八.紅い月の見える神隠しの夜
消灯後の寝静まった病院で、空鵺は荒い息を整えて、鈴江の眠る病院を見やる。随分弄ばれたが約束は果たした。あとは待つのみである。
自らの“主”が好きな人型をとって、“主”の命で動き、“主”を待つ。
十代後半の人型の姿をとり、猫耳と尻尾を生やした黒髪蒼眼の獣妖怪は、真っ白い壁に寄り掛かるとゆっくり音を立ててへたり込んだ。疲労困憊である。どこかから力が抜かれていく気配がする。主が願いをひとつ叶えたのだろうか。対価を………貰わないと。契約に則って。
隠叉(二)は『人のなかに隠れる夜叉』と書いて隠叉である。人を宿主(器)として憑依(住み着き)し、人の願いを叶えることで対価をもらい、存在できるとされている。本来は―――そう、伝えられている。
実際は願いを叶えなくとも存在はできる。隠叉のもとは、力ある、修羅神仏魑魅魍魎だから。
人に一度降された人外。人に一度は仇なした人外。人を好きで好きで仕方なくて、隠叉となった者もいる。彼らは人と契約を結び、隠叉となった。
ソラの場合も最初は三番目だった。人が好きだった。愛していた。だが、今の彼は一部を除いて人間が嫌いだ。
彼は罪を犯した。この上なき罪を犯した。願いを叶えることで、人にその罪を贖うのだ。
それが彼の“業”なのだから。
そっと目を閉じて待っていると、どれくらい経っただろうか。ほとんど気配の絶たれた僅かな足音を空鵺の猫耳が捉えた。ぴんとはった猫耳を少し揺らす。
「ソラ、起きてるよね?」
中性的な透明感のある少し高い子どもの声。待ち人が来た。そっと瞼を開いて、愛しいものを見る優しいに眼差しで淡く微笑む。
「ああ、起きている。そちらは大事ないか? “主”」
物陰から出てきたのは、小柄なシルエットの少女。四十九院 遊楽だった。
「ああ、問題ない。僕のことにヤケに詳しくて、君のことも知っている変な女性に会ったけど、どっかに飛ばしておいたから、今頃は時空を彷徨っているはずだよ」
彼女は肩を竦めてなにかをどさりと落した。
「それは?」
「宿主」
落し“者”にちらりと視線を投げかけて、言葉を続ける。
「表の当主候補、四十九院 胡桃。取るに足らない覚えなくともいい存在さ。どうせ僕はこいつのために働く気は一切ないしね」
「そうか。主がそういうのなら覚えない」
「うん。それでいい。それよりもあの妙な女、いや精神体か? あれはなんだったんだろうな。柚之木とかいうあの大学生作家見習いさんは」
「直接会った主がわからないのならば、主の従者たるオレがわかるわけがない」
「アッハハハハ! 違えねえ」
腰に手を当てて渇いた笑い声をあげる遊楽。空は黙って主の次の言葉を待つ。
「で、首尾はどうだ?」
「抜かりなく」
「よしっ。さすが僕の自慢の相棒! 褒美を遣わそう!」
「ははあっ!………ってか? 何処の姫様と臣の会話だ」
「いいじゃん。昔やったし」
「確か………戦国時代以前、だったか? というと室町時代あたりのおよそ十代前の“主”だな」
「そうそう、確かそのあたり。経歴は……なんだっけ?どーでもいいけど」
「どーでもいいなら聞くな。まあ、答えるけどよ。その時の“主”はどっかの大名の娘で、オレはその直属の家臣を戯れに演じていたな。確かその時の主の死因は………父親の家臣による内部の裏切りから発展した落城の末の自害。介錯はオレがやって、復讐と後始末もオレがやったな。御年19の春だった。呆気なかったな」
昔を懐かしむように淡々と答える空鵺。現代の主は自分の体を抱えて震え、相棒であり、従者である彼の背を思いっきり、親しみと不満を込めてばしばし叩く。
「もうっ、余計なこと思い出さなくていいのっ! おかげで白刃を構えるおまえの姿を思い出したじゃん!」
「すまん。歳をとるとどうも感傷に浸りやすくて適わん。肉体はまだ、若いのにな」
空鵺は主の手をとって、これ以上叩かれたらかなわないと封じながら、苦笑する寸前の表情でそっと俯く。
「仕方ないよ。平安時代の記憶もあるからね。僕たち。仕方ない、仕方ない。ほんと、長く生きてきたもんだねぇ」
「………そうだな。ながく、生き、過ぎた……」
主従二人して、病院の窓から見える夜空をなんとはなしに眺めた。と、その時!
