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藍猫古書堂  作者: 神寺 柚子陽
邂逅
1/26

逢魔が時の訪問者

 先ハ時代に抹消サレシ作家『―――』ノ記セシ手記デアル。

彼の者の真名(まな)は定カに非ず、マタ此の世に存在シテイタノカモ今トナッテハ定カデハナイ。

だがこの書物ガ記スコトハ事実だと此レヲ受け継いだ古寺の住職(じゅうしょく)ハ語ル。


 其の手記は、昔遊女を生業(なりわい)にシテイタトイウ佳人ノ下デ眠ッテイタトカ。


 コレカラ我が記スのはソノ手記ヲ翻訳し、調子は其のままに彼ノ作家に導カレテ(えが)くその物語デアル。



◇◆◇



 郷愁(きょうしゅう)(さそ)う夕暮れ(せま)る教室。

赤いメガネをかけた理知的な少女は、窓辺の席に座って、ぎこぎこと椅子を前後に揺らし、指でペンを回して弄ぶ。

滑らかで硬質な黒髪を後頭部でひとつに束ね、女は茫洋(ぼうよう)と遠くを眺めていた。


「この町は逢魔(おうま)が時。この時間帯が一番きれいに見えるな。山も、人も、神も、妖怪も、寺も、神社も、全部……」


 ほぅ、と息をついて、不安定な状態を保つ椅子を前後に揺らすことを止め、ペンを置く。机には一束の原稿用紙と(アメ)水晶(ジスト)の数珠が置かれていた。

 しかし、少女はここの学生というわけではない。綺麗な景色を探して彷徨(さまよ)っていたら、たまたま偶然、この〈箱庭(はこにわ)高校〉の玄関門が開いていたので、こっそり侵入した大学生である。

 年の頃は二十歳前後。細見の小柄な女性だ。かなりの童顔の持ち主で、警備員もこの高校の学生と見間違えたらしい。高校生にも中学生にも見える不思議な女性だった。しかもこの日の少女は更に、卒業した学校既製の白シャツ、同じく学校既製の巻きスカート、紺の綿のニットを優等生風にきっちり着用していた。それがまた、よく似合う。

 季節は衣替えにはまだ早い夏。とはいえ、ここいらの夜は、街のぐるりを囲む山を越えて、海からやってくる風のおかげで、よく冷える。

 少女が季節外れの服装をしていようが、可笑しくはない。おかしくはないが、自然でもない、というだけの話だった。警備員が見間違えるのも仕方がないことなのである。


 少女は沈む夕陽をゆるりと眺めながら、ふと暗記した言葉を確認のために呟いた。


「逢魔が時とは――」


 一日が終わろうとする夕暮れ時。お豆腐屋さんのラッパが薄暗くなりかけた夕焼け空を流れていく。我を忘れて遊びに全身を打ち込んでいた幼い頃、夕暮れ時はいつも理由もなく物悲しい気分にさせられた。

仲間との別れ。遊びの終焉(しゅうえん)。明日になれば、また、会えるのだし、遊べるのだけれど、私は心の底で、でもそれは絶対ではない……と感じていたように思う。

 毎日巡ってくる、一日のあの時間帯。昼から、夜へ、その橋のような時間。明るくも暗くもないそのぼんやりした感じ。このぼんやりした橋を渡るとき、私はいつもとぼとぼと一人だったように思う。人攫いが出てくるのなら、こういう時だろうなと想像もしたっけ。

 この時間帯を「逢魔が時」と呼ぶ。まさに魔物に遭遇しそうな時である。しかし、この魔物はまだ本領を発揮していない。薄暗闇(うすくらやみ)ではまだ早すぎるのである。ただ、何気なく私たちの世界をうっすらと彷徨い、佇んでいるだけなのだ。「逢魔が時」とは、そんな魔物に逢う時刻の意味なのである。

だから、普通には魔物に逢っても意識されることは殆んどない。夕暮れ時の忙しさの中で、それは薄暗闇に紛れてしまう。ただ、感受性(かんじゅせい)の強い、幼い子供を除いて……。


