3:疑念の芽。
叔父様は、若い頃は王城で働く文官だった。
その頃から王族の皆様とは顔馴染みだったというのは、知っている。
だが、今目の前に表示されているステータス……。
『忠誠心:B(対象:キンバリー・クレイヴン)』
その名前を見た瞬間、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
お父様ではない。
それは予想付いていた。
せいぜい、彼の忠誠心は低いのだろうな……くらいに思っていたというのに。
そこに表示されていたのは、予想外の名前だった。
キンバリー・クレイヴン──我がクレイヴン王国の王妃陛下だ。
王太子殿下の婚約者であった私は、何度も王妃陛下と顔を合わせる機会があった。
隣国リーコックから嫁いで来られた王妃陛下は、第一王子の母君でもあらせられる。
視野が広く、先見の明に長けた女性であると評判だ。
確かに、彼女の持つ知識は凄い。
凄いが、どうも彼女自身にはそこはかとない冷たさを覚えてしまう。
当然、相手は王妃陛下だ。
おいそれと親しみを感じられる相手ではない。
とはいえ、私は息子の嫁になるはずの相手だったのだ。
そんな私から見ても“底知れない”と感じてしまう王妃陛下の名には、恐ろしささえ付き纏っていた。
そんな王妃陛下に、叔父様が忠誠を誓っている……。
これが、何を意味するのか。
とても判断が付かず、私は動揺をひた隠しにする為に、繋いだままのお兄様の手を強く握りしめた。
私の内心の動揺を他所に、食事会は恙無く終了した。
そそくさと部屋に戻ろうとした私に、お兄様が声を掛けてくる。
「レイ、今日は久しぶりに一緒に寝ようか」
お兄様は、優しく私の髪を撫でてくれた。
巻き戻ってから、泣いている姿をいっぱい見せてしまったからかな。
それとも、叔父様と向き合っている間、ずっとお兄様の手を握りしめていたから?
どちらにせよ、私に断る理由はない。
「はい!」
元気よく返事をしたなら、お兄様の目元が柔らかく綻んだ。
身体が小さくなって、精神年齢も肉体に引っ張られているのだろうか。
以前なら恥ずかしかっただろうお兄様との添い寝も、恥ずかしさは感じない。
それどころか、ずっと会いたかった家族に、再び出会えたのだ。
時間が巻き戻ってからというもの、お兄様にも、お父様にも、甘えてばかりだ。
「レイはこんなに甘えん坊だったかな」
今も二つ並んだ枕の片側を占領したお兄様は、苦笑を浮かべている。
「じゃ、甘えん坊になったんです」
「そうだね、そうかもしれない」
はぐらかすような私の言葉に、お兄様がゆっくりと頷く。
同じ布団。
枕を並べて、向かい合って横たわる。
一人で眠る時よりも布団が暖かくて、心地よい眠気に攫われてしまいそうだ。
「ねぇ、レイ……君に、いったい何があったの?」
そんな微睡みは、お兄様が発した言葉によって、一瞬で吹き飛んだ。
「え……?」
じっとこちらを見つめる、私と同じ色の瞳。
澄んだサファイアの色は、まるで心の中まで覗き込まれているかのようだ。
「悪夢を見たと言って、泣いていたあの日……あの時から、レイがまるで僕の知らないレイのように感じることがある」
ドクンと、心臓が跳ねる。
お兄様に、気付かれていた……?
