7:忠誠、再び。
「改めて、紹介しよう。彼は、リオ・ヒギンズ。お母様の護衛騎士を務めていた」
「美しくなられたお嬢様にお目に掛かることが出来て、これに勝る幸いはございません」
お兄様の言葉に合わせるようにして、ヒギンズ卿は恭しく一礼した。
洗練された、騎士の所作。
手を取られ、挨拶されて、ちょっとだけ胸が高鳴ってしまう。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
街外れの、小さな家。
彼は騎士の職を辞して、七年もこの家で一人で暮らしていたという。
世捨て人同然の暮らしを選ぶほどに、彼はお母様を守れなかった自分が許せなかったのだろうか。
「あの小さかったお嬢様が、こんなに大きくなられるとは……」
ヒギンズ卿の目は、どこか遠くを見るように細められていた。
七年前は、私は三歳。
お兄様だって、まだ七歳の頃だ。
「ヒギンズ卿は、僕の剣の先生でもあるんだ」
「そうなのですか?」
それは初耳だ。
最近のお兄様はお勉強ばかりで、剣の修行は二の次なイメージだったけれど……ひょっとして、先生が居なくなってしまったからというのもあるのだろうか。
「お坊ちゃまは優秀ですから、私から教えることも、あまり無いくらいですがね」
「そう言うな。僕は一度も勝てなかったんだぞ」
「今でしたら、分からないでしょう」
そう言って笑うヒギンズ卿だが、どうだろう。
お兄様に、それほど剣を熱心に学んでいる印象はない。
「お兄様って、そんなに剣が得意だったのですか?」
私が素朴な疑問を口にすると、ヒギンズ卿の表情が凍り付いた。
「ひょっとして……お坊ちゃま、まさか剣の稽古をおろそかにされたりは……」
「い、いや、僕には後継者教育というものがあってだなぁ……」
と言いながら、お兄様の視線が宙を泳ぐ。
あ、これは図星の時の顔だ。
どうやら先生が居なくなったのを良いことに、剣の修行をサボって、勉強ばかりに精を出していたようだ。
「お坊ちゃま……?」
わぁ、ヒギンズ卿の後ろに、どす黒いオーラが見える。
顔は笑顔だが、目が笑っていない。
「ちょっと待ってくれ、卿はもう我が家の騎士では無いのだからな! 怒られる筋合いはないぞ!!」
「……それは、そうでした」
お兄様の言葉に、一瞬家の中が静まり返る。
和やかな空気が、急に冷え切った気がした。
「あー……いや。まぁ、それもこの後の返答次第なのだが……」
気まずい空気を振り払うように、お兄様が小さく咳払いをする。
「……と、言いますと?」
「僕達は、ヒギンズ卿に屋敷に戻ってきて貰えないかと、頼みに来たのだ」
お兄様の言葉に、隣に座る私も頷く。
ヒギンズ卿は、一瞬だけ痛みを堪えるかのように、眉を顰めた。
「私は……護衛騎士、失格です」
「え……」
言葉こそ柔らかだが、ヒギンズ卿の口から告げられたのは、明確な拒絶の言葉だった。
「その想いは、七年前のあの日から……変わることはありません」
ヒギンズ卿の声は、微かに震えていた。
小さな家に、重苦しい沈黙が漂う。
最高ランクの忠誠心を持つヒギンズ卿。
その彼が、共に居ながらお母様を守れなかったのだ。
彼の悔しさたるや、如何ほどだろうか。
「違う。護衛騎士失格なんてことはない」
「……お兄様?」
ヒギンズ卿の言葉を、お兄様がキッパリと否定する。
「あの時は、仕方が無──」
「お坊ちゃま!!」
お兄様の声を制するように、ヒギンズ卿が声を荒らげた。
なんだろう、慌てて制しなければならない理由でもあるのだろうか。
「黙っていたところで、仕方がないだろう。レイチェルだって、いずれ知る日が来るかもしれない」
「しかし……」
二人のやりとりに、ざわりと胸が騒ぐ。
ひょっとして、お母様が亡くなったという馬車事故……それには、私も絡んでいるというの?
咄嗟にヒギンズ卿を見上げると、彼はばつが悪そうに顔を逸らしてしまった。
「お兄様、ヒギンズ卿……どういうことでしょうか。私にも分かるように、詳しく教えてください」
私がお願いすると、お兄様はゆっくりと頷いた──が、ヒギンズ卿は唇を噛みしめて、俯いてしまう。
やはり、私には聞かせたくないことがあるようだ。
「あの日──あの馬車事故が起きた時、僕も、レイチェルも、お母様と一緒に居たんだ」
「え──?」
一瞬、世界が静まり返る。
ヒギンズ卿の吐いた深いため息だけが、耳の奥に響いていた。
「私も、その場に……?」
「ああ。レイチェルは、まだ小さかったから、覚えていないだろうが……いや、覚えていない方が良い」
お兄様は、当時七歳。
もし目の前でお母様が亡くなったのだとしたら……お兄様は、どれほど深い悲しみに打ちひしがれていたことだろう。
「あの日、僕は乗馬を習ったばかりで、一人で馬に乗ってはしゃいでいた。ヒギンズ卿はそんな僕の面倒を見る為に、馬車を離れていたんだ」
ぽつり、ぽつりと語るお兄様の声は、どこか苦しげで──私には、まるで懺悔のように聞こえた。
「水害に見舞われた地域に、視察に向かう途中だった。足場が悪いから、注意するようにと言われていたんだが……注意するべきは、足元じゃなかったんだ」
ヒギンズ卿とお兄様が馬車を離れた、そのわずかな隙に──
山の斜面が崩れ、馬車は一瞬で土砂に呑まれた。
それが、お母様の最期だったという。
言葉が出なかった。
声を失ったのは、きっと私だけじゃない。
「そんなの……お兄様も、ヒギンズ卿も、悪くないじゃないですか……」
私が声を上げても、二人の表情は苦しげなままだ。
きっと、二人共に自分を責め続けているのだろう。
お兄様は、どうして馬車から離れてしまったのかと。
ヒギンズ卿は、どうしてお母様を救えなかったのかと。
「いえ……私が、もっと早くに駆けつけていれば……そして、奥様をお救い出来れば……」
何度も噛みしめられたヒギンズ卿の唇からは、うっすらと血が滲んでいた。
「それは、違う。お母様は、土砂の下からレイを……レイチェルをどうにか救い出させようと、必死だったんだ」
「私を……?」
お母様が、私を救おうと必死だった……?