 夕食の支度やら何やらで、忙しく立ち働かなくてはならないこの時間帯は、不思議なことに、赤ん坊は必ずぐずり、幼子は聞き分けがなくなって、母親にまとわり付くものだ。その多くの理由は、(じゅん)(たましい)が、魔物を感じ取って不安になるためだと私は考えている。しかし、当然彼らにはその不安を説明することはできない。で、大人はいらいらと叱ったり、よしよしと(なだ)めたりするだけなのだ。

 「逢魔が時」は「オオマガトキ」が転じたと言われている。「オオマガトキ」とは「大禍時」である。一日のうちの禍々(まがまが)しい時間帯である。忌まわしく、不吉な感じの漂う時間帯なのである。それは恐らく日が沈み、それまで明らかだったものの輪郭(りんかく)がぼやけて見えなくなっていく、その覚束なさから生まれる不安なのだ。そして、ぼんやりとした物の陰から、何か異界の者がそっとはみ出るように現れてくるのだ。


 幼いとき、私は確かにそんな光景を毎日のように見ていた。強い恐怖感を持ったというのではないけれど、魔物が出てくる様子は夢でも幻でもなく、リアルなものだったと思う。


 同じ時間帯の呼び方に「黄昏時」というのがある。

「たそがれ時」、つまりあそこにいる方は……「誰そ? 彼?」と問いかけたくなるような、おぼろおぼろに薄暗い様子をそのまま使った言葉である。

似たようなのに「かわたれ時」というのもある。

「彼は誰?」と目を細めながら、見分けのつかない彼を見定めようとする、その頃のことである。但し「かわたれ時」は後、まだ薄暗い明け方の頃のみを言うようになったが、昔は、「逢魔が時」「たそがれ時」「かわたれ時」どれも同じような夕暮れ時をさす言い方だったようである。

薄暗闇の向こうから、こちらに向かってくる人影……あれは、彼?……彼の様でもあり、そうでないようにも見える……それともあれは……彼によく似た魔物のような気もしてくる……。

「誰そ?彼」「彼は、誰?」心の中で問い続け、一瞬、自分の中の何かが「あ、魔物!」と見極める。しかし、それだけで、彼によく似たその人は通り過ぎていくのだ。現実には何も起こらず、胸の中だけにざわざわと波が立つ。


「彼は誰時、逢いたい人は、不在なり、うつむいて、魔が時の、橋渡る」


夕暮れに、亡くなった人によく似た人を見かけることがある。一日の疲れが溜まったぼんやりした心で見るせいだろうか。それとも、薄暗い夕闇のベールのせいだろうか。思わず、その人を追いかけようとして、何かがふっと、私に(ささや)きかけるのだ。「ほら、今こそ、逢魔が時なのだよ」と。こんな時、気を(ゆる)めて、ひょいと道を間違えたりしたら、もう帰ってこられなくなりそうな気がしてくる。

ジャムが鳴く。無口なジャムが柔らかく、甘やかに、一声鳴く。そういえば、ジャムが鳴くのは夕暮れ時が多い。親しい魔物と交感しているのかもしれない。


ことばの虫メガネより。


「By、ヤフー豆知識より出典」と言葉を絞めて、少女は物憂げにパカリと白い携帯電話を開く。ボタンを操作して、豆知識を確認すれば、完璧に覚えられた様子。「ヨシッ」と思わず、ガッツポーズ。彼女はいわゆる、ちょっとした変人だった。

 携帯を操作するたび、着けられた黄色い月と縁起物のフクロウ(福を呼ぶという意味が込められている)の木彫りのキーホルダーが揺れる。

 都会ではスマートホンというタッチパネル式の携帯電話が登場しているらしいが、彼女はまだ、ガラケーと呼ばれる機種の白い携帯を使っていた。

曰く、最近は連絡を取るだけの携帯に余計な便利機能がたくさんついていて困る。使いこなせないじゃないか。それにタッチパネル式は、指でタッチするだけというが、余計なところを押してしまいそうで使いづらい。画面に使われるガラスもガラケーより弱っちそうだ。すぐ買い換えでお金が入用になるかもしれない。最近は何でも消費時代だから困る。貧乏人にはつらい世の中だ。昔の様に『付喪神になるまで百年。物は大事に大事に使いなさい』というような時代が、また、来ないものか。考え物だな。―――というわけらしい。


