隠叉(おに)の強盗事件
――〈帝都・東京〉――
時代が明正と変わる以前の幕末時代、武士と呼ばれていた者たちはどうなったか?
ある者は浪人となり、人斬り、辻斬りと成り果てて、その身を滅ぼした。
またある者は心機一転、商人に転身。その多くは慣れない商いに手を出して没落の一途を辿ったが、一部の機転の利く者たちは、一夜にして富豪の財を築いたという。
さらにまたある者は、これは本当に稀有なことだが、幕末の功労を称えられ、爵位を授与され、貴族となったらしい。けったいなことだ。
それらの者たちは、爵位を与えられる代わりに、当時、人手不足だった明正新政府で、現在も変わらず、その能力を存分に生かして、働いているらしい。
さて、そのけったい者な元武士階級――士族ともいう――である明正貴族たちが、こぞって豪勢な屋敷を建てた町がある。
その高級住宅街の一角に西洋風の広々とした大きな屋敷があった。
修羅神仏悪鬼羅刹狐狸妖怪―――俗に妖怪や神などと呼ばれる人外と契約せし人ならざるヒト、隠叉の本拠地。
人でもない、妖怪でもない、神でもない。
すべての理から外れ、すべての理に介入できる隠叉たちが、最後に頼れる心の拠り所。
政界の大物政治家、四十九院家24代当主、四十九院銀が住まう〈四十九院家本邸〉である。
西洋風の洋館。
悪鬼羅刹渦巻く、静かな屋敷の中で、からからから……と何かをひく音が聞こえる。
暗がりから現れたのは、可憐で清楚なメイドがひとり。
透き通るように白い肌。儚い雪を思わせる鼻筋の通った小作りな顔立ち。世にも珍しい深海の氷の如く美しく青い髪は、後頭部で団子状に纏められ、頭にちょこんと乗せられた真っ白いヘッドドレスも歪んでおらず、洗練されていて品が良い。
歩く音にも、黒色のロングスカートに白のエプロンといったオーソドックスタイプのメイド服が奏でる、衣擦れの音しかせず、彼女がメイドの中でも、なかなか上級の部類に位置していることを暗示している。
年の頃は十八。少し背の高いスレンダーだが豊満な体をした女性である。
前が見えなくなるのではないか? と思われるほど、大量の書類を台車に乗せて、彼女は赤い絨毯の敷かれた廊下を通る。
途中で宙を飛んでいく妖怪や、隠叉たちに出合えば、軽く会釈をして、挨拶をかわす。
屋敷の中央。三階の一室に繋がる隠し扉の前で、メイドは台車をひく手を止めた。
今まで伏せ目がちにしていた憂いを帯びた赤茶色の瞳を上げる。
此の先に現在の彼女の主人が居た。
主人と言っても、旦那さんとか、亭主とか、夫の意味合いを持つ主人ではなく、雇い主、の意味合いを持つ主人である。
女は右手を豊満な胸に当てて、息を整えてから、西洋風にノックをしようと柔らかく握った拳を、繊細な細工が施された木の扉に向けた。
―――コンコンコン。
「失礼します。銀様。涼華です」
「入れ」
「失礼します」
涼華は流麗な楚々とした仕草で一礼。
ソファの上から身を起こす長身痩躯の男が目に入る。
彼が涼華の雇い主、四十九院銀。
外見の年の頃は二十六ほどだが、実年齢は涼華でさえ把握していない。
十人いたら十人どころか、もっと振り返って息を詰めるのではないか? と思われる絶世の美男子である。
常に眠たそうにしていて、その気だるい雰囲気が彼の色気に拍車をかけているとは、社交界のご婦人方の噂だ。
今も少しだけ、仮眠をとっていたらしい。
欠伸をかみ殺して、机の上を片付け、銀は涼華の前で、大陸由来の万年筆を手に取り、姿勢を正した。
涼華も醜い方ではないが、この人の美しさと王佐の才とでも云おうか? 王者の素質とでも云おうか? 圧倒的迫力には負ける。
すぐ傍に居るだけでも、その美貌と清廉な色香に少々威圧されてしまうのだ。
美しい人は何をしていても、惚れ惚れとするくらい似合うので、少し妬けてしまう。
涼華は何度思ったかしれない、一瞬の思考を心のうちにそっと押し込めて、全体的に明るく豪奢な西洋趣味の部屋の中へ台車を押して入った。
「追加の書類をお持ちいたしました。御覧になりますか?」
「見よう。今日は誰か来客はあるか? 手紙もあるなら寄越せ。ないなら書類を置いたら茶を入れろ。眠気を覚ます茶だ」
銀は山と積まれた書類の束をパラパラとめくり、素早く黄金色の瞳を動かす。
