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音消──オトケシ

 1


 その日も、少女は本を読んでいた。

 都心に一戸建てを構える、裕福な家庭の一人娘として生まれた少女は、両親にたっぷりと愛情を注がれて育てられた。私立の小学校に通い、友人に恵まれ、大きな悩み事もなく、人生は九年目を迎えようとしていた。

 少女は本が好きだった。そして、本を読むときにはこだわりがあった。最新のオーディオプレイヤーで音楽を流しながら、安楽椅子にもたれかかる。これが基本スタイルであり、少女にとって最も内容に没頭できる環境らしい。

 少女は今、家に一人である。母親との買い物を断り、好きな作家の新作小説を読んでいた。一文一文を深く読み込み、世界観に浸っている。ジャンルは冒険活劇であるため、音楽もハラハラとさせるような緊迫感のあるものをかけていた。

 そんな少女の集中は一瞬にしてプッツリと消えた。最初は、なぜ途切れたか理由が分からなかった。目線を本から外に向けて数秒、やっと違和感に気付く。

 音が全く聞こえない。

 最初はオーディオの故障かと思ったが、プレイヤーを見ても壊れているようには見えない。耳に当て、音量を最大にしても全くの無音であった。

 こんなに壊れるの早いかなぁ……。

 少女はつぶやこうとした。だが、自分の声すら聞こえなかった。

 最初は意味が分からなかった。必死に叫んでみるが、全く音がしない。

 一体自分の体に何が起きたのか、少女は未知の体験の恐怖で手が震え、本を床に落としてしまった。もちろん、床に本が落ちる音も聞こえない。

 だんだん、首をつかまれたように息苦しくなっていき、口を大きく開け、肺に空気を取り込もうとしても、上手くいかない。

 かすれ声すら出ず、少女は助けも求められない。無音の世界で、どうしていいか全く分からず、目尻に大粒の涙がたまる。

 絶望的な状況の中、室内のほうを見ると、そこには黒い物体がいた。

 その黒さは異質だった。光を吸収して黒く見えるのではなく、まるで最初から光が届いていないかのような、もしくは視界の一部が欠けたような、とにかく直感的に拒絶反応を起こしたくなる不気味さがあった。

 黒い物体は人の形をしている。ゆっくりとこちらに迫ってくる。

 少女は、断末魔の叫びすら上げられなかった。




 2




 ついに正体を見破った。

 物が勝手に消えたり、配置が換わったり、床がきしむ音が聞こえたり、この神社で起こっていた怪現象の元凶を、目の当たりにしている。

 ヤツは私たちに捕らえられるとは知らんと、収納棚の上で丸まっていた。眠っているかのようにじっと動かない。相当油断しているようだ。今のうちにさっさと捕まえてしまおう。

 音を立てないようにして脚立に上る。ヤツに近づき、深く息を整えた後、素早く腕を伸ばす。

「うそっ……!!」

 ヤツの反応速度に負けてしまった。腕と腕の間をしなやかに抜け、外へ向かい走っていく。

「待って待ってぇ!」

 脚立に乗っていてはすぐに追えられない。一人だったらここで逃がして終わりだったが、こちらには仲間がいる。

「太郎――!!」

 名前を叫ぶと、縁側に隠れていた太郎が、ヤツの前に立ちふさがった。影で覆うように体を前かがみにして、前方への移動を阻む。

 こうなれば逃げ場は一つ、廊下のみだ。ヤツは予想通り廊下に方向転換をした。

「次郎――!!」

 もう一人の仲間、次郎がヤツをすくい上げるようにつかんだ。


 夕陽を背にして、三人は横一列で歩いていた。

「いやぁ~、いいことをした後ってのは気持ちがいいねぇ」

 次郎は上方に腕を伸ばし、ただでさえ大きい体をさらに大きくさせた。

「…………」

 全く気持ち良くない。面白くない。

「花、また不貞腐れてるのか」

 太郎が下にズレたメガネを定位置に戻し、鋭い目をこちらに向けた。隠したつもりの内情が、顔に出てしまっていたようだ。

「そりゃそうだよ。ネコを捕まえるために来たんじゃないのに」

「だが神主は喜んでたぞ」

「それはそれ! はあぁ~、今回も妖怪の仕業じゃなったかぁ」

 私たちはオカルトクラブという団体を設立している。何をしているかは名前の通り、説明不要であろう。

 今回だって、怪現象発生の話を聞いて調査に乗り出しただけだ。ネコを捕まえたのは、結果的にそうなっただけで、最初から目的だったわけではない。

「話だけなら絶対座敷わらしだと思ったんだけどなぁ……」

 最初は、座敷わらしのイタズラではないかと思っていた。その線で調べていただけに、ただのネコだったという真実は期待外れもいいところだ。

「まぁまぁ落ち込まないで。簡単に出会えないから面白いんじゃないかなぁ、オカルトってのはさ」

 次郎はいつも落ち着いている。思った通りの結果にならなくても、全く気にする様子がない。それ自体は長所であるが、時に苛立ちを加速させる。

「あぁ……!! 二人とも、オカルトクラブなのにそれでいいの!? 毎回これだよ?」

 一度や二度ではない。妖怪や幽霊かと思った現象が、ことごとく現実的な結果につぶされてしまう。

「構わない。妖怪と決めつけて何も解決しないまま終わるよりは、よっぽど良い結末を迎えてる」

 太郎はいつも冷静だ。常に客観的に物事を見られる能力は、この先の人生でも多いに役立つだろう。

「むうぅ……、そっちの方が、まぁ、正しいのかもしれないけど……」

 人助けをするのは大事だ、それは否定しない。

 だけどそうじゃない。怪現象に科学的なオチが付いてしまうことに落胆しているのだ。幽霊に、妖怪に、超能力者に、一度でいいから会ってみたい。その可能性が消えるたびに、悔しくて仕方ないのである。