「はぁ……。もうじき、逢魔が時が終わり、異界の者たちが本格的に騒ぎ出す、か。ここも職員室の張り紙によると7時に警備員さんが閉めるらしいし、あと、2時間ほどか。私がここに居られるのは。収穫があまりなかったな。ほむ。行くか」


 誰もいない寂しい教室。

 独り言を言って、少女はしたり顔で腕を組む。真っ白いスポーツバックに荷物を詰め込み、肩に袈裟懸けに背負って、部屋を出た。


 橙色と赤色の夕陽が少女の行く先を照らし出す。

 宙に浮くように両腕をふわりと広げて、少女の足音は学校内をさ迷い歩く。

 かつん、かつん、かつん、かつ、かつ、かつん。たんっ。たたん。すたすたすた。すたこらさっさ~。ふわり、ふわり、―――無音。

 三階の三年生の教室から、階段を遊び降りて、小さく鼻歌を歌いながら逢魔が時を彷徨い歩く。校内には少女以外の人影はない。


 ふらりと歩いて、探すのは〈図書室〉。だけど彷徨い歩いているうちに迷い込んでしまったのは、〈保管庫〉と表札がかかった一階の隅の教室だった。

扉に手をかけてみると開いている。少女は躊躇(ためら)わず、するりと体を教室の中に滑らせた。

 ――この教室は昔、家庭科室だったのかもしれない。

 ステンレス製の調理台。古びた丸椅子。剥がれた床の橙色と白の四角いタイルが、モノクロみたいに嵌っている。ボロボロの黄色がかったカーテンの向こう。ヒビの入った窓ガラスから見える外の緑の生垣。深緑樹。


「へぇ~? 雰囲気、あるじゃない」


 少女はにやりと好奇心旺盛に口の端を釣り上げた。彼女のいった雰囲気とは、怪談ぽい雰囲気、という意味である。

確かに、今は逢魔が時。もう少し暗くなれば、少女の言う通り、なにか出そうな雰囲気をこの部屋は醸し出していた。だが、好き好んで出てほしいと思うものは少数だろう。

 それでも少女はにやりと笑って、好奇心に心を躍らし、キッチンと隣接された机の上を、丸みを帯びた苦労を知らない小さな手で撫でつつ歩きゆく。ゆっくり、ゆっくり、薄氷の上を歩くように楽しみながら、一歩一歩を踏みしめて。


 過去、ここが家庭科室だったとしても、今その面影は当時を偲ぶ基本設備だけ。現在のここは物置だ。

 体育大会に使う旗、ハチマキ、ワッペン。美術部の大道具。卒業生の作品。かご一杯の破れた野球ボール。テニスボール。壊れたハンドボール。文化祭用の大道具。小物類。演劇部の衣装。その他、いろんなものが置かれていた。

 少女はそのひとつ、ひとつに好奇心をそそられ、興味深い視線を漆黒の瞳から投げかける。

 こつん、と音がして、足元の物を拾ってみる。目元の朱色が印象的なウサギのお面。おもむろに少女はそれを自分の顔の上に着用。誰が見ているというわけでもなく、空に向かってピースサイン。ふざけている場合か。