どうしよう。
どう説明したらいいの。
こんなこと、言っても信じてもらえるかどうか。
「いや、言い方が悪かったな。えぇと、レイのことを疑っている訳ではなくって」
お兄様の口調は、少し慌てたかのようだ。
私は、そんなに酷い顔をしていただろうか。
困惑気味の表情を浮かべながら、布団の中で、お兄様が私を抱きしめる。
「ずっと、何かに怯えていたり、警戒していたり……そんな風に見えて、心配だったんだ」
「おにい、さま……」
……間違ってはいない。
無残な死を遂げて、時間が巻き戻ってからというもの、会う人会う人に警戒ばかり向けてきた。
屋敷の使用人は、お父様よりも叔父様寄りの人達ばかり。
叔父様も、何を考えているのかは分からない。
私が頼れる相手は、お父様とお兄様だけ──。
「もし、何かあったら、僕に相談してほしいんだ」
優しい声が、耳を擽る。
温かな掌が、頬を撫でる。
「僕は、君の兄なんだから」
「……っ」
返事の代わりに、零れたのは嗚咽だった。
お兄様は、気付いていたんだ。
私が一人で、ずっと気を張っていたことを。
悲惨な運命を回避するべく、どう立ち回ったら良いかと、ずっと考えていたことを。
私の小さな異変に気付くほどに……私のことを、ずっと見ていてくれたんだ。
「ああ、ほら、泣かないで。また目が大変なことになっちゃう」
苦笑しながら、指先で涙を拭ってくれる。
優しいお兄様。
もう二度と、貴方を失いたくはない。
「私……嫌なことを聞いてしまったんです」
「嫌なこと?」
どうしたものか。
事実を告げずに、何とかお兄様にも警戒を促したい。
そう考えた結果、私は一部だけをそのまま伝えることにした。
「叔父様が、王妃陛下と、悪い相談をしているって……」
言葉にした瞬間、お兄様の瞳が揺らいだ。
僅かに息を呑み、唇を噛みしめる。
「レイ、いいかい。それは、誰にも言ってはいけないよ」
「はい……」
お兄様は、私の言葉を否定しなかった。
馬鹿にすることもなく、慰めることもなく……ただ“誰にも言ってはいけない”とだけ告げた。
それは、つまり──お兄様にも、何か思うところがあるのだろうか?
◇◆◇◆◇
僕の可愛い妹、レイチェル・ウィズダム。
彼女に変化が訪れたと感じたのは、ある朝のことだった。
僕の顔を見るなり、涙を溢れさせた。
元々、年よりも大人びた少女だった。
だが、あれほどまでにボロボロと泣くような子供だっただろうか。
子供らしく、泣きわめくでなし。
感情に訴えるでなし。
ただ、自らを押し殺して、涙を流す。
目の前で、妹が泣いている。
だというのに、その様は、まるで知らない誰か──大人びた女性が泣いているような気さえした。
人は、あんなにも己の感情を殺せるのだろうか。
どれだけの悲しみを背負ったら、あんな風に静かに泣くのだろう。
その日から、僕の興味の多くは、妹レイチェルが占めていた。
そんなレイチェルが、涙を零しながら告げた言葉。
『叔父様が、王妃陛下と悪い相談をしているって……』
聞いた瞬間、意識のどこかでカチリとピースが嵌まった気がした。
ああ、そうだ。
ずっと、感じていた違和感。
親しい使用人達が、少しずつ消えていく。
昔から居る使用人が姿を消し、いつの間にか、新しい使用人が働いている。
人が入れ替わるのは、当たり前のことだ。
だが、働く顔ぶれが変わっていくうちに、少しずつ屋敷の中の空気も違っていった。
何かが、少しずつ変わっている。
以前は父とよく談笑していたはずの文官が、今では叔父に指示を仰ぐ者ばかりになっている。
父上は気にしていないようだったが、以前からウィズダム家に忠誠を誓ってくれていた者達は、少しずつ姿を見なくなっていった。
レイチェルに言われるまでもない。
この屋敷では、何かが起きている。
気を許してはいけない。
信じられるのは、父上とレイチェルだけだ。
いや、父上でさえ、誰かに丸め込まれている可能性がある。
信じられるのは、自分だけ。
そして、僕は妹を──幼い妹と、父と、家とを守らなければならない。
果たして、僕に何が出来るだろうか。
静かに寝息を立てるレイチェルの髪を指先で玩びながら、そっと目を閉じるのだった。