 二人とも、心の奥底ではいないと思っているから諦められるのだろう。同じメンバーでも、ここに決定的な差がある。

 私は本当にオカルトが好きでこのクラブを設立した。実際に出会うこと以外にも、テレビを見たり、本を読んだり、ワクワクすることを共感したかった。

 だが、結局付き合ってくれるのは二人だけ、それも心の底から楽しんでいるようには思えない。

 恐らく、二人は私と一緒にいたいだけだ。自分で言うのは恥ずかしいが、私の顔はそれなりに整っているし、小三にして既に何回も告白を受けている。

 だからといって二人を拒む権利はない。上辺だけでも、一緒に活動してくれることは感謝している。

 それでもやはり、心の底にある孤独感だけは拭えない。

 本当に、本当にオカルトを求める、そんな仲間がほしい……。これはぜいたくな望みなのだろうか。


 神社での活躍は学校にまで広まっていた。

 翌朝、教室に入るや否や、何人かのクラスメイトに話題を振られる。そのほとんどが褒め称える内容で、うんざりとする。残念だった、と言ってくれる人はいない。それどころか、オカルトクラブというのが名前だけのもので、単なる慈善団体と思っている人までいる。

 強く否定したがったが、できなかった。実際にメインでやっていることが、ボランティアだからだ。不思議な話を集め、体験するという目的が、達成できた日は一度もない。他にオカルト話を教え合う活動があるが、基本的にこちらが一方的に話し合うだけだから面白みがない。

「はぁ……」

 それなりに認知度が広まった上で仲間が集まらないとなると、絶望感は凄まじい。

 雲一つない空なのに、グレーに見えて仕方ない。視界が色あせたままぼんやりとしていたら、始業の時間になった。

 チャイムの音と相反するように、ざわざわしていた教室が落ち着いていく。かと思いきや、再び教室にざわめきが戻る。

 何事かと思い前を向くと、担任の上田先生の後ろに、少女が一人くっついていた。

 ストレートの長い髪をなびかせながら、教壇の前に少女は立つ。黒い瞳と、黒いワンピースは、吸い込まれるような力を感じられた。

「は~い、みんな静かに。今日から新しいお友達が増えま~す。自己紹介、できるかな?」

「……はい」

 少女の声は柔らかく、穏やかな気持ちになれるような心地よさがあった。か細いながらもしっかりと耳に残り、たった一言だけでも声質が脳の奥に残ったままである。

「早見美夜です。よろしくお願いします」

 美夜の会釈は、首だけを前に傾ける簡単なものだった。

「早見さんは空いてる席に座ってね」

 空いている席――私の左隣、窓際一番奥の場所だ。進学当初から空いていたあのスペースに座するのが、まさか転校生だとは思わなかった。

「分かりました」

 美夜が来ると、授業中に見る景色も変わるだろう。これまでは暇な時や飽きた時、大抵は左を向いて外を眺めていた。それが美夜によって阻まれてしまう。どこを向くのが良いか、早いうちに考えておこう。

「…………」

 美夜は表情をほとんど変えずに、机と机の間を抜けていく。動きは最小限で、無駄が一切ない。隣まで来ると、彼女は軽い会釈を行った。先ほどより少し角度が大きい気がする。

 イスに座ったのを見計らい、私は名乗ってみる。

「よろしく! 私の名前は御手洗花子、気軽に花って呼んでね」

「……花、よろしく」

 美夜は少し照れくさそうにしていた。


 授業中は全く退屈に感じなかった。

 机を連ね、一冊の教科書を二人で眺めている都合上、ひそひそ話がしやすかったためである。

「ねぇ、美夜は普段どんなことしてる?」

 手で口元を隠し、美夜にしか聞こえないほどの大きさでささやいた。

「う~ん、いろいろ。廃虚とか行くのが特に好きかな」

「ほ、ほんと!?」

 思わず大きな声が出そうになったのを、グッと抑える。

「私も好き! お化けとか、妖怪とか出てきそうなのが好き!」

 音量は抑えられたが、テンションまでは抑えきれない。自然と跳ねるような声になってしまう。

「妖怪? 私も大好き。話聞いてるだけでワクワクしちゃうもん」

 美夜の目が輝いて見える。口角を上げたり、目尻にしわを作ったりしているわけではないが、奥底で好感触を得ているのが直感で感じ取れた。

「気、気が合うかもね……! 私たち」

 胸から熱く湧き上がる興奮が止まらない。オカルトの話をして、ここまで温かい反応をもらったのは人生初だ。

 嬉しい……ただただ嬉しい。

「実はさ、私オカルトクラブってのを作って、そういう系統のことを調べる活動してるんだ」

 オカルトクラブの一員にいたい。そんな気持ちでいっぱいだったので、興味があるか探りを入れてみる。

「へぇ、面白そう」

 あきれる様子などは一切見せない。この手応えなら誘っても問題なさそうだ。

「美夜も……入っちゃう?」

 勇気を出し、美夜の参加を促す。元から来るもの拒まずの精神だが、自分から特定個人を誘うのは初めてだ。

「いいの? 今日初めて会ったのに」

「全然いいよ! だって……好きなんでしょ?」

 オカルトが好き、それだけで誘う理由は十分ある。会って間もないかどうかなどささいな話だ。美夜の瞳に反射する顔が生き生きしているのが、自分自身でも分かってしまう。

 とにかく、目の前にいる美夜と趣味を共有したくて仕方なかった。


 3




 通学路の外れには公園がある。放課後、何か用事がある時は太郎、次郎とここで待ち合わせをする。

「ということで、早見美夜ちゃんもオカルトクラブに入ることになりました!

 今回は美夜を紹介するのが目的だった。二人は彼女とクラスが違うので、これが初対面である。

「出てきていいよー!」

 と言うと、ドーム型の遊具に隠れていた美夜が、ゆっくりと二人の前に現れた。

「よろしくお願いします……早見美夜です」

 少しだけ照れくさそうに顔を横に逸らす。わずかに頬を膨らましているのが、妙にかわいらしい。太郎と次郎もそのしぐさに見とれていた。

「そんな硬くならなくていいよ。僕たちも同級生なんだし」

 目線を一瞬だけこちらに向けた後、次郎は美夜に愛想よく返事をする。

「分かった。気軽に話すね」

 本当に気軽な話し方に変わる。二言目からはタメ口で話すのが、美夜なりに距離を縮める方法なのかもしれない。

「僕たちも自己紹介しなくちゃね。僕は山田次郎。でこっちが中田太郎、覚えにくいかもだけど、目つきのいいほうが次郎って覚えてもらえればいいかな」

 字面が似ているせいか、二人はよく名前を間違われるらしい。太郎はガタイが良くスポーツ万能、次郎はメガメをかけていて成績上位、と美夜には事前に説明しておいた。それでも、まだピンと来ていない様子だった。

