん顔だ。

女性たちは彼のそんな姿にもっと熱を上げ、叫び、勢いよく注文の突風を巻き起こす。


「すいませーん! 右近様、抹茶団子、三つ買いますので、左近様とお写真など取らせてください」


 どさくさに紛れて、上気させた顔で抜け駆けしようと左近に近寄る少女。その背後で、両方のファンの女性たちがハンカチを噛み、怨嗟の声を上げる。曰く、


「あの普通顔少女! なに羨ましいコトちゃっかり右近様にお願いしていますの」

「リンチよリンチ」

「ならばわたくしも……」

「あ、こら、てめっ、抜け駆けするつもり? ならわたくしだって―――」


 その間もわれ関せず、黙々と仕事に励む左近。注文の物を取りに来た苦笑する売り子に無表情で、ずいと品物を渡し、引き続き、調理に励む。

ちなみにここの厨房はカウンター式で、お客様の顔がよく見えるようになっている。


 頬を上気させ、執念に燃える女性たちの思いは、右近のにっこり顔で押しとどめられた。


「当店ではそのような業務は致しておりませんっス。左近兄ィ、抹茶団子三つ」

「了解。お客様、少々お待ちいただければ、あ~……写真は無理だが、話くらいは――」

「本当ですか!?」


 喜色満面。近寄ってくる平凡な顔立ちの少女。左近は戸惑った声を出して、ちらりと彼女を見た。


「あ、ああ。もう少しで、材料がなくなるからな」

「左近兄ィはお人よしっスねェ。皆さまも今日の兄のお茶会に加わりたいならお早目にお願いするっス。おれっちはそこまで関与しませんっス」


 営業用のにこやかな笑顔で、流麗な所作で、絵になる立ち姿で一礼する左近そっくりの男。

 片手には注文の品であるジュースと甘味の器が乗せてあるおぼんを掲げて。もう片方の手は鍛えられた腹の上に置くように。


白い歯を見せて、にこっと懐っこく笑った眼には、左目がない。

兄とは反対側に黒い眼帯を巻き、同じく眼帯を隠すように兄と反対側へ茶色い前髪を少し垂らしている。彼の名は右近。志木兄弟の弟だ。

 満席の店内を切り盛りする低いのによく通る声。

雇いの売り子たちは彼の指示に従い、客席をぱたぱたと着物の裾をはためかせて、とても元気な笑顔で忙しなく動き回る。

人好きのする笑顔が人気の好青年。桜のバンダナと前掛けエプロンが特徴的な彼は、〈桜と橘〉の接客担当だ。


 ある客席に差し掛かったところで、今度は少し美人な部類に入る女性から声がかかる。

 袖を引かれ、右近は足を止めた。運んでいた品物に気を付けながら屈んで、女性と視線を合わせる。


「右近様! 右近様はお茶会に参加されませんの!?」


 期待の眼。右近は少し、困ったように笑って、頭を僅かに下げた。


「申し訳ありません。おれっちはこの後も仕事があるっス。御指名に答えられなくて本当に心苦しい。その分、今度来店されたときにサービスさせてもらうっスよ?」


 困りながらも艶やかに。まるで物語に出てくる王子様のように。そっと誘ってくれた女性の手に己の手を重ねて切なげな眼差しを―――。


 女性は気絶した。


「ああ、申し訳ありません。誰か、この女性をいつも通り、奥の部屋へ」


 右近の支持を受ける前に、数人の店員が出てきて、幸せそうに眠っている女性を奥へ連れていく。右近は今度こそ、本当に困った顔で。頭の中で算盤をはじいて、お詫びの品の用意を会計係にさせた。


(おさ)直伝のヒト(モ)殺し(テ)テク………いつも思いますが、効き過ぎじゃないっスか? なんでこんなに気絶者が出るっスか。それも美人な女性ばっかりッス。普通女子にモテたいッス。……はぁ……」