その際、署名が必要な書類には内容を三度確認してから署名出来るものには署名。出来ない、もしくは実行不可能な申請書の類には、不可の判を押す。
実行可能、解決済みの書類は同じく、解決済みの書類の山のてっぺんへ。
不可の判子が押された書類は、解決済みの束とは別の書類の山。実行不可の書類ばかりが積まれた荷台の頂上に、ドサッと真新しい不可の書類を積み上げていく。
目にもとまらぬ仕事の速さである。この人の仕事姿を見るたびに、涼華は舌を巻く。
台車に積んで、前が見えなくなるほどうず高く積まれた書類。涼華が積んできたその未決済の書類は、あっという間に9割8分が決済済みの書類の山に積まれてしまった。
この決済済みの書類の山を“外”に運ぶのも涼華の仕事。
眠たがりやな銀様の面倒を見るのもメイドたる涼華の仕事。
この部屋の“外”との渡りも涼華の仕事。
目前の西洋机の上に置かれた未決済の書類が無くなった。
銀は疲れた目頭を揉み解し、寝台も兼ねさせているソファに倒れ込む。短めに切った白銀の髪を白い繊手で乱暴に掻き乱し、ソファの肘掛けに置いたクッションなるものを枕にして、気だるげに、うとうと眠りに着こうとする。
そこへサッと涼華が眠気の覚める薬草茶、彼の弟特製レシピを使ったハーブティを出す。
ほのかに香る薬草の香り。甘いクッキーの香ばしい匂い。すっと鼻につく柑橘系の甘酸っぱい香り。においが浅い眠りについた銀の覚醒を促し、まず頭を冴えさせる。
むくりと起き上がった銀は、金色の線が引かれた白磁器の古伊万里のティーカップを手に取る。
「……あ~……っ。美味い。」
「有難うございます」
「やはり眠気覚ましにはハーブティが一番だ。コーヒーだと苦くてどうも逆に眠気が重む。ジャムはあるか? 苺が良い」
「ここに」
涼華はイチゴジャムの大きな瓶を大匙のスプーンと共に差し出す。
銀は満足そうに瞳を輝かせ、大匙満杯で三杯もティーカップにジャムを落とした。激甘である。もはや元の味などわからないのではないか? 普通の甘党でない一般人なら甘過ぎて吐きそうになるだろう。そんなお茶を、銀は心底美味そうに飲み干して、ニヤリと笑い、お代りを要求する。
「銀様、糖分を控えねば病気になり、太りますわよ?」
「構わん。――と云いたいところだが、私が太ったらラクの奴に怒られそうなのでな? 今でも時々来ては、昔みたく、この私の怠惰な生活態度を叱り飛ばしてくる。本当に、この年になっても叱り飛ばしてくれる者が居るのは有り難い。だが、これ以上怒られるのは少々敵わん。――というわけで、止めておこう。」
銀は手に持ったティーカップと目の前のジャムを未練たらしく見つめ、思いを断ち切るように苦渋の決断をする。
要するに、カップを置いて、涼華が下げるに任せた。
「そうですね。それが宜しいかと存じます。紫楽様を怒らせると本当に怖いですから」
涼華はくすっと笑って、砂糖が小さじで五杯入ったアールグレイの紅茶を差し出す。
銀は子供の様に神妙な顔をして、ずずっとお代りの紅茶に口をつけた。
「あの弟は、怒っても怖いが、泣かれても怖い。何をするかわからない変人だから、普通にしていてもある意味こわい。本当に同い年の兄弟なのかと時々疑うことがあるよ。」
「そうでございますわね。それが我が“長”の魅力でございますから。ふふふっ」
「“長”か。アレは私にとっては、少々ぶっ飛んだ幼少期の母代りの弟だが、ラクはあなたの元婚約者であろう? “風由”の三番手、氷扇の涼華殿。何故そのような他人行儀な呼び方を我が弟にする? 弟もあなたを愛していたであろう?」
「この恋は、すでに叶わぬものですから……」
涼華は豊満な胸に手を当てて、まぶたを落として俯く。
ゆっくり顔を起こして、儚く微笑んだ。
「わたくしはこうして、銀様、紫楽様、風由の為に働ける。それだけで、真に幸せなのでございます」
「紅茶はお口に合いまして?」
「ああ、美味い。ラクの茶の次にな」
「そうでございますか」
落胆を含んだ声で涼華は言う。
「だが、外交先で出された高級茶よりはマシだ。甘くて良い。思いも詰まっているからな」
「そうでございますか」
今度は歓喜を含んだ声音に、涼華は笑みを含ませた。
「さて、茶の味は脇に置いておいてだ。あるのだろう?」
