壱話.八日町 鈴子とゐふ女子高生と怪異の始まり
始まりはそう、ひとつの音でした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
―――誰か、助けて!
「え?」
それは鈴子が通う学校からの登下校の途中、帰り道のことだった。
突然、必死に助けを求める女の人の声が聞こえた気がして後ろを振り返った。
しかし、それらしき人影は誰も見かけない。
自分と同じような制服を身に纏い、学生鞄を手に持って、自分と同じく高校からの下校途中の生徒たちが居るだけだ。こちらに気付いた数人が首を傾げたり、愛想笑いを浮かべた。鈴子も日本人の習いにならって無難な愛想笑いを返しておく。
「ちょっと聞いてるの鈴子!」
「ごめん、聞いてなかった。あのさ、なんか声が聞こえなかった?」
「何も聞こえないけど?」
話を聞いてなかった鈴子に憤慨した友人は、眉をひそめて訝しげな様子でなにも聞こえなかったという。
鈴子は首を傾げて耳を叩いた。
聞きまちがい、かな?
「それよりさ、今日の晩、みんなで集まって学校裏の古い武家屋敷で例年通り肝試し大会が開催されるんだけどさ、鈴子も来るよね?」
鈴子の手を握りしめて熱心な様子で誘う友人の姿に戸惑いつつ、鈴子は悩んだ。
鈴子が通う地元の高校は神戸の田舎町にあり、少し車を出せば海が見える。
だが、田舎は田舎。学校周辺は田んぼと畑に囲まれて、見渡す限り山ばかり。
小さな古寺や老朽化が激しいなじみの集会所、畑と田んぼを間に挟んだ農村風景をバックにして、まばらなに建つ家々で構成された小さな町の小さな学校が今出てきた高校である。
町の近くに工場群もあるせいか、空気もそこそこ良いとはいえない。
これといった特徴のない町であろう。
ただ、高校の裏山近くにある古く大きなお屋敷と、そこから地図上を斜めに放物線を描いた直線状にある森の手前、ぽつんとあるお社に伝わる伝説が特徴と云えば特徴か。
江戸の昔から存在しているらしいそのお屋敷は、とある士族の家系の者が住んでいた武家屋敷だったらしいと小さい頃、鈴子も育ての親である祖母から聞いたことがある。
――あのころは仕事で忙しい両親に代わり、祖母が面倒を見てくれていたのだ。祖父は鈴子が生まれる前すでに他界している。
鈴子にとって祖母は和製の魔法使いのような人だった。
時には対等の大人のように厳しく接し、時には年相応の子供のように甘やかす、優しさの中にちょっぴり一滴の毒を持った不思議な日本の魔女さん。
ナゼ『日本の魔女さん』なのかって? だっていつも綺麗な着物を着て、絵本に出てくるような黒いドレスと魔法使いの杖なんて持っていなかったんですもの。だけど祖母の手は魔法の手。お裁縫だって、編み物だって、刺繍だって、一瞬でやってしまう。どんな複雑な模様も祖母の手にかかればイチコロよ。料理の腕ですらあたしは祖母に一度も勝てなかった。優しくて素敵なあたしの大好きなおばあちゃん。
そして彼女はなにかと興味深い話や雑学にも造詣が深かった。――学校裏の武家屋敷とお社伝説もそのひとつ。
この町にある噂の武家屋敷は、無人の荒れ果てた状態なのをいいことに、今は子供たちの遊び場と化している。が、本来は屋敷の持ち主とその縁者や鈴子の通う学校関係者など、極一部の限られたモノ以外、立ち入り禁止だ。
学校主催の怪談大会の時だけ公に利用されるその屋敷は、
曰く、もっぱら三味線の音がどこからともなく聞こえるとか。
曰く、赤く染まった死体と叫び声が襲い掛かってくるとか。
曰く、女の幽霊が出るなど。
怪談話の類には事欠かない。
鈴子も昔はよく、怖いもの見たさで、崩れかけた塀の穴から、幼い体を利用してこっそり忍び込んだものである。
今も誰かが忍び込んで遊んでいるのだろう。
そういえばもうそろそろ怪談が流行する季節よね、などと益体もない思考が通り過ぎていく。
幼い頃から見てきた屋敷は、幽霊や怪談の類など、実際はまったく存在しなかったのだが。雰囲気だけはあるので、忍び込みたくなるのも仕方ない。