「そ、ソラヌエ! あ、あれ、あれあれあれあれっ!?」
「主よ、オレの呼び方統一しろっていつも言ってるだろう!? じゃなくてっ、なんで【百鬼夜行】の封印と【血塗れ兎】の封印が解けてやがる!? 前の“主”の代で“風由”総出で封じたよな? ぼろぼろになりながら、みんな死にかけながらもしっかり、きっちり、すっぱりと縁切りしたよな主!?」
「そそそ、そのはずだよ空鵺クンっ。それよりもアレ、アレ、あれ! な、ななな、なんで紅い月がのぼって桜が見えるんだい? いま夏だよ、怪奇現象だよ、ホラーだよ!!」
赤く染まった月が照らす、昼でもないのに真っ赤な夜空を行脚する【百鬼夜行】とその先頭を行く飢えた【血塗れ兎】の兎の耳と尻尾が生えた西洋風衣装の人外を発見して、猫主従二人は震えあがる。
数千年も輪廻を巡って来た“主”とその間、ずっと妖怪として、隠叉として、主の従者として付き従ってきた空鵺というこの主従がそれくらいで慌てふためくとは、少々情けない物がある。空鵺もそれに気づいたのか、我に返ってぼそっと呟くように言った。
「…………今、一番の怪奇現象の主がなにいってンだか」
どげしっ。
腹に一発、強烈なツッコミの手を入れられて、苦悶にうめくことになった空鵺。
憐れ、猫従者。雰囲気がちょっとだけ、ほんのちょっとだけ嬉しそうなのは気にしてはならない。なんせ彼からしたら、こんな戯れも約六十年ぶりなのだから。仕方がない、仕方がない。心の底でもっとキツイのでもいける、この絶妙なS具合が良い、などとは思ったりしていない。していないったらしていない。
「うるさいっ。わけわからんことごちゃごちゃ言わんといてーなっ。それよりアレ、ヤバくね? 戦乱の世が再びじゃー! 祟りじゃ祟りじゃー! 人柱を立てよー! そうして僕が人柱にドナドナ、歴史は繰り返す的な展開にならない? ね、ねっ、ねえ!?」
「あ~、落ち着け主。餅つけ主」
「えいさっさー!って、餅付き道具なんてないよ!? 餅つかないよつけないよ!?」
「気のせいだ。きっと頑張れば出来る。主なら多分、可能だろう……って、そういう話じゃなくてだな」
「無理だしっ! 人柱はもう嫌―――っ!! 真っ暗い穴の中、極限の緊張状態と空腹、空気が薄くなり、だんだん意識が遠のいて、気づいた時には“また”もみじの手のひらと新しい親と思しき人たちとゴタイメーン! もしくは迫害、政略結婚、毒殺、刺殺、暗殺、逃亡しても拷問死、権力者の道具として使われるんダー。フハハハハハハハハハハ。あ~……寿命で死ねる日はいつくるんだか。早死に輪廻転生エンドレス人生。アハハハハハハハハハ」
「あ、おい、落ち着け主。今回はそうならないように尽力出来るだろ? 要はアレを倒せばいいんだ。そうしてまた、封じこめちまえばいい」
「ムリだよ無理。“前”は手駒が良かったんだ。人脈持ってる&すぐに形成可能な銀兄上も居たし、人を操ることに長けた果敢と工作と暗殺術が得意な隻眼双子の左近と右近も居た。破壊力と技術力では三佐が、えげつなさと腕の確かさでは江戸一番の医者夫婦、藍杜松と楓李が回復要員兼妨害役として居た。なにより僕の片腕として前線で全体を纏められる桜花が居たし、僕の体も出来上がって全盛期一歩手前までもっていけてた。今回とは条件が違う。仲間が居ない覚醒したばかりの“僕”とソラ、飼い猫のお前ふたりでなにが出来る? 四十九院家の力も、風由も力も今はまだ、使えないぜ?」
「それでも、だ。やるしかない。鈴江の願いを叶えてやるための、過程のひとつだと思ってがんばろうぜ? 主。オレたちなら最強だろ?」
「最凶じゃないから、ちっと不安。組むなら桜花とお前の三人が良かったよ。前衛、中衛、後衛で一応、組めるから。医者夫婦も居ないのがかなり痛いなぁ。長期戦は無理、短期決戦で攻めて一気に封じるぞ。おまえ、前衛と中衛な。僕が後衛と中衛少しやるから。取り漏らすなよ?」
「誰に向かっていっている。こちとら一騎当千の、いや、一気当万の将、天津空鵺さまだぞ。主こそ、遊び過ぎて無駄にぶっ飛ばされるなよ? 助ける余裕ねえから」
「フッ、言ってろ。さて、じゃあ、まあいっちょ、遊び舞いますか。いざ、卑怯に愉快に尋常に、戦場にて合間見えん! 我は風由筆頭【藍猫】遊楽! サア、生きているという感覚を求めて、血潮に遊び舞い狂おうぜ! 血塗れ兎と百鬼夜行!」
「…………阿呆。手堅くいけや」
槍と鎖を形成しながらぼそりと呟くソラヌエの声が病院にヤケに響き、断末魔に似た声なき叫びのその後、二人は窓から飛び降りて消えた。
それは鈴子が過去に消えた夜のこと。紅い月の見える神隠しの夜でした。
裏話的な。幕話のお話。
現代編はこれにて終了です。ふう、長かった。
二話で終わらすはずでしたのが、こんなに。
次は鈴子に戻ります、多分。()