だというのに、どうして私は、その声すらも思い出せないのだろう。
記憶の糸を辿ろうとしても、途中でぷっつりと途絶えてしまう。
失われた過去。
幼い私は、恐ろしい想い出を忘却の彼方に封じてしまったのだろうか。
「ヒギンズ卿が、レイを助け出した後……それっきり、お母様の声は聞こえなくなってしまった」
ああ、そうか。
ヒギンズ卿が、先ほどお兄様の言葉を制したのは……このことを、私に聞かせたくなかったからなんだ。
じんわりと、悲しみが胸を締め付ける。
でも……今は、悲しんでいる場合ではない。
きっと、私よりもお兄様やヒギンズ卿の方が、悲しいはずだ。
私は……もう、お母様の声さえも、思い出せないのだから……。
二人のように、心を痛める記憶自体が……私の中には、残されていない。
「そう……私が無事だったのは、ヒギンズ卿が助けてくださったからなんですね。ありがとうございます」
「お嬢様……」
今は、悲しみに囚われるよりも、前を向こう。
上手く笑えているかは、少し自信がないけれど。
「卿が居なければ、私は今ここに居なかったのですね……」
初めて知る事実。
お母様は、馬車の事故で亡くなったとだけ聞いていた。
そこにお兄様が居たことや、私も一緒に巻き込まれていたことなんて……今まで知りもしなかった。
土砂の下敷きになって、どれだけ心細かっただろう。
どれだけ辛かっただろう。
そんな中、お母様は私を助ける為に、ヒギンズ卿に声をかけ続けて──そうして、私をヒギンズ卿に託した後、静かに息を引き取ったのだ。
「お母様……」
ぽつりと零した声が、やけに大きく響いた。
お兄様も、ヒギンズ卿も、何も言わずに俯いたまま。
……暫しの後、その静寂を打ち破ったのは、お兄様だった。
「違う、僕達はこんな話をしに来たんじゃない」
ゆるりと頭を振ったお兄様は、真っ直ぐにヒギンズ卿を見据えた。
「僕は……レイが不安を感じているなら、レイを守ってくれるのは、ヒギンズ卿以外にないと思ったんだ」
いつもよりも、どこか幼く感じる、お兄様の言葉。
ヒギンズ卿の前では、お兄様は今も七歳の子供のままなのかもしれない。
感情も露わに、ヒギンズ卿に向けて、声を荒らげる。
「お母様を守れなかったと後悔するより、これからもレイを守ってくれ。これは次期ウィズダム公爵たる僕の命令だ、リオ・ヒギンズ!!」
いつものような、落ち着いた柔らかな声音ではない。
我儘な子供のような、どこか傲慢ささえ感じさせる声。
でも、きっと……お兄様にとっては、紛れもない本音なのだ。
長年お母様を助けられなかったと後悔するヒギンズ卿を、解き放つ為の言葉。
「お坊ちゃま……」
「お坊ちゃまと言うな。僕はもう、十四歳だ」
ふんと、お兄様が鼻を鳴らす。
昔馴染みであり、剣の師でもあるヒギンズ卿の前では、いつもは大人びたお兄様が、小さな子供みたいに見える。
「……お嬢様」
「はいっ」
突然声を掛けられ、思わず姿勢を正す。
「もう一度……お側にお仕えしても、よろしいのでしょうか」
「そんなの、当たり前じゃないですか!!」
ヒギンズ卿の言葉を待たずして、声を上擦らせてしまった。
彼の言葉を聞くまでもない、こちらからお願いしたいことだと言うのに。
「お嬢様、お坊ちゃま……いや、ユージーン様、レイチェル様」
ヒギンズ卿が私達の前で膝を折り、恭しく騎士の礼を執る。
「我が忠誠、再びお二人の元に──次代のウィズダム家を守る剣として、この身を捧げさせていただきます」
こうして、私達には頼れる仲間が出来た。
ヒギンズ卿には、お父様とお兄様を守る為の盾となってほしい。
そして、彼にはもう一つ、お願いしたいことがある。
「ねぇ、ヒギンズ卿。昔から我が家に仕えてくれていた貴方なら、当時の知り合いも多いと思うのだけれど……」
「ええ、まぁ、それなりに居りますが」
私の言葉に、ヒギンズ卿が首を傾げる。
彼は、ウィズダム家の現状を知らない。
まずは、かつての使用人達を取り戻さなければならない。
「当時の知り合いに、出来るだけ声を掛けてほしいの。我が家に、戻ってきてほしいって」
少しずつ切り崩されてしまった、お父様の牙城。
このまま、叔父様の好きにさせる訳には、いかないんだから。
お母様が私を守ってくださったように、今度は私が“家族”を守ってみせる──!