「あと、太郎はちょっと口が悪い所あるけど、気にしなくていいよ!」

 大事なことを言い忘れていたので、付け加える。

「分かった。気にしない」

「オイオイ……、俺の紹介おかしいだろ。ったく……」

 早速わかりやすく目をとがらせ、悪態をついた。

 悪いやつではないのは知っているし、頭も良い。だが、口調の強さや態度の大きさのせいで、ほとんどの人に悪い第一印象を与えてしまっている。

「それを言うなら、花の妄想癖にも真に受けるなよ。話半分で聞いて、ちゃんと自分の意見を確立させておくといい」

「うん、話半分で聞く」

 またも美夜は素直に答える。敬遠してしまわないか心配だったが、この様子なら問題なさそうだ。

「ははっ、すごい素直だ。美夜はいい子だね」

 人間関係の問題もなさそうだ。これならきっと、オカルトクラブ第四のメンバーとして活躍してくれるに違いない。

 花子はそう信じて疑わなかった。


 このまま歓迎会までしたかったが、引っ越ししたてで忙しいらしいので、今日は解散することになった。美夜はこの土地のことをまだよく覚えていないため、学校までの道を一緒に戻ることにした。

「帰り道は、いつもあの公園にいるの?」

 大通りの信号を待っている最中、美夜が尋ねる。

「毎日じゃないけど、集まれー! って言ったらその日に集まる。で、だいたい集めた日には怪現象について色々語ったり調べたりする感じ」

 興味津々で聞いてくれている。息を深く吸った後、話を続けた。

「集合をかけるのはだいたい私かな。誰がかけてもいいんだけどさ。美夜は、何か面白いオカルト話ある?」

 美夜を誘った一番の理由はこれである。私以外を起点に話を盛り上げたい。太郎や次郎の場合、またに集合を掛けたかと思うと、一緒にテスト勉強をしようだの、休日遊園地にいこうだの、くだらないことしか話さない。

 でも美夜なら、美夜ならきっと私を興奮させる話を持っているはず。確証はないが、そんな気がして仕方なかった。

「……オトケシって知ってる?」

 美夜はわずかに首をかしげながら、聞き覚えのない単語を発した。

「えっ……ごめん。初耳」

 表面上は謝ったが、内心は膨れ上がるほどに嬉しかった。

「謝らなくていいよ。知らないのが普通だもん」

 ここで信号が青になり、美夜はアイコンタクトも取らずに歩き出す。既に学校までの道を覚えているのだろうか。いつの間に自分たちが美夜に付いていくようになってしまった。

「オトケシっていうのはね、人間を襲う化け物のこと。その人が独りになっている時を狙ってね、食べちゃうんだ」

 まるで機械のように、淡々と素っ気なく話し続ける。これまでも多少不思議な雰囲気はあったものの、人としての活気が全くない子ではない。

 話の内容そのものより、美夜の急激な変化が気味悪かった。

「で、オトケシが人を襲う時は一切の音が消えちゃうの。だから叫んで助けも呼べない」

「へぇ……そりゃすごい。そのオトケシに弱点とか、逃げる方法はあるのか?」

 太郎の反応はまるで言質を取るかのようだ。特に気味悪がっている様子はない。

「ないよ。オトケシが襲ってきて逃げられた人もいない。二人以上で居て、襲われないようにするしかない」

 美夜は横を一切見ず、ずっと正面を向いて歩き続ける。

「その人が気付いてなくても、誰かが見てたらダメ。監視カメラとかがあってもダメ。用心深いんだよね、オトケシって」

 学校前まで着き、やっと足を止めたかと思うと、懐から新聞を取り出した。

「……これはね、最近オトケシが起こした事件」

「この事件は……!」

 新聞記事に映っていた顔を見て、すぐにピンと来た。数日前に起きた事件だ。

 私と同じ年の少女が一人で留守番をしていた最中、こつぜんと姿を消してしまったという。恐ろしいのは、家が密室だったという点だ。全ての出入口は鍵がかかっていて、荒らされた様子もない。密室殺人ならぬ、密室の行方不明事件。犯人の目的も一切不明。あまりにも情報がないせいか、メディアでもほとんど報道されていなかった。

「花は知ってるの?」

 次郎は眉間にしわを寄せて不思議がっていた。

「当たり前よ。だてにオカルト同好会設立させてないわ」

 逆に知らない方があり得ない。オカルトクラブのくせにアンテナを張らなすぎである。

「オトケシがやった証拠なんて、この先出るわけないから、未解明のまま終わっちゃうんだろうけどね」

 まるで全てを知っているかのようである。出ないと言い切られると、背中がゾワゾワする。

「他にも集団で行方不明になったニュースがあったでしょ。あれもオトケシなの。一人ずつ襲われて、最後に全員食べられちゃったの」

 美夜はまた別の新聞記事を出した。

 これも知っている。山にキャンプにいった大学生たちが消失したというニュースだ。こちらはただの遭難事故だったと思っていたので、特に注目はしていなかったが、オトケシの仕業と言われるだけでなんだかゾっとする。

「…………」

 しばらく美夜は黙り込む。新聞記事まで出されると、太郎も十分気味悪く思っているようで、額に汗をにじませている。次郎は言わずもがな、顔を青くさせていた。

 進むことも、戻ることもない。通行人の何人かは私たちを二度見するが、話しかけることはない。四人だけの空間ができ、時間が止まっているようだった。

「中々、面白い話だったわ……」

 このままでは埒が明かない。時計の針を強引に動かすつもりで、口を開いてみた。

「良かった。学校から家の道のりなら分かるから、また明日ね!」

 美夜は、私の好きな美夜に戻った。


 美夜と別れた後、三人は改めて公園に集合した。

「どう思う? 美夜の話」

 太郎と次郎はどう受け止めたのか。表情を見れば半分は想像付くが、口頭で感想が聞きたかった。

「どうと言われたら……ウソだろう。あれはただの作り話だ」

 得意げな顔で、太郎は答えた。

「怖い話の初歩的なミスをしている。話を広めた人間は誰か、という点だ。ご丁寧に化け物と出会って逃げ切れた人間がいないとまで言っていた。自分の考えた最強のモンスターをひけらかそうとしたんだな、きっと」

「それは……確かに」

 太郎が最初から疑いの目で見ているのはいつものことだ。しかし、確実にウソと言い切ったのは初めてかもしれない。話を聞いている最中は神妙な顔をしていたはずなので、公園までの移動中に結論づけたのだろう。