「何がでございましょう?」
「とぼけるな。隠叉とお家の裏仕事に関わる案件だ。私を通さず、我が弟の“風由”に持ち込むことは許さん。妖魔退治や隠叉の管理、実際の現地での実務に私が役に立たなくとも、目を通すのが四十九院家の当主たる私の義務だ。最終的な書類を造り、判を押すのは私なのだからな」
切れ長の金色の瞳を、まるで獲物を逃がすまいと狙う狼の如く怒らせて、圧力をかける。
涼華は仕方が有りませんね、と肩を竦めて、一束の報告書を差し出した。
「四十九院家の保管庫、妖羅界にある文月の万屋内の金庫、双葉の実験室、此岸(現世)の水無瀬家の蔵、四車家系列の寺社倉庫、五百扇家の舞台倉庫、風花六花様の所有する旅館と歴代の雪像部屋、神那岐家系列の神社宝物各種、夜神家系列の商い蔵まで、どうやったのかは知りませんが、白波が忍び込み、仕掛けを働いたようでございます」
銀はそれをひったくるように受け取り、急いで目を通し、何回も読み返す。
「四十九院家と八鬼衆、総網羅でございますわね。さすがに紫楽様が長を務める株式会社“風由”までは、その白波も手を出せなかったようでございますが」
どこか誇らしげに涼華は微笑み、あそこの警備体制も破られていたら本格的に危なかったですわね。命拾いしました、とのたまう。
銀の中に常日頃から、溜まりにたまった、倦怠感を伴う眠気。
それが一気に吹き飛ぶかと思うほど、銀は天変地異がひっくり返っても有り得ないと思っていた衝撃に脳天を全力で殴打された。
心の蔵から冷え込む寒気と、沸騰するのではないかと感じるほど、速く動く頭の回転が悲鳴を上げ、銀に事の重大さを理解させる。
隠叉の総本山たる四十九院家と一筋縄でも二筋縄でも行かないバケモノ……いや、猛者である八鬼衆の家々が人知れず襲撃を受け、泥棒に入られた?
(相手は誰だ? 理を外れた元、天狗警察所属の大天狗か? それともぬらりくらりと人の家に上がり込むという妖怪たちの大元締め、【ぬらりひょん】? はたまた、戦国時代にかの有名な織田信長公と契約し、信長公を天下統一に導いたという冥界の魔王【第六天魔王】か? いや、あの第六天魔王は現在、封じられたまま、行方不明になっていたはずだ。ぬらりひょんにしても違う。あやつはそんなせこい真似はしない。もっと“粋”だ。ぬらりひょんの仕掛けなら、もっと“祭り”の如く、派手になる。それこそ、百鬼の主の名にふさわしい器量で。ならば、もしかして、ラク、か? いや、あいつは風由の頭領だ。あいつは、あいつだけは俺様を裏切らない。あいつは、盗みなどしなくとも、すでに十分、力を持っている。ならば、誰だ? 他にこんなことが出来る奴は? 八鬼衆の誰かか? それとも、―――外部の誰か、か)
政界の鬼才、『銀狼』の二つ名を持つ銀の思考が加速する。だが、答えが見えない。仕舞いには、目前に楚々として立つ涼華まで、疑いにかかりそうになる始末。
だが、涼華の能力では、そこまではできない、ハズ、と疑いを捨てた。
銀は真っ直ぐ、自分と弟に絶対の忠誠を誓うメイドの赤茶色の目を見据える。
銀の頭をもってしても正しい答えが出ない。
それだけ有り得ないことが起こったというのに、涼華は冷静に事の次第を分析して話し出す。
「災厄級や超一級の隠叉を作成するため、わが社には武闘派の隠叉が集っていたことが、今回の勝因でございましょうか? 四十九院家と分家の八鬼衆の方々には、この件で、もう少し警備を強化してもらわなければと肝に銘じ、すでに手配済みの次第でございますわ」
銀の額にピキリと青筋が一つ浮かび上がり、眼差しが強くなる。
(事後報告、と来たか。相変わらず仕事の早いこった。ラクの、というより、涼華の判断か。ムカつくっ)
「されど、隠叉を意図的に作成するための、妖魔を倒した後に収穫できる宝玉や、それを組み込んだ媒介が盗まれたのは、とても痛いことには変わりありません」
銀は赤ワインを一口、苛立ち紛れに呷った。
(だろうな。八鬼衆全網羅の上、ウチもヤラレタんだもんなァ? 隠叉ってのは、一体だけでも厄介な代物なのに、それを集めてどうする? 幕末の時のウチ……というか、風由みたいに、修羅神仏や人間相手に戦争でも始める気か? で、お前らはどーしたんだ? ええ、おい?)