もうひとつのこの町の噂の建物は、森の手前にある小さなお社。
こちらの方もまた、真夏の心霊スポットにぴったりらしい。
曰く、件の武家屋敷で出没した幽霊を慰め奉ったものだとか。
曰く、戦争で亡くなった戦死者や、先に述べた士族の屋敷の関係者を葬った場所だとも伝わっていているようだ。
………真偽は不明だが。
毎年、真夏のこの時期、新月の晩になると、学校主催の怪談大会が催される。
ついでに今、友人の千代ちゃんがあたしを誘っているのもこの怪談大会だ。
――毎年、コースのなかに、さきほど述べた武家屋敷と一緒に、お社の方もコースポイントに指定されている。
なんでも火の玉が出たり、居る筈のない坊さんが経を読み、幽霊や妖怪が宴会騒ぎを起こしている場面をみたとの報告があるそうな。
「ごめん、あたし、今日はおばあちゃんのお見舞いに行かないと」
「ああ、鈴子のおばあさん、入院してるんだっけ? あんた、おばあちゃん子だもんね~。いいよ、いってきな。だけど後で来れるんなら来なよ。待ってるからさ」
「わかった。うん、行けたらいくよ。ごめんね?」
「気にしてないよ、鈴子がおばあちゃん子でうちの誘いが断られるのは慣れてるから。今更さ」
学校指定鞄を肩に担いだ親友が乾いた声をあげて遠くを見た。
鈴子は少し危機感を感じて冷汗を掻く。
「ごめん。ほんっとうにゴメン!」
手を必死に合わせて腰を折る鈴子の耳にまた音が聞こえた。
――誰か、あの人を、助けて!!
「え?」と鈴子は耳をそばだてる。
「ほんまに気にしてないから大丈夫……って、どうしたん鈴子?」
―――祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
たけき者もついには滅びぬ
サァ、お歌をお聞かせくだしゃあせ?
散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がします――
「なに、今の?」
リン、と鈴の音が耳の奥まで響いて再び不思議な音が聞こえた気がした。
切羽詰まった感じの女の声が確かに鈴子の耳に聞こえた。
ついでに唸る風切音に混じってラジカセをこじらせたようなジジジ……という雑音交じりの小粋な三味の音。
そして―――抜け出せない古井戸のなかで助けを諦めたような、それでも諦めきれずに足掻こうとする男の、深い悲しみと絶望の上に成り立つ綺麗な響きの無駄に陽気な唄い声。……ちなみに少し音がずれている。
遠くに聞こえる三味線の音は素人の鈴子でも上手だと解る音色だけに、あともう少しのところで残念な音だ。
鈴子は耳をウサギの耳のように敏感にして、友人に声をかける。
「千代ちゃん。やっぱり聞こえる。女の人の切羽詰った声と三味線の音っ」
「え、ちょっ、ちょおっ、怖いこと言わんといてやっ。肝試しは今日の夜だよ? 今はお化けはいらないよ。てか、あんたどうしたのさっきから。そんな音、あたしには聞こえへんっ。冗談もほどほどにしといてよねっ」
「ややわァ、もうっ。あはははははははっ」などと当惑しながら乾いた笑い声をあげて、鈴子の背中をバシバシ叩く友人の隣を歩きつつ、鈴子は音が聞こえた方向を探った。
音声はこの先の森の中。怪談話が絶えない件の祠の方向から聞こえた。
目をじっと凝らし、聞き耳を立てる。
されど、もう何も聞こえないし、なにもそういうモノは視えない。―――もっとも、鈴子に霊感などという大そうなものは幸いにしてないのだけれども。
「鈴子ぉ~?」
震え声混じりの訝しげな友の呼びかけにハッとした。心配そうな表情の彼女に「なんでもない。やっぱり気のせいみたい」と告げる。
そうして祖母の病院に見舞いに行くため、一度家に帰ろうと、友人とたわいない話をしながら鈴子は家路を急ぐのであった。
あの声は、気のせいではない、と心の中では確信しながら――。
始まりはもうすぐそばまでやってきている。
あとは、時を待つばかりなり。