「どうした? あの子が化け物の被害者で、幽霊だったとでも言う気か?」

 よっぽど自分の推理に自身があるようで、鼻の穴を膨らませている。

「うぅ……そんなことは言えないけど……」

 矛盾点について反論はない。だが、その矛盾をただのウソで片づけてはいけない気がした。なぜ、オトケシの話をしている間だけ、人が変わったようになってしまったのか。そこがどうしても引っ掛かる。

「でもなんか、こう……、話してる時の雰囲気がさぁ……」

「う~ん、怖かったねぇ。怪談師の才能があったよ」

 そういう話し方をしているだけ、と次郎は捉えているらしい。太郎も多分同じだろう。

「でも新聞記事までわざわざ持って来るのは、悪趣味って思ったかな」

「ねぇ、新聞記事を持ってたのっておかしくない? 私が話を振らなきゃ見せることもなかっただろうし」

 美夜の話が気味悪く感じた原因が、一つ分かった気がした。こっちから振ったのにも関わらず、用意周到だった点だ。

「そこは俺も引っかかった……まぁそれだけ承認欲求が強いということなんだろう」

 太郎は自分の意見を曲げる気は少しもなさそうだった。

「そうなのかなぁ……」

 疑問が残る。承認欲求が強いなら、今日の間でもっと話す機会があったはずだ。

 だが、この感情に論理的な理屈は備わっていない。過去の例で言っても、こういう場合はだいたい太郎が正しい。釈然とはしないが、やっぱりオトケシは嘘なのだろうか。

「だいたい話の真偽はどうでもいい。それよりウソを付くような女を仲間に入れるべきか議論したい。ちなみに俺は反対のつもりだ」

「う~ん、じゃあ、僕も反対かな。今のままでも楽しいし、四人だとバランス崩れそうっていうか……」

 二人とも、オトケシの話を通して随分と印象を悪くしてしまったらしい。

「私は……」

 すぐに答えが出なかった。確かにウソを付く人間は入れたくないし、これまでの太郎や次郎との関係にヒビを入れるのも嫌だ。

「私は一緒にいたい」

 それでも、美夜をのけ者にはどうしてもできなかった。

「ウソでもいいよ。私が面白い話ある? って聞いたせいで嘘を付かざるを得なくなったのかもしれないし」

 良い顔をしていない太郎と次郎を説得するため、精一杯のフォローを入れる。自分が

 悪いと主張すれば二人も強くは言えないはずだ。

「それに……たとえ話がウソでも、オカルトに興味持ってくれる友達なんてそうそうできないでしょ?」

 たった一日とはいえ、密度の濃い時間をともに過ごした仲だ。オカルトの話題を出すと、しっかりとその知識を持っていて、一緒に盛り上がってくれる。美夜との関係はできる限り深めていきたい。

 花子の一存で、美夜の居場所は守られた。




 4




 ――オトケシっていうのはね、人間を襲う化け物のこと。その人が独りになっている時を狙ってね、食べちゃうんだ

 美夜の話は、家に帰っても脳内で反響し続ける。太郎の話を聞いてウソだと思えたのに、その結論を心のどこかで否定し続けている。

 いつもは真剣に見ているクイズ番組も、今日は全然頭に入らない。

 帰ってしばらくして、美夜の話の不自然な点に気付いた。太郎が言っていた矛盾とは別の部分だ。

 大抵の怪談が肝心な部分を曖昧にしているのに対し、オトケシの話はかなり具体的に示されていた。掲示した事例は実際に起きたもので、かつ捜索が続いているものだ。進展がある可能性があるにも関わらず、美夜は断定的だった。

 フィクションの中に現実に起きた事例を混ぜるとリアリティが上がる、ホラー系の作品で使われる手法だ。美夜はそれを知った上で活用した、と言えばそれまでだが、引っ掛かる。

 その一方、オトケシ自体の情報が少なすぎる。特定の条件で人間の元に現れて食すことと、出現すると音が消えることだけだ。なぜ生まれたのか、どのような人間を襲うのか、どんな見た目か、正体は何者か――全て触れていなかった。まるで足跡だけを残す未確認生物のように、全貌の想像すら付かない。

「花子―! 先にお風呂入っちゃってー!」

 母親の催促が聞こえ、ふとわれに返る。逆らう理由はないので、浴室へと向かった。


 洗面所の引き戸を閉める。

 大きな鏡には、自分だけが映っていた。他にも洗面用具や洗濯機などがあるものの、生きて、動いているものは一人しかいない。

 ごく普通の光景だが、気付いたら足が震えていた。背中の辺りから悪寒がしてくる。

 直前まで考えていたせいだろうか。誰もいないことに恐怖を覚えてしまう。母親は洗い物中で、父親は出張中。さらにリビングのテレビも付けっぱなしだ。

 今、私の身に何か起きた場合、助けてくれる人はいるのだろうか。もしかすると、母親ですら気づいてくれないかもしれない。

 物理的な距離の近さに反して、ちょっとした壁で隔たれるのが怖くて仕方ない。

「あぁ……あ、あぁー、あー」

 声は聞こえる、オトケシは今のところ来ていない。

 だが、もし浴室で対峙してしまったらどうしよう。浴室には窓がなく、出入口は一つだ。正面から相手を振り切り、声が出せる場所――母のいるリビングまで走る必要がある。浴槽につかっていればまずそこから出なくてはいけないし、シャワーを浴びている最中だとオケやイスが邪魔をしてちゃんと走れないだろう。

 ダメだ。どう考えても逃げられる手段がない。かといって力で勝てるわけがない。

 ただでさえ背の順で先頭だし、体力テストでも最下位常連である。オトケシがどういう存在が不明だが、勝てるビジョンは見えない。

 会ったら終わり。どんな抵抗をしても、為す術もなく食べられるに違いない。

 考えていると、だんだん呼吸が荒くなっていく。鏡を見ずとも、自分の顔が深刻になっていることが分かる。表情筋が硬直して、上手く動かせない。

 ダメだ……耐えられない……、ここにいられない……!