ふとひとつ、彼女の注意を引くものがあった。“いかにも”な、封じの御札が幾枚にも張られた、小さく四角い桐の箱だ。


「……………怪しい」


 おまえの方が十分怪しい。――なんて心の中で聞こえる声は無視。無視ったら無視して、大道具の合間をかき分け、少女は封じられた小箱をひょい、と取り上げる。


「…………………怪しい。否、妖しい」


 もう一度云おう。兎面をつけた不法侵入者のお前の方が怪しいと―――。

 少女は兎面の奥で、好奇心に満ちた瞳を瞬かせ、小箱をじっと観察しだした。

 陰陽師映画で見るような梵字が書かれた御札。それを数十枚と重ね重ね貼り付けられ、厳重に封をされているようだ。


「中に、何が……?」


 両手に納まるほどの大きさ。持ち上げて振ってみると何の音もしなかった。

 少女は箱をためつ、すがめつして、つと考え込む。


(やっぱり、この箱の中身が気になるわ。だけど、なんの変哲もない封じの箱ね。小説の題材になるかしら? このまま放って帰るのも気になるし………開けちゃおうかしら?)



 闇色の風が吹いてふわりと視界の端を横切る鴉羽。開けようとしたらかかる声。


「それを開けるのかい? 力を貸そうか?」


 声に弾かれて後ろを振り返る。ずり落ちそうな眼鏡を指で上げて、思わず二度見した。

 男が居た。古めかしい和服を纏った武士風の男。

 入口付近の壁に腕を組んで凭れ掛かり、こちらの様子を伺っている。

 少女はほっと胸を撫で下ろした。ふわりと笑って言葉を投げかける。


「あら? あなた、こんなところに居たの?」

 親しい旧友に問いかけるような弾む声。

少女は片手を真っ白い鞄に差し入れながら、入口付近に佇む闇の主に相対する。


(見れば見るほど、惚れ惚れとするような男。これが私の会いたかった人物の一人。………想像以上だ。)


 藍色の露に濡れるような少し長めの短髪。白い肌。端正に整った顔立ち。細見の肢体に藍紫と灰色の紋付き袴。紋は丸に風魔手裏剣。周囲に舞い散る()(こく)の鴉羽。紫の紅を引いた彼は、微かに唇の端を釣り上げた。


それは少女のよく知る人物。そして、初めて直に()(まみ)えた人物。


 ――この物語の、重要人物。


「まさか、そちらから来てくれるとは思わなかったわ。【(やみ)(がらす)】―――さん?」

「キミ、最近、コソコソとボクの周りを動き回ってた子だよね?」


 少女、【語り部】と呼ばれる世界の傍観者は、にこっと目を細めて笑う。

 それが余計に闇の主の気に障った。よく作り込まれているが、目が笑っているようで笑っていない。ただ『笑っている』とわかるだけの、よく出来た作り笑いだったからだ。


「ボクのこと、仲間のこと、母様や父様、兄弟姉妹たちのことまで調べてたらしいけれど、何がしたいの? 目的がわかんないんだけど」


 【闇烏】は入口を塞ぐように仁王立ち、少女を睨む。


(他の感情が読み取れないのもムカつく。(かばん)に手、つっこんでさ? 本当にムカつくんだけど。それが人の話を聞く態度? 六花の奴が居たら頬を引っぱたかれるよ? へらへら作り笑ってさ。マジうざい)


 男は苛立たしげに舌打ちした。それでも少女は不敵に微笑んでいる。


「挙句の果ては、何も知らない子孫たちのところまで出没してさ? いったい、なんなわけ?」

 抜身の刃の如き鋭い視線を放ったが、少女は怯まない。鞄に手を入れたまま、興味深そうにこちらを見ている。口元に笑みを刻んで。じっと佇んで――。

(弱い人間のクセに、なにへらへら笑ってやがんの? ぶっ壊したい)

【闇烏】の中の強い破壊衝動が鎌首(かまくび)をもたげて、男を(そそのか)す。


不愉快(ふゆかい)なんだけど。消えてくんない? ウザいから。邪魔だから。なんでボクの本性と真名まで知ってるわけ? マジ、死ねよ」


 赤い眼光が瞬いて、紫黒の鴉羽が鋭い風を伴い、刃と化す。

鋭利な投剣となった鴉羽は、そのまま吸い込まれるように【語り部】の少女のすぐ脇を通り、壁に深々と突き刺さる。もし、頭を狙われていたら即死だっただろう。少女の硬質な黒髪がはらりと一筋、地に落ちた。【語り部】は理知的な顔の片側だけ、不揃いに短くなった髪を払うように首を横に振り、不敵に笑う。