 小声でぼそりと秘かに溜息をついた右近。

弟の呟きが聞こえた左近は、心の中で秘かに同意する。

 二人は知っていた。『何事もほどほどが一番。普通が一番。美人はもう懲り懲り』だと。

 それなのに蓋を開けてみれば、麗しい方々ばかりにモテるとは、いったいどういうことだ。このままでは、自分の好みに合う女性に出会えない。出会う前に周囲の女性に潰される。

 左近と右近はどこかで道を間違えたようだ。

 二人はまだ年若いというのに、だからこそ、実は秘かに婚活に悩んでいた。

 


 ◇◆◇



志木兄弟が揃ってこっそり、自分たちの女の趣味と寄ってくる女の人種に悩んでいる頃。店は長蛇の大満員。客層は主に女性たちだが、時々、家族連れや学生、恋人たちが混じる。

同じ〈桜と橘〉の店内で、詰襟制服姿の女性と少年が仲良く言い争いをしていた。


みれば女性の方は政府のお役人様のようで、シワひとつない紺の制服を着て、腰に銃を装備している。細く艶やかな黒髪を束ねてツバ付き帽子の中に入れていた。

気が強く、キツイ印象を受ける公明正大そうな10代後半の女性だった。

にこにこと笑み崩れて、今流行だという“葛きりパフェ”に箸を伸ばしている。


彼女の嬉しそうな笑顔を見つめ、肘をついて見守る少年は、空になった財布を振って憂い顔。

姿からこの明正の世で警察の役割をする憲兵なのだろうか。

深緑の憲兵服を纏った色黒のツンツン黒髪頭の少年だった。腰に黒鞘の太刀を一振り、佩いている。

少年は財布を見つめて溜息を吐く。慣れた風で首を横に振って、深く考えることを諦めた。

ひょいっと隣に座る連れの皿に手を伸ばす。


「ちょっと三佐! あんたあたしのみたらし団子、食べたわね!?」

「果敢姉ちゃんが早く食べないのが悪いんだろうが。団子もおれに食べられたがってたぜ? 自業自得だろ。あむっ」


 キィッとまなじりを釣り上げる果敢と呼ばれた政府役人風の女性。

 三佐と呼ばれた色黒少年―――憲兵の悪ガキは、迷惑そうに片目をつぶる。

襲い来る果敢の手から、上体をそらすことで逃れつつ、もう一本、串を口に運んだ。

ムキになった果敢が三佐の胸や頭をぽかぽかと叩く。


「返しなさいっ、吐き出しなさいよ! このっ、このっ」

「いたっ、痛いって。団子の一本や二本で小せえこというなよ果敢姉ちゃん。元はといえば、おれの金だろ?」

「それでもっ、最後に食べるの、とっても楽しみになんてしてないんだからっっ!」

「わぁーった。わかったって。今度、今度また奢ってやるから」

「今がいいのっ。今弁償しなさいっ。今度と言わず今奢らせてあげるわ!」

「無茶苦茶いうなよ」


呆れ顔。三佐は果敢の頭を撫でようとして、途中で手を止める。