「お母さぁ~ん! 一緒にお風呂入りた~い!」

 恐怖に屈した花子は、洗面所から勢い良く飛び出し、母親を求めた。


 母親と一緒に入浴するのは久々だった。オトケシに狙われることはない、と思えるだけで、先ほどの緊張がウソのようにリラックスできた。

 美夜の話はすっかり忘れ、就寝の時刻となった。

 電気を消し、ベッドに入る。普段は目を閉じて数分もしないうちに眠り、気付いたら朝になっているわけだが、今日は違った。

 自分の部屋の静けさがどうも気になった。

 普段は何とも思っていなかったが、自分が音を立てなければ無音である。これ自体はごく普通のことだし、むしろ雑音が常に聞こえる部屋のほうが嫌だろう。

 しかし、今の私は無音故に寝られなかった。オトケシの話を完全に思い出す。

 寝ている間は意識がない。もしオトケシが来たら、気付くこともなく食べられてしまうのだろうか。もし気付いたとしても、寝ぼけた状態で何ができるというのだろうか。

 既に明かりは消しているというのに、心拍数は上がり、頭もどんどんと覚醒に向かっている。

「どうしよう……」

 一度寝てしまえばいいはず。考えまいとすればするほど、考えてしまう。寝られないという焦りも、また睡眠を阻害する。

 朝まであと何時間だろうか。それまでずっと、この恐怖が、まとわりつくのだろうか。


 花子は、またも恐怖に屈してしまった。母親の部屋に出向き、こびるような目つきを見せる。

「お母さぁ~ん! 一緒に……寝てい~い?」

「んんー? いいけどぉ。どうしたの花子。今日は随分甘えん坊さんね」

「うん……ちょっと……」

 オトケシのことを言うべきか迷った。オカルト趣味については母親も認知しているが、そのせいで寝られなくなったと告白するのが怖かった。言葉を濁らせたまま、ベッドに侵入する。人肌の温もりが心を癒やしてくれる。さらに母親を強く抱きしめた。

 温かい……とっても温かい……。

 触れ合うだけで、全ての不安を忘れられる。私は、母親がいる喜びを強く嚙みしめた。


 一晩たつと、だいぶ精神状態は安定を取り戻した。誰かと一緒にいるだけで良いというのは、大きな心の支えとなっていた。

 だが恐怖は発作的にやってくる。周りに人が居ないからといって、常に怖がっているわけではない。一度〈無〉を感じてしまうと、これまでの平常心がひっくり返され、居ても立っても居られなくなってしまう。

 オトケシの話は、旭菱考えないことにした。真偽を考えているだけで、気が狂いそうになるからである。

 いつ恐怖のトリガーが発動するかは分からない。いつまでもおびえていては生活に支障が出てしまう。どうにかして対策したい。

「はぁ……」

 また考えてしまった。考えたら不安が増すばかりだ。

 頬づえをついて外を見る。これまでは窓越しに大きな空を眺められたのだが、今は美夜がいる。

「花、顔色悪いよ?」

 目が合うや否や、美夜は心配そうな顔で尋ねてきた。

「え? そう?」

 心の不安が顔にまで出ているとは思っていなかった。

「うん、昨日よりなんだか……何かあった?」

 美夜は手を伸ばし、私の頬に添える。外は温暖な気候なのにも関わらず、手はひんやりとしていた。

「まぁ……ちょっと……。昨日の美夜の話聞いて、夜怖くなっちゃって」

「オトケシのやつ? それなら心配しなくていいよ。一人でいるからって、寝てる時まで襲うことはないから」

 ひんやりとした感触が、頬から肩、背中へと移動していく。何度かなでられると、そこが少しだけ温かくなった。

「ごめんね」

 美夜の声は、とても悲しそうだった。


 美夜のフォロー通りなら、夜中に怖がる必要はない。けれど、心配はまだ付きまとっていた。

 昼休み、校舎屋上前の踊り場に太郎と次郎を呼んで、昨日の出来事を話した。

「だから……! ウソだろウソ! 何でそこまでビビる必要があるんだ!」

 太郎の顔は鬼気迫るものがあった。シニカルな部分こそあれど、感情的に怒る所を見るのは初めてだ。

「わ、分かってるよ。私もウソだと思ってる……。でもやっぱ……こう、怖く感じちゃうんだよ」

 オトケシに感じる恐怖心は、真偽を超えたところにある気がしている。これを言葉で説明するのは難しい。

「まぁまぁ、怖いってのは理屈じゃないでしょうよ」

 次郎が間に割って入った。

「だからさ……私もこのままじゃ良くないと思ってるし、どうしよっかなって」

 一人では解決策は思い浮かばない。二人を集めたのも相談をするためだ。特に太郎はこういう時に頼りになる。

「要するに、心のどこかじゃまだ信じてるんだ。その化け物がいないことが証明できればいいんだろう?」

 既に太郎は、頭の中で策を講じていたようだった。


 放課後、また例の公園に集まった。木陰のベンチに四人は横一列になって座る。

「早速集会? 今日はどんな用事?」

 事情を一切知らせずに連れてきたせいか、美夜は少し困惑していた。

「何を隠そう、君が昨日話したオトケシについてだ。俺たちも結構興味を持ったからいろいろ聞きたいんだ」

 太郎の目つきは、美夜を試しているかのようだった。

「まず、オトケシはどこに住んでいるんだ? 君が掲示した二件は全く別の場所の出来事だ」

「転々としてるの」

 美夜の目が死んだように黒くなる。昨日と同じ、生気を感じられなくなってしまった。

「今はこの町にいる」

「ええっ……!!」

 背中に悪寒が走る。頭ではウソだと言い聞かせているのに、体の拒絶反応は逃れられない。

「へぇ……じゃあ、どういう所にオトケシは現れるんだい? より具体的に知りたい」

 太郎にとっては、想定の範囲内だったようで、動じる様子はなかった。

「何でそんな尋問みたいな聞き方をするの?」

 その態度が鼻に付いたのか、美夜は顔をしかめる。

「やっぱ太郎は口が悪い、いやぁ~な聞き方するよなぁ」

 悪い流れに進もうとしたところを、次郎が止める。優しくほほ笑んで、場を和ませようとする。

「僕たちは単にさ、オトケシに会ってみたいんだよ。だから会う確率を上げるようにしたいわけ」

 これこそが、太郎の考えたオトケシがいないと証明する作戦である。

 オトケシを出現させるために必要な条件を極力整え、それでも出現しなかったことを確認する。絶対ではないので言い逃れの余地はあるが、滅多に出現しないことを実際に経験することで、私も気にしなくなるだろう、ということらしい。口は悪いが、私のことをなんやかんやで想ってくれる、太郎らしい作戦だと思った。