思考をして、一旦考えを脇に置き、話を聞く。
「メイドの連絡網と風由の連絡網を使用して、なおかつ、天狗警察さまにもご連絡申し上げまして、目下、盗品を捜索、回収に当たらせております。中には、五百扇家に奉り、封じられていた【土蜘蛛】などという災厄級の妖怪も居りまして、数人の駒が死傷するかもしれないと覚悟の上、事に当たらせております。銀様はどうぞお気になさらず。弟君の紫楽様との約定通り、表の仕事に従事していただきたく。これにて、この件の報告は終わりです」
涼華は静かに頭を下げた。
眼前に座る人物から、そこはかとない怒気を感じた。
意識して、顔に薄い笑みを貼り付けてから、顔を上げる。
案の定、銀は本気で怒っているようだ。
「マジか? 涼華チャ~ン、泥棒に入られたこと、俺様にも云ってくれないと、本当に困るんだけど。なあ、なんで黙ってたんだ? 言えよ。お兄サン、怒らないから」
「銀様、ガラのお悪い素が出ております」
ち、と舌打ちして、洋装のズボンを纏った長い足を組む。
「銀様、行儀が悪うございます。ゆくゆくは腰の骨がいがみますわよ?」
「うるせぇな。おまえは俺様のカアチャンか? ラクでもそこまでは言わねぇよ。つーか、本物の母親は発狂してるから、そもそも言えねぇか。ハッ!」
「やさぐれないでくださいまし。銀様。貴方様の業務上の第一希望、[睡眠時間の大量確保]を最優先事項として、思考した結果でございましてよ? わたくしは、人形に出来る、最良の仕事をさせて頂いたつもりでございましたが、―――お気に召さなかったご様子でございますわね。至らないところだらけで、真に申し訳ありません。精進致します」
涼華は深々と再度、頭を下げた。対して、銀は、少し気まずそうな顔をして、姿勢を正す。
「自分のことを、“人形”なんて言うなよ」
「事実でございます。お気を悪くしたならお謝り申し上げます。ごめんなさい」
「………ちっ。謝ってんじゃねえよ」
「申し訳ありません。以後、心掛けます」
「………クソっ。とりあえず茶、入れなおせ。そんで書類持って、外行けや。それで今日の仕事は仕舞いにしていいぞ」
手を外に払って、指示を出す。
涼華は大輪の花が咲くような満面の笑みを弾けさせて。
「はい! ありがとうございますっ」
礼を言い、すぐに茶器を手にして、明るい赤が魅力的な紅茶を入れる。
銀は、気まずそうに天然パーマの入った柔らかい己の銀髪を、長い指で掻き、歯がゆそうに唇を噛む。
何か言おうか、言うまいか、迷っているうちに、涼華は入ってきた時と同じく、台車を押して、隠し扉の方に消えていく。
「涼華!」
「はい、銀様。何用でございましょうか? なんなりとこの涼華をお使いください」
涼華の云い様に、またも銀は渋い顔をする。そして、一言だけ、こう云った。
「頼んだ」
涼華はにっこりと嬉しそうに笑って、去って行った。
扉が閉まる音。
銀は、いつも寝台代わりにしているソファの背に、大きく息を吐いて倒れ込む。
「家族に“自分は道具だ”なんて言われて、気分が良い訳ねえだろうが」
涼華が入れてくれた紅茶を一気に飲み干す。
(ラクにしたって、風由の奴らにしたって、どうしてこうも、てめぇら忍びは、己のことを“道具”のように言うかねえ? ホント、気分が悪い。すこぶる悪い。………ムカつくっ)
銀はソファに横になって、ふて寝した。