瞬時に果敢も相方にじゃれ付く行動を止め、三佐の手を払いのけて、店の外に鋭い眼差しを向ける。

二人揃って何かに気づいたようだ。

三佐と果敢の周囲の気温が冷たく、1、2度下がったような錯覚を二人は互いに覚える。

周囲の喧騒が遠のき、二人は外の音に集中する。

店内の異変に気付いた志木兄弟も、女性たちに囲まれながら、ちらりと外に―――日本橋の方に抜身の刃の如き剣呑な視線を向けた。

だがそれは一瞬のことで、双子店主は周囲に笑顔を振りまき、瞬く間に店内に黄色い悲鳴がそこかしこで上がった。


騒ぎに紛れて、果敢と三佐の公務員組が動き出す。


「三佐」

「おうよ。久々の“妖魔討伐”だな。今度はどんな獲物が斬れるか楽しみだぜ」

「はしゃいであたしを置いて行かないでよ? これでも列記としたか弱いレディーの一人なんですからね。ちゃんとエスコートしてよ?」

「か弱い? 冗談! 逞しい明正女性の間違いだろ」


 無言で果敢は三佐の頭に本気の拳骨を一発落とした。

 頭を押さえて、声なきうめき声を上げる色黒少年。恨めしげに前をきびきびと歩く背中を睨み付ける。人混みをすり抜ける二人の気配は薄く、誰にも見咎められることはない。


「暴力女。だから未だに独り身なんだよ」

「あーら、単細胞の戦闘狂いよりはマシよ。貰い手はあるから独り身なのはあたしの勝手でしょ。いざとなったらあんたが貰ってくれるんでしょ? 期待してるわよ」

 肩越しに言葉が降ってくる。

 返す言葉は挑発的に弾んでいて、楽しそうな笑みを含んでいた。

 三佐は遠くを(はし)る緑色の巨体を見つけて、速度を速め、果敢を追い越す。

 対象は町の名前ではない日本橋の手前を走っていた。


「ちぇっ。女ってのは、これだから………強かすぎてか弱いなんて、口が裂けても云えねえよ」


 妖怪や修羅神仏悪鬼羅刹の人外と契約したヒトならざるモノ―――()()

対価を差し出して得られる能力の恩恵は凄まじく、契約した人外の影響によって、視力が良い三佐の眼には、鋭い鎌を振り上げては降ろし、返す刃でもう一度、なにか小さい者を駆ろうとするバケモノ蟷螂の姿が、遠目にもはっきり見えた。


「あっそ、もう一発殴られたい?」

「それより、妖魔退治だ。果敢姉ちゃんはそんなに急がなくてもいい。おれがもし、取り逃がしたときに備えて、後方から援護を頼む。まあ、おれ一人でも大丈夫そうだけどな」

「いやよ。あたしも風由の一員よ。ちゃんとやるわ」

「了解。怪我だけはすんなよ? 果敢姉ちゃん、一応美人なんだから」

「だ、誰に向かって云ってるのよ。あ、当たり前よそんなの。フンだっ。あんたこそ、怪我なんてしないでよ? しても看病なんてしてあげないんだから。み、見舞いと差し入れくらいは、してあげてもいいけど………?」