 若干、不穏な箇所はあったものの、大筋の作戦は順調である。この町にいることまで言質を取れたのは好都合だ。

「会ったら終わりだよ? 絶対に食べられちゃうのに」

「そう。それでも会いたいの」

 口内にたまったツバを飲み込んで、私は言った。

「あのね、オトケシは本当に一人じゃないと現れないの。でも、そういう場所って意外と少ないじゃない? だから意外とオトケシの出る場所は限られるの。人気が無い場所……、絶対に部外者が出ない場所ってない?」

 美夜はこの町に来たばかりだ。だから具体的にと言われても難しいのかもしれない。

「……サイフウ病院」

 なので、具体例を出してあげることにした。これも想定の範囲内だ。美夜が場所を言えなかった時はこちらから場所を提案しようと、太郎と話し合った結果である。

「結構前に潰れて放置されてる、典型的な廃病院。怖いうわさすら立たないレベルでみんな近寄らない」

 この場所は過去に侵入したことがある。怪現象は起きなかったが、本当に人気がない。

「へぇ……、そこならオトケシが現れる可能性が高いね」

 決まってしまった。

 これで分かる。オトケシの話が真か偽か……。




 5




 美夜が来ない。

「あれぇ~? 九時に集合だったよねぇ?」

 時計は九時十五分を指している。廃病院前でずっと待っているが、来る気配がない。病院の前は一本道があるぐらいで、それ以外は木々や雑草で覆われた、陰気な所だった。

「ちゃんと地図渡したんだよね?」

 次郎が太郎に問う。病院までの地図を描いたのは太郎である。

「ああ、ちゃんと道順を書いておいた」

 あの後、美夜は「今日のうちに検証したい」と言い出し、私たちもそれに賛成した。短ければ短いほど、小細工をする時間も取れなくなるからだ。

「……どこで集合って言った?」

 太郎は、私に疑いの目を向けてきた。

「え? ちゃんと廃病院って……」

「廃病院の中……って受け取った可能性はないか?」

 目的地に来られないわけがない、と太郎は思っているのだろう。

「そうかな……普通に道に迷っただけじゃないの?」

 太郎は方向音痴の気持ちが分かっていない。言葉だけの説明で目的地にたどり着くのはとにかく難しい。私自身も、慣れていない場所はよく道に迷う。立地的にも、周りに目印にあたるものがないので、迷うのは仕方ないと思う。

「その可能性もゼロではない……。ここに一人残り、後二人で中を探索するか?」

 その提案に、ギュッと心臓が締め付けられたきがした。

「残るの……!?」

 独りきりになる、と考えただけで、昨日散々味わった恐怖がよみがえってくる。しかもここはオトケシが現れる可能性が高いと言われた場所だ。どんなにオトケシはいないと言い聞かせても、恐怖を拭える自信がない。

「いや、一人残るのは僕にする。花は次郎と中に行けばいい」

 無意識のうちにおびえた顔をしてしまったのだろうか。太郎は入口を背にして、仁王立ちした。

「……ありがとう」

 太郎の優しさをかみしめつつ、先も見えない暗闇が広がる中へ、次郎と足並みをそろえて進んでいった。


 美夜はいない。

 二人で懐中電灯を照らし、周囲を見渡すが、人の気配は一切しない。清掃がロクにされていない病院内は、壊れた器具が地面に落ちていたり、腐敗臭が漂ったりしている。個人的には嫌いでないが、好む人は少ないだろう。

「美夜~! いるぅ~?」

 叫んでみるが、声が反響するぐらいで特に反応はない。

「やっぱりいないんじゃないかなぁ……」

 そもそも、ここまで暗い所で待つだろうか。窓から微かに光は入ってくるものの、奥のほうは明かりが全く届いていない。待ち合わせにはどう考えても不向きだ。

「もうちょっと奥のほうにいたりして。俺たちを驚かすために」

 光をあちこちに当てながら、次郎が勝手に進んでいく。

「あぁっ……! 待ってよぉ!」

「冗談冗談。ほらほら~、上行こうぜ~!」

 次郎の調子のいい性格が出てきた。こっちは真面目に解決したいのに。


 二人は階段を上り、二階に移動した。

 もちろんここにも美夜はいない。

 懐中電灯を持っていても照らされるのは前方のみ、横や後ろの様子が全く分からないので、気味が悪い。

 わずかでも外の光がほしい。壁を伝い、窓際に向かおうと迫った。

「というか二階にいるわけないし。やっぱりまだ来てないんだって。何かしらの理由で」

「ま、太郎もわりとポカする時あるからな」

 幸い話し相手がいるので、無音の恐怖から逃れられる。後方からしっかりと次郎の声が返ってくるだけで、ものすごい安心感を得られる。

「特に花が関わってるときはさ」

「私が? 今は美夜についてでしょう?」

 今、私は関係ない。どうして自分の名前が出たのか分からなかった。

「いや、ああ見えて心配してるんだよ。花が夜一人で眠れないなんて言ったらさ」

「まぁ、太郎にそういう一面がなくはないけど……」

「ちなみに俺はもっと心配してるけどね。元気がない花は、花らしくないっていうかさ」

 背中をポンッ、とたたかれた。最初はビクりと縮こまってしまったが、すぐに次郎の手だと認識し、体の力を抜く。

「うん。ありがと」

 二人とも想像以上に私のことを想っている。確かに、弱い自分を二人に見せたのは初めてだ。オカルトに興味はなくても、いざという時に頼れる存在なのは間違いない。そう感じ取ることができた。

 そんな会話をしていると、窓際までたどり着けた。軟い光に吸い寄せられるように外をのぞく。道路を見ると、すぐにその異変に気付けた。

「ん……?」

「どうした?」

「いない、太郎がいない!」

 喉を最大級に震わせて叫ぶ。次郎はすぐに駆け寄ってきて、一緒に窓をのぞいてくれた。

「えぇ!? んなバカな……病院の裏側に来ちゃったんじゃないの?」

「目の前の注意書き見てよ! 私たちが入ってきた所にあったのだよ!」

 この病院で道路と面しているのは正面のみ。後は荒野や草むらと隣接ばかりだ。さらに注目すべきは〈コノヘンキケン〉という看板、あまりにも具体性がなさ過ぎるので、初見の時に三人で爆笑したものだ。これは次郎も強烈に覚えているようで、すっかり黙り込んでしまった。