「くくく。おやおや、私も随分嫌われたものだな。なに、取材だよ。安心し給え。【闇烏】の邪魔をするつもりはない。邪魔する権限もない。私は“ただの”傍観者。逢魔(おうま)(とき)はあなたの味方でも、黄昏(たそがれ)(どき)は私の味方だ。私はここに居て、ここに居ないのだから……」

「意味わかんない。だっせェ。しっかり首を狙ったはずなのに、髪だけが落ちるなんて、どーなってるわけ?」


 【闇烏】は、周辺に凶器の鴉羽を撒き散らし、綺麗な顔を醜く怪訝そうに顰める。対する【語り部】は、泰然として笑みすら見せる余裕ぶり。そのまま、真っ白いスポーツバックに差し入れていた手を、さっと出してみせた。


「それはっ、“文月”の!? あいつの著書(ちょしょ)!! なんで、なんでおまえがっ? かあさまの《文車妖(ふぐるまよう)()》をどうしやがった!?」


 降り注ぐ漆黒の烏羽。数にして数十程度。その全てがなにかに弾かれ、後ろの壁にささるか、地に落ちる。

 豪風を伴って放たれた漆黒の弾幕が晴れたとき。そこには、蒼白い文字が宙に浮かび上がっていた。

『《すべてを()(はら)い、我を(まも)(たま)え。(わたし)は《語り(ストーリーテイラー)》、其は無敵也(むてきなり)》』

 文字は空気に溶けるように消える。いきり立つ闇の主。肩をすくめる少女。荒れた物置小屋に夕闇の最後の光が閉じようとしていた。


「時間がない。ひとつだけ云おう。この力は借り物。昔は私のモノであったが、今は――君も知る人のモノだよ? (さい)()

「はは……うえ? いやっ、違うっ!」

「そう。勘違いするな。ソラ、後は頼んだ」


 暗がりから毬がひとつ()ちてきた。紅い毬が床に()ちて跳ね、それは一匹の黒い(ねこ)(また)を形作る。猫又は昔、猫神だった元、亡国の王。猫は地に降り立つなり、長身(ちょうしん)痩躯(そうく)の人間の男の姿をとる。外見は24頃の美丈夫。威風堂々(いふうどうどう)という言葉が似合う立ち姿。それは王者の風格。しかし、中身は主に忠実な従者であり、(よわい)五千(ごせん)以上(いじょう)は確実な大妖怪(だいようかい)のジジイだ。


「まさか……そんな、そんなはず?! な、なんで!? ソラ猫さん!?」


闇の主は、今度こそ目を瞠った。

ソラはふっと優しく目元を微笑ませて、ニヒルに告げる。


「《悪いな、才火。“(あるじ)”の命令なんだ。ちっと逃げさせてもらうぜ?》」

「まさか、本物!?」

「ソラに偽物なんて居ないよ。まあ、こっちのこいつは(ぶん)身体(しんたい)だが……?」

「バカな。そんなはず……。だって、空猫さんは、かあさまとその転生体にしか約定(やくじょう)()かないって――」

「《その約定(やくじょう)の、その(ことわり)は、誰が創ったと思う?》」


 才火は暗がりで驚愕(きょうがく)に言葉を失う。


「《(しゃべ)りすぎたな。さよならだ。じゃあな。今度は“正規(せいき)の物語の中で”会おうぜ?》」


 ソラは【語り部】の細い腰を逞しい片腕に抱き、にゃははと笑った。

 手首に下げた蒼い勾玉を媒介にして、真珠の白と海の青が鮮やかな装飾の施された細見の槍―――“蒼海(そうかい)(やり)”を形成する。螺旋状の白と青のコントラストが美しい。ソラは槍を構え、黒い猫耳と尻尾を揺らして、思いっきり振りぬく。