「おう、わかってるって。果敢姉ちゃんのツンデレはよくわかってるから」

「だ、誰がツンデレよ! あんたなんか豆腐の角に頭ぶつけて死んじゃえっ」

「いや、豆腐の角では人は死なねえから」

「知ってるわよ! 言葉の綾よ。―――って、三佐?」


 急にスピードを上げて跳躍。屋根の上に飛び乗り、申し訳なさそうな悪ガキの笑顔。三佐は顔の前に指先を揃えた左手を掲げ謝る。


「悪ィ、果敢姉ちゃん。先行くわ。ちとヤバいっぽい」


 一言断りを入れるなり、色黒憲兵は建物の屋根を蹴り、家から家を、建物から建物を、道から道を飛び移って先を行く。

 焦った果敢は追いかけようとして、自分にはその芸当が出来ないことを思い出した。

 果敢の隠叉は、三佐のようにガチな武闘派ではないのだ。それに果敢は三佐や、志木兄弟、風由の隊長や副隊長ほど、身軽ではない。

 同じ隠叉でも、あんなに人間離れした動きは自分には出来ない。

 果敢は良くも悪くも、まだ、人間だった。


「もうっ。あたしあんたより弱いんだから、置いていくなって、いつもいつも、口酸っぱくして云ってるのに!! どーして置いていくわけ? 追いかけるの、大変じゃないっ」


 果敢は憤慨して、遠くに見える化け物蟷螂を視認し、近くを通りかかった人力車に乗り込んだ。



 ◇◆◇



日本橋の橋の上で、歌が聞こえる。

巧みな三味線の伴奏がついた歌。

音程が少しずれた歌。


 気持ちよさそうに歌っているのは、淑やかな女性の声。



文明開化の時の声

諸行無常の響き有り

妖怪(オニ)どもがオギャアとさわぎゃ、

人間どもが泣きまする


お歌をお聞かせくだしゃあせ

散切り(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明(ぶんめい)開化(かいか)の音がします

ほんなら叩いてみましょうか

なにも聞こえて来やしやしまへん



 声は透き通るような響きを持って、日本橋川の水流に解けて消えていく。消えた途端、紡がれる小粋な三味線の音。微妙にずれた音程が少し笑える。

 通りがかりの人々が、“彼女”をちらと見て、前に置かれた賽銭箱に銭を投げる。


「あら? あそこで三味線を持って唄っているのは誰かしら?」


帝都・東京の街をそぞろ歩いていた娘はふと足を止めて、連れの娘に声を投げた。


「え、どこ?」


女学生の友人同士、いつものように反物屋や商店街、甘味屋などを冷かしていた彼女。連れに言われて周りを見回せどもそれらしき人は幾人か居て、見当が付けられない様子。


「ほら、あっち。あの妙に耳に残る小唄と声の……」


見かねたもう一人の娘は、勢いよく着物の袂をはためかせて三味線を持った“女性”を指さす。年の頃は20代前半。いや、それよりも少し若いだろうか。藍色をおびた黒髪が美しい妙齢の着物美人だった。

少し影のある儚げな雰囲気と浮世離れした佇まいが印象的だ。

彼女は木箱の上に座り、近寄ってくる男たちをあしらいながら達者に三味を弾いている。

友人の指さす先を見て、もうひとりの娘は納得した。


「ああっ! あの奇妙で売れない小唄ね。ほおら、最近噂のオニイさん」

「え、ええっ……!? お、お兄さん!?」

「そうなの。アレ、オニイさんなのよ」


微妙にイントネーションが違う言い方なのだが、二人は気づかず会話を続ける。


「だってあれ、あの人、とっても美人よ!? だけどお兄さんなの!?」

「そうなの。驚きでしょ?確か名前は――」


話す二人の横を、息せき切って彼女たちと同じような歳の女性がすり抜けていく。


「きゃっ!?」

「ちょっと、何処見てるのよ!」

「ご、ごめんなさい! 急いでるのっ。あなたたちも早く逃げた方がいいわよ」


女学生二人にぶつかった鈴子は言葉の通り、急いで謝り、胸に大事そうに抱えていた書物を抱え直してまた蒼天の空の下を駆けて行く。その形相はとても切羽詰ったものだった。


「逃げるって、なにからかしら?」

「さァ……?」


 突然、急な突風が吹いた。

 女学生たちや橋の上を歩いていた人間たちは悲鳴を上げ、彷徨い出てきていた妖怪たちは一瞬にして立ち消える。

 肌をちりちりと焼く嫌な気配が、橋を勢いよく渡って、女子高生を追いかけていった。


「なんだったのでございましょう?」

「吃驚しましたわ」

「それより今度はあっちを見ましょうよ」

「いいわねっ。いきましょう――」


女学生と一冊の書物を抱えた娘が去った街道で、三味線を持った“女性”――追っ手を撒く為、女装をして趣味の三味線弾きに精を出していた妙齢の男はニヤリと笑みを浮かべる。


「妖魔か。遠くで三佐と果敢が動き出したな。今回の獲物はあの書物。―――といいたいところだが、バケモノ蟷螂の方が先か。やれやれ。大変だねぇ。若いの。人生は苦難の連続。楽な道ばかりじゃないってかァ? めんどくせぇ。おっと……来たな」


音が聞こえる。土を蹴る小柄な少年の足音だ。

目をやれば中華服の様な改造着物を着た十歳ぐらいの少年がこちらに走ってきていた。

これは危ない。

女装した男は三味をひとつ打ち鳴らす。

すると男は一瞬のちには霞でも払ったかの如くそこから消え去っていた。


少年は男を捕えきれなかったことに地段々を踏んで悔しがる。


これが近頃噂の怪異。――三味の声鳴る(げい)()の風来坊――(かな)



 ◇◆◇



 鈴子は煉瓦造りの駅前らしき場所辺りで、力尽きて、壁にもたれかかった。


「たすけて……。誰か、助けて………!!」


 絶望に染まった白い顔。鈴子は涙を流して助けを求めた。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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