「なんで……なんで太郎が……!」

 私はわけが分からなくなった。現在、見えているものが真実は思えない。気付くと、太郎がいた場所に戻って確認しようと足が動いていた。


 花子は息を荒くさせて廃病院の前に戻った。死に物狂いで辺りを見回すが、太郎が隠れている気配はしない。

「どうしよう……! 何で……?」

 太郎はイタズラをするようなタイプではない。こちらが不安がっている状況ならなおさらだ。本当にどこに行ってしまったのだろうか。もしかして、オトケシに襲われてしまったのではないだろうか。

「はぁ……はぁ……。あっ、次郎! 次郎―!!」

 呼吸を整えている最中、さらに大きな過ちを犯してしまったことに気付いた。

 私は独りだ。独りでここまで戻って来てしまった。これでは自分も、太郎も、オトケシに狙われてしまう。

 急いで再合流しなくてはいけない。それなのに、足がすくんで動かない。鉛のように重かった。

 涙ぐみながら上を見ると、二階の窓から光が奇妙に揺れているのが目に入った。

「じ、じろ……。次郎……!」

 それが生存確認のサインであることはすぐに分かった。次郎のほうは、冷静な判断ができている。

「良かったぁ……」

 本当に良かった。今ほど仲間の大切さをかみしめた時はない。吐息とともに、恐怖が外へと流れ出た気がした。

「ごめーん! 今から行くねー!」

 とにかく離れていていい事はない。手を口に当てて大きな声を出した。懐中電灯の光がより激しく揺れる。恐らくOKのサインだ。

 しかし、次の瞬間。

「えっ……!」

 消えた。先ほどまで見えていた光が、一瞬にして消えてしまった。

「どっ……、どおぉ……!」

 どうして……!

 そこで待つにしても、こちらに来るにしても、懐中電灯を消す理由がない。嫌な予感がしてくる。

「次郎~!! 悪い冗談はよしてよ! ねぇ! 冗談って言ってよ!」

 どんなに叫んでも反応はない。誰も、何も言ってくれない。

「そんな……嫌だよ……。嫌だよぉ……!」

 人の気配が欠片も感じない。独りになってしまったことを、肌が受け取っている。

「ううっ……ぐぅ! ひっぐ、えううううぅっ!」

 今すぐ逃げたしたいのにも関わらず、足が動かない。立つこともできなくなり、膝から崩れ落ちてしまう。アスファルトの出っ張りがスネに刺さるが、痛みは一切感じなかった。それ以上に、心臓が締め付けられる想いがした。

 二人とも自分のせいだ。オトケシを意識しなければここに来ることすらなかった。もしかしたら美夜も、自分たちより先に来てオトケシに食べられてしまったのかもしれない。

 恐怖心と罪悪感の混合物が脳みそを侵食していく。さらに胸が熱くなり、今にも吐き出してしまいそうだ。

 どうすれば良い? これから私はどうすれば良い? 何一つできない。このまま死を待つだけなのか?

 浮かび上がる涙で視界はゆがみ、何もかもが分からなくなる。

「御手洗さん……?」

 その時、何者かの声が聞こえた。聞き覚えがある、優しい声だった。

 袖で必死に涙を拭い、希望を見い出すべく顔を上げる。

「うううっっ!! ぜ、ぜんぜぇ……!!」

 そこにいたのは上田先生だった。コートのポケットに手を入れ、驚いた形相をしている。

「どうしたの? 話を聞かせてくれる?」

 先生はすぐに座り込み、目線を合わせてくれた。

「ううぅぅあぁあん!! うぐううぅぅう……!!」

 目の前に味方がいる。その事実に激しく感動し、花子は言葉が出なかった。


 私の話に対し、上田先生はしっかりとうなずいて聞いてくれた。

「うんうん。分かったわ。怖かったわね」

 上田先生は泣きじゃくる私に背中を擦り、抱きしめる。先生の温もりが、とても心を落ち着かせてくれる。昨日の母親と同じだ。体を包み込まれるだけで、どうしてここまで安心した気持ちになるのだろう。

「ここに来たのは悪いことだけど、二人がいなくなったのは御手洗さんの責任じゃないわ」

 耳元で優しく甘い言葉がささやかれた。息を吹きかけられ、体に小さな電流が走る。

「きっとね、はぐれちゃったのよ。怖いって思うから怖いことを想像してしまうの」

 上田先生は私の髪の毛をなでながら、話を続けた。

「単にトイレ行っている間に道に迷っちゃったとか、いくらでも可能性はあるでしょう?」

 そうだ、まだオトケシに襲われたと決まったわけじゃない。何度も唱えているが、オトケシの話には矛盾がある。ウソなのだ。ウソは真実に変わらない。下手な思い込みはせず、現実的な推測をすれば、特に怖がるものではない。

「ひっぐ……。うん……」

 やっと涙も引いてきた。呼吸の乱れも治まり、平常時に体の調子が戻りつつある。垂れていた鼻水を力強くすすると、目の周りが軽く痛んだ。

「だからしっかり深呼吸して、まずは心を落ち着かせることが大事」

 言われた通り、深く息を吸ってはいてみた。一度そうするだけで、心臓の鼓動はだいぶ落ち着きを取り戻した。

「先生……?」

 さらに前方から、耳をなでられるような、柔らかい声が聞こえた。一度聞いたら忘れられない声、誰が発したかはすぐに分かった。

「美夜……?」

 顔を上げると、上田先生の背後に美夜がいた。ポツンと棒立ちをしていて、不思議そうに首をかたむけていた。

 あまりの嬉しさに、私は飛びついて美夜に抱き着いた。首に腕を回し、力強くその存在を感じ取った。

「花、どうして泣いているの?」

「うん、いろいろあってさ! とにかく生きてて良かったぁ! また会えて嬉しい……!」

 花子の落ち着いた心拍数は、別の理由で再び高まってしまった。




 6




 美夜にも一部始終を話し、三人で太郎と次郎を探すことになった。

 上田先生は先に私たちを家に帰すべきか悩んでいたが、最終的には一緒に探す許可をしてくれた。私の熱意に負けたと言っていたが、本当は単にオトケシが怖かっただけなのかもしれない。

「…………」

 窓から入る微光のみでも、美夜が緊迫した顔でこちらを見ているのが分かる。美夜もまた責任を感じているのかもしれない。オトケシの話をした張本人だし、廃病院に入るきっかけも美夜が遅れたからだ。