「させるかぁぁァァ!!」


 才火はありったけの力を込めて、ソラごと少女を(くだ)そうと自身の()()(やみ)(がらす)を操る。

 ソラは語り部の少女を抱えたまま、衝撃を殺すため、後ろに自ら飛ぶ。だが、闇鴉の力の方が勝り、二人は闇に呑まれる。


「ソラっ!!」

「《承知!……クッ》」

「逃がさないよ」


 深淵の地獄の底から響くような才火の呪声。

 ちょっとした神社の鳥居より大きな漆黒の鴉が、闇色の羽を高々と広げる。

 新月の夜の闇よりなお深い漆黒の闇は、才火たちが居た部屋を中心にして、箱庭高校全体を覆い隠す。電柱や木々に留まっていた闇烏の眷属である鴉達が飛び立ち、街でのんびり昼寝をしていた猫たちは首をちょっと上に向けて、不審に目を細める。人々はこの一瞬の異変に気づかない。これに気づくのは、双方の眷属と当事者たちだけ。


「ふはははは! くたばれっ」


 才火の高笑いが響き、彼が闇を掴んだその手をひっくり返して、握り潰した。

 途端、闇が弾け、才火は時空の闇に姿を消す。飽きて、気が済んだから、相手の状態も確認せず、帰って行ったのだ。

 衝撃で保管庫の物が激しく吹っ飛び、封じの小箱の封が破られる。中から、なにか、黒い物体が煙の如く出現し、瞬時に闇の狭間に消え去った。

 約百年ぶりに災厄が世界に放たれた瞬間だった。


 少女が次に姿を現したのは、意外な場所だった。

箱庭学園の屋上がある少し先。高さ三階分はある宙空である。


「きゃ、きゃーーーーー!? 文車妖妃、ソラ、助けてーーー! 誰か――きゃーーー!!」


 蒼白い文字が現れようとするが、なにかに弾かれたように術が発動しない。

 少女の躰の周辺に鴉の羽が舞う。闇烏の羽だ。少女を亡きものにしようと命令式に従い、動いている。白い表紙の書物が少女の手から離れて空を飛んだ。少女は必死に宙を掻いて、書物に手を伸ばす。なかなか掴めない。もどかしい。ソラの真名を呼び、再召喚しようとするけれども、彼の猫は来ず。闇烏の羽が止めどなく少女の体の周辺を舞い散り飛ぶ。少女の脳裏に走馬灯が浮かび消えて、漆黒の瞳に涙が浮かび、悲鳴に嗚咽が混じる。


(こんなことなら、桜花クン特性のふわふわとろとろプリン、本家でもっと御馳走させてもらうんだった……! 私、まだ二十歳なのに、あんまりよっ)


 などという思いが、少女の脳裏を駆け巡る。この高校に来る前に寄った取材場所での記憶を思い出して、少女は余計に悔しくなった。


(桜花クンは、行き成り訪ねて行った見ず知らずの私に、プリンを別けてくれる優しいヒトだったのに、あの才火という男は、初対面で殺そうとしてくるなんて、失礼な奴だ。私はこんなにも無害だというのにっ!)


 憤怒したら力が湧いた。

 未だ宙を落下中。もう、中庭の花壇の花の色が、詳細にわかるくらいには、地面に近づいてきている。文車妖妃の助けを借りる為、少女は頑張って上空に長い腕を伸ばす。

 地面に着く三メートルほど手前。はしっと少女の指は分厚い書物の端を掴み、紙のページがパラパラと音を立てて開かれる。

 召喚する文字は言霊ヒトツ。

『《護》』

 少女は、左腕から轟音を立てて落下した。

 文字が消え、少女は無事、一命を取り留める。

 痛みに声なき悲鳴が響き渡り、鴉羽は役目を達したと勘違いを起こして消え、少女は気絶した。



 数時間後。

 警備の人に見つかり、少女が病院に搬送されるのは、夜明け頃の別の話。

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