「べ、別に美夜が落ち込むことはないよ。全部始めたことだから」

 結局、美夜は単に遅れて来ただけだったようだし、要するに太郎の早とちりだったということになる。これが後で笑い話になってほしい、そのためにはみんなが無事で帰らなきゃいけない。

「先生はどうしてここにいたの?」

 美夜が上田先生にライトを当て、尋ねる。

「え? あぁ、実は御手洗さんたちが話してるの、たまたま聞いちゃって。お昼休みに悪巧みしてたでしょう?」

 上田先生は苦笑いをして答えた。

「悪巧みではないけど……」

「それでここに集まるって知ったの。でも、もっと早く来れたら良かったわね……ごめんなさい」

 申し訳なさそうに、顔をうつむかせる。私には責任を感じなくていいと言っていたが、代わりに上田先生が感じていては元も子もない気がする。

「先生は悪くないですよ」

「そうだよ。上田先生がいてくれて、今はすっごい頼もしいし」

 大人がいる、というのは想像以上に勇気づけられる。美夜と二人だけだったら、病院に入る決断はできなかったかもしれない。

「それなら良かったわ」

 と言った会話をしながら病院内を探索し続けたが、手掛かりすら見つからなかった。

 時刻が進むにつれ、気温も下がっていく。一応パーカーを羽織って出向いたが、夏がまだ訪れていない時期の夜は、それ以上に寒かった。

「…………」

 お腹の下のあたりから、じんわりと重さを感じる。体内に溜まった水分が圧迫する感覚は、一気に襲ってきて、今にも破裂しそうな気分になる。ギュっと筋肉に力を入れて我慢をしているが、これがいつまでできるかは分からない。

「御手洗さん、もしかして……」

 上田先生の声が急に耳元で聞こえてきた。

「えっ!? えっ、なんですか?」

 あまりにも急だったので、驚いてうずくまった。ただでさえ我慢をしているのに、しゃがんだせいでさらにお腹の下が圧迫される。

「その……おトイレ、いきたいのかしら?」

 上田先生は見抜いていた。

「なぁっ! どうしてですか?」

 何で気付いたのだろうか。耳の裏まで、顔がとにかく熱くなる。

「私も分かった。もじもじしてた」

 美夜がライトを私の股間に当てる。周りに尿意を察知されるだけでも十分な恥ずかしいのに、そんなことまでされたらただの恥辱。顔から火が出る、とはまさにこのことだ。

「そう……」

 避けるように一歩だけ横に移動し、ライトが当たらないようにした。それにしても、二人にバレていたとは。そんな振る舞いを見せていないつもりだっただけに、余計恥ずかしさが増幅する。

「ちょうどここがトイレだね」

 美夜は懐中電灯を上方に向ける。男女に別れたマークが、トイレであることを教えてくれた。

「いや、でもここは……」

 廃病院である。トイレだったとしても、トイレの機能が備わっているとは思えない。

「あぁ、水が流れないわね。……まぁいいじゃない、私たち三人の内緒ってことで」

「えぇ……」

 教師の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。確かにバレはしないが、環境的に問題がないのか心配である。

「我慢するほうが体に悪いんだから。さ、入って入って」

 上田先生に背中を押され、強引にトイレの敷地に足を踏み入れてしまった。

「わかりました……。で、でも、先生と美夜も来て……。はぐれたくないから……」

 独りになるのだけは、避けたかった。


 トイレには三つの個室があった。手前二つが洋式、一番奥が和式である。普段なら洋式を選ぶ所だが、何年もろくに掃除もされていない場所に直接肌を付けるのは抵抗がある。そのため、今回は和式トイレを使うことにした。

「絶対にいかないでね。ちゃんとドアの前にいてね」

 念を押したうえで、個室のドアを閉める。トイレットペーパーホルダーの上に懐中電灯を置き、最低限の明かりは確保した。

「あぁぁ……。ふぅ……」

 解放感とともに、力が抜けていく。便器の中に水がないせいか、音が全然広がらない。これなら、扉の奥に美夜と上田先生がいても、恥ずかしさはだいぶ和らぐ。

 独りでいる時間は極力短くしたい。終えたらすぐにズボンを履き、ドアノブに手を掛ける。

「…………」

 その時、異変に気付いた。

 二人とも静かすぎないだろうか。入った瞬間は確か会話をしていたはずだが、いつの間にか全くの無音になっていた。

「ねぇ、大丈夫? せんせ~い……、美夜ぁ……」

 語りかけてみた。だが、反応はない。

 怖い……。二人ならオトケシが来るはずもない。一体何があったのだろうか。

「なんで……どうして……」

 考えていても恐怖は増すばかり、勇気を出して扉を開けた。

「あ、出た」

 トイレの奥に美夜が立っていた。いや、美夜しか立っていなかった。

「先生は……?」

 恐る恐る、尋ねる。

「オトケシに襲われちゃった」

 美夜は生気のない表情で答えた。

「うっ……ウソでしょ? やめてよそういうの!」

 必死で否定した。私が聞きたい答えじゃない。他のトイレを使っているとか、別の部屋に向かったとか、そういう現実的な回答である。

「オトケシなんて……本当はいないんでしょ? 悪い冗談はやめてさ、本当に先生はどこにいるの?」

 納得のいかず苛立ちを覚える。その苛立ちをぶつけるように叫んだ。

「オトケシはいるよ。どうしていないと思うの? 私の話、信じられない?」

 美夜が首をかしげる。

「だって……だって……、美夜の話が本当なら、うわさを広める人がいないじゃない! みんな死んじゃってるじゃない! 誰が広めたって言うのよ!」

 急に不安が襲って来た。美夜の目を見るだけで、あらゆる感情が吸い込まれ、恐怖だけが残る感じがした。

「どういうこと? ちゃんとうわさを広められる存在はいるじゃない?」

 最初は意味が分からず、数秒間固まった。

「死んでないでしょ?」

 死んでない――その一言が突き刺さるように思考を刺激し、太郎の主張していた矛盾がひっくり返されることに気付く。

 確かに、話の中で死んでいないヤツがいた。

 だが今更気付いたところでどうしようもない。完全に手遅れの状況だった。ここはトイレの個室、逃げることはできない。体の震えは止まらず、冷や汗がダラダラと額から湧き上がる。心拍数は急上昇し、首をつかまれたように喉が息苦しくなっていく。

 助けて……、誰か助けて……!

 花子は、断末魔の叫びすら上げられなかった